引用聖句:使徒の働き15章30節-41節
先回、クリスチャン信仰の歴史においてひとつのエッポクメーキング、時代を画するような出来事とも言うべき、エルサレム会議について足早に考えました。 この救いと律法の問題については、特にガラテヤ人への手紙においてエルサレム会議と重なり合うような詳細な記述が残されております。 ルターが宗教改革のときによりどころにしたひとつと言われるこのガラテヤ人への手紙だけあって、学んだらキリのないような問題だろうと思いますけれども、この前の一回で済ませて、次のテキストへ進もうと思います。 このエルサレム会議の決定を携えて、パウロとバルナバがエルサレム教会のがわからの使者として立てられたバルサバ、ユダとも呼ばれたと書いてますけども、同じ名前でありますが、このユダとシラスの二人といっしょにアンテオケ、シリヤ、キリキヤの異邦人教会に派遣されることになったわけであります。 使徒の働き15:22-23
このバルサバ、ユダと呼ばれたバルサバですか、バルサバと呼ばれたユダと書いてますか、このいわゆる母教会、エルサレム教会の指導者たちのひとりだったわけです。責任を負ってる兄弟がふたり選ばれたわけです。 こうしてアンテオケ教会からこの問題のためにエルサレムに上って来たパウロとバルナバといっしょに、この四人でエルサレム会議の決定事項を伝えるために、手紙とおよび口頭でもって各異邦人教会にこのことを伝えてほしいと言われて、彼らは派遣されたわけであります。 この前言ったように、異邦人たちにこの煩雑なユダヤ教の律法を守れというようなことはやっちゃいけない、私たちですら守ることができなかったような、そういうものをさらに彼らに科してはいけないと言って、三つ、四つのことだけ書いてありましたね。 「偶像に備えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」と書いてますから、非常に簡潔な内容の手紙が携えられたわけであります。 この決定を受けて、異邦人クリスチャンたちは喜んだと書いてあります。 使徒の働き15:30-31
煩雑な律法に心煩わされることなく、単純にして平明な信仰の道を歩みさえすればいいのであります。 イエス様に従う生活を心がけてさえいればいいと言うのですから、彼らは安心し、喜んだわけであります。 この問題がアンテオケにおいて一段落してから間もなく、パウロの第二次伝道旅行が始まります。 この直接のきっかけは、エルサレム会議の結果をシリヤ、キリキヤの異邦人教会へ伝えるということにあったようでありますけども、これ、よく読んでみますと、 使徒の働き15:32-33
と書いてます。エルサレムに帰って行ったわけです。その先、アンテオケの先にキリキヤ地方があるわけです。 ですから彼らはそこに行かなかったんです。シリヤ、キリキヤ、アンテオケの向こうには彼ら二人は行かなかったわけであります。 ですから、このエルサレム会議の結果を、シリヤ、キリキヤの異邦人教会へ伝えるということがまだ残っていたわけであります。そこでこの36節に、 使徒の働き15:36
ですからこのパウロの提案にはふたつの意味があったということです。 エルサレム会議の決定事項を伝えるということが残されていたということ。もうひとつは、さらにその先まで福音を伝えようというパウロの意図であります。 こうして結果的にはパウロによって、このイエス・キリストの救いの福音は初めてエーゲ海を越え、ヨーロッパへともたらされることになっていくんです。これが16章から始まるわけです。 それこそ歴史上の大事件と言いますか。一大事件が、パウロがこのエーゲ海を渡るということを通して起こってくるわけです。 パウロは最初は、エーゲ海を越えてギリシヤにはいるつもりはなかったらしい。 ところが彼がそのいわゆる小アジアの地域に出かけたときに、幻によって、私たちのところに来て助けてほしいという、そういう幻を見たと書いてますけれども、そのためにパウロは自分の最初の予定を越えて、エーゲ海を越えてゆく。 ギリシヤに入って行くんです。コリントに、アテネに彼は足を伸ばして行くことになるわけであります。 ですから、初めから例えばこのエーゲ海を越えて行くつもりはなかったんじゃないかと思います。 ヨーロッパにイエス・キリストの福音がはいって行く。ローマ帝国に福音が伝えられていく。 世界の圧倒的な軍事力、政治力、経済力の中心であるローマ帝国の中心部に福音がはいっていく。