引用聖句:使徒の働き15章7節-11節
今日はこの使徒の働きの第15章になると思いますけれども、この第15章全体は、救いと律法という問題を巡る使徒たちの会議、これをエルサレム会議と呼んでるんだそうでありますが、エルサレム会議が行なわれたそのことについての記述があります。 私たちは福音書によって、律法学者やパリサイ人たちがどんなに激しくイエス様を攻撃し、憎んだか。そしてついには十字架の死にまで追いやったかを知っていますけれども、その原因は、イエス様が律法を否定するからというものでありました。 ユダヤ人が何よりも神聖なものと見なした律法の否定者、したがって神を冒涜する者、これがユダヤ人の見たイエスでありました。 彼らはこのようなイエスなる人物を見たので、イエスは問答無用で死刑に値する者だというふうにしたのであります。 この使徒の働きの登場人物の中で、中心的な地位にあるパウロもまた、かつてはそのように確信して動かなかった人物でありました。 「パリサイ人の中のパリサイ人」と彼が書いているように、律法というものの遵守に全存在をかけて悔いないと思うほどの人物でありました。 そしてその結果が、クリスチャンたちの迫害、教会に対する迫害者となったのであります。そのパウロの前に再びこの問題が突きつけられて来たのが、第15章であります。 パウロはイエス様とのあの劇的な出会いによって回心をしました。自分の深い深い迷妄を覚まされました。真理に目が開かれました。 そして、だれにもまさる熱心なキリスト者、伝道者となったわけですけれども、そのあとで、かつての自分のようなユダヤ人との激しい信仰上の戦いといいますか、そのための迫害を彼は受けるようになっていくわけであります。 前回ご一緒に見ました使徒の働き14章では、彼はユダヤ人によって石打ちにされ、だれもが死んだものと思ったと書いてあります。死体として彼は、町の外に引きずり出されたのでありました。 しかし彼は立ち上がって町にはいったと書いてますが、まったく主の守りが彼にあったために、彼は人によっては打ち殺されたはずだと思ったのに、立ち上がって、その後の伝道に何の差し障りもなかったわけです。 しかしそれはすべて教会の外部でのことでありました。パウロが伝道の間に、激しくユダヤ人たちと論争し、場合によっては迫害を受け、そういうことは今までありましたけども、それは教会の外側での問題だったんです。 しかしその同じユダヤ人の律法主義が、クリスチャンの教会の内部へ公然と入り込んできたというのが、この第15章の1節に書いてあることであります。 使徒の働き15:1
こういうふうに書き出しがなっているわけです。この15章1節の文章はよく読むと、引っかかるニュアンスを持っています。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」、救われないと言ってるんです。 この救いというのは何を言ってるんだろうか。どうも将来のこととして、ここで語られているようであります。 「今現在、人が救われてるかどうかは分からない、それは将来になって初めて分かることなのだ。死んで神のさばきの前に出て初めて分かることなのだ。 だから守らなければ、あなたがたの信仰は効力を持ちませんよ。あなたがたはそのときになって、アウトだと宣言されますよ。宣告されますよ。」 そういう意味ですよね。ここで言っていることは。 モーセの慣習に従って、今割礼を受けていなければ、あなたがたはかの日に、アウトと宣言されますよということを言ってるわけです。 このような主張をする律法主義的ユダヤ人クリスチャンたちが、わざわざアンテオケまで下って来たというわけであります。これまで見たように、シリヤのアンテオケというのは、異邦人伝道の拠点となった教会でした。 やがて母教会であるエルサレム教会を上回るほどの信仰の中心地となった教会でありました。パウロがおり、バルナバがおりました。 そこに、「われらこそは正統的なキリスト者である。なぜならばエルサレム教会から送られて来たのだから。」と言わんばかりに、乗り込んで来たユダヤ人クリスチャンたちが、「モーセの律法に従って割礼を受けるべきである。そうでなければあなたがたの信仰は救いに至らないのだ。」という、こういうことを言ったのであります。 この人たちは、彼ら自身が救いということについてはっきりしていなかったと言わなければならないと思います。 