引用聖句:使徒の働き18章1節-11節
私たちクリスチャンとは信仰によって生きる者たちですけれども、それは自分自身の生きる根拠を、言い替えれば生きる力と目的と意味とを意識的に自分以外の者に置く人間たちであります。 ちょうど植物が自分以外のものである土壌に依存し、そこに根を張ることによってそこから養分を汲み出すように、クリスチャンは救い主であるイエス・キリストを通して神ご自身に結び付くことにより神様に依存し、神のいのちに生かされるということを自覚している人々であります。 ヨハネの福音書14:6
とイエス様は仰いました。 テモテへの手紙第I、2:5
とテモテへの手紙第Iの中にもありました。そういう意味でイエス・キリストという方は、私たちと父なる神ご自身とを結び付けるパイプのようなものであると言うことはできると思います。 真理そのもの、いのちそのものであるイエス様はまた、父と私たちとを結び付けるところのいのちのパイプであるということです。 このイエス様を通して私たちはまことのいのちにあずかる者となっているということを自覚している者。それがクリスチャンだと言えると思います。 すなわち、私たちの本当のいのちの根拠、生きる根拠を私たち自身にではなくて、主なる神ご自身に置いている者だという、こういう生き方だと言えると思います。 これに対して使徒の働き17章で今まで見てきたように、パウロが直面し、論争したギリシヤの哲学者たちとは、根本においてはいかなる者であれ、自分以外の他者に依存することを拒もうとする人々。自らのうちに自足する、自ら足りるという生き方を理想とする人々だと言えると思います。 というのは、自分以外の者に依存するとなると、常にその依存する他者によって振り回されなければならないのですから、翩々極まりない境遇に置かれるということになる。 だから自分自身をそのあらゆるものから引き離し、自存自足すると言いますか、自らでいわば完結したような、そういう生き方をしようとする。それが簡単に言うとギリシヤのあのストア学派なんかの、あるいはエピクロスなんかもそうでしょうけれども、そういう生き方だと言うことができるかもしれないのです。 先ほどの例えを用いれば、植物がその根っこを土壌から引き抜いて、自らの力だけで繁栄しようとするようなものですから、これは全く無謀なことであることは明らかであります。 現実に人間はこの肉体的な生命に関しても自分で自存することはできない。一瞬たりともできないわけであります。 人間は常に自分以外のものに依存して生きているからであります。真に自ら存在しうるもの、自存自足しうる存在というのは神ご自身だけです。神ご自身だけが自ら存在しうる唯一の方であります。 あの出エジプト記の3章の中で、神がモーセに対してご自分の名を「わたしはありである。」というふうに。あるいは、「わたしはあるという者である。」と不思議なことを言われたと書かれています。「それがわたしの名である。」と仰ったと書いてあるわけであります。 「わたしはありであるもの。」「わたしは自らあるもの。」こういうことが言えるのは神ご自身だけであるということなのです。 人間はそういうわけにはいかないのであります。一瞬間ですら人間は自らありであることはできないわけであります。 神こそがいのちの唯一の現存であり、あらゆる存在の究極の根源であるということ。これが聖書が繰り返し繰り返し、人間に対して明言しているところの根本的な事実なわけでしょう。 ですからあのようなギリシヤ的な生き方というのは、被造物であるところの人間が創造者なる神のありかたというものを志向すると言いますか、目指すと言いますか、そういう大いなる愚かさ、恐るべき企てに通ずるということになるのではないかと思います。 姉妹方はどうでしょうか。こういう人間的な根本的なありかたということについてあんまりお考えになったことがないかもしれません。 男はやっぱりこういう問題にはなんべんも突き当たっているわけであります。自らの力で、ただそれだけで生きようとする。多かれ少なかれどの男もこういうような考えというものを持つのではないかと思います。 ですからあのストアやエピクロスの人々の考え方というのは今もなお、現代においてもなお多くの人々の生き方の根本にやっぱりあるものと言えるのではないかと思います。 これに対してユダヤ人たちはそれがとんでもない愚かさであり、無謀なことなのだということを初めから知っていたと言えるかもしれません。それは彼らが神の存在についてとうの昔から教えられているからであります。 