ご存知のように、旧約・新約聖書全体は66冊の書物から成っています。昔流に数えれば66巻であります。 旧約聖書が39巻。新約聖書が27巻というふうに呼ばれているわけです。ところがイザヤ書というのは、またこれも66章から成っている書物であります。 それでよくイザヤ書全体が、旧約・新約聖書全体とパラレルになっているということをよく聞くんです。 ちょっと参考のためにその辺りを復習してから進みたいと思いますけども。 イザヤ書1:2-4
創世記が、最初の人アダムとエバが造り主である主の戒めに背いて罪の中にはいっていった、こういうふうに始まるように、同じようにイザヤ書もこういうふうに始まってるんです。 イスラエルの民の背きについての主の語りかけ、主の嘆きの声から始まっていくわけであります。 こうして39章まで来て、40章、ここが新約聖書の始まりに相当するところですけれども、この40章はこういうことばから始まっています。 イザヤ書40:1-2
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」、非常に恵みに富んだ語りかけが行なわれている。これが40章であります。最後の66章22節。 イザヤ書66:22
イザヤ書65:17
言わば、ヨハネの黙示録に語られている新天新地。新しい世界の始まり。そういうことがこのイザヤ書の中にもちょっとパラレルに出て来るというのは、確かにこう、われわれが記憶に留めながら読んで行くには非常に大切なと言いますか、役に立つ知識ではないかと思います。 こういうふうに旧約聖書は39巻から成っており、新約聖書は27巻から成っています。 新約聖書は、まず最初に福音書が4つあり、その次に今われわれが学んでいる使徒の働きがあります。そして21の手紙がついておりまして、最後にヨハネの黙示録というふうに配置されております。 こういうふうにして、この福音書と使徒の働きというのは、イエス様がこういうことを語られた、イエス様がこういう行ないをなさったという、イエス様の言行録と言うべき福音書と、それに続く使徒たちの働き、特にパウロの宣教が3分の1強、それくらいの比率で使徒たちの福音宣教の働きが記されています。 そういう意味で事実に関するところの文書であるということ。いわゆる歴史文書というふうにちょっと言ってもいいんでしょうか。事実こういうことが、いついつどこで成されましたよという、そういう記録であります。 それに対してそのあとの手紙というのは、クリスチャンに対する信仰の励ましとか、われわれの信仰の内容を深くこう、パウロやペテロが教えていたりする内容です。教えですね。 そして最後のヨハネの黙示録というのは、これから起こる出来事だというふうにヨハネの黙示録は書いてるわけです。 こういうふうな構成を持ってるわけですけども、この福音書と使徒の働きといういわゆる歴史文書、こういうことが起こったというふうに記されている、この2種類の新約聖書の書物を一貫している特徴というのが二つあるように思うわけです。 一つはイエス様の死と復活という、人類に与えられた神さまの救いが明らかにされ、宣べ伝えられているというところ。 もう一つは、この福音の宣教に対してユダヤ人たちが必死の抵抗をどこまでも続けているという、この福音宣教に対する抵抗勢力と言いますか、頑強にこれに対立する、その人々の記事と言いますか。 これら二つが、モチーフのように、二つの主題のように流れているんだということが言えるんじゃないかと思うんですね。 使徒の働きも始めから終わりまでそういうことになっているわけですけれども、神の救いが全人類に明らかにされた、そのまず第一、それの宣教。要約するとテモテへの手紙第IIの1章9節から。パウロの遺言書と言われる最後の手紙の1章9節。 テモテへの手紙第II、1:9-12
キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示された。自分はこの喜びの訪れ、この唯一の希望を伝えるために主によって召し出してもらった者なんだ。そのために私はこのような苦しみにも遭ってるけどもそれを恥とは思わない。 こういうふうにパウロは、非常に簡潔に彼の伝えてることの内容を要約しているわけであります。 このキリストの福音に対する最大の敵対者は、この世の虚しい、すなわち実態のない神々を信仰する異教徒たちではありませんでした。ユダヤ教徒たちでありました。 これも近親憎悪を一種なのかもしれません。一番近かったために一番その憎悪が激しいという、こういう人間の持ってる性質と言いますか、その一つの表われなのかもしれませんけれども。 もともと多神教的な異教徒たちには、自分たちの信仰に自分のすべてをかける確信と熱意がないのが普通であります。 彼らは自分たちのこの世における生活の安全と安楽のために、神々を信じているのであって、この世の生活すべてを犠牲にする、そういう信仰を持ち得ないのは当然であります。 自分の生命そのものをも差し出すという、そういうふうにして自分の信仰は守るに価するものだというふうに、彼らが確信を持てないのは当然と言えば当然なんです。 もし人がそこまでの確信を持つというならば、その信仰にはそれだけの明確な土台がなければなりません。 自分の信ずるこの信仰は間違いのないものであるということ、確かなものであるという確信がなければ、人はその信仰に自分のすべてをかけることができないのであります。 これは間違いのない真理であるという確信があって初めて、人はその信仰に自分のすべてをかけて悔いがないということになりうるわけです。 逆に言えば、歴史上、無数の殉教者を出したクリスチャン信仰だけが、その真理の確信を提供することができるのだということ。私はそういうふうに思っています。 もちろんわずかな例外はないわけではありません。昔の日本の浄土真宗なんかには、一向一揆なんかには、そのために死んでいった人々もいるわけであります。 この世の安全と幸福以上のものがあるのだということ。不滅のもの、永遠のものがあるということ。それがあるから私たちはこの世に生きる本当の意味があるのだということ。 そういうことを人々に確信させたからこそクリスチャンたちは、場合によっては何の抵抗もしないで、唯々諾々として殉教の死を受け入れていったわけであります。 ですからクリスチャン信仰とこの世の異教的信仰とでは、もともと勝負にはならないのであります。異教的信仰というのは、真のクリスチャン信仰にはとても太刀打ちできないものなんだ。それはそういう確信を与え得ないからであります。 異教の神々には実態がないのと同様に、異教的信仰にも実態がないのです。実態がないということは無力だということであります。 コリント人への手紙第I、8:4-6
世にはさまざまな神々と呼ばれるものがあるけれど、それは存在しないものであるということを私たちは知っています。 神は唯一であり、聖書が啓示する、万物を造られた生ける神、唯一の神、この方すなわちイエス・キリストの父なる神、この方だけが存在なさるのである。 これがまず真理の土台ですよね。出発点ですよね。 そのことを私たちに教えてる聖書という書物があるから、そして私たちはこの聖書を読むことを通して、私たちの犠牲においては、私たちが持っている道理の感覚を通しても、「これは確かなのだ。」、聖書が語る歴史的事実に関する証言を通しても、私たちはこれを受け入れることができる。 この土台があるから、クリスチャン信仰というのは本当の強さを持っているのであるということなんです。 単なる言い伝えであったり、ましてやそういうその信仰の内容を記録している書物の一切無くして、人はとてもではないけれどもその信仰に揺るがずに立つことはできないということであります。 ですからいわゆる異教的な信仰というのは、クリスチャンにとっては大した問題ではなかったと言っていいんじゃないでしょうか。厄介なのは、聖書の根拠を持つ二つの宗教。 いわゆるユダヤ教とイスラム教であると言っていいんじゃないかと思います。 両者とも旧約聖書に根ざしていて、真理の半分、あるいは3分の1、4分の1くらいは含んでると言えるからであります。ユダヤ教徒もイスラム教徒もともに旧約聖書、特に創世記とか、モーセの五書というものを彼らは土台にしているわけであります。 神は唯一であるということ、この神は創造主なる神であるということ、永遠の世界が実在するということ、救いと滅びがあるということ、報いと罰があるということ、そういうことを彼らは知っているわけであります。 だから彼らは、この信仰ほど自分にとって大切なものはない、それは自分たちのすべてをかけるに価するものだという、そういう確信を持ってるわけです。 