救いとは何かという、このクリスチャン信仰、根本問題がここで改めて問われることになったわけであります。 どうでしょうか?私たちはこの問題、一番大切な私たちの信仰のたちどころにあるこの問題に対して、はっきりとした確信を持ってるんでしょうか。これはクリスチャンにとって何にもまさって大切なことです。 このユダヤ人クリスチャンたちはそれが曖昧なんです。ボケているのであります。これなんだということをはっきり彼らは知らないのであります。つかまえてないわけであります。 私たちがよく学んで知っているように、聖書はイエス様を信じているクリスチャンたちに向かって、こう言っています。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」、また、「あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。」というふうに将来のこととして語ってないということなんです。 救いというのは、もう過去形として使われているということなんです。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのである。」、あるいは、現在完了形をもって記しているわけです。 イエス様のあのザアカイに向かって、「今日、救いがこの家に来ました。」と仰ったんです。これ、現在完了形です。 戦時中なんかで、敵性言語として英語を勉強しなかったお年寄りの方々もおられるんじゃないかと思いますけども、現在完了形なんていうのは、ちょっと耳障りで訳分からんかもしれません。英語勉強すると、もう叩き込まれる文法の時制。時を表わす時制でありますが。 現在完了形というのは、あることがすでに起こって、しかもそれが今も続いているということを意味する文法上のきまりであります。すでに起こりました、しかしそれは過去起こった、一回きり起こったってことじゃなくて、今もなおそれは持続しているのである。そういう意味で現在完了形というのは用いるのであります。 ですからこの福音書の記されていることばだとか、パウロの手紙などに使われているのは、この現在完了形を救いということについて、度々使っているということであります。 要するに、救いとは私たちが今現在手に入れることのできるものであり、救われるか、救われないか分からないような将来にかかる曖昧なものではないということ。これが聖書の明確なメッセージなのだということを、私たちは聖書からはっきり知らなければならないのであります。 それなのにこのユダヤ人たちは、アンテオケ教会の異邦人クリスチャンたちに対して、「今のままでは、あなたがたは救いにあずかるには不十分である。それでは救われない。やがて来るそのときに、あなたがたは救われたものとは認められない。」というふうに、こう言ってきてるということです。 ですから、救いというのはどうも将来の話のようであります。「今現在、救われた。」こういう確信、そこに触れてはいないのであります。 このようなユダヤ人、律法主義的なユダヤ人クリスチャンたちの意見に対して、例えばある人が、 「いや。私はイエス様を心に迎え入れてから、あの罪の泥沼から本当に救い出していただいたんです。引き出してもらったんです。」、 「信仰のおかげで崩壊寸前だった私の家庭は建て直されたのです。」、 「それまで死の恐怖におののいていたのに、いつの間にか私の心から死への恐れが消えて無くなったのです。」、 「何の望みもなく生きるのが虚しく、辛かったのに、今では毎日が感謝で、楽しくて仕方がないのです。」 これが救いでなくて何でしょうかと言ったとしましょうか。これはわれわれ、吉祥寺キリスト集会の多くのクリスチャンたちの証しですよね。 「私は本当に救われたんです。絶望の中から・・・・。将来どうなるかっていうことを言ってるんじゃないんです。」、こういう反論です。 これでも、「いや。あなたは救われてはいない。」と言ってはいいんでしょうか。救いとはこれが意外なことを言ってるんでしょうか。これが問題なのであります。 もし救いというものが、今現在の自分の状態には関わりのない、ただ死後の神のさばきのみに関係するというのであるならば、今生きてる人のうちだれも救いについて確信など持てないということなんです。それは将来起こることですから。 だから、私だけがそれを知っている特別な人間だと主張するようなやまし的な人物、いかがわしい人物が出て来て、多くの人々を惑わし食いものにするという、そういう悲劇が繰り返し起こってくるわけであります。 