使徒の働き3


蘇畑兄

(調布学び会、2002/04/25)

引用聖句:使徒の働き2章1節-13節
1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
5さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
6この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
7彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
8それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
9私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
10フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
11ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
12人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
13しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。

続けて、この使徒の働きの2章についてご一緒に考えてみたいと思います。
この使徒の働き2章は非常に重要な箇所であります。というのは、聖霊降臨についての記事だからです。この五旬節というのは、その最初のところに

使徒の働き2:1
1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

五旬節というのは文字通り、五十日の節目の日と言うのですね。旬というのは十日のことですから、五十日の節目の日ということですけども、それは過越の祭から五十日目にあたる日という意味であります。
旧約聖書では、七週の祭りとか初穂の日というふうに呼ばれていたということが、下の注に記されていますけれども、もともとは大麦の収穫を祝う祭りだったそうであります。
ペンテコステとは、この五旬節のヘブル語によるもともとの呼び名ですね。

前に申し上げたように、今年は暦の上では5月の19日の日曜日がその日にあたるわけです。教会歴で言いますと、過越の祭りはユダヤ人の安息日の土曜日に決まってますから、それから五十日目を数えますと必ず日曜日にあたるんですね。
今日では、聖霊降臨節というふうに、私たちクリスチャンには呼ばれるようになりましたけれども。
5月の19日。中旬ですね。初夏のこの時期が大麦の刈り入れが終わって、それを祝う祭りの季節になってったわけですね。

麦秋という言葉がありますけど、最近使わないからどういうことかと思って辞典を引いてみますと、陰暦の4月頃にあたる、麦が実る時という意味で麦秋というんでしょうね。
5月から6月初旬にあたるんじゃないかと思います。大麦の刈り入れが終わって、それからしばらくして、小麦の刈り入れが行なわれるということですので、だいたい5月、6月ということなんでしょうね。
旧約聖書に出てくる有名なルツ記というのは、この大麦の刈り入れの前後の記事ですよね。

そういうことを念頭に入れながら、ルツ記などをお読みになるといいと思うんですけども、初夏、大麦や小麦の刈り入れの時。この五旬節は大麦の刈り入れが終わって、それを感謝する祭りだったわけですね。日本で言えば、米の刈り入れが終わって秋祭りをするもんでしょう。
今年の暦で言えば5月19日の日曜日、この日に使徒たちを始め、何十人くらいだったんでしょうかね、そこに出てくる1章の13節辺りに出て来ますけども、

使徒の働き1:13-15
13ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
15そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、

と書いていますが、いわゆる十二使徒ですね。ユダが抜け落ちたあとのマッテヤを入れて十二使徒。それからイエスの母マリヤを中心とした方々、そういう方々がここで見ますと百二十名ほどとなっていますが、集まっていたんですね。
日曜日に彼らが集まっていたということは、もう、いわゆるユダヤ人の習慣から離れて、もう日曜日に集まるという、独自のやり方に段々移って来ているという、そういう様子を私たちは見ることができます。

彼らが意識的にはっきり、自分たちはユダヤ教とは別の信仰に立っていると自覚して、そのキリストの福音とキリスト教信仰、その根っこになっているユダヤ教というものとの間に、はっきりとした一線を引くようになるのは、まだあとのことのようなんですね。
色んな問題が段々出て来て、ユダヤ教徒によって、厳しくそのクリスチャンたちが迫害を受けていく。いくら弁明しても、彼らが福音を伝えても受けつけられない。そういうことから段々、このユダヤ教なるものの習慣が新しい福音信仰、イエス様の復活という、この上に立っている新しい、この信仰。まったく未来が変わって来る。

そういう区別が、段々明らかになってくるようなんですよね。それは一朝一夕にいかなかったんですね。彼らの意思の中ではやっぱり、自分たちはいわゆるユダヤ教徒のひとりであって、その中で、その一派である。ユダヤ教徒の一派であるとしか思ってないわけですから。
ところが、今言ったように、段々段々時間が経つにつれて、はっきりとそれは区別をされてくるんですね。
そしていわゆるユダヤ教徒の、あれほど神聖な日として守っていた安息日、クリスチャンたちは土曜日から主の日として日曜日、主が復活された日曜日に、聖日として彼らは集まるようになってくる。もうそういうことが言えるようであります。

福音書を読みますと、その安息日をめぐってどんなにパリサイ人や律法学者たちとイエス様が激しい論争をしたか、それはよく分かりますね。ところが、もうこの五旬節の日には、もう彼らは日曜日に集まっているんです。そして祈りをともにしていたわけでしょう。
イエス様が仰ったように、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなきゃいけない。それが、彼らの意識するとしないとに関わらず、段々段々、そういう形が、明らかになってくる。芽を吹いて、段々それが姿を現わしてくる。そういうふう私たちは、このことを見ることができるのじゃないかと思うんですね。