ただこの新約聖書が書かれた時代には、イスラム教というのは生まれてないわけですから、イスラム教というのはマホメットによって7世紀か8世紀くらいに生まれるんですから、この聖書が書かれた遥か後にイスラム教というのは生まれて来ますので、この旧約新約聖書に出て来るイエス・キリストの福音への必要極まりない敵対者というのは、ユダヤ教徒たちだけであったと言ってもいいのであります。 今日の世界の状況を見ると、この世界の最終問題というのは、この三つの宗教を巡る対立に帰着するのじゃないかっていう気がだんだんしてきますね。 かつてのさまざまなイデオロギーというのが、人間が作り上げたイデオロギーというのがすっかり消滅してしまって...、イデオロギーの対立というのは20世紀後半には大変でありました、マルクス主義的なああいう無神論的なイデオロギーというのが脅威を振るいましたね。 しかしそれが20世紀の終わりに一気に崩れ落ちました。ソビエトという体制が崩壊いたしました。これによってわれわれが若いころに本当に直面させられたイデオロギーの対立、そういうものは無くなったんです。 こうして今の若者たちは、われわれの若い時に脅かされたようなイデオロギーの争い、あの無神論的マルクス主義の脅威、そういうものに直面させられるという経験をしなくなりました。だからすっかり最近の若い人々はそういう思想的な緊張も感じてないんです。 われわれの学生時代はどこでも、大学始め色んなところで、いつもそのイデオロギー闘争というのが激しくて、われわれ、そういうものを見せられていつもビクビクしておりました。 自分はこの問題に対してどういう態度を取るべきか分からなくて、大学でがなりたてて、覆面をして、ヘルメットをして、すべてを蹴散らしていく彼らを見て、いったい自分はどこに立つべきなのか、彼らに反論するだけの用意もないし、と言ってどうもあれが正しいとは思えないという、そういうところでグラグラ揺れていたものですよね。 私なんかの学生時代のひとつの、何て言いますかねぇ・・・この聖書というものに関心を持ち、それに近づいたひとつの理由は実はそこにもあったのであります。 しかし今はそういう緊張は無くなりました。そうしてそれらのものがすべて崩れ落ちて、もはや対立する、そういう余韻はないというふうに人々は考えようとしたんです。 あるアメリカの日系三世が書いて、一時日本でも随分取り上げられた書物に、「歴史の終わり」という本があります。二巻訳されて出ていますけど。「歴史は終わった。」と彼は宣言したんです。 もう対立する巨大なそのイデオロギーは崩壊した。ここで歴史は終わったのだというふうに彼は書きました。 そういうふうに、「本当にこれで歴史は終わった。これでもはやもう、根本的な対立というのはもう終わったんじゃないか。」、というふうにわれわれは安堵しようと思ったんです。そうしたら一枚皮をめくったらもっと凄まじいのが現われてきました。 イスラエルとアラブの対立は、もう激烈を極めて収拾つかなくなってきました。 イスラム教徒のあの過激な原理主義のアルカイダを始め、そういう連中が手に負えないテロを繰り返し始めました。こうして、この対立というものはもう、これ根源的に解決できないんじゃないか、そういう感じすら抱いていますでしょ。 これが最終問題となるのかもしれないという気がいたします。しかしこれは同根です。今言ったように非常に近いわけであります。だからこそまた厄介なわけですけれども。 ヨハネの黙示録ではそういうようなことを宣べてるんでしょうね。私はヨハネの黙示録が全然分からなくて、自分には分からない本だと諦めているんですけれど。 あの反キリストとはいったい何を指すかとか、色んなことが語られていますけれども、どうもヨハネの黙示録も最終的にはそういうところにこの世の最後の争いがあるのだ、大ハルマゲドンの戦いがあるのだという、そこら辺りになってくると、どうも確かに、この信仰を巡る闘争といいますか。それが最後の戦いのような感じがいたします。 先ほど読んでもらいましたけれども、その使徒の働き13章、この前二回繰り返して私たち見ましたように、13章の14節から41節までは、これはパウロがピシデヤのアンテオケという町で、今のトルコ領にある町であります、最初の安息日にユダヤ人の会堂にはいって、「ユダヤ人が今まで待ち望んでいる約束のメシヤというのは、イエスにほかならないのだ。」、ということを論争し、ユダヤ人を説得しようとした。これが宣べられているわけであります。 使徒の働き13:23
使徒の働き13:27-32
