引用聖句:使徒の働き16章29節-40節
前回の学びではパウロとシラスの口から、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という使徒の働き16章の30節、この有名なみことばが語られるまでの経緯について見てまいりました。 考えてみますと、聖書全体のメッセージにおいて一番大切なフレーズは、このみことばであると言っても過言ではないと思います。 このみことばが語られないならば、たとえどんなに箴言で該博な聖書の説き明かしであったとしても、所詮それは絵に描いた餅に過ぎない。画竜点睛を欠くという言葉がありますけれども、肝心要な一点が抜け落ちてしまうということになるからであります。 たとえどんなに多くの聖書知識を身につけたとしても、どんなに多くの年月をかけて聖書研究に取り組んだとしても、主イエスを信じるという信仰がその人にないならば、結局その人は救いが何かを本当の意味で知ることはできないからであります。 と同時に、聖書が何を言ってるのかさえ人は理解することができないからであります。 最近、この単純な信仰をすすめるということを自分が疎かにしてるんじゃないのか。そういう思いがチラチラしてるときがあったもんですから、昨日はこの個所を開いて先に進むつもりでいながら、このみことばに立ち止まらざるを得なかったのであります。 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 結局のところ聖書が勧めてる救い、イエス・キリストを信じ受け入れるというこの信仰。これを外してしまうと私たちの聖書知識は何の役にも立たなくなってしまうということであります。 いつの時代でも、聖書批判をする職業的神学者や聖書学者たち、さらには牧師さんたちまでたくさんおります。 彼らは専門家という権威を振り回して、クリスチャン信仰に近づく人たちをつまずかせておりますけれども、その理由は非常に単純明瞭であって、彼らがイエス様を文字通り信じていないということのために、聖書が本当に理解できていないからであります。ただその一点だけであります。 彼らは自分たちが聖書を理解できていないということすらわかっていないのであります。 それでいながら自分たちは聖書の専門家であると思い込んでおります。何という悲劇、あるいは喜劇が繰り返し起こっていることだろうかと思うんです。 本当に主を受け入れた人。その人は救いが何であるかを経験いたします。ですから、どんな神学者や聖書学者たちでも彼らの言っていることは間違っているということをはっきりと言うことができるのであります。 かつてイエス様が律法学者やパリサイ人たちを激しく責められたのと同じような状況がそこにはあるのであります。 今日、本当の意味で主を信じていない牧師さんたち、それがどれだけ多くいらっしゃるんでしょうか。イエス様の復活を公然と否定するような方々が聖書を講じてるというのは、非常に多く見受けられるのであります。 日本の教会でキリストの復活をはっきりと宣言し、聖書が勧めているとおりにイエス様を受け入れている、そういう教会はいったいどれぐらいあるんでしょうか。 むしろ意外と少ないのではないかと思うんです。公然とそういうことを否定する方々が多くいます。マタイの福音書の23章、ちょっと開いてみますと。 マタイの福音書23:13
マタイの福音書23:14
考えてみますと、聖書とは本当に厄介な書物であります。いくら読んだとしても人間の通常の理解力では理解することができないからです。 要するに、単なる頭で理解しようとする人々を聖書は入口でシャットアウトして中にいれないのであります。 救いという神の真理の伝道に導きいれられるには、理性による理解とは別の道によるほかないのであります。 それが主イエスを信ずるという信仰の道なのであります。それ以外に聖書を理解する術はないのであります。 コリント人への手紙第I、2:14
コリント人への手紙第I、1:18-21
聖書ははっきりと言っているのであります。「この世の知恵によって神の救いを理解することはできない。聖書を理解することはできないのだ。」と繰り返し宣言しているわけであります。 しかしまた別の意味では聖書とは本当にありがたい書物であります。まったくの無学文盲の人ですら、その真理を把握することができるからであります。 人間にとってもっとも大切な、救いに関わる問題においては、神さまは人間をまったく平等に扱っておられるということが言えるのであります。 確かに、人間には生まれながらにして能力に差があります。社会的な地位や貧富の差というものもできてまいります。 しかしそのようなものは神の目からご覧になると、本質的にはどうでもいいものであるに違いないのであります。 そのような能力や地位や富というようなものは他の人々の益のために、神がその人に委託しておられるものであって、人はそれを正しく使う責任を神に対して負っているのであります。