ところが、みなが集まっていたとき、朝の九時頃であったことがその2章の15節に書かれていますが、今は朝の九時ですからというふうにペテロが言ってますので、私たちがちょうど日曜礼拝に出掛けるような時間帯ってことになりますかね。
九時前後に、その前ぐらいに彼らは集まっていた。

使徒の働き2:2
2すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

突然、大音響が起こったわけです。

使徒の働き2:3
3また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

と書いてあるのであります。
炎のような分かれた舌って言うんですから、どんなものだったかっていうのはだいたい想像はつきますよね。ちょうどメラメラこう、舌先が動くように、そんな感じのものだったろうと思いますけれども、すると、みなが聖霊に満たされて、他国の言葉で、神がなさったこと、イエス様が復活されたと、その福音について語り始めたというふうに書いてあるわけです。

正直言いますと、私自身なんかは、あんまり自らすすんで体験したいとは思わないような光景でありますけれど、こういうことが起こったんです。
こういう状況というのは、われわれの理解を超えて・・・これでは、ここでは彼らは異国の言葉で語ったんですね。訳の分からないいわゆる、異言という、誤った言葉と表わされますけども、そういう訳の分からん言葉でなくて、はっきり人が聞いて分かるその外国の言葉で語ったと書いてあります。

よくその信仰者っていうのは、何かこう、恍惚状態になって、自分の分からないようなことを言ったりするかのような、そういうイメージがここでわれわれに付きまとっていますけれど、いつも思うことは、その恍惚として、自己意識を失った状態、そういうものとは違う。
聖書が言ってる、その、神さまが人に臨んで語られるときの状況は、そうではないということなんですね。
はっきりとした冷めた、自己意識を持っている、自分というものをはっきりわきまえている。その中で、神さまが御霊によって人に働いてこられる。そういう意味で、この状態は決してこのひとりひとりが自分というものを、訳分かんなくなってやってるシーンではないんですね。

いつだったか、韓国の熱狂的な方々だろうと思うんですが、あそこのクリスチャンの方々はかなり激しい性格を持ってらっしゃるのか、ある集会で、聖霊が降って、舌が分かれたように、現われたなんて写真みたいなのぼくは見たことあります。
どうも、ぼくはそういうこと、とてもじゃないけども信じませんけれども、何か、そういう変わったこと、通常とは変わってるようなことは何か、尊いことであるかのように、いいことであるかのように考えるというのは、やっぱり間違いだと思うんですね。
ただしここには、こういう聖霊降臨の時の不思議な記事が記されていて、それが事実起こったということなんですよ。その通りだと思いますね。

コリント人への手紙第I、14:32-33
32預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。
33それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。

聖書が私たちに教えていることは、この御霊の働きというのは、その人のはっきりとした自己意識、冷静なですね、自己意識というのとは別に起こるものではない。御霊が語らしたんで、私はさっぱり分かんなかったとか、そういうものじゃないということなんですね。「神が、混乱の神ではなく、平和の神だからです。」
そういうこともやっぱり覚えておきたいと思うんですね。恍惚状態で彼らは、何か自分では分からずして語ってる。そういうものではないのであります。

元に戻りますと、大音響だったものだから、その音に気付いて大ぜいの人々が集まって、弟子たちが語るさまざまな国語での、福音メッセージを聞いて驚いたとあります。
さっきも言ったように、よく言われるように、異言というのはもともとは外国語のことで、その国の人が聞いたら分かる言葉だったんですね。あとになってこの異言問題が色々と物議をかもすようになってきます。
それは現代でも時々、愚かしいことなんですけども、人々を迷わせ無用な悩みをもたらしたりするのであります。同じく、

コリント人への手紙第I、14:2
2異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです

コリント人への手紙第I、14:6
6ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。

コリント人への手紙第I、14:19
19教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。

さすがパウロだなってな気がしますね。パウロはそのいわゆる異言なるものを、禁止はしませんでしたけれども、私は知性の言葉で、五つの知性の言葉を用いる、そういうふうに言っております。
この異言の問題が時々、愚かしいこと、そういう問題を引き起こす理由は、よく異言の賜物がないとその人の救いは確かなものではない、などという人々がいるんです。
あるいは異言というものを特別な、霊的な賜物だと思って、その特別な賜物を欲しいと思って、一生懸命異言を、語りたいという人々も中には出てくるわけです。決してそんなことはありません。