これがパウロの福音宣教の内容だったということです。 使徒の働き13:42-45
パウロが最初にここで話をしたときに、やっぱりその中にパウロの語ることに真剣に耳を傾ける人々がかなりいたわけであります。 そして、「次の安息日にも、同じ話をもう一回やってくれ。さらに詳しくやってくれ。」、と彼らは頼んだというわけです。 そして次の安息日には、ほとんど町中の人々が、パウロたちの語っていることを聞きに集まって来たわけであります。 ところが、この群衆たちを見たユダヤ人たちは、ねたみに燃えたと書いてあります。人々がいっぱい集まって、自分たちの集会にはあんまり来ないのに、パウロとバルナバの話を聞きにはいっぱい来たもんですから、ユダヤ人たちはねたみに燃えたっていうのであります。何とも強烈な表現ですね。 私たち日本人の良識からすると、卑しくも信仰上の聖者、正しと間違いを争う人々がねたみの感情に駆られるなどということは、これは、ちょっと恥ずべきことじゃないか。 そのこと自体がすでに真理に立っていないということの証しになるのではないかというふうに思いますよね。信仰というのは、これは卑しくも霊的な真理に関することがらですから。 これを単なるこの世の勢力争いと言いますか、あちらが多いとかこちらが少ないとか、向こうの味方がどうも力があるとか、そういうことというのと関わりないはずであるし、そうあっちゃならないというのが、われわれだれもが了解していることだと思うんです。 ところが、このユダヤ人たちというのはそうではない。そういう意味では非常に強烈な個性を持っている民族と言ってもいいかもしれません。感情をむき出していますから。 ある意味で単純で正直というふうに言えるのかもしれませんけれども、自分たちのそういう振る舞いというものを、一向にそれを恥ずべきことだとは思わない。聖書にはしばしばこういう箇所が出て来るからであります。 クリスチャンの内部にも、こういうことがあるということを、パウロはピリピ人への手紙の中で書いています。 ピリピ人への手紙1:15-17
党派心をもち、ねたみを動機として伝道する人々もいるというんです。パウロはそれでもいいというふうに、その次のところで言っていますが。 見せかけであろうとも、真実であろうとも、キリストが宣べ伝えられているのだから、私はそれを喜ぼうと言っていますが。 福音を伝えるということにおける、その伝える者の心の動機と言いますか、そういうのは非常に重要なものだろうと思いますが、私たちがそういう肉的な思いを心の中に秘めていながら、神さまのことばを伝えるということは、これはやっぱり実を結ぶはずはない、やっちゃいけないはずであります。 私たちクリスチャンが常に仰ぐイエス様には、そのような感情などかけらもなかったということ。これを思うといつも、自分たちの信ずる、こういう主を信ずることができるということを私たちは嬉しく思うのであります。 イエス様には父なる神ご自身への熱心はありました。しかしそれは澄み切った熱意であります。純粋な澄んだところの熱意であります。エゴから出る思いはイエス様には全くなかったのであります。 私たちクリスチャンはもちろん、自然にであっても、イエス様に似た者と変えられていくはずですよね。いつもみことばを通し、祈りを通し、心の眼で仰ぎ見ているわけですから。 自然にイエス様の御姿と言いますか、それに変えられていかなきゃならないし、それが当然だろうと思います。 クリスチャンの人間性の特徴はいったい何でしょうか。柔和さとか、謙遜とか・・・、戦闘的ではないですよね。やっぱりこう、小羊のような柔和さと言いますか、そういうのがクリスチャンの外面から受ける一番の特徴でしょうか。 ローマ人への手紙8:29
御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです、と書いています。 エペソ人への手紙4:12-13