救いというのは、どうもいつか死んだときとか、将来、どうもそこのときの判定にかかってるものらしい。そこのときには分かりませんから。それは将来のことですから。あやふやなペンディング状態でありますでしょ。 そうなってくると不安でしょうがない。そのときのことについて、「いや、私は分かりますよ。」という人がときどきいたりして。 そうなってくると、人々のそういう不安な将来へのあやふやな確信のない状態は、それこそ引き回すようにして蹂躪してしまう。意のままに操ってしまうということがありうるわけでしょ。 私などにこれを言わせると、今のこのどうにもならない人生から、絶望的な状態から解放してくれるような救いというものがなければ、私なんかは欲しいとは思えないでしょうね。 それを欲しいんです。今のこの問題を本当に解決できるその力を欲しい。それを私たちは救いというふうに思っております。今現在の自分の経験となる救い。 今生きる上での確信となる救いでなければ、役に立たないからであります。 ベック兄が「主は生きておられる」の一番新しい号で、この救いの確信ということについて書いていらっしゃいます。 律法が守れないために神のさばきを恐れて戦々恐々としていたルター。彼はついに神経がすり減ってしまって、吹く風の音にも怯えるほどに彼は衰弱をするわけでありますけども、そのマルチン・ルターがたまたま見つけた大学の図書館に一冊だけあったというこの聖書の原典。 その聖書を大学で学ぶ、講義をするという役割を仰せつかって彼は、特に詩篇を学生たちに教えるようになったらしいのでありますが、それを通して発見したことは、感謝に溢れて神を賛美し、心から神を慕って喜んでるダビデの驚くべき姿だったと言われております。彼はこのダビデの姿に驚き怪しんだのであります。 ダビデのあの詩篇の祈りはすばらしいでしょう。本当に幼子が母親のふところに全く信頼をしきって、自らをゆだねているその子どものように神さまをほめたたえ喜んでいる、本当に喜び踊っている。 もちろんあるときには悲しんでくずおれて泣いていますけれども、もうあるがままに主のふところに憩ってるその姿が詩篇の中に赤裸々に記されているわけでしょ。 いったい人間がどうしてこのような確信をもつことができるのだろうか。ダビデのこの驚きからルターは、聖書を新しく見る視点を得るわけであります。そのヒントを得るわけであります。 あのダビデが見てる神と自分が見ている神さまとは違うということ。いつも自分の上にあの意地悪そうな目をして、自分をいつも監視している神、これがルターの神だったんです。あれが足りないこれが足りないと、いつも自分に物差しを当ててきては、こっちがダメあっちがダメというふうに責めてくるような神。それがルターにとっての聖書の神だったわけであります。 しかしダビデは違ったのであります。ダビデにとって神は文字通り天の御父でした。彼はもう自分の栄も愛も一切をありのままにふところに飛び込むことのできる方として、神を見ているわけであります。 こうしてルターは、自分が聖書をまったく誤解していたこと。信仰を、救いをまったく誤解していたってことに気付いていくわけであります。 神は人々が越えなければならないバーをできるだけ高く引き上げ、できるだけ救いの門を狭くし、人々を天国から締め出そうとしている意地の悪い神ではなくて、すべての人を救いたくて、救いたくて仕方のない、恵みたくて、恵みたくて仕方のない天の御父であるということ。 イエス様があれほど繰り返してそのように語っておられるにも関わらず、すっかり覆い隠されて、忘れ去られていた真実。神は慈愛に溢れ、私たちひとりひとりのことを一瞬たりとも忘れることはないのだという、これをルターは再発見したわけであります。 「あなたがたの髪の毛一筋忘れられることはないのだから。恐れてはならない。」とイエス様は仰ったんです。「雀二羽、一アサリオンで売られているでしょう。その雀二羽も、父の御赦しなしに地に落ちることはないのだ。あなたがたは雀よりもまさっている者ではないか。」、イエス様は仰ったんです。 これは最も単純と言えば単純。最も初歩的と言えば初歩的な真理であります。聖書の真理です。 ルターは文字通りの血みどろのこの苦闘を通して、救いを求めての彼の苦闘、文字通り真理を求めてです、ルターの苦闘は真理そのものとは何か。それを求めての、全身全霊をあげての苦闘だったんです。 