救いとは、人が悔い改めて神に立ち返るということであって、異言を語れるようになるということではありません。異言は何か特別な優れた能力であるわけでもありません。
沖縄から来ていた兄弟が、かつて自分たちの教会でのことを話したことがありますけども、異言を語らなければ、どうもクリスチャンとして半人前だというような、そういう言われ方をするもんですから、みんな一生懸命異言を語ったんだそうです。
どういうふうにして語ったんですか?と言ったら、何か、異言を語る、語りたい、舌をもつれさせたいということで、ただ訳が分からないのに、言っていただけだったということだったんです。結局、何か特別な賜物であるかのように、何かの確かな印であるかのように、この異言ということを考えることは根本的に間違っているのだと聖書は言っているわけです。

他のクリスチャンよりもより優れた賜物を得たいというような、考え方自体が間違っているわけです。あの肉的状態にあった当時のヨハネとヤコブの兄弟と同じようなもんですね。
ヨハネとヤコブはほかの十人の使徒たちよりも、自分たちのほうが高い位につかせていただきたいとして、イエス様にお願いに来たわけであります。それが肉につける人間の願いであって、主の忌み嫌われること、悲しまれることだということが、彼らに分からなかったんですね。
特別な人の持たないような何か、信仰の賜物を持っていたい。こういう考えは決して信仰から出て来てるもんじゃないのであります。それは決して神さまの喜ばれるものじゃないんですね。それは人間の肉なる罪の性質から出て来ているものなわけです。

どんな賜物も特別なものも必要はありません。パウロが言っているように、もっともすぐれた賜物とは、私たちが愛をもって、本当の謙遜さをもって、人に仕えることである。それが最大の賜物であると、パウロはさっきの、コリント人への手紙の中で書いてるんですね。
最大の賜物とは何か、それは真実に人を愛すること、人に仕えること、自分自身を本当に低くして人のために主の望まれることを行なうこと、それに勝る賜物はないということなんですね。いっつもそのことを覚えていたいと思うんですよね。

クリスチャンの信仰が進むということは、私たちが信仰的に成長するということは、何か特殊なその霊的な信仰上の能力を身に付けるということじゃ決してない。
私たちが本当に小さくなること。自分を虚しくするということこそが、神さまの恵みを受ける秘訣であるということに気が付くこと。自分ではなくて他者を、本当の意味で立てていくということ。他者に益になる者となるということ。それこそが、本当の意味での信仰の成長の証しなんですね。
神と人とに仕える、そういう方々は、確かに見ていても力があるんですよ。その人々の生活の中には確かに、主からいただいたエネルギーが満ちているんですね。

自分のことを忘れて主と人とに仕える、自分はそのためにここに生かされている、そしてそういう歩むことがまた、本当の祝福にほかならない。そういうときにこそ、本当の意味で人はいのちに満ちるようになる。それこそが聖書が私たちに言ってることだと思うんですね。
そのことが分からなかった、あのイエス様と一緒にこの地上で生活していた頃のペテロやヤコブやヨハネたちのように、自分たちの仲間のうちで背比べをしながら、互いに自らを誇りあう、競争というものがどんなに愚かしいことなのか、神さまの前に、それが本当に醜態にほかならないということに気が付かない。

悲しむべきこと、結局この世というのはそういう社会なんですね。みんな相手よりもほんの少し高いところに自分をおこう。そういう人々の、エゴのぶつかり合いですけども、それがどんなに主の前において愚かしいかということであります。
イエス様は「真理はあなたがたを自由にする。」と仰いましたけども、私たちがイエス様を知るようになり、真理に目が開かれることによって、解放されるひとつのものはそういう人間的な背比べ、人間的な競い合いですよ。
そういうものから人は、それがどんなに無意味なことかっていうことが分かるから、自由になるんですね。

生きるか死ぬかの状態の人の、生命を救うのに懸命になってるお医者さんは、自分の医療技術を自慢しようなどという余裕はないはず。ただ患者を救うことだけが彼の関心事のすべてになるはずです。
もし自分より腕のいいお医者さんがいるなら、その人に彼は託するはずですよね。私では十分でないかもしれないから、どうぞあのお医者さんのところに行ってください。
あのお医者さんには負けないぞ。なんてそんな次元の問題じゃないはず。

ひとりの人の命がかかってるときに、そんなに愚かな、腕の自慢をする人はいないでしょうね。特に、例えば自分の愛する者、妻だとか身内だとか、子どもだとかになってくるならば、自分に十分な腕がなければ、優れたお医者さんに頼むはずですね。
クリスチャンの使命は、もっとそれ以上のものなんですよ。神さまの救いを示されて、ひとりひとりのたましいの救いのために、この地上におかれてる私たちクリスチャンの使命は、もっともっと厳粛なものであるはずでしょう?