クリスチャンに与えられている目標というのは、はっきりしています。キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためなのだ、キリストの姿に変えられていくことなのだと聖書は言っているわけであります。 そのキリストの姿とはどんなものかということなんですけども、コリント人への手紙第Iの13章4節から7節まで。 よくベック兄が仰るように、この愛ということばは、イエスというふうに言い換えた方がいいと。そうすればよく分かるということですから、そういうふうにそこを入れ替えて読んでみましょうか。 イエスは寛容であり、イエスは親切です。また人をねたみません。イエスは自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 イエス様というのはこういう方なのだ、ということです。 寛容であり、親切であり、人をねたむことをせず、自らを自慢することをせず、高ぶることをしない。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めることをせず、怒らず、人のした悪を覚えていない、忘れるということでしょうか。不正を喜ばずに真理を喜ぶ。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ。 失望することを知らないと言いますか、そういう方なんだ。諦めるということを知らないお方でもあるのだということでしょう。これが聖書が示しているイエス様の人格であります。 ペテロの手紙第I、2:22-23
イエス様はご自身から報復なさるということを一切されなかったということであります。すべてのことを父の御手にゆだねておられた。イエス様の口には何の偽りもなかった。 イエス様はただ真実のみを語られるお方であったとペテロは、間近に見たイエス様のことをこういうふうに記しているわけであります。 人は当然、その信ずる対象に似ていくのは当然です。イエス・キリストを信ずるクリスチャンはイエス・キリストに似ていかなければなりません。 使徒の働13:50-52
ユダヤ人たちのねたみは、ついには迫害となって燃え上がっていくわけです。こうしてパウロとバルナバはアンテオケからイコニオムへ逃れるようにして移って行きます。 そしてさらにルステラという、さらにその先にある町に彼らは足を延ばして行きますね。迫害を避けながら。先ほど読んでいただいた14章の1節。 使徒の働き14:1-7
白か黒か。二派に分かれて、この福音を巡って真っ二つになったということであります。 そういう意味では、あちらにもこちらにもつかない第三者的立場っていう日本人に見られるのと違っていいのですかね・・・。日本人は第三の立場を取るのが・・・ (テープ A面 → B面) そういうのが考えてみると多いですよね。 それからすると、白か黒かというこのユダヤ人の激しい、ある意味で単純な性格というのはむしろ羨むべき性格でしょうか。二つに分かれてどっちにつくか、激しく彼らは争うわけです。 日本人は君子みたいな格好をして、自分の感情を表に出さないでいながらどっちにもつかない。こっちのほうがズルイですかね。考えてみるとそうかもしれません。 どっちかはっきりさせろ。冷たいか熱いかであると言っているのはある意味でそういうことかもしれません。 こういうふうにして、彼らは今言ったようにイコニオムに行った。そこで石打ちの計画があるというので、ルステラに逃れます。 8節から、そのルステラで足なえのいやしの記事が出ています。 使徒の働き14:8-10
使徒の働きでは、この足なえのいやしが最初のところに出てきましたね。ペテロとヨハネが美しの門のそばで座って、物乞いしている生まれながらの足なえに、「金銀は私たちにはない。しかし私にあるものをあげよう。キリスト・イエスの名によって歩め。」って言ったら飛び跳ねて歩いたと書いてありました。 そういう意味ではこの足なえのいやしについては二回目の記事じゃないかと思います。 先ほどはペテロでしたか、ここではパウロがこのルステラで宣教していたときに、一人の生まれながらの足なえに会ったと言うんです。 パウロは自分の話を真剣に聞いているこの足なえの、男でしょうねおそらく、の態度にすぐ気が付いたんでしょう。自分の語っている主の証し、主についてのことばがこの人の心の中に届いてるということ。パウロはそのことを見分けたわけであります。 心が開かれて、神のみことばが心の中に受け入れられるときに、そのことばは確かに力を現わしてきます。 語られるみことばに対して心を閉ざしている。これはみことばを、メッセージを伝える兄弟たちならすぐ分かりますけども、この人にはことばは全然入っていかないと言いますか、バリアがあって撥ね返されてるなんてことは非常によく分かるものであります。 心を開いて、聖書のことばが受け入れられている、真剣に受け止められている、そういう人というのは分かるんです。