世界が根底からそれによって揺るがされていく。その事件が16章に始まるわけです。 そういう意味で、この使徒の働きの16章というのは、時代を画する、文字通り、エポックメーキングな章だと言えるかもしれません。 こうして第二次伝道旅行は地理的に、この聖書地図を見てみますと、第一次伝道旅行の二倍以上の範囲に及ぶようになります。 パウロという人は生まれつきそういう人だったのかどうか分かりませんけども、片時もじっとしてる人ではなかったのだろうかと思います。ボッとして時間を過ごすという人ではなかったんじゃないか。 自分の追い求める目標に対して、揺るぐことのない確信を持っているということ。全エネルギーを投じて悔いがないと信じているということ。そのために片時たりとも油断をしない働きをするということ。 パウロの生涯があれほどの実を結んだ理由はそこにあるんじゃないかと思います。 第一に、目標に対する確信であります。第二に、全エネルギーを集中して悔いないその熱心さ。 何事においても、成功の条件というのはこの二つではないかと思います。 あのようなこのエネルギーを持って、その目標を追いかけない、そういう自分なんかの怠慢というのをいつも思わされます。 私たちクリスチャンが、追い求める目的が至高の価値をもっている、あらゆるものにまさる価値をもっているというのは、私も確信してるんです。 これ以上のものはありえないということを私は心から確信してます。しかしそのために力を尽くすかと言うと、どうも尽くさないんです。 流されて動いてるところがあって、「家庭集会をしてくれませんか?」って言われたら、「ああ、じゃあ何とか行きましょう。」っていう・・・。 断ることはしませんけれども、なんかそう言われないと動かないんです。どうも日本人の特性なのかなと思って、言い逃れみたいな思いをもっていますけれども。 油断せずに次から次に福音を伝えるために前進するという、そういうのが本当にこう欠けている。それは自分でよく分かっております。 コリント人への手紙第Iの9章にご存知のようにパウロは、 コリント人への手紙第I、9:19-27
すごいですよね。彼のこの手紙の一文を読むだけで圧倒される思いがいたします。 「私はすべての人に、すべてのものとなった。それは、何とかして、幾人かでも救うためだ。私はすべてのことを、福音のためにしている。」、彼はこう言い切ることができたんです。 とにかくパウロは、バルナバにもう一度あのキリキヤ地方に行こうと提案したわけであります。 ところが、この第二伝道旅行への出発にあたって、パウロとバルナバとの間に激しい反目が起こったと、ただならぬことが書いてあります。 使徒の働き15:39-40
と書いてあります。 この激しい反目というのは以前も言ったように、よく知られているあのマルコ、マルコの福音書を書いたマルコ、これはバルナバの従兄弟だと聖書は記していますけれども、このマルコを第二次伝道旅行に連れて行こうということに対して、パウロが猛烈に反対したというわけであります。 その理由は、第一次伝道旅行のときに、パンフリヤで一行から離れて帰っちゃったんです。エルサレムに。 何が不満だったのか・・・若くて、もっと楽しいもんだと思ったら、ゆく先々でひどい目に遭うと。 そのマルコの幻想が破れちゃって、それで彼は途中で帰っちゃったんです。それでこの二度目のときには、パウロが激しくこれらに反対したと言うんですけれども。 しかし、激しい反目を呼び起こすというのはちょっと訝しい思いがしませんか。 マルコを連れて行く行かないということで、このパウロとバルナバが激しい対立をするなんてのはちょっと、われわれには理解を超えてます。 パウロの生まれつきの強い個性が、生のままでここに露わになったのかもしれませんし、そういう意味で肉的な感情がここに表わされているのかどうか、ちょっとわれわれとしては引っかかるところです。 なにもそんなに激しい反目なんかしなくったっていいじゃないかと思うんですけどね。 この箇所でちょっと思い出すのですけれども、かつて三浦綾子さんがイエス様の復活について述べてるところで、 『使徒たちの間には、色々な問題がめぐって意見の相違があり、ときには激しい反目も生じた。と聖書は正直に述べている。 しかしイエス様の復活について、使徒たちの見解が食い違ったり、対立したことはなかった。 この点についてはまったく一致して揺るがなかった。』 