私たちひとりひとりがどうであるか、用いられるか、信仰にすすんでいるか、そんなことは問題じゃないはず。滅びに向かってる方々が、その自分のその滅びに気が付いて、罪の人生、目的もなく本当に死に向かって進むだけのその虚しい人生から、本当の喜びと希望を見いだしてほしい。
自分がかつて、何の望みもないような状態から救い出された経験を持っているから、できるだけ多くの人々が悩みの中から救われてほしいというのが、私たちの切実な願いなんですね。そのためにだけ私たちはこのような集会をするのであり、できるだけの方々に、福音を知っていただきたいと願うわけであります。
私たち個人個人がどうであるかはどうでもいいことなんですね。周りの方々が主を知って救われることであります。

先ほども言いましたように、この使徒の働きの第2章の最大のテーマは、聖霊、キリストの御霊の降臨であります。
イエス様によってさまざまな機会に語られ、またそれが天からこの地上に下されることが約束されている聖霊、それがこの使徒の働きの第2章、ペンテコステの日に実現したということなんですね。
このことについては、とても十分に学ぶことはできないのであります。というのは、なぜ人が聖霊について十分の学ぶことができないかと言うと、私たちは聖霊によって捕えられているのであって、私たちが聖霊を捕えることはできないからなんです。

御霊について、こうこうこういうもんですよっていうふうに、私たちがいわば自分の手の中につかまえたものを、紹介するようにして、御霊について話すことはできないからなんです。
聖霊が私たちを支配されるのであって、私たちが聖霊を支配するということはできないからなんです。聖霊は私たちを知り尽くされますけども、私たちは聖霊を知り尽くすことはできないからなんです。
だから、聖霊についての学びにはもともと超えることのできない限界があるのであります。人間の分とも言うべき限界があるということなんですね。
だから御霊が私たちに望んで、私たちに示されるのであって、私たちが御霊をどうのこうのという、判断することはできない。私たちひとりひとりが御霊によって判断されるのであって、私たちが御霊を判断することはできないということですね。

このことをまず、はっきりわきまえるということが大切なんじゃないでしょうかね。御霊がなさること、私たち人間が勝手にコントロールすることはできないんですね。神が聖霊を通して、私たちに望んでくださる。私たちはそれを、受け取るよりほかにありません。それに服するより方法はないのであります。
聖霊について、イエス様がもっとも多く語られてるのはヨハネの福音書においてでありますけれども、

ヨハネの福音書14:16-17
16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ヨハネの福音書14:26
26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネの福音書15:26
26わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

ヨハネの福音書16:7-8
7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

ヨハネの福音書16:13-14
13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
14御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

このようにイエス様は、御霊について繰り返し語っておられるんですね。先ほどの14章を見ますと、イエス様はその助け主と仰っています。

ヨハネの福音書14:16
16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。

私たちに道を踏み外すことがないように、私たちの傍らにいて道を示し、危機的な状況においては私たちを助け出してくれる人。
注にも出ていますように、ギリシャ語では「パラクレトス」という意味だそうですけども、援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる人、つまり弁護士さんのような方ですかね?とりなしてくれる人のことだと書いてあります。
助け手。17節では、その方は「真理の御霊です。」と語っています。真理が何かを教え、私たちに本当の信仰と、信仰のように見えるけども人間の肉なるものと、見分ける力を与えてくれるものでしょうかね。
真理の御霊であります。この霊的な真理、それを私たちに示してくださるのは、聖霊。御霊だけなんですね。

聖霊を受けないと、やっぱり本質的なところにおいて違うんですね。肝腎なところにおいて、もっとも本質的なところにおいて、御霊を知っている人、御霊に触れている人、御霊をうちに持ってる人とそうでない人との間には、どうすることもできない距離があります。
みなさんの周りにも多くいらっしゃるでしょ?誠実で、この人にはかなわないなと思うような方々がいっぱいいらっしゃいますよね。しかし、どんなに誠実ですばらしい人であっても、その人に何か欠けている、それが御霊なんですね。
クリスチャンの最大の特徴と言いますか、それはキリストの御霊、聖霊をその人が知っているということ。その御霊をうちに宿しているということだろうと思います。

この世的な意味での真理ではなくて、人間の知恵をはるかに超えて、私たちに信仰を通して臨んでくるところのこの不思議な御霊ですね。私たちに自分の愚かさや無知、私たちのその自分の徹頭徹尾エゴイスティックな、自己本位なその性質、私たちの高ぶり、私たちの心の冷たさ、頑なさ、そういうものを、私たちに臨んで明らかにしてくださるところのもの。その御霊に触れて私たちは初めて、そのことに気が付くわけであります。