パウロはこの人を、その人に目を留めたわけであります。 どんな話をパウロはしたんでしょうか。その内容については書いていません。パウロの話すことに耳を傾けていたと書いてあります。 もちろんパウロは、まことの唯一の主なる神が生きていらっしゃるということ、この方は私たちひとりひとりに目を留めていらっしゃるお方であるということ、私たちの心の中をよくご存知であり、私たちを愛していらっしゃる神がおられるということを話したに違いありません。 この神が、ご自分のひとり子をこの世に遣わしてくださり、救いの道を開いてくださったということ。だから私たちはこの方によって、私たちの祈りを聞いていただくことができる、そのことをパウロは語ったんだろうと思います。 自分の生まれながらの足なえという、この不幸について悩み苦しみ続けていたこの人は、パウロの語ることばが、砂に染み入る水のように彼の心を潤していったに違いないのであります。 神のわざがこの人に現われるため、イエス様が仰ったように、「この人の罪でもその両親の罪のためでもない。神のわざがこの人に現われるためだ。」、とイエス様は仰いましたけども。 ちょうど同じように、この足なえはパウロのことばに心開かれ、パウロが、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言ったときに、そのことばに従ったんです。すると彼は飛び上がって歩き出したと書いてあります。 使徒の働き14:11-18
ここでは、彼が安息日に会堂で話したのとは少し違う、聖書の一般的なことと言いますか、まことの神がどういうお方なのか、そのことについて彼は語っているわけですが。 このコンコーダンス付きの大きな聖書はありがたくて、ちゃんと注が書いてあります。パウロが語った内容を四つにまとめてあります。パウロはここで何を言ったか。 一番目。人間を神としてはならないということを彼はここで言ってるということであります。 私たちもみなさんと同じ人間です。ギリシヤ神話のゼウスとヘルメスがこの地上に下りて来たんだと言って、ささげものをしようとした人々に向かって彼らは、衣を引き裂いて、大声で、「やめてください。」と言って制止したということ。 「このようなくだらないことはやめなさい。」と。「私たちもあなたがたと同じ人間なのだ。」、こう制止したということです。 二番目。天地の創造者である生ける神を信ずべきであるということ。神は唯一であって、この万物を造られた神であるということ。この方を私たちは信じなければいけないということ。正しい知識です。神に対する正しい知識を彼はここで言ってるわけであります。 三番目に、これまでは、神は人間のなすがままに任せておられたけれど、 四番目に、神の存在は自然の恵みによって示されているのだということ。 この四つのことを彼はここで言ってるんです。 ゼウスとヘルメス。ギリシヤ神話の神々ですね。ギリシヤ神話というのは詳しいことは知りませんけれども、色んなところで目にするギリシヤ神話というのは、実に人間の世界を反映させた物語です。 ギリシヤ神話に出て来る神々というのは、もう、ねたんだり、嫉妬したり、欲情に駆られたり、人間とどっこいどっこいの振る舞いを繰り広げる神々の世界であります。 日本の神話も同じです。あのアウグストゥスが告白録の中でこのことを言ってますけど。 ギリシヤ神話は芝居になってあの当時は人々に見せられてたわけですから、それを見る人々が、その劇を見ることによってむしろ堕落していく、「神々の世界がこうなら、われわれは一向にこれをして恥じない。」という、そういうふうに思わされたのだというような意味のことを書いております。 人類の中でも最高の知者と言われるギリシヤ人にして、神話はこういう程度しか考え付かなかった。 それに対して、この聖書というのがどんなに類ない神というものを人間に紹介しているか。そういう意味ではまったく比類なきものだとやっぱり言えると思います。 人間が知恵を絞ってどんなに考えても、神々という世界しか思いつかない。しかもその神々は本当につまらない欲の塊のような、そういうものとして描かれている。 聖書の神が、本当に聖なるお方と言われているように比類なきお方として描かれている。 聖書が私たちに与えられているということは、本当にどんなにありがたいことかと思います。これがなければ結局人は正しい神さまについての知識を持つことはできないわけであります。 