ユダヤ人たちは物心つく頃からこの会堂に行って、律法について学ぶということ。それがユダヤ人のすべての人々に課せられた教育だったそうでありますから、彼らは神様の存在とあらゆるものの根源であるこの神様によってすべてのものが生かされており、人間は支えられているのだということ。このことを小さいときからよく知っていたのではないでしょうか。 神様に依存することを拒むということは先ほど言ったように、植物が土壌から、土から自分の根っこを引き抜こうとするような狂気なのだ。気ちがいだけなのだ。それでは人間は存在し得ないのだということを彼らは自明のこととして知っていたのではないかと思うのです。 ところがギリシア人たちはそのことがわからない。自足すること、自らのうちで足りようとすること、そういう生き方にどうしてもむこうとする。これは東洋的な静寂主義と言います。以前も言ったような。そういうものと共通しているのです。 東洋人の中にある、こういう自らのうちで足りようとする生き方。これは私たち日本人のDNAの中にも非常に根強く残っている生き方ではないかと思います。 そこに生命力の弱さと言いますか、東洋人の生命力の弱さというのが僕はあるのではないかというふうに思うのですけれども。 ユダヤ人たちはそういうことが馬鹿げたことである。そんなことはありえないのだということを彼はよく知っていたと言えると思います。 アブラハムが言ったように、神の御前では人間は塵灰の如き者だということを彼らはよく知っていた。 自ら足りうるなどと、そんな馬鹿なことはありえない。その断絶と言いますか、ユダヤ人と異邦人との間の断絶。ギリシヤ人との、ギリシヤ人的人間の知恵に拠り頼む生き方との断絶。 そこがアテネでのパウロと哲学者たちとの間の議論がかみ合わない理由だったと言えるのではないかと思います。 詩篇の90篇。モーセの祈りですけれども、ちょっとだけお読みします。 詩篇90:1-6
ヤコブの手紙4:13-15
ペテロの手紙第I、1:24-25
人間というのは徹底的に無力な者なのだという自覚です。私たちは創造主なる神ご自身によって初めて生かされる者なのだということ、これをユダヤ人たちは自明のこととして彼らは知っていたわけであります。 それを知らない人々が、自分を自らありうる者であるかのように、とんでもないことを考えるわけです。 私たちもかつてはまことの神様を本当の意味で知らなかったばかりに、あのギリシヤの哲学者たちと同じように、己に拠り頼む、己を己の神として生きるという無謀な恐るべき考えの中にいたわけであります。 しかし真理を知ることによって、それが滅びに至る道であること。すなわち罪そのものであることに気付かされ、悔い改めて立ち返ることができたのであります。滅びの道から引き返すことができたのであります。 今思い出しても本当にゾーっとするわけでありますけれども、滅びの道から引き返すことができた。そうでなかったら本当に大変なことだったと思います。 ローマ人への手紙6:17-18
ローマ人への手紙6:22-23
恐るべき罪の滅びの中から救い出してくださったのであります。思い返してもゾッとするような滅びの人生。そこから聖書の真理を教えていただいて、救っていただいたのであります。 こうして己を高く持してひとりストイックに生きるという。あるいはギリシヤ的な生き方であり、今日多くの男の人々が、男性たちがやはり目指そうとするような、そういう生き方だろうと思うのです。そうではないということ。それは根本的に誤りであるということ。 そうではなくて私たちはへりくだって他者とともに生きるという生き方を取るべきであるということであります。 愛とかいのちというものが示唆しているのは、このようないわば心の生き方ではなくて、共生という生き方、あるいはあり方だと言えるのではないかと思います。 いわゆるストイック的な一種の貴族主義と言いますか、そういうようなギリシヤの哲学者たちの生き方。そういうものではなくて、他者との共生というあり方。他者とのつながりの中に初めて人はいのちを見いだすのだという聖書の主張。 クリスチャン的な平民主義と言えるかもしれません。そういう立場に私たちはいるのだということが言えるのだと思います。 コロサイ人への手紙2:6-7
キリストの中に根ざしなさい、根を張りなさいと言っているわけであります。そうしなければ本当のいのちはないのだということであります。 エレミヤ書17:5-8
エレミヤ書17:13