やがて神はその責任を問われるのだと聖書は言ってるのであります。 「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」と、コリント人への手紙第Iの4章7節にあります。 あのアウグストゥスが座右の銘としたことばだと言われておりますけれども、自戒の聖句としたというふうに言われておりますけれども、すべては神さまから委託されているものなのだという真理をわきまえるなら、この世の多くの争い、社会的闘争というものの原因は消えて無くなるのではないかと思います。 私が吉祥寺キリスト集会に来て非常に驚いたことのひとつは、ベック兄を通して教えられたこと。 「神さまが人間に与えられている賜物というのは、集会全体の祝福のために与えられているのである。 集会全体の祝福とならない賜物は主からのものではない。」ということを教えられたことでありました。 例えば、音楽の賜物である人いらっしゃるでしょう。ピアノを非常に軽やかに、鮮やかに弾かれるという才能を持ってる人もいらっしゃるはずですし、歌の上手い方もいらっしゃるはずであります。 色んな賜物を持っている人はいるかもしれない。しかしそれらの賜物が、本当に多くの人々の祝福となるというのでないならば、それは何の役にも立たないのだということでありました。 神さまが人間に与えておられるところのものというのは、みんなそういうためにあるのだ。自分の能力や才能や努力を誇るためにあるものではないのだ。これは私にとっては非常に目を開かれることでした。 吉祥寺集会で多くの方々が用いられていらっしゃる。だいたい自分に賜物があると思わないところに、その人に与えられている賜物が現われてくるのが、どうも本当のようであります。 私はこれができると思っているうちは、それはどうも役に立たないようであります。 自分にはそういう賜物があると思ってなかった。ところが色んな機会を通してそれがだんだん表に出てくる。 自分では気が付かないんだけども、そういう働きやその人のそういうありかたというのが、多くの人々に喜ばれ、多くの人々を力づけ、引いては集会を非常に祝福するようになってくる。 そのときに初めて、「あっ。この人に主はこの賜物を与えていらっしゃるのだ。」ということがわかってくるわけでしょう。こうしてそういう賜物が次から次に用いられてくる。集会というのはそういうものなのだという、これはやっぱり私にとっては大きな真理の発見でした。 ですから、どういう賜物を人がもってるかどうかということ、それは人間的にわれわれがそれを見て、ああだ、こうだと考えてはいけないんです。 主はその人を通して人々を祝福しようとされているのだということであります。そういう、これが真理の一片でありますけれども、ひとつでありますけれども、そういう真理を人々がわきまえないというところに、この世の人々の間におけるねたみとかそねみとか高ぶりとか争いの原因があるわけでしょう。 本当に聖書を知らず、聖書の真理を知らないということが、どんなに人々を愚かな盲目な者にしているかということを思わされるんです。 聖書の原理、原則というものを徹底してわきまえなきゃいけない。集会というものはそういう原理にしっかり立たなきゃいけないということであります。 ですから、自分自身が用いられるかどうかは重要ではないのであります。 主が与えていらっしゃる賜物が明らかにされ、それが人々の祝福として用いられるということ。それに私たちもともにあずかるということ。それが大切なのであります。 イエス様がタラントの例えで私たちを戒められたのはそこにあったわけです。多くゆだねられている人からは多くの責任が問われるのだとイエス様は仰っています。 ですから人々にはさまざまな賜物があるということ。真の賜物というのはその人が気付かないものだということ。自分はこの能力があると思ってるのはそれは役に立たないのだということ。それを私たちは覚えておかなければなりません。 こういうふうに色んな賜物には差がありますけれど、今言ったようにそれはすべてひとつの目的のために与えられている。主の栄光を現わし、多くの人々に本当の意味で祝福となるということのためにあるのだということであります。 こういう差があるということは今言ったように事実でありますけれども、ですからある人にはある賜物があるし、他の人には別のものがある。違いがあります。 しかしなくてはならないただひとつのものを得る能力についてだけは、人間には何の区別、差別もつけられていないということであります。 イエス様が仰ったように、知恵ある者にではなく幼子たちに、「主よ。あなたはみこころを示してくださった。」とイエス様が仰ったように、この世的に見たらむしろ知恵遅れと思われているような人々、この世の知恵はほとんどない、そういうような人々こそが主を信ずるという、その信仰において非常に純粋なものをつかまえるということ。 それは大いにあることであります。