そういうことを三浦綾子さんがなんかに書いてるところがあって、記憶に残っているのであります。 こういうつまらないような問題では激しい反目をする、この使徒たちが、あるいはその当時のリーダーたちが、イエス様のよみがえりというこの事実については、まったく揺るがなかった。 どんなことがあっても、この点においては彼らの意見と言いますか、彼らの信仰は揺るがなかった。まったくその通りなんです。 イエス様の復活の証人となった人々、直接イエス様の復活の御姿を見た人からは、信仰の異端者は出て来なかったのであります。 何十年もの間、激しい迫害や困窮の中を歩みながらも、使徒たちの間には信仰上の分裂や根本的な対立は生じなかったのであります。 人間は苦境に追い込まれると、本音を明らかにするもんでしょ?もうギリギリのとこまでいくと、本音が出て来ますでしょ? しかし、このような激しい迫害の中で、彼らは歩みながら、彼らには信仰上の分裂というものはなかったんです。その余地はなかったのであります。 彼らはイエス様の復活を見て、「それ以外のことはどうでもいいことだ。ただこの永遠のいのちこそ、まことの希望であり、救いそのものだ。」と理解していたからであります。それ以外のことはどうでもいい。 イエス様はよみがえってくださった。死は滅ぼされた。永遠の世界が、神の御国が私たちのために開かれている。 だれでも主に立ち返る者は、信ずる者はこの約束を自分のものとして受け取ることができる。 彼らはそのことをはっきり知ったから、あとのことはどうでもよかったんです。 この点において彼らは、本当の一致と言いますか、ここにしかわれわれの本当の望みはないのだ、これにまさるものはないのだということを彼らはよく知っていたということなんです。 信仰上の異端というのは、それからずっとあとになって、イエス様の福音、あの復活の証人たちが世を去ってから、さまざまな意見が出て来たのであって、この使徒たちの時代、初代教会の時代には、信仰上の根本的な対立というものはなかったと言っていいと思います。 私たちにとって一番大切なことは、神さまに対する自分のそむきの罪に気付いて、これを心から悔い改め、救い主、贖い主としてのイエス様の復活を信じて、イエス様に心から従って生きるという信仰の決断、信仰の選択であります。 復活されて今も生きておられると信ずるからこそ、人はイエス様を自分の心に受け入れることができます。 今も生きていらっしゃると信ずるからこそ、日々イエス様に頼ることができるのであります。日々の生活において、主に従うということができるのであります。 イエス様の復活を信じないならば、ただ頭の中で聖書の教えを教理として理解し、相変わらず自分の理解力や自分の力で生きるということになります。 イエス様がその人のうちにあって生きておられ、その人をご支配しておられるということが起こりえないのであります。 そのような、いわゆる信仰なるものは、ただの人生哲学のレベルにとどまってしまうのであります。そのような生き方からはまことの希望も本当に内側から湧いて来る力も喜びも生まれては来ないのであります。 それは相変わらずこの世についた生き方、この地上につける生き方であって、天的なものではないんです。 本当の意味で輝きを持ってる生き方ではないのであります。 何か難しげな人生論、人生哲学を述べて、それを説教と勘違いしてるような、イエス様の復活を信じない牧師さんや、長い間教会に属していて、聖書関係、信仰関係の知識をたくさんもってるつもりでも、この世の人でしかない眠りクリスチャンというのは実に多いと思います。 本物のすばらしい信仰を持ってる人は稀じゃないでしょうか。その人と接して、本当にその人のうちにキリストの霊が住んでるということ、その人から本当に柔和な、謙遜な、しかし知恵に満ちた、そういう豊かなものを私たちが感じ取ることのできる人。 私たちはそういうクリスチャンに会いたいんです。 そのように本当に聖書が私たちに示してるような信仰。その信仰に本当の意味で生かされてる人。そういう人に私たちはなりたいわけですし、そういうクリスチャンとの交わりを心から望むわけであります。 そういう人に出会うときに私たちは、「あ、この人の持ってるのは、私たちの持ってるのとは違うのだ。」として、それを欲しいという思いになるんです。 信仰に本当に生涯をかけて生きてる人というのは、本当にすぐれたものを見分けていって、それを自分のものとしていって、それをまた交わる人々に分かち与えていく。 