クリスチャンが教会という交わりの中でともに生きるべき者とされ、教会という交わりこそが真理の柱、真理の土台と呼ばれているのも、このことを意味するのではないでしょうか。 要するに、いのちの満ち満ちた豊かさというのはどこにあるかということなのです。 それは他者への依存から自らを全部引っこ抜いて、ひとり個々の歩みをするという、そういうところにあるのではなくて、神様を中心とした他の人々との交わりの中にこそあるのだということ。人との主にある交わりというものを離れて、人間はこの真の意味でのいのちに生きるということはできないということ。 他者との交わりの中に生きるということは必然的に謙遜を要求されるわけであります。自分のわがままというものを人はそこでは捨てなければいけないのであります。 そこには愛ということが原理にならなければならないのであります。そこにのみ真のいのちの豊かさというものがありうるのだということ。これが聖書が私たちに繰り返し教えていることだと思います。 自分自身の中にあるこのわがままさ。そういうもののゆえに人が他者との交わりから自らを切ってしまっている。それによってますますいのちはしぼんでいってしまう。枯渇してしまう。 それを聖書は真理ではないと言っているわけです。真理はそこにないと言っているわけであります。 ですから私たちは、クリスチャンは何があってもこの教会の中に、すなわち兄弟姉妹の信仰の交わりの中に歩まなければならないのです。 私たちは自ら求めたわけではないけれども信仰を与えられ、こういう集会というものに導いていただいて、そこに本当に豊かな交わりというものを初めて経験するのです。人間が生きるというのは、こういう中で生きるのだというふうに私は本当にこれをいつも思います。 千載一遇の出会いのような、そういう機会を通して、こういう交わりの中に自分があずかっているということ。それによって本当に満たされているということ。多くの兄弟姉妹と本当にこの世では経験できないような交わりを味わうことができるということ。 これは本当にすばらしいことだと思います。すごいことだと思います。そこにおそらく教会というものの持っている奥義というのがあるのだろうと思うのです。 これだけキリストの教会、エクレシアということばが聖書の中に使われているということ。 私たちはさっき言ったように、ともすると愚かさのゆえにひとり自らを持して高く、しかも現実的には貧相な人生を歩もうとする。しかしそういう過ち、そういう愚かさというものに気付かされて、それとはっきり決別した者。それがクリスチャンなわけですけれども・・・。 その意味でクリスチャンの最大の使命は、まことの教会を作ることと言えるのではないでしょうか。 人々がそこにまことのいのちを見いだして、そこに安んじて、喜んであずかることができるような教会。それを神様は造ろうとなさっている。そのために私たちひとりひとりをご自分のもとに召し出していらっしゃるということが言えると思います。 もっともベック兄が言われるように、主はご自分の教会をご自身が造られると、人間にはできないのだというふうに仰いますけれど。 このキリスト集会が本当に敷居の高くない教会と言いますか、だれでもそこに安心して連なることができるエクレシアであるということ。比較的僕はそういう集会だろうと思っております。よそのことを知らないのですけれども。 それはやっぱりキリストの教会というのがどんなに大切なものであるか。そこに集う私たちにどれだけ重要な責任が負わされているかということを、この集会の兄弟姉妹はよく教えられて来たからではないだろうかと思います。 主を中心として、兄弟姉妹と連なって、お互いがそこに深く根を張って生きている。お互いの交わりの中に、そこでのみ豊かなものは生み出されて来るということ。 植物が土壌に深く根を張らなければ実を結ばないのと同じであります。 コロサイ人への手紙2:9-10
この満ち満ちているということばは非常に重要なことばだそうであります。パウロが特に注意して使っていることばだと言われています。「満ち満ちる」ということばを表現をしています。 教会こそが、本当の意味でのキリストのエクレシアこそが、地上における天国の雛形であります。そこには神様のいのちが確かに宿っているのであります。人はそこに来て本当の意味での安らぎと満たしを得るのであります。 人はそういうふうに生きるべき者なのだと聖書は教えているのです。 多くの人々がそのことを知らずして砂を噛むような、本当に索漠たるこの世に歩みをしているわけですけれど。この教会なる交わりのうちにこそ満ち満ちたいのちがあるということであります。 自ら孤立して貧相な、そういう人生ではなくて、キリストにあって、教会にあって本当の意味で祝福された、満たされた者とならなければいけないと聖書は言っているわけです。 テモテへの手紙第I、3:14-15