そのことを通して聖書が言っているように、神は知恵ある者を辱められるのであります。 ここにおられる兄弟姉妹方のほとんどは、イエス様を信じる上で聖書が理解できないとして、深く困惑されたという経験はあんまり多くないのではないかとお見受けいたします。 司会の兄弟がいらっしゃった頃のことをぼくはよく覚えていますけれども、確かサングラスをかけて、山羊髭なんか生やして、ネッカチーフ、絹か何かの、格好良くして、集会を覘くようにして時々チラチッラと覘くようにしておられました。 一目見て、海千山千のような男が来たって感じでしたけれども、信仰に導かれる経過なんか観察していると、素直にイエス様を信じたんだろうという感じです。 ここにいらっしゃる多くの姉妹方は、人生の土台が本当に音を立てて崩れていくような、失意極まりない経験をなさった方々が何人もいらっしゃるということを知っております。 そのあまりの辛さ、痛さのために口で安直には語り得ないような経験をなさった姉妹方が何人もいらっしゃいます。 それを通して信仰に導かれたのであります。そういう意味で私などの及ばない辛い経験をなさった方々が何人もいらっしゃいます。 そこですけれども、まず聖書の語っているところを何とか理解しようとして自ら聖書と取り組んで、その理解不可能さのゆえに、もう投げ出すよりほかないというような感じをなさったという経験はあまりないのじゃないでしょうか。 いかがでしょうか。勧められるままに素直に主を信ずるようになったという、本当の意味で賢い方々のほうが多いでしょう。 私の場合はまだ若かったということがあって、理解できなければ信じることはできないと堅く思い込んでいる時代でしたから、聖書が人間の理解をはるかに超える本であるということは身にしみるほど痛切に経験させられました。 結局自分が手放すまいと懸命に握り締めているものを、次々に手放させられるという経験をひとつひとつ経ることによって、ついには丸裸にされるようにして、降参せざるを得なかった。 文字通り、信じ受け入れるだけだというところまで導かれたように思うのであります。 まず最初に手放させられたのは自分のプライドでありました。 それまでの自分の人生を支えていたのはプライドでしたから。プライドによって生きていたのです。 創世記にヤコブが神さまと格闘して、一晩中必死にしがみついて、手を離さなくて、ついにもものつがいを外されてびっこを引くようになったと、有名な話が記されています。 このあとは一生ヤコブは片足を引きずったまま生きるようになったわけですけれども。神は私の支えであったプライドを打ち砕かれたのであります。 これが手放さなきゃ、どうしても手放さなければならない第一のものだったということをよく覚えております。 神は私の罪、咎を光の中にさらし、私の自信、過信をちょうど麦わらのように、籾くずのように吹き飛ばすということによってプライドを剥ぎ取られたということがあります。 だれでも狂信に陥ることを恐れますから。狂信的な信仰というものを警戒しますから当然、理解できるかどうかというものさしは最後の最後まで手放すまいと堅く考えるわけであります。 そういうふうにして聖書を自分の理解力でもって何とかこじ開けようとする。しかしそこにはもう越えられない壁があるのであります。そこに立って立ち往生せざるを得ないのです。 しかしあくまで自分の理解力に従おうとするのであれば、私を導くのは所詮私自身であって、私以上の存在ではあり得ないわけであります。 こうしてついに自分の理解を超えるものを信じるかどうか、文字通り信じて飛び込むか、それとも理解できないから信じられないとして引き返すかどちらかしかないわけであります。 要するに主は私の心に向かって、「あなたはわたしを神と信ずるか。」と問いかけておられるということであります。 最後は神を神として信ずるかどうかという問題。主への真実な信頼というものを自分が本当にもつかどうかという、そういう問題に行きつくということであります。 「主よ。主よ。」と言いながら、神さまの前に向かって救いを求めようとしながら、肝腎なところで神さまを信じようとしない。そこに最後の自分の問題があるということ。それにだんだん気付かされるんです。 「あなたはわたしを信ずるか。」、主はそういうことを自分に問うてるのだということがだんだん気付いてわかるのであります。 主への信頼ということ。最後はそこに行き着くのです。人格的な関係というのは最後はそこに行き着くわけでしょう。 半分疑いながら、半分腰を引きながら、神さまとの間に交渉しようとする、そういう態度というものを神さまは結局よしとされないのであります。 真実な信頼ということ。そこが最後の問題になります。 「信仰がなければ神に喜ばれることはできません。」とヘブル人への手紙の11章6節にありますけれども、そのことを言ってるのだと思います。 主への信仰。主を真実な方と信ずる。この信頼がなければ結局何事も生まれてこないということであります。ですから、信仰によって救われるのであります。信仰によって神に義と認められるのであります。 信じ受け入れなければ主を知ることはできないからであります。 ローマ人への手紙3:21-24