その結果彼は、まったく自分が誤解していたっていうことを、聖書そのものから知ってくるわけであります。 だからこそルターはあれほど、「聖書のみでしょ。」、あらゆる権利を権威を否定して、「ただ聖書のみ。神のことばのみ。」、こう主張したんです。 人を救えるまことの信仰とはいったい何でしょうか。その意味で、信仰の奥義とはいったい何でしょうか。それは神が私たちひとりひとりに向けておられるご愛を信じ、私たちもこの天の父であられる神を心から愛し慕うということではないでしょうか。 ダビデがそうしたように。だれよりもイエス様ご自身がそう教えられ、そうなさったように。私たちに示してくださったように。 イエス様こそひとときも御父から離れない、御父のふところにあって歩まれたお方でありました。初めから。 しかしあの十字架に架けられたときにイエス様は初めて、父からまったく追放され、捨て去られ、父の御顔を見失い、その交わりを断ち切られていかれるわけでありますが、イエス様はこの地上にありながら常に、御父とご一緒でありました。 私たちもそのように歩め。これが信仰なのだ。とイエス様は仰ってるわけであります。 「わたしの父、すなわちあなたがたの父。」、とイエス様は、「神はわたしの父であるけども、あなたがたの天の父ではないか。」と仰ったんです。 人を救いうるまことの信仰とは、ごくごく単純なものではないでしょうか。このことに気が付くまでに人はなんと、信仰上の苦悶と言いますか、試行錯誤を行なうんでしょうか。 この単純な、知ってしまえば単純なこと。主を信じ、主を愛し慕うこと。主に愛され、本当にこの愛におけるいのちの交わりの中に生きること。これこそが信仰の真理です。 非常に単純であります。人はそのことに気が付いて初めて、あらゆる束縛から解放されていくんです。本当の自由と言いますか。もう人を見たりしないのであります。人と比較して自分がどうのこうのと、そういう思いを人は自然に脱するのであります。 御父を愛すること。本当に心を主に向けて、主を愛し、主に愛されること。そこに気が付くときに人は自由になります。 「真理はあなたがたを自由にする。」とイエス様は仰いましたけども、もう人がどうであろうと、もういいのであります。 このことに気が付かないと信仰に歩んでいるつもりでありながらも、やたらとこう、人間的な問題の中にいつもこの捕えられてしまう。それがむしろ信仰の、もう、大変な問題になって、信仰そのものは見失われても、人間同士のそういう収拾のつかないようなくもの巣みたいになった人間関係。その中でもうどうにもならなくなってしまう。 そういう例が随分あるんじゃないでしょうか。馬鹿げたことであります。私たちはそういうものの中にはいるためにクリスチャンになったんじゃないのであります。 人を救いうるまことの信仰とは、今言ったように、ごくごく単純なものであります。救いの条件なるものを自ら達成しようとして、あの掟、この掟を守ろうと努力するのではなくて、主ご自身を心から愛すること。 主ご自身を愛するということに気が付かないで、あの戒め、この律法を守り、その達成によって救いを得ようとすることこそが大きな、根本的な誤りであり、律法主義というものであるということであります。 いわゆる律法主義というのは、神ご自身ではないんです。見てるのは常に、それこそパウロが言ったように、文字は人を殺し霊は人を生かすでしたか、彼が言っているようにその文字です。 「こうすべからず。こうすべし。」という、そこにだけ一生懸命目を留めてそれを守ろうとするわけであります。それが信仰であると勘違いするわけです。そうではない。 「主ご自身を自分は愛しているのか。」、主はそのことを自分に言ってるのに関わらず、「あなたはわたしを愛するか。」と仰ってるのに関わらず、そのことは放っといて、聖書に書いてある戒めを守ろうとすること。 完全な律法遵守などは人間には不可能であるから、そういうような道はどこまでも行っても救いには至らないということ。反対にそれは偽善や高ぶりへの道であるということ。 このことを聖書は繰り返し、繰り返し教えているわけであります。ある基準をクリアすることによって、救いにあずかろうとすること、それは不可能であります。 どこまで行っても完全なレベルなんていうのはありえませんから。それはまったく不可能なんだということ。 それにも関わらず自分でいい加減に線を引いて、神さまの基準じゃなくて自分の基準を勝手に作って、「はい。私は律法を守ってる。」こういうような偽善に陥るわけでしょ。 