自分では一人前に、一丁前に、それなりに努力もし、それなりに考え、それなりに何かやってるつもりでいたそのものを、そういう自分に対して臨んでこられるもの。その御霊の啓示に触れて人は、本当に人間的なものの限界と言いますか、何だかんだ言ったって、結局、人間的な知恵、人間的な誠実、人間的な努力、一切のものがやっぱりこれじゃダメなのだということを、人は気が付いてくるんですね。
こうして自分の誠実さだとか、自分の努力だとか頑張りだとかというものから、私たちは解放されてくると言いますかね、それがダメなんだ、それだけじゃいけないのだ、それを超えたところの神さまの恵みに、人は触れなきゃいけないのだ、そういうことを教えられる。

そのことを通して人は、本当に内側から解放されていくんですね。自分の頑張りや自分の誠実さや、そういうものへの、何て言いますか、それにより頼むという生き方。逆に言うと、それを誇りとするということですよね。自分の誠実な生き方をも、人は誇りにするわけです。そういう一切のものが、大したもんじゃないのだ。
それを超えた御霊の恵みに触れて、人は本当の意味で豊かにさせられるのだ。そういうことには気が付いてくるんですね。ですから私たちのクリスチャン信仰の・・・

(テープ A面 → B面)

・・・気が付いてくるんですね。ですから私たちのクリスチャン信仰の、最大のいわば中心になるところの存在、それがキリストの御霊、聖霊そのものであります。
聖書には、御霊についての箇所が満ちていて、とてもじゃないけれど私たちには学び尽くすことができません。折に触れて、「ああ、こういうことなんだなぁ。」「ああ、御霊はこういう方であって、こういうこと示してくださる。」とか、一つずつ折に触れて私たちは学ばされますけれども、整然と、ああだこうだと言って、とてもではないけど学ぶことはできませんね。学びきることはできない。

パウロが言っているように、御霊は神の御心の奥深くまで御霊は知られる方だし、私たちの心の奥底までも見ておられるし、知っておられる。私たち自身が気が付かない私たちの心の底も御霊は探ってこられるお方だし。
さっき言ったように、そういう意味で、御霊は私たちが捕えることのできる方じゃないんですね。私たちを知り尽くし、私たちを捕えていらっしゃる。私たちはこの、聖霊が私たちに啓示される折に触れて啓示されることを、受け取らなきゃいけないんですね。

そういうものなんだとしか言えないんじゃないだろうかと思うわけです。本を読んで理解して、ああ、御霊について理解したとか、捕まえたかのような、そういうこと自体が根本的な誤りなんですね。
御霊の前における正しい姿勢ではないということなんですね。人間の愚かさ、その限界というものをわきまえて御霊の啓示の前に人が低くなるっていうことしかできない。そういうときにだけ聖霊は、私たちにご自分を現わして、光を照らしてくださる、私たちを導いてくださる、満たしてくださると言うことができると思うんですね。

とにかく聖書には多くの御霊についての記事が出てきます。時間も限られていますので、参考のために、こういうお話をするわけですので、おひとりおひとりが、そこに気を付けて聖書を読んでいただきたいと思うんですね。

第一番目に、ここでイエス様は御霊についてそれは助け主であると仰っています。
第二番目に、真理の御霊と仰ったんですね。そうして第三番目にイエス様は、14章の26節にありますように、あなたがたにすべてのことを教える、真の教師である。また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださると仰っています。

この弟子たちが、これだけの福音書を書いたということは、彼らは聞いていたときには、イエス様から直接聞いていたときには理解しなかったんですね。何言ってるか分からなかったんですから。
それは福音書を見たら分かるように、トンチンカンなことばかり言ってるんです。イエス様が弟子たちに語られることを、彼らはまったく理解できなかったんですね。
ところがどうして、これだけ膨大なイエス様の言葉を彼らは記録することができたかと言うと、イエス様が去られたあとに彼らは、御霊を通してイエス様が語られたことがはっきり、その都度分かってくるからなんですね。

ああ、ああいうふうにあのとき仰った。漠然としていたものが、自分たちのうちに御霊が与えられるようになったときに、それが鮮明に記憶としてよみがえってくる。そういうことであります。
だからイエス様は、このヨハネの福音書の14章で、まだこの地上にイエス様がおられたとき、十字架につけられる一、二年前に、

ヨハネの福音書14:26
26助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

と仰ってるわけです。
教師であるということ。そしてその次に、イエス様は四番目に、

ヨハネの福音書15:26
26わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

御霊はイエス・キリストの証人なんです。
御霊だけが、イエス・キリストがどういう方なのか、私たちの救い主、神の御子であるということを、私たちに明らかになさる唯一の証人なんですね。御霊によらなければだれもイエスを主と言うことはできないと、みことばに書いてあるとおりなんですね。