ローマ人への手紙3:27
エペソ人への手紙2:8-9
神の御前にボロボロの存在として、ただ一方的な恵みにあずかるだけの者として、一切の権威を主張し得ない者として出てゆく。 あのルカの福音書の15章のイエス様の例え話にある放蕩息子のように。 これが信仰による義を受けるための条件であると聖書は私たちに繰り返し教えているわけであります。 神さまは人間の愚かな、まったく勘違いした誇りというものを徹底的に取り除く方なんです。それをぶら下げては神さまの前に出て行けないのであります。 さっきも言ったように、神なき人間というのは結局自分自身を誇るというこのプライドによって支えられているのであります。 どんなにみじめな境遇に陥ったとしても、人からどういうふうに軽んじられようと、人は最後まで自分のプライドというのは捨てないでしょう。これによって自分を支えているんです。唯一の最後の支えはそれであります。 しかし神はこのプライドというものを徹底的に取り除こうとされるのであります。 ですからパウロは繰り返し、繰り返し、それでは私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り去られていますと言っているのであります。 この問題にはっきり気が付いて、これを取り除かれない限り、根こそぎこれを主によって取り除かれない限り、結局私たちには福音というのはわからないのであります。 聖書が言ってるこの信仰による義ということの意味がわからないのであります。 神さまの前にボロボロの存在として、ルターが言ったというように、人間は神の前に乞食として立つより以外ないのだという、その意味がわからないのであります。 自分の中に何かまだ言い分があるかのように思っている限り、人は聖書の真理に触れることができないのであります。 真の自由とは何かということに人の目は開かれないんです。神さまが私たちの上に根を張ってるところのもの、それを取り除くために時として私たちに厳しい訓練を与え、自分がどういう者であるかを知らされるわけです。 本当に私たちが主の前に砕かれて叫び声を発するまで。「主よ。あわれんでください。助けてください。」と心の底から主に向かってその叫ぶのを主は待っていらっしゃるわけであります。 反対に言えば、これこそが造られたもの、被造物たる人間が神さまの主権を本当の意味で、心底承認する唯一の行為。これが主を信ずるというそういうことだと言えるかもしれません。 アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められたと創世記に出てくるように、ただ主を信ずる、それを主は義とお認めになったのであります。 同じように私たちは御子イエスを信ずる信仰によって義と認められると聖書は教えているわけであります。 主なる神は、この御子イエスを信ずる信仰による救いということを通してわたしこそ主であると、ご自身の主権を宣言しておられるのだと言えるかもしれません。人間の罪とはこの神の主権への反逆にほかならないからです。 私たちの支えであった誇りというものを主によって砕かれ、取り除かれると人間は本当に楽になります。自由になります。 もはや自分自身を誇るのではなくて、自分に拠り頼むのではなくて、誇るものは主を誇れと言われてるように、ただ主を誇りとする。 それが私たちを本当に自由な者とするのであります。 ローマ人への手紙9:15-16
これは神さまの絶対的な主権を宣言しているところであります。 人間はただ主はこのように認め、それを受け入れる。そのことを通してだけ義と認められるのだということであります。 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という単純な、よく知られた聖書のみことばですけれども、ついついまた小難しいような話に入り込んでしまいましたけれども、要するに、イエス様を神がお遣わしになった救い主、贖い主として素直に信じ受け入れること。 信頼して日々主に従うこと。イエス様が常に御父を愛し、その愛のうちにとどまられたように、私たちも主を愛すること。 そうすれば確かに天国への希望が見えてくるという事実であります。死の恐怖から解放されてくるのであります。 さまざまな罪に陥らないように守っていただくのであります。邪まな心と生活を聖めていただけるのであります。 主を信じて主に従うという、この信仰に私たちがはっきり立つならば、とにかく良いことづくめなのであります。宝物がザクザク出てくるようなものです。本当に信仰というのは、真に尊いものだ。底から湧き出てくるような泉であります。 主を真っ直ぐに信じ、聖書のみことばに日々養われて、すばらしい人生を生き抜いた人々がいっぱいいるんです。 