そういうことによってさらに福音の高さ、広さというのが明らかにされていくわけでしょう。 ベック兄なんかも日本にいらっしゃる途中で、イギリスに寄って、そしてそのイギリスのある兄弟からウォッチマン・ニーという、中国の大きな働きをしてる、その人には兄弟の信仰の歩みというものを紹介されて、やっぱりそこから多くのものを汲み取られてるはずです。 決してひとつの固まった、あるクリスチャンの集いの中だけにいるんじゃなくて、色んなすぐれたものを持ってる、賜物を持ってる方々、色んな所にいらっしゃる。その方々との交わりに導かれて、そこから私たちが新しくまた学んでいく。 そのことを通してさらに、のちのちのクリスチャンたちにそれをバトンタッチしていく。そういうのが私は福音の歴史だと思います。 ですから、信仰の霊を私たちは本当にいつもクリアにしておいて、本当にすぐれた信仰の人の持っているもの、それを見分けて得ていきたいんです。 やはり、クリスチャンの最大の強みとは、天国への生き生きとした希望によって生かされているということに尽きるんじゃないでしょうか。 絶えることのない喜びと感謝と、正しく生きようと思う願いと、いつも新しくされる心と、またあるときには人々からの理不尽な誤解や非難や中傷、甘んじて受ける寛容と逆境に耐える忍耐と。 それら諸々の善なるものはすべて、このイエス様の復活を信ずることによって与えられる、朽ちることのないまことの希望によってもたらされるものに違いありません。 だからクリスチャンに備わるはずの「徳」と言われるものはすべて、この復活信仰から生み出される付随物であって、上よりの恵みにほかならないのであります。 その意味で聖書がクリスチャンに備わってくるはずの「徳」、いっぱい書いてあります。 コリント人への手紙の13章の愛の賛歌に出て来るような、あのパウロが言ってるああいうものは、私たちがイエス様の復活を信ずるその信仰、そこから生まれてくるまことの希望、その希望のゆえに私たちがこの世にあって本当に感謝して、喜んで、またどうでもいいようなことについて私たちが本当に寛容な態度をもって歩むことができる。 そういう意味で、それは本当にイエス様のよみがえりを信ずる信仰から自ずと出て来る付随物なんです。 ですから、クリスチャン自身の手柄ではないんです。クリスチャンが誇るべきものではないと言ってるのはそういうことなんです。 誇る者ははただ主を誇れと書かれてるとおり、天国の望みに基づいてるからなんです。 そこがこの世の一般的ないわゆる道徳主義者との違いでしょう。さらにもっと狭く取れば、パウロがあれほど激しく戦わざるを得なかったユダヤ教的律法主義者との違いなのであります。 自分の力によって自分の身を律して、徳ある人間になるということ。これがむかしのギリシヤのストア哲学者なんかがやったような、ストア主義なんかの生き方であります。 かつての日本人なんかは、いわゆる君子なる者が目指した生き方でしょ?自らの力によって、意思と知恵の学んだ知識によって、自分の身を律していくこと。徳ある人間になること。これが儒教の理想的人物です。 しかしクリスチャンの徳は、そういうものとは違うのであるということ。それは、朽ちない望みというものに基づいてる、自ずからそこに付随してくるものであるということであります。 単なる律法主義は虚しい自己満足に終わるということ。そして、この本当の神の救いの恵みから人々を締め出してしまうということ。そこにパウロは自分自身の体験に基づいて、激しくこの律法主義を攻撃したわけです。 「ユダヤ教的律法主義を捨てよ。」と言って、「福音の恵みにはいれ。そうすればさらに、はるかに豊かなるものが上から注がれるのだから。」ということであります。 若いときはやっぱり、私なんかも少しマシな人間になりたいと思って、何とか自分を律すること、できないものかと随分思った時期ありました。 しかし本当に元の木阿弥であります。必ず元に戻って来る。頑張ると疲れるからです。疲れると緊張が解けて、元に引き落とされるわけです。 志を立ててもすぐ、元の地点までズルズルと落ちて行くわけでしょう。 しかし聖書を読むようになり、集会の交わりに加わるようになり、本当に信仰によって歩むようになってから、ああいう虚しい、単なる自己満足と失望かな?との繰り返しですかね。あの幼稚な教えとパウロが言ってる、そういうものから私たちは解放されたんです。 主の大きな恵みの流れの中に私たちは移し変えてもらって、自分の小さな力による頑張りなどとは違った、大きな主の力によって支えられ、恵まれる。だからクリスチャンは疲れることを知らないのであります。 それは天国への望み、イエス様の復活ということにその根拠があるわけです。ペテロの手紙第Iの1章3節から、ちょっとお読みします。 ペテロの手紙第I、1:3-9