伝道していきながら徐々にこの教会の奥義というのがパウロたちに啓示されていったのでしょう。 われわれが若い頃、ベック兄はよくこの教会ということを言っていて、話してくださったのです。個人的な会話の中でもよく仰っていました。この教会の奥義に気が付いていたのはパウロだけだったというふうに最初は仰っていたのです。 へぇ〜と思って聞いていたのですが、かなり経ってからはペテロも同じことを言っているというふうに仰るようになったのです。私たちはよくわからなくて、えーというような思いで聞いておりました。 私たちの使命は主の教会を造ることだと随分仰っていました。もう最近はそれこそ人の手にはもう負えない。主はご自分の教会をご自分で造られるということをベック兄は時々仰っていますけれど。 主の教会が、主のエクレシアが本当に主の前に聖められて、正しくあるということです。そうでなかったら大変な主の前に私たちは責められる者となるというわけであります。 教会がクリスチャンたち無自覚や振る舞いや態度によって教会としての聖さを失ってしまう。肉的なものがそこに入り込んで来て、もう人間的なさまざまな困難で教会というのがまるでこの世のとんでもない社会のようになってしまう。 その危険はもちろんいつまでもあるわけですから。しかしそれは決してそうあってはならないということだと思います。 前回見ましたようにアテネでのパウロの伝道の結果は、パウロを落胆させるようなものだったようであります。先ほどちょっと読んでいただいた使徒の働きの18章1節。 使徒の働き18:1
と書いてあります。アテネはパウロにとっては失意の地だったようであります。 彼はこのアテネを去ったあと、5、6年後にその心境についてコリント人への手紙第Iの2章に次のように書いています。コリント人への手紙第Iの2章の1節から。 これは西暦55年から56年の頃に書かれたものであるということが間違いないようであります。これはパウロがコリントに来てから5、6年経っております。あとで見ますように、パウロがあのコリントに初めて入ったのは、西暦50年か49年くらいだと言われていますから、5、6年経ったあとの手紙です。 コリント人への手紙第I、2:1-5
この3節で、あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていましたと彼は述べていますが、この大きなコンコーダンス付きの聖書の注によると、こういう注が付いているのです。 「パウロはアテネで伝道したが、大した成果をあげられず、失望してコリントへ行ったと思われる。また、テモテとシラスをベレヤへ残して来たので、孤独だったのかもしれない。」という、こういうふうに解説が付いているのですけれども。 パウロはがっかりしたのです。パウロも失望落胆することがあったわけであります。 彼ももちろん人間ですから人一倍喜怒哀楽はむしろあった人かもしれません。私たちはパウロといったら、もう鉄の如き意志の人ではないかと思いますけれど、大いに悲しみ大いに喜ぶ、そういう人でもあったのでしょう。 恐れおののいていたと書いてあります。しかし結局のところ、伝道に関わる自分の活動は全て主のみわざであり、それについて自分が上手くいったとか、上手くいかなかったとか、勝手に判断したり、評価してはならないということをパウロはわきまえていたでしょう。 上手くいったか上手くいかなかったかは主だけがご存知であります。自分のことであるかのように有頂天になったり、失望落胆したりするということはやってはいけないことである。主のみことばを伝えることは主のみわざだ。ですからパウロはいつも根本的には揺るがなかったでしょう。 コリント人への手紙第II、4:7-11