この世的には恵まれない状況にいらした方たちであっても、主を真っ直ぐに見上げて、その信仰に生き抜くということによって、本当に消えない光を放つ生涯を生きていかれた方々が多くいらっしゃるのであります。問題は私たちの信仰にかかってるのであります。 先日、私たちがもっている土曜日の午前中の祈り会というのがあって、姉妹方のまだ救われていないご主人方のために祈ろうというのが、祈り会の目的なんですけども、ですから名簿をいただいてみなさんで祈っております。 そこにある兄弟がいらっしゃってるんですけども、先日新聞のコピーを持って、われわれにちょっと見せてくださったんですが、あの宮沢賢二の、雨にも負けず...という有名な歌、あの歌のモデルは宮沢賢治自身ではなくて、当時彼が親交のあったクリスチャン、斎藤宗二郎ではないかという、そういう研究を今度まとめて発表する、それは岩波からその人の本が出るんだという、そういう紹介文でありました。 花巻の学校で先生をしていた人のようでありますけれども、この人のクリスチャン信仰のために色んな迫害を受けて、大変な生涯を送られた方のようでありますけども。 この人の生き様を見ながら、宮沢賢治はあの詩を作ったのだということを研究者たちがだんだんこれを発表し始めているんです。 私も以前にそれは聞いたことがあったんですけども、本当に文字通り名も無い地方の一教師だった人であります。しかしイエス様を信ずる信仰を本当に生き抜いた人です。 体の弱いお方だったそうですけれども、信仰のゆえにこの人は寵愛を受けて、白髪の本当に神々しいような晩年の写真が残っております。 東京に出て来られて、最後は東京で世を終えられたようでありますけれども。そういう人たちの生涯を見ると、本当に信仰を真っ直ぐに生き抜いたというただそのことです。 それによって輝きを発している、それは頭で残ってくるわけです。 私たちの信仰が本当にそういう揺るがない真剣なものかどうかということが結局は問題だと思います。 主を信ずると言うけれども、そこにしっかり立たない、いつも揺れ動いている。ヤコブが言っているように、揺れ動く波のように、常に揺らいでいる。やっぱりそれが問題じゃないかと思います。 聖書があり、主を信ずる信仰さえあれば、私たちはこの世でもっとも価値ある者です。不滅のものを受け取ることができるということ。これは事実であります。 信じて初めて天国の門が開かれてまいります。中に入ってみて初めて、そこに何があるかがわかってくるのであります。 まず主に対する信仰と真実な信頼があって、次に聖書の約束がことごとく確かであるとの体験が生まれてまいります。 それが単に頭の中だけのものではない、体験に裏打ちされた真の知識を増し加えていきます。信仰があり、体験があり、知識が深まっていきます。 そういう繰り返しじゃないでしょうか。クリスチャンの成長というのはそういうことだと思いますよ。 そうして、だんだんだんだん聖書の深さ、高さというものを知るようになってくる。クリスチャンの生涯というのはそういうものなのじゃないかと思います。 ヨハネの福音書5:24
イエス様のおことばであります。 ヨハネの福音書7:37-38
ヨハネの福音書11:40
(テープ A面 → B面) ・・・最後のところです。27節。 ヨハネの福音書20:27
主を信じてみよう。心を開いて主を信じよう。こういうふうに私たちが心を開くこと。そのことを通して初めて聖書の世界が私たちの目の前に開かれてくるんです。 この、心を開くという信仰がなかったら、結局入口の前に立ったままであります。立ち尽くしたままということになるのであります。 ですからどうしても信じ受け入れなければならないのであります。 使徒の働きの16章です。戻って残りの個所をもう一回お読みして終わりたいと思いますけれども。35節以下は翌日の話であります。 使徒の働き16:35
パウロはこの長官たちが行なった理不尽な仕打ちに対して、黙って町を出て行かなかったんです。一言長官たちに彼は反論をしているわけであります。 「ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れた。これは大変な落ち度であります。」 当時のローマ市民権をもつということは大変な特権であったと言われていますけれども、法のもとで完全に保護されなければならないパウロとシラスを、この長官はユダヤ人だからということで、取り調べもせずに公衆の面前でむち打たせたんです。 それをパウロはここで抗議をしたのであります。 そこで長官は自分で出向いて来て、詫びをした。ローマ人であるということを聞いて恐れたと書いてありますけれども、パウロはこういう理不尽な取り扱いに対して、時には黙って去るときもありますけども、ここでは厳しく抗議をしています。 こうして彼らはルデヤの家に行って、兄弟たちに会い、彼らを励ましてからこのピリピの町を去ったと書いてあります。 使徒の働き、三回か四回モタモタしましたけれども、一応これで終わることにいたします。 |