コリント人への手紙第I、12:3
3ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

イエス様は私の救い主、私の主ですと、心から告白できる人は御霊を宿していらっしゃる方であるし、その人がまことのクリスチャンなんですね。「イエス様はあなたの主ですか?救い主ですか?」、「どうもよくまだ分かんないんです。そうであるようにも思うし、そうでないようにも思えるんです。」と言うんじゃ、今一歩足りないんですね。
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」「確かに神の御子です。」「確かに主を滅ぼしてよみがえられた方であり、今も生きておられるお方です。」「私の祈りに答え、日々、私を導いてくださる全能の主です。」こういうふうに、私たちが心から告白できれば、確かにそれは御霊によるのであります。

ローマ人への手紙8:9
9けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

大切な言葉。もし神の御霊が、聖霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、自我の支配の中にではなく、罪の支配の中にではなく、御霊のうちにいるのです。神のご支配の中に移されているのです。
かつてのように、自我の支配のもとに、私こそ私の支配者だっていうような、そういう高ぶった、そういう頑なな人生を歩んでるのではなくて、神のご支配のもとに移されているのです。実はそれが救いなんですね。
救いとは私たちがキリストのご支配の中に移されること。すなわち、キリストの御霊をうちに持ち、キリストの御霊によって生かされるようになることなんですね。それが聖書が言ってる救いであります。

イエス様は四番目に、御霊はわたしをあかしすると仰ったんですね。五番目に、聖霊は、救いへの導き手ですね。ヨハネの福音書の16章7節で、イエス様は、わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。わたしがこの地上にとどまらないほうが、あなたがたのために益だと仰ってるんですね。
わたしがこの世を去ることが、あなたがたのもとからいなくなることが、あなたがたにとっていいことなのだ。なぜならそのとき御霊があなたがたに送られるからだ。もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからだと仰っていますね。
だから、主がこの世から天に帰られた、昇天された。先ほど、この前見たように、それはルカの福音書から使徒の働きの1章の中に記されているとおり、弟子たちの見ている前でイエス様は雲に乗ってで天に上られました。その結果、御霊が私たちの上にそそがれているのだと、聖書は言っているんですね。

ヨハネの福音書16:8-11
8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

罪とは、イエス様を神から遣わされた方だと信じようとせず、イエス様に逆らい続けていること、ということでしょうかね。彼らがわたしを信じないからです。
義とは、イエス様が父から出られたことが明らかになったから、イエス様がよみがえられて天に戻られることを祈って、確かにイエス様が仰ったように、イエス様こそ神の御子である、約束された救い主である、私たちの罪の問題を解決して、よみがえられ永遠のいのちを明らかになさったお方である、イエス様こそ確かに正しいお方である、義なるお方である、そしてイエス様を信ずる者もまた、義と認められるのであります。
神によって義と認められる人とは、神さまのプレゼントを心から受け取る人ですね。イエス様を信じ受け入れる人。

神さまが私たちを罪人だと判定され、そして私たちに悔い改めて立ち返るようにと、救いの御手を伸べていらっしゃる。そのことを自分の・・罪人であることを認めて、素直に正直に主の前にこうべを垂れて、神のプレゼントであるイエス様を自分のうちに受け取ること。そのときに神の義が私たちの内側に、与えられているのであります。
本当の義というのは、私たちの努力から出るところの義ではありません。神さまが私たちに与えてくださる信仰による義なんです。
正しく生きようと言う人は、いつもこの、正しい行ないをしようとして、一生懸命頑張っていますから、不埒な人間を見ると、「許せない!」っていう形になってきますね。

自分の義に頼る人というのは、いつもこう、けしからん連中に、憤りを、おぼえるような人なんです。
しかしそういう自分の内側から出る、自分の行為を正しくすることによって出る義じゃなくて、神さまが私たちに、無条件に義と認めてくださる、イエス様を信じた者に神は無条件に義と認めてくださる、その信仰による義に頼らなければいけないんですね。
自分の義に頼るんじゃなくて、私たちは信仰による義に頼って、「ああ、神さまが私を義としてくださってるんだ。このようなもんだけれど神は私を義と認めてくださるんだから。」、こうして初めて、人は日々感謝することができるんですね。そしてまた、人を受け入れることもできるのであります。

イエス様は第三に、さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからですと仰いましたね。
この世を支配する者とはもちろん悪魔のことです。悪魔がイエス様の十字架の死によって、そのかしらを踏み砕かれた。もう悪魔は、あたまを踏み砕かれて、もう力はないのであります。だから私たちは悪魔を恐れなくていいのであります。
この世を支配する者がさばかれたからなんですね。
六番目に、御霊は、イエス様の栄光を現わされるお方であるということ。

ヨハネの福音書16:13
13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。

イエス様を信じた人の中には必ず御霊が宿っておられるんですね。私はどうもまだ聖霊が自分のうちに宿っているということは、よく確信できないと仰る方々もおられるかもしれませんね。どうですか?
私のうちに御霊が宿っておられるということを確信できますか?イエス様を心から信じていらっしゃる方のうちには宿っておられるんです。間違いなくね。