聖書を自分の日ごとの生活の指針として、自分の力の源として自分の生活を聖める力として、これを読むことができるということは、本当に何にもまさって私たちの人生における幸いなのじゃないか。というふうに思います。 聖書を読むことを知らずして、私たちの生活というのは本当に罪の力に、渦巻きから逃れることはできないのだと思います。 若い人はどうしてその道を聖く保つことができようか。詩篇の119篇に出て来るあのことばと同じです。「それはただあなたのみことばによるのだ。」、聖書のみことばを本当に自分の霊的な糧として読むという、こういうことを教えてもらう。 聖書のみことばを読むことが本当に喜びとなるということが、どんなに私たちの人生にとってすばらしいことなのか。これさえ私たちが経験するようになればもう、しめたもんです。 聖書のみことばが私たちの本当の宝物である。聖書の戒めが本当に自分にとっては喜びであり、甘い蜜の滴りのようだと書いてますけども、あのように聖書のことばを受け取れるように人が変えられれば、もう心配ないです。私たちの人生は本当に大成功だと思います。 聖書のことばがそういうものとして受け取られないで、単なるこの窮屈な戒めとして、律法としてしか受け取れない若い人々が多くいるということ。 もちろん知っていますけれど、彼らにとっては聖書のみことばは喜びではなく、束縛であり、あれをやっても罪、これをやっても罪というような、そういうものとしてしか受け取られない。 しかし時が来たらきっと、本当に聖書のみことばは自分にとってかけがえのない宝物だ、喜びだ、そういうことに気が付くときが来るはずであります。 多くの若者たちが時々相談をして来ますけれど、「こういうのは罪でしょうか?」、もちろん罪でありますけれど、彼らのその悩みというものを思うと本当に同情いたしますが、聖書のみことばが本当に望みであり、慰めであり、励ましであり、支えであり、本当に甘い蜜のような喜びとなる、そういうふうに私たちの目が開かれるということです。 やっぱりそれも主の恵みとして私たちに与えられるものなんでしょうが、若者たちがそうなってほしいと思います。 そうでなくて、いくら聖書を読めと言っても、集会に来るように言っても、彼らにとっては窮屈なものにしか思えないわけであります。 使徒の働き14:19-20
このユダヤ人の徹底さ、諦めを知らないこのしつこさ。彼らはアンテオケから追っかけて来て、イコニオムの人々を連れて、こうしてルステラにまで追っかけて来るのであります。 そして群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、もう死んだものと思って町の外に引きずり出した。死体をそこに放置したんです。こう書いてあります。 石を投げ付けて殺し、死体を町の外に引きずり出して、野犬や野獣の餌食にした。だいたいそういうふうにしていたようであります。 そのために彼らはパウロを町の外に引きずり出したんです。死体だと思ったんです。 ところがパウロは立ち上がって、町にはいって行ったのであります。不死身ですね、文字通り。 その翌日です。彼はバルナバとともにデルベ、このデルベというのは、地図を見たら分かりますが、ルステラのすぐ先のほうに、すぐ先と言っても十キロ、二十キロの距離でしょうか、その先にある町がデルベです。 パウロはこの時いわば直接身に受けた最初の迫害であります。コリント人への手紙第IIでしたか、彼は自分の迫害、受けてきたことについて、私も愚かになって言うと言って、自分が経験してきた迫害の数々を書き記しているところがあるでしょう。 人々が自慢するから、私もひとつ愚かになって自慢してみせましょうと言って、パウロが開き直って書いてる箇所があります。 その中に、石打ちにあったことが一度と書いてありますけども、このときのことを書いているわけです。 このルステラでの石打ち、石で打ち殺された・・・人々は死んだと思ったわけですけども、このときに彼はステパノの石打ちの刑をすぐに思い出したでしょう。 パウロは最初の殉教者ステパノの石打ちの刑のときに、側に立っていて、石を投げ付ける人々の上着の番をしていたんですから。ステパノの殉教の死にパウロは責任を負っていたんですから。 自分が石打ちをされたときに、「ああ、ステパノに自分がやったことを自分も受けている。」、すぐ分かったと思います。「ああ、これも主から来たのだ。」