律法学者がやっていたのはそのことでした。イエス様があれほど責めたのは、自分で勝手に基準を緩めてしまって、「私はちゃんと律法を守っている。生きてる。」、こういうふうな自らをごまかすこと。 そういう中にはいっていくわけであります。律法主義というのは。それは本当のたましいの平安、確信に人を至らしめないと言ってるわけです。 救いは手柄として自分の努力によって獲得するものではなく、一方的な恵みとして神が提供しておられるものであるということ。 この恵みの贈り物を感謝して受け取る以外に救いへの道はないということ。こうして御父の招きを受け入れるということ。ここに神と人との和解がもたらされるということ。聖書はこの教えに満ちているわけであります。 ルカの福音書18:17
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこにははいることはできません。 何かの条件を満たそうと懸命に自分で頑張ろうとすること。それは何の役にも立たず、それを神は受け入れられないのだ。神はただ私たちに救いを提供しておられるのだ。「神の国を、さあ、受け取りなさい。わたしの招きに従ってここにはいってきなさい。」、そういうふうに主は招かれる。 そこにただ、「分かりました。」と言って従って行くこと。そうでなければ人は神に国にはいることはできないのだと言ってるのであります。 エペソ人への手紙2:8-9
ローマ人への手紙4:1-5
コリント人への手紙第II、5:18-20
私たちは他人から何かをただで貰うということはできるだけ避けたいという気持ちを強く持ってるものであります。いかがですか。みなさんそうじゃありませんか。 自分で代価を払いたいんですよ。なぜでしょうか。 それはやはり自分の誇りと関係してるんだろうと思います。自分の義を立てたいということなのであります。 自分の義。私はだれにも恩恵を被っていない。私は私の力で立っているのである。自分で作り出しているのである。こういう胸臆な思いを私たちは持ってるもんなんです。 人の恵みを心から喜んで受け入れるということは、本当にクリスチャン信仰に目が開かれて初めて、私たちは心から喜んでいただくということの大切さを学ぶわけでしょ。それまではなかなかむつかしいものです。 律法主義の根底にあるのは、この自分の義ということにほかならないのであります。 ローマ人への手紙10:1-4
彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。自分の義を立てようとする。クリスチャンならよく分かるでしょう。 自分を正当化し、自分の義を主張し、自分を正しい者としようとする。そういうあり方を、私たちはかつてそういう生き方しかできなかったんです。 この自分の義、もう少し正確に言うと律法による自分の義というのと対立する聖書のことばが、信仰による神の義ということばです。全然違うものであります。 信仰によって神さまから義と認めていただくという、これが神の義ということの意味なんですけども、そこで書いてあるのはそういうことです。 神の義を知らない。神の義とは私たちが一方的な神さまの恵みとして、救いをいただくこと、義と認めていただくことそのことなんです。 人は自分の手柄や誇りをもって神の御前に出ることなど、到底できないこと、ただ主のあわれみのゆえにそのご愛にすがって、幼子が親にすがるようにすがるのだということをダビデはよく知っていたということであります。 逆に言えば、彼は主の本当の偉大さをよく知っていたということでしょう。律法主義者というのは神の偉大さもその尊厳も本当には知らないということであります。 神さまの基準がどんなものかを知らないで、自分で一生懸命クリアできているつもりでいる。頑張って堂々と神さまの前に立てるつもりでいる、誤解をしている人々のことであります。 ダビデはまったく自分にそれが不可能であるということをよく知っていた人だということです。 彼の詩篇の中にはもう、繰り返し出て来ますけれども。例えばこういう、これはダビデの歌とは書いてありませんが、 詩篇130:3-4
あなたがもし、不義に目を留められるなら、だれが御前に立つことができるだろうか。人は神の前に立つことはできないのであります。 この使徒の働き15章の律法主義者たちについても、まったく同じことが言えるわけであります。イエス様を信じ、受け入れる以外に神の義を満足させることのできる道などどこにもないということを、彼らは気が付いていないということです。 割礼などという肉体の儀式など、人間の救いには何の役にも立たないということを彼らは知らないのであります。 ガラテヤ人への手紙5:6