パウロは過度に落ち込むことはなかった。その必要はないということ、そうであってはならないということを彼はよく知っていたということでしょう。 もはや自分自身に関わることは何もないわけであります。キリストに召された者はもう自分のことで悲嘆に暮れたり、有頂天になったりする必要はないのですということでしょう。 使徒の働き18章にもう一回返ってください。ここで、このコリントでパウロは、アクラとその妻プリスキラに出会います。 彼らは最近クラウデオ帝によってローマから退去させられてコリントに来たばかりだというふうにそこで書いてあります。2節に。 クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。 このクラウデオ帝のユダヤ人に対するその命令というのは、紀元49年か50年の出来事であるということがわかっております。ですからこの時点は50年前後なのです。 パウロが第一回伝道旅行に出発したのは西暦46年ごろでした。もう忘れてしまったところですけれども、使徒の働き12章をちょっと見てください。 使徒の働き12:23-25
このヘロデが死んだ年というのは、これはわかっているのです。西暦44年であり、彼は54歳であるということがわかっております。 ヨセフスのユダヤ史の中か何かにこの記録があるということなのです。そして25節に、バルナバとサウロが、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。 これはクラウデオ帝の治世に大飢饉が起こって、そのための援助物資を持って、バルナバとサウロがエルサレムに派遣されて、そこから帰って来たときの記事ですけれども、これは西暦46年に起こったことがわかっております。 こうして13章からパウロとバルナバが第一回の伝道旅行に出掛けて行くわけです。 ですから第一回の伝道旅行に出発したのがだいたい紀元46年くらい。そして、このコリントに来ている第二回次伝道旅行のときにコリントに寄っているのがだいたい50年。ですからだいたい4年ぐらいしか時間は経っていないということがわかります。 一回の伝道旅行でせいぜい2、3年でしょうか。パウロのこの伝道旅行の時期を計算するとそのようになります。 このアクラとプリスキラについてはパウロは終生、深い感謝と尊敬の念をもっていたことがわかります。彼は手紙の中で何回も、このアクラとプリスキラについて言及しているのです。 (テープ中断) 56年ぐらいだというふうに言われていますから、あのコリントで彼らが初めて会った・・・ (テープ A面 → B面) ・・・として解放されていたということがここでわかります。 コリント人への手紙第I、16:19
アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心からあなたがたによろしくと言っています。ここにも出てきます。プリスカと省略されていますけれど、プリスキラと同じ名前であります。 アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。コリントの兄弟姉妹への挨拶です。 これはエペソから書かれたというふうに言われております、この手紙は。ですからこの当時、西暦55,6年ごろ、アクラとプリスカはエペソにいて、その家でまた教会が持たれていたということがわかります。 最後に出ているのは、の4章です。パウロが書いた最後の手紙です。彼の殉教の死の直前だと言われていますけれども、最後の手紙であります。ひとことだけ出ています。 テモテへの手紙第II、4:19
このテモテはその当時どこにいたかと言うと、エペソにいたと言われております。これは西暦67年ごろ。一番遅い手紙です。こういうふうに、アクラとプリスカという人たちは驚くような活動範囲の広さと言いますか、それをもっています。 アクラとプリスカという名前が出てきたり、プリスカとアクラにというふうに出てきたりしています。プリスキラの名前が最初に出て、それからアクラという夫の名前が出てきたりする。 若い頃にベック兄がローマ人への手紙の日曜日の夜の学び会をなさっていた頃、その個所をあげて、ローマ人への手紙の16章の最後のところにありましたように、そのときにはプリスカ、プリスキラから先に出てくるのです。プリスキラとアクラによろしく。 パウロはレディーファーストでプリスキラを最初にあげたのではないと仰ったことが今でも忘れがたく、耳に残っております。 御霊によって書かされているパウロは、プリスキラの名前を最初にあげたのは決してレディーファーストという、そういう儀礼上のことではなかったと仰っていたのです。 プリスキラというこの女性。この妻の信仰というのはいかにすぐれていたかということです。それを意味するのだと仰ったことがあります。むしろ信仰の働きにおいてアクラをリードしたぐらい、信仰に燃えていた人かもしれません。 