ぼくはあるとき、クリスチャンになってわずか、まだ何ヶ月っていうようなときでしたけども、あるときふと、「ああ、これは私のうちに確かに御霊がおられるんだなぁ。」ということに気が付かされたときあります。
それまであんまり考えなかったんですけども、「ああ、聖書が言ってる通り、私のうちに信仰によってキリストの御霊、聖霊が確かに与えられているのだなぁ。」と、ふと気が付いたときがあります。

この方が私の生活を整えておられるんだな。この方が、私の今までルーズで秩序を失って、私の生活はそれこそ、何て言いますか、物がゴチャゴチャ、整理されないで、ゴチャゴチャになってるような、私のその秩序のない生活を主を段々整えてきてくださっている。
私自身も、主がさまざまな罪悪しき、習慣から聖めてきてくださっている。ふと気が付いたのであります。
そして、「ああ、これは御霊の働きなんだ。」ということに気付かされたことがあります。

それから、「なるほど。事実そうなんだ。」ということが、素直に分かってくるんですね。そしてこの御霊にいつも心を向けよう。私のうちに、私の良心に、語りかけてこられる御霊のささやき、声に、御霊の示しに耳を傾けよ。そういうふうに、思うようになりましたね。
そしてその御霊に逆らわないこと。頑固に、例えば私が自分の頑固な意志を通そうと思ったら、私は御霊と争いますね。
そうすると私の生活は、また大変なことになることは段々分かってきますから。「ああ、これはやっぱり、これはいかん!」と思うようになりますでしょ?

家庭生活でどうでしょうかね。御霊を知らなかったとき、気に食わないことがあれば、ガンとして、おそらく自分の我を通して曲げない。
御霊が私たちに与えられて初めて、「ああ、これは自分の自我なるものの表われである。」、そういうことに初めて気が付くわけです。で、これは非常に要注意なんですね。
だから、「それから離れよう。気を付けてそっから離れなければいけない。」ということを学ぶわけです。そのことによって初めて、私たちの人間関係、どんな人とでも、私たちは本当にトラブルを起さないでと言いますか、本当に御霊に素直に従うことによってやっぱり人を、大切にすることもできますしね。

無理矢理、人を自分の意見と違うからといって、相手を無視して、自分の我を通すなんて、そういう愚かさってものに気が付いてきますから。御霊に従うことですよね。
どんな場にいらっしゃるにしろ、どこにあってでも、私たちは、御霊が自分のうちに宿ってくださって、導いてくださるわけですから。だからこの方に素直に従う。
そのために自分の頑なな我、自我っていうものを、いつも神さまの前に砕かれなきゃいけない。

「主よ。どうぞ私の頑なな自我から、私を守ってください。それに支配されることがないようにしてください。」、そういう祈り、主への絶えざるそういう願い。それはクリスチャンにとって不可欠なんですね。日々の歩みにおいて。

ヨハネの福音書16:13
13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。

確かウォッチマン・ニーが書いていました。彼はクリスチャンになって、この言葉、私のうちに宿る御霊が、あらゆる真理に自分を導く。彼はこのことを確信したんですね。
だから多くの、色んなものを、どうしても人から学ばなきゃならないもんではない。必要であれば主が、人を通して教えてくれるんだけど、うちに宿る御霊が自分に、信仰に関するあらゆる真理に導いてくださる。私たちはそのことを確信していいわけであります。
信仰の進歩を遂げるのに、信仰において成長するのに、多くの書物を読む必要はないんですよ。

私たちのうちに御霊はいつも語ってくださる。聖書のみことばと御霊によって、人は信仰のあらゆる真理、信仰の奥義に触れることができると言ってるんですね。そして、

ヨハネの福音書16:14
14御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

よくベック兄がこの箇所をお話なさいますが、あらゆる信仰の働きは、クリスチャンの働きは結局、イエス様の栄光を現わすということでなければならないの。そうでなければ、それは御霊の働きではないからなんです。
私たちがどんなに頑張って、どんなに知恵を尽くして色んなことをしようと、たとえ私がどんなに時間をかけてこの学びの準備をしようと、その学びがイエス様の栄光につながらなければ、それは私の肉なるわざにしかすぎないんですね。意味がないということです。

さっきも言ったように、結局、主がご自分の栄光を現わすというのは、御霊ご自身のなさることであって、私たちがどうのこうのできないことなんですね。だからそれは御霊にゆだねなければならないということなんです。
御霊については、例えばマルコの福音書の3章。非常に怖いことが書かれています。怖いこととすばらしいことかな?