2章の13節から。ここに信仰の結果としてのクリスチャンの生き方が出ています。 ペテロの手紙第I、2:13-21
もう一ヶ所、 コリント人への手紙第II、6:1-10
本当に圧倒されるようなことばです。このようなこのエネルギー、生き方がイエス・キリストを信じる信仰から生み出されていくのであります。 それはイエス様がよみがえってくださった。天国の門が私たちのために開かれている。朽ちることのない真の望みが私たちに提供されている。神は私たちをご自分の子として受け入れ、大手を広げて私たちのために備えをしておられる。 この望みからパウロのような、ペテロのようなあの生き方が生み出されてくるわけであります。ですから今言ったように、一切は上からの恵みであります。 ところで最近、一段と巧妙なオレオレ詐欺が流行っていて、集会の兄姉たちへもその魔の手が伸びてるそうであります。 クリスチャンは主から知恵をいただいてるので、そのような見え透いた、浅はかなペテンに引っかかるということはないと思います。どっかおかしいということは主が教えてくださるに違いないから。 そういうことに引っかかりはしませんけれども、最近では家庭から出すゴミをあさって、その家庭に関する情報を集めて、それを売り買いするという商売もあるそうであります。本当に情けない人間たちです。情けない人生ではないかと思います。 一度限りの大切な人生なのに、この世界に、この宇宙に生を受けてるという、奇蹟的な存在としての自分。そのこともまったくわきまえないで、初めから人を騙そうと企む。それを生業とするわけでありますから、何ともったいない人生の浪費だろうかと悲しくなります。 それどころか、インターネットで自殺志願者を募って、集団自殺する事件も続発しております。 (テープ A面 → B面) 朝起きて、今日一日どうして過ごそうか。もうそう思ってるんです。私たちもこの信仰に導かれなかったら、本当にそういう思いに日々、苛まれていたんじゃないかと思います。 どれもこれも真理を知らないがために救いを知らないという、ただこの一点から生まれてくる愚かな行為であり、また悪行なわけです。 ひとが正しく生きたいという願いを持つのは、本当の希望があればこそであって、何の望みもない、無意味な人生だと思えば、人々は絶望し、自暴自棄になり、無茶苦茶な行為に走って行くわけであります。 自分自身をも他人をも大切にするなどということは、心に思い浮かびさえしないはずであります。 真理を知らないがために、人間は心の深いところにおいて狂ってるわけであります。 ある人が言ったように、砂漠を旅する人にとって最初の進路方向の最初の狂いがやがて大きな絶望的な開きとなっていきます。分度器のわずか一度の狂いがとてつもない開きとなっていきます。 神さまを信ずるというこの信仰、聖書が伝えてるこの福音を信ずるという、ただこのところに立つか立たないかということによって、私たちの人生はとんでもない開きが出てくるんです。 テモテへの手紙第I、2:4-6
エペソ人への手紙2:8-10
イエス様を信ずることによって真理を知り、まことの希望に目が開かれていった。 そのことによって私たちは生き生きと、本当に良き人生を生きようと心から願うようになりました。やみのわざを捨てて、光の中を歩みたいと心から願うようになったんです。 それが、その良い行ないをもあらかじめ神は備えておられるのだということでしょう。希望があるから、人は喜んで善をしようと願うんじゃないですか。 コリント人への手紙第I、15:32-34