このユダヤ的な考え方に惑わされて、ガラテヤの信者たちが割礼を受けようとする動きがあったことに対して、パウロはこのガラテヤ人への手紙を書いてるわけですけどね。 もしあなたがたが割礼を受けるって言うんだったら、キリストは、あなたがたにとって何の益もないことになる。5章の2節にそう書いてあります。 ガラテヤ人への手紙5:2-3
こういうふうにして彼は徹底的に反対するわけです。割礼を受けちゃいけない。ユダヤ教の律法主義に陥っちゃいけない。そういうふうに戻っちゃいけない。何の役にも立たないんだから。何の力もありはしないんだから。私はそれを身を持って経験したのだから。 そういうふうにパウロはここで必死にそれを制止しようとしているわけであります。 ガラテヤ人への手紙6:15
(テープ A面 → B面) かつてユダヤ人であり、自分のように割礼を受けたその跡を消そうとしてはいけない。割礼を受けてないのは割礼を受けようとしてはいけない。どうでもいいことだからと彼は言ってるわけです。 大切なことは御霊によって新しく生まれることなのだと言ってるわけです。 この律法主義的ないわゆるクリスチャンたちは、パウロが言うような、自分が売られて罪の下にある者だという自覚などはまったくなかったのであります。 パウロは自分が罪のもとに売り渡されている者であるということを、どうにも自分の力では抜け出すことができない者だということを、彼はそのことで苦しんだんですから。 だから外面的な割礼だとか安息日だとか、そういうことで救いの条件ってのが満たされていくことができるかのように安直に考えている、そんなものじゃないのだ。 人間は罪のもとに売り渡されている者なのだ。だからイエス様の死によって、その代価によって、流された血潮を通して罪の支配から救い出されるというその道を考え開いてくださったのだ。 このキリストの十字架の恵みをあなたがたは見失ってはいけないのだ。それを無駄にしてはいけないのだ。彼はこのように必死になって叫んでいるわけです。 もし、割礼を受けるというのであれば、キリストの十字架を益のないものにしてしまうのだ。無駄にしてしまうことになるのだと彼は言ってるわけであります。 エペソ人への手紙1:5
エペソ人への手紙1:7
エペソ人への手紙1:13-14
コロサイ人への手紙1:13-14
主イエス・キリストをもつ者はいのちをもっている、神の義をもっていると聖書は言ってます。 イエス様が私たちのうちに住んでおられるなら、私たちの上に神のいのちがあり、神の義が私たちのうちにあると言ってるんです。 この救いと律法の問題についての結論は、先に読んでいただいた使徒の働きの15章、このエルサレム会議、使徒たちによって行なわれたエルサレム会議のペテロのこの言葉によって簡潔に、明解に与えられているわけであります。 もう一回ここをお読みいたします。 使徒の働き15:7-10
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。 このあとでヤコブが提案をしています。イエス様の弟で弟子だから、ヤコブはエルサレム教会の柱石となった人でしょう。柱だったわけでしょう。 ヤコブがその13節以下から、立ち上がって宣べたということが書いてます。 使徒の働き15:19-21
こういうふうに、イエス様の弟ヤコブが仲裁をするわけです。律法にこだわってる人々もいるわけですから、彼らの心配を酌んであげて、クリスチャンたちにこの三つのことを避けるようにせよということ、それ以外のことはもうかまってはいけないというようなことを言うわけで、それで終止一決したわけです。 こうしてパウロとバルナバとそしてユダとシラスという四人の信者たちを送って、アンテオケだとかそれからシリヤ、キリキヤ方面の教会に使いを出したというわけです。 使徒の働き15:28-29