、とパウロは思ったに違いないんです。 主は確かに赦してくださいますが、刈り取りもまた私たちに求められる方であるということを、私たちはしばしば気付かされるでしょう。 自分がかつて人にやったこと、自分の心の中に痛みとして残っていることが、あるとき自分に対して再現されますね。「ああ、これは主がなさっている。」、そういうふうに気付かされるはずです。 主を恐れること。それを通してさらに私たちは学ぶし、主は侮ることができないとパウロ自身が書いてるように、人は蒔いたものを刈り取るようになるのだというふうに、彼は書いていますけどもやっぱり、パウロはここで石打ちの刑を受けて、町の外に引きずり出されたというのは、あのステパノの殉教の死に対するパウロの責任というのと関わっているのだ。と思います。 こうして彼はルステラからその先にあるデルベに行き、さらに引き返しています。 使徒の働き14:21-22
パウロとこのバルナバは同じ町を通って元に戻って行っております。こうして帰ったときに彼は、 使徒の働き14:23
結局、この働きで、そのクリスチャンの群れが出来るくらい、回心した人々を与えられたということでしょう。 「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」とパウロはここで言っています。霊肉ともに聖められるためであります。 クリスチャンになるとなにか試練が来るんじゃないかって言って、怖がっていらっしゃる方々もおられるそうですけれど、確かに信仰の成長のためには訓練がどうしても不可欠のようです。 私たちが信仰的に成長していくためには、なんの問題もない、無風状態ではやっぱり信仰は成長しないと思います。 私たちが目覚めるため、罪から離れなければならないのだということ、霊的なあるいはこの肉体を通しての、この肉の生活における中にあっても、私たちは罪から離れなきゃいけない。ということです。 そのことを学ぶのはやっぱり、さまざまな試練を通してであります。だから私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。試練に恐れてはならない。たじろいで後ろに下がってはならない。私たちはただ前にだけ進まなきゃいけないのだ。パウロはそう言っているわけです。 信仰の確信と天国への生き生きとした希望をさらに強められるために、苦難が必要なんです。 こうして彼らは、 使徒の働き14:24-26
あのシリヤのアンテオケです。そこに帰った。第一回の伝道旅行の終わりがそこに記されているわけです。 クリスチャンになったらどうぞ覚悟を決めてください。主に捕えられた、信仰の戦いを戦うべき者として召し出されたという者であるという自覚を持たなきゃいけないんです。 この世の人が生きるように、この世の人と同じように、この世の人々が求めるものを求めて生きてはならないのです。 主によって召し出された者として、それこそ罪に対してはっきり戦うべき者として、霊的な戦士として選び出された者なんです。 そういうふうに私たちが、クリスチャン信仰の始めからその心構えをしっかり持つならば、さまざまな自分の前に出て来る色んな試練というものに、私たちはひとつひとつたじろがなくても済むんです。 天国に望みを置いて、天国に向かって生きる、そういう者として自分はここに置かれているのだという自覚が大切なんです。 よくクリスチャンのメッセージの中に用いられるように、むかし、ローマの皇帝だったシーザーがイギリスを征服しにイギリス、ブリテン島に渡ったときに、自分の軍団をそのブリテン島に渡し終えて、まず最初にやったのは何かと言ったら、乗ってきた船をみんな焼き払うことだったと言われてます。 その軍団はブリテン島に渡ってすぐ、自分たちが乗って来たすべての船を焼き払った。退路を断ったのであります。こういうふうに退路を断って、負ける軍はいないんです。 こうしてシーザーはそのブリテン島を征服したわけであります。 私たちクリスチャンも後ろの橋を焼き捨てて、ただひたすら信仰の道を真っ直ぐに歩む。そうならなきゃいけないということなんです。 そうすれば間違いなく豊かな実を結ぶ。われわれの信仰の生活は本当に豊かなものになる。聖書はそう約束しているからです。 私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。このことばを忘れないで、覚えておきたいものであります。 |