パウロもアクラも天幕作りを所業としていたとあります。行く先々で天幕を織りながら伝道していたわけです。 パウロは家庭を持たなかったから、そういうような伝道の仕方ができたわけですけれども、アクラとプリスキラは子どもがいなかったのでしょうか。ともかくこの夫婦は常にひとつになって福音宣教のために全てを使い尽くしていたということはわかります。 コリントでも、ローマでも、エペソでも。どこでも行く所々は教会として彼らの家は用いられていたわけです。大したものです。 18章の、先ほどの読んでいただいたところから17節までは、このときの第一次のコリント伝道の様子であります。 ここでもユダヤ人たちの抵抗はかなり激しかったらしくて、パウロは6節で、 使徒の働き18:6
と言って、そこを去ったと書いています。 あまりに反対が激しくて、パウロも腰が引けそうになったのではないでしょうか。だから9節に、主の幻があったと書いてあります。 使徒の働き18:9-10
パウロはやっぱり恐れていたということは、このことばから逆にわかるわけであります。 パウロはこの主の幻によって、みことばによって勇気を与えられ、腰を据えて一年半ここで伝道した。こうして、ここでの伝道は実を結び、コリントの教会の基が築かれていったということがわかります。 コリント人への手紙第Iの3章、ちょっと見てください。 コリント人への手紙第I、3:5-11
4章の14節を見てください。 コリント人への手紙第I、4:14-16
すごい表現ですけれども。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです、コリントの教会の基を据えたのは自分なのだといいますか、そういうふうにまで言っていませんけれど、私が主に遣わされて、あなたがたに福音を宣べ伝えたのだ。 ちょっと急いで18章に戻りたいと思いますが、18章の12節に、 使徒の働き18:12-13
このガリオという人は、あの哲人セネカのお兄さんだそうであります。 哲人セネカ。ネロの先生だったのですけれども、ネロとぶつかって自殺をした人なのです。有名な哲学者です。 文字通りこのストア派の代表的哲学者で、ストア派の生き方にならって最期は自ら命を絶っていった人なのですけれども、その兄貴です。ガリオというのは。 これがアカヤ地方の総督です。コリントのあるところ、アカヤ地方ですからそこの地方総督だったということがわかります。ガリオは取り合わなかった。 ユダヤ人たちの訴えを全然気にも留めなかったと書いていますけれども、パウロはこの訴えによってガリオにさばかれるということはおかげでなかったのです。 18節から21節は、パウロが初めてエペソへ行きます。エペソは小アジアにあるのです。エーゲ海を渡って向かい側です。 コリントの向かい側。そこにエペソがありますが、彼はこのとき初めてエペソを経由してエルサレムに行き、それからカイザリヤに戻って来るわけですけれども。このエペソに行く途中、18節で、 使徒の働き18:18
と書いています。 使徒の働き18:19-21
と書いてあります。この18節で面白いことが書いてあります。誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそったと書いています。 旧約聖書に出てくるナジル人の誓願ということが民数記の6章辺りに出てきます。主に対して誓願を立てた人が、その誓願の期間が明けたときに髪を切って、その髪を神の前で焼いてささげる儀式だというのですけれども。 ナジルというのは生別するという意味だそうです。ですから、一つの誓願を立てていたというのは、どういう誓願なのかがわからないのですけれども、パウロは何か誓願を立てていて、ケンクレヤという港町で自分の髪をそって、それを燃やしたのでしょう。 あれだけ律法からの決別を強く主張したパウロがこういうことをするというのも、ちょっとわれわれには違和感があるのですけれども。 パウロはここで改めて自分を聖別するという、何か期するところがあったのでしょう。よくわかりません。ともかく、ナジル人の誓願というのは自分自身を全て主にささげる、生別するという、その誓願だそうであります。 民数記の6章辺りをあとでお読みになってください。何をしてはいけないか。その期間中例えば、ぶどうの実から取ったものを食べてはいけないとか、決して酒に酔ってはいけないとか、いくつかのことが書かれております。 使徒の働き18:22