これは送り出された手紙のことばです。 聖霊と私たちというふうに、御霊が先にやっぱりちゃんと来てますけども、御霊に祈って私たちはこういうふうに導かれた。 みんなが心から主の前に祈った、そしてこのような結論に達したという意味で、聖霊と私たちはと彼は言ってるわけです。偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。 「偶像に供えた肉は食べていいんですか。いけないんですか。」と言って悩んでパウロに質問してきた、問うて来たというコリントの信者たちの話があって、コリント人への手紙の中に出て来ます。 偶像の宮にささげられた犠牲の牛や羊、山羊なんかの肉を売られている。それを買って食べてもいいんですか。 これに対してパウロは言ってます。偶像の神というのは実際は存在しない。だから偶像にささげた肉というのはそれによって汚れてなんかいないのだ。 しかしそういうことがつまずきになるならば、信仰の弱い人のつまずきになるならば食べないほうがいい。 私たちはどんなものでも主が与えてくださった食べ物だから、感謝して受け取る権利をもっているけれど、何を食べてもいいんだけれど、私たちがそういうものを食べているのを見て、信仰の弱いクリスチャンが心痛めたり、戸惑ったりするんであれば食べないようにしなさい。 もし人をつまずかせるということがあるなら私は生涯、肉は食べないというようなことまで彼は書いてますけど、「人のことを第一に考えて歩み寄って行動せよ。」とパウロは言ってます。 ですからここで書かれていることなんかともちょっと関わりがあるわけです。偶像に供えた物を避けるように。 ユダヤ人もそういうことが分かったら食べなかったんです。血と、絞め殺した物、血は彼らは飲まなかったわけですから。絞め殺した物と不品行。特にこれは男女関係のことです。これらのことを注意して避けよとこう言って。もちろんクリスチャンの目指す道徳水準は、ここでヤコブが提案してるものなどよりもはるかに高いものであります。 ベック兄が十戒の中で学んでいらっしゃるように、モーセの律法などよりも、イエス様の山上の垂訓ははるかに厳しいですよね。 クリスチャンは、外面的な行為に気を付けるだけじゃなくて、自分の心の中の思いに気を付けなきゃいけない。そうイエス様は仰ってるわけです。 目が罪を犯さないように気を付けよと仰ってるわけです。私たちのうちに起こるさまざまな思いが、主のみこころにかなわないものであるという、そういうことを私たちは気を付けて避けなきゃいけないって言ってるわけです。 単に外面的にあれをしないとかこれをしないとかいうよりももっと、聖書はクリスチャンに対してもっともっと高い基準を実は示しているわけです。 御霊に反するような思いを私たちが心の中に抱くこと、そのことを忠告しているわけであります。 主のみこころにかなわないような、そういう・・・心から注意して離れなきゃいけないというわけであります。 モーセの律法が外面的な行為というものであるとするならば、クリスチャンの律法は目に見えない私たちのうちなる心の次元の問題であります。 そこにいつも気を付けていなさい。そういうふうに語っています。それこそがクリスチャンの目指す真の律法だからであります。 私たちの信仰は律法を無効にするものではなくて、反対にこれを確立するものである。ユダヤ人が言ってるよりもはるかに高い、霊的な主の戒めを達成しようとするものであると言ってるのであります。 肉によるのではなく御霊による歩みに変えていただいたからであります。 ローマ人への手紙3:31
「信仰によって救われる、信仰だけでいいのだ。」ということに不安を感じたユダヤ教指針のクリスチャンたちが、律法の枷をはめるべきだとこう、言って来てるわけです。 それに対して、そんなこと、その程度のことをイエス様の福音は言ってるんじゃない。自ら喜んで真理に生きようという人々を起こしてくるんですから、本当に主の道を喜んでいきたい、そういう思いを私たちのうちに与えてくださる。それが回心であり、信仰なんですから。 本当はこっちに行きたくないんだけど、本当はこの世のものがいいんだけど、それはやっちゃいけないと言うから、どこまでなら許されるかとか、そういうことを言ってるんじゃなくて、私たちはできるだけそういうものから離れたいのだから、この世的なものから離れて霊的なもの、本当の意味での永遠に残るところの霊的なもの、そこに心を向けたいと願っているわけですから。 最後にテトスへの手紙の3章のみことばを見てください。福音について実に明解に語られてる感があります。 テトスへの手紙3:3-7
聖書の福音に関する教えは非常に明解なのではないでしょうか。御霊によって聖められ、御霊によって歩むということ。そこに結局、集約してると言えるのではないかと思います。 |