「明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」真の希望がなければ人はこうなると言うんです。 しかしクリスチャンはまことの希望、朽ちることのない望みを、イエス様のよみがえりを通して見いだしました。 「思い違いをしてはならない。」とパウロはここで言ってます。「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。」 私たちの行なってる行為、私たちの送ってる生活はもちろんつたないものだし、取るに足りないものです。 しかし私たちは以前と違って本当に、善を慕ってるんですから、正しいというもの、正しいがわにつきたいんですから、光の中を生きたいのですから、そのように生きることが私たちにとっての喜びなのですから。 聖書はそれがどの程度か、完全なものか、そんなことを言ってるんじゃない。 それは五十歩百歩の違いはあるでしょうけれど、大切なのは私たちが救われて、善を慕う者となって、主の光の中を歩むということ。 喜びとする者に変えていただくということなんだということです。 要するに結論は、イエス様の復活を信じて、まことの希望を得ることがもっとも大切なことだということです。 そのために自らのそむきの罪を悔い改めること。すなわち、もっとも根源的な自分と神さまとの関係に気が付かないで、愚かにも神の存在を否定して、人間なんてどうにでも生きることができると思い込んで、その結果、あてもなくこの人生を彷徨ってる自分のあり方こそがそもそも問題であり、誤りなのだと気付いて180度方向転換して、主に立ち返ることが必要なのであります。 この真の悔い改め、180度の方向転換がなければ、イエス様の復活を信ずることはできないのであります。 今までのこの世の人生を進みながら、イエス様の復活を信ずるということはできないことです。それは決して確信をもって信ずることはできません。 この世の生き方をやめて、天の御国を目指して生きる人生と心から方向転換して初めて、私たちはイエス様の復活ということを心から受け入れることができる、信ずることができるのであります。 「あなたの復活を信じて、あなたに従っていきますので、よろしくお願いします。」こういう方向転換。こういう信仰の決断です。 イエス様の復活は、信じられるとか信じられないとかの問題ではなくて、言い換えると、理解力の問題ではないんです。 信じて従おうとの決心の問題なのです。 そうすればイエス様が復活され、今も生きておられるという使徒たちの証言が正しいということが体験的に理解できるようになるのであります。 第一に必要なのは悔い改めなんです。 神さまに対するそむきの罪。神さまをまったく無視し、神の存在を否定し、神さまによって造られ生かされてるという、この事実に対して、まったく無頓着に感謝することもせずに生きてるという、この自分の根本的なそむきの罪を私たちが気が付いて、本当に主の前に悔い改めること。 そしてこの世を追い求めるのではなくて、この世の人々とこの世の生き方をするのではなくて、真っ直ぐに神ご自身と向き合って、神さまのみこころを尋ね求めて生きるという人生に方向転換することです。 悔い改めと、神さまに立ち返り生きていこうとする、この信仰の決心。そのことによって初めて私たちは、イエス様が確かに生きていらっしゃるという、事実を体験することができるのであります。 信仰がまず最初に行って、体験があって、知識がある。そういうメッセージ、聞かれるでしょう? まず信仰があるんです。 そして経験するんです。 そうして分かるんです。 悔い改めをしないで信仰を考える人は、まず理解しようとします。理解を最初に置こうとしますから分からないんですけども、自分の人生の根本的な問題に私たちが気が付くべきです。 ぼく自身は、ここにしか絶望的な人生からの出口はないと思い、聖書の証言に賭けて、言わば飛び込んだというのが本当のところです。 その賭け、あの選択は間違っていなかったと、今、大いに喜んでいます。 ピリピ人への手紙3:8
とパウロは言いましたけども、それほど、そこには及びませんけれども、私もこの真理を知ることができた、この聖書の信仰を見いだすことができたということを、自分の人生におけるあらゆることにまさる幸せだと思っています。 これを思う度に、私の心は本当に欣喜雀躍いたします。 自分を見たり、自分のことを振り返るといつも、非常に打ちのめされる思いが日々いたしますし、頭を抱えたくなるようなことが日々あります。 しかしそれにも関わらず、この信仰を与えられたということ、それを思うと、本当に心は喜び踊る思いがいたします。 私のもってる本当の幸せというのはそういうものであります。 是非、ご自分の聖書が語る人生の根本問題について、考えていただきたい。罪について考えていただきたい。 そして、イエス様のよみがえりを信じて、イエス様に日々従って行くという信仰の選択をしていただきたい。 私たちは心から願っております。 |