エルサレムの母教会に彼は行って、そこであいさつをして、それから第二次伝道旅行の出発点であるアンテオケに帰ったと書いてあります。 使徒の働き18:23
これが第三次の伝道旅行の出発なのです。ほとんど間を置かずにパウロは出発しているわけです。 あらかじめ決定されていたかのように彼は出発していますから、あのナジル人の誓願と何か関係があったのかもしれません。何かあのときに期するところが、決心するところがあったのかもしれません。ほとんど躊躇していませんから。第三次伝道旅行。一番大きな距離を周る伝道旅行に彼は出発しております。 24節から28節まではさっき出てきた、アポロというアレキサンドリアの生まれの人だというのですけれども、何かアポロというギリシヤ神話の名前をとっていますけれども。この伝道者のことが少しだけ出てきます。24節からちょっとお読みします。 使徒の働き18:24-26
メッセンジャーとして立たされている人よりも、聞いていらっしゃる兄弟姉妹のほうが聖書に詳しいというような感じです。「あとでちょっといらっしゃい。」と言って教えを受けるようなものですけれども。 雄弁な、と書いていますから、よほど説得力のあった人でしょうけれど、どうでしょうか。アポロについてはこれ以外は先ほどパウロがコリント書に書き送った、アポロにつく、あるいはパウロにつくという教会内での愚かな分派の例として引き出されている人で、ほとんどほかには出てきません。 イエス様について、イエス様を信じる信仰についての知識が、直接に使徒たちとの交わりがおそらくなかったためでしょうか、不十分だったのでしょう。 プリスキラとアクラは、彼の説教を聞きながら非常に喜んだのでしょうけれども、ちょっとやっぱり、もう少しこういうことを知ってもらいたいという思いがあったのでしょう。 信仰はイエス様とともに生活し、直接イエス様を見た使徒たちによって伝えられたものでないとやはりどこか欠けがあるのでしょう。 人から聞いたり、本で読んだりするのと、直接体験するのとは大違いということはいくらでもあります。 特に、体得するものの場合はそうです。いくら本を買い込んでやったって、全然ダメです。その人に会ってみて、その人のもとでやらなければダメなのです。 この世の芸事というのはみなそうであります。実際にその人に触れてみないと、その人のもっているものは学べません。特に信仰もそうなのではないでしょうか。 イエス様直伝でないと。そのイエス様から直伝された使徒たち直伝でないと、肝心なところがどうも欠けてしまうということがあるのではないでしょうか。 パウロの場合はちょっと例外ですが、彼は自分に対する主の啓示を、使徒たちに直接会うことによって確認しているようであります。 間違いない。主から啓示されたことと使徒たちに直接会って聞いたことと、全く違っていない。そういう確信をパウロはもっているようです。 彼は手紙の中で、「私は主を見たではないか。」ということを言っていますけれど、彼は使徒ではないというパウロを誹謗する人々に対して、「私は主を見たのだ。」というふうに弁明しています。 あのダマスコでの主との出会いについて彼はそう言っていますけれど、使徒たちを通して直接イエス様のことを聞いた人々、身をもって接するかのようにイエス様のことを知るようになった人々、そういう人々が次から次に主を伝えて、2,000年経って私たちのところに来ているわけです。どこかで切れていないのです。 聖書だけ読んで信仰を学んだという、そういうものではないと思います。必ず人づてに伝えられて来たもの。人格を通して伝えられている信仰。それが私たちのその信仰であります。 アポロについてはちょっとだけ少し振り返って終わりたいと思いますけれども、 コリント人への手紙第I、1:10-13
コリント人への手紙第I、3:1-5
コリント人への手紙第I、3:21-23
コリント人への手紙第I、4:6
これらはいつの時代のクリスチャンたちにとっても当てはまる警告と言えるかもしれません。 「私はアポロに。」、「私はパウロに。」、「私はペテロに。」とクリスチャンたちが言う。愚かなことだ。すべてはあなたがたのものではないか。何でそういうことを言うのだとパウロはここで嘆いているのであります。 ただの人たちのように、すなわち肉につける者のように歩んではならないと、彼は自分がキリストにあって生んだ信仰の子どもたちであるコリントの方々、兄弟姉妹に諭し、懇願しているようであります。 そこまでで終わりましょう。 |