マルコの福音書3:28
28まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。

すばらしいでしょ?このへん。私たちが赦されない罪なんてないんですよ。神さまはどんな罪も、大喜びで赦してくださる。

マルコの福音書3:28
28また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

と書いてますね。ほかの箇所をちょっと・・・同じみことばのところありますけども、イエス様に悪口言ったって赦してくださいます。神をけがすこと言っても、神さま赦してくださる。その次、

マルコの福音書3:29
29しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。

これは恐ろしい言葉でしょ?神をけがしても、イエス様をけがしても赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されない。じゃあどういう意味でしょうか?第一、神をけがしたり、イエス様をけがすことはできるんでしょうかね。できないんですよ。人間に手は届かないんですから。
空に輝いてる星を、棒か何かで叩こうたってできないのと一緒で、私たちが神に対して、イエス様に対して何かけがすことができるかと言ったら、できません。
しかし、御霊に対してはできるんですね。聖霊を私たちは拒むことができるからです。自分に対して語られる真理の言葉に対して私たちは拒絶することができるんですね。

御霊は私たちに真理を伝達するお方なんですよ。だから、この聖霊に対して私たちが、あえて目をつむるならば、分からなかったらいいんですよ。恐れることはありません。
分からないから反抗するのはいくらだってあることですし、それを主は咎められません。知らないからです。
しかし聖霊をけがすということは、御霊が言ってることが本当である、聖霊を通して私に主は語っていらっしゃる、そのことを知っていながら、気が付いていながら、ガンとして人がこれに心を閉ざすならば、人は、救いの道は閉ざされることになりますね。

永遠に赦されず、とこしえの罪に咎められるということはそういうこと。だから私たちが今日気を来てなければならないのは、本当に真実が自分に・・・「ああ、これ、本当だ。」と気付かされたときには、本当なんです。「その通りです。主よ。あなたの言われる通りです。」

福音書には何べんも出てきますけども、「主よ。その通りです。」、然りを然り、否を否と言う正直さがなきゃいけないんですね。それがなかったら人は、決して信仰の真理に至ることはできません。
いつも利害、打算でしか物を考えることができなければ、いつも、どうであっても自分の立場に固執するようなことである限り、人は結局、自我の縄目から解放されることはない。そこから本当に引き出されることはない。真理の中に移されることはないんですね。

詩篇の51篇。旧約聖書の中には珍しく、何箇所か出てくるんですね。これはダビデの悔い改めの記事、詩ですよ。あの有名なバテ・シェバ事件のあと、

詩篇51:10-12
10神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
11私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
12あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

ダビデは御霊を知っていたんですね。彼が恐れたのは、自分から御霊が取り去られることだったんですね。
「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。私を見捨てないでください。主が私から聖霊を取り去られるなら、私はもう絶望です。」、彼はそのことを恐れたんですね。
使徒たちの手紙にも、ヨハネの黙示録にも御霊のことは実に多く述べられています。姉妹方についてのことが、ペテロの手紙第Iの3章に書いてますから、1節からちょっとお読みしましょうか。

ペテロの手紙第I、3:1-4
1同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。
2それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。
3あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、
4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

すばらしい言葉ですよね。「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」、すばらしいと思いますね。
ごつごつした固い土地が、耕され、深く掘り返され、ならされ、柔らかくされて初めて豊かな穀物を産するように、私たちの心も御霊によってそのように、豊かなものに造り変えられていくと聖書は言ってるんですね。

テトスへの手紙3:4-6
4しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
6神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

御霊によって、新生と更新との洗いをもって、御霊を通して、神は私たちを救ってくださった。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
ともかく、聖霊について学ぶなら、どれだけ時間があっても足りないだろうと思いますね。信仰の歩みにおいて大切なことは、聖書が何を語っているかを正しく知ること。正しい聖書の知識を得るということもそうですけれども、それ以上に、御霊によって生きるということなんですね。その意味で、御霊の人となることであります。

御霊の人であるあなたがたは、ってパウロが書いていますけれど、御霊の人となることは、イエス様を信ずる信仰によって、私たちのうちに住まれる聖霊だけが、先ほど言ったように、私たちの内側を聖め、罪から離れさせ、頑なな自我の支配から私たちを守ってくださり、こうして私たちはあらゆる問題から解放してくださるからなんですね。
悩み、苦しみから救い出されたければ、御霊に従う従順な歩みをしなければ絶対にダメということは、断言できるわけです。御霊をあえて無視するならば、手痛い鞭を受けることになります。

何十年も信仰生活を続け、細かい聖書知識を多く持ちながら、信仰生活の中心であると聖書があれほど教えている、御霊による歩み、御霊の聖霊について、深く心に留めていないクリスチャンたちは、ぼくは非常に多いんじゃないかと思うんですね。
その人と触れていて、御霊のうちから発するものを感じないんですね。そういう気がすることが、しばしばあるのであります。




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