引用聖句:使徒の働き19章1節-7節
今日の学びの個所は、今読んでいただきましたけれども、使徒の働き第19章でありますが、この章は初めから終わりまですべて、パウロたちのエペソにおける伝道の様子について記しております。 エペソという町はローマ帝国の属州であるアジア州の首都で、エーゲ海を挟んでギリシヤ、アカヤ地方と当時呼ばれていたようです。アカヤ州になるのでしょうか。反対側はギリシヤのアテネやコリントとちょうど向き合っている港町のようであります。 地図で測ってみるとだいたい200キロから240〜250キロで、アテネやコリントの町があるのであります。 このように交通の要衝であり、またアジア州の政治経済の中心地ばかりでなく、アルテミス神殿があることで古代世界に知られていた宗教の中心地でもあったようであります。 このエペソという町の名は私たちクリスチャンにはあの3つの獄中書簡の中の一つ、エペソ人への手紙によって非常に親しみを覚える名前ではないかと思います。 パウロはこのエペソの町に第二次伝道旅行のときと、今回の第三次伝道旅行のときとで計2回立ち寄っていることが使徒の働きからわかります。第二次伝道旅行からの帰途に短期間エペソに立ち寄ったことは前回の18章の後半でちょっと触れましたね。 彼は人々がもっと長くとどまってくれと言うのを頼むのも聞かずに、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます。」と言ったと記されています。急いで彼はエルサレムへと旅立ったのであります。 18章のところ、もう一回ちょっと振り返ってみますと、 使徒の働き18:18-23
こういうふうに書いています。何がパウロをあのようにエルサレムへと急がせたのか。そして何がパウロを第三次伝道旅行へとせかしたのか、その理由についてはこの記事だけからはわかりません。 ケンクレヤで髪をそったと書いていました。ケンクレヤというのはコリントの隣にある、要するにアカヤ地方。ギリシヤの町の一つであります。 そこで彼はナジル人の誓願、旧約聖書に出て来るある誓願を立てるときに髪をそるのです。誓願がとかれるまでその髪をそらない。切らないという、そういうことが旧約聖書の中に書かれております。その内容についてこの聖書は何も言っていないのであります。 パウロは最初の短いエペソ滞在で、この町が福音のために大きく開かれた場所であることを強く示されたのかも知れません。 四六時中、福音宣教のことしか念頭にない人ですから、彼の霊的洞察力は、私たちが彼の手紙の中で見るように非常に深かったわけであります。 主に仕える熱心さに比例してしか、クリスチャンの霊的賜物、上からの知恵と力とは与えられないのであります。本当の意味で主を愛することを知らず、自分だけを愛する肉の人には霊的賜物は与えられません。 正しく使うことを知らない人に、主は自分の上からの知恵も力も与えられないということは間違いありません。逆に言えば、主に対する私たちの心が、主に対する思いが強ければ強いほど、それに応じて主は豊かにご自身の知恵と力とを注いでくださるということは間違いがないということなのです。 信仰の賜物というのは人間の生まれつきの能力とは全く関係がないようであります。主の前における私たちのあり方。それだけによると言って間違いないわけであります。 パウロはエペソの人々に、「神のみこころなら」と答えましたが、このときすでに強く感ずるものがあって、そのあとその思いが主からのものかどうかを祈りながら確認していたのかもしれません。よく祈り、確信を得てからでないと彼は進まなかったはずでありますから。 こうしてパウロはアポロと入れ違いにエペソに来た。これが19章の1節であります。彼はこのエペソに、2年から3年もの間腰を据えて福音を宣べ伝えます。 彼がこれほど一ヶ所に滞在して宣教活動を行なったのはほかにないのではないかと思います。この使徒の働きを見る限り。 使徒の働き19:10
と書いてあります。その次の20章31節。 パウロがこの第三次伝道旅行を終えて、急いでエルサレムに帰る途中、エペソに寄ると時間が取られることを考慮して、そこに寄らないでエペソのすぐ近くの場所、ミレトという場所があるのですけれども、そのミレトからエペソに使いをやって、エペソの教会の長老たちが招いて、彼が最後の別れを告げた言葉がこの20章の後半に出て来ます。 非常に心を打つパウロの決別の辞と言いますか、もう二度とあなたがたは私の顔を見ることはない。そういうことを彼は言いながら、そこでこれからの信仰の歩みについて、くれぐれも注意するようにというメッセージを伝える。 使徒の働き20:31
ここでパウロは、3年間あなたがたといっしょにいたと言っています。エペソの兄弟姉妹に。ですから2年何ヶ月間か、彼はこのエペソにとどまって、そこにおいて宣教に力を尽くしたわけであります。 それはやはりこのエペソがアジアの中心地であり、宣教の効果がもっとも高い位置にあると判断したからかもしれません。かつて日本に来たあのザビエルはまず京都へ上り、帝に会って、日本全国での布教の許可を得ようと考えたというのと同じかもしれません。 外国からいらっしゃる宣教師たちというのは、いらっしゃるときからもう、日本全国に伝道の視野というものを広げていらっしゃるようであります。 そういう意味で、戦略的と言いますか、大局的視点を常にもっていらっしゃるようです。拠点、拠点を攻めていくと言いますか。そういうふうに感じられます。 私たち日本人は場所などどこでもいいから、一部を照らすということがどうも好きなような気がするのです。置かれたところで、そこで福音の証しをする。それを越えた視野というのは、なかなかもたないのではないでしょうか。いかがですか。 ぼくなんか、全くそうなのです。これは西洋人とわれわれとの持って生まれたものの考え方の違いというものが根強くあるのではないかというふうに私なんかはいつも思うわけであります。 私たちは特に、この信仰に関わることにおいては戦略的と言いますか、そういうものの考え方というのは、あえて避けようとしているのではないでしょうか。 何か人間の計画とか、そういうものに対してはあまりいいものとは思わないで、置かれたところにおいて周りを照らす。そこにおいて主の証しを美として生きるという、そういう姿勢が抜け切れないように思うのです。パウロはどうもそうではないです。 さて、エペソに来たパウロが最初にしたことというのは何かというと、先ほどの使徒の働きの19章の1節周りに書いていましたけれども、もう一回そこを見てください。 使徒の働き19:1-2
こういうふうに書いてあります。エペソの信者たちの信仰に物足りなさを感じたのでしょう。彼らが聖霊について知っているのかどうか。それを確認することが彼が最初にやったことでありました。 どうも彼らの信仰がはっきりしておらない。信ずる心は持っているにも関わらず、何をどう信じていいのかわからないというところがあったのではないでしょうか。 信仰の核になるものが曖昧なように感じられたのではないでしょうか。アポロの教えがちょっと十分ではなかったと言えるかもしれません。 アポロのことはその18章の24節のほうに出ていますが、もう一回見てみましょうか。 使徒の働き18:24-27
ギリシヤです、 使徒の働き18:27-28
パウロの先にエペソにはいって精力的に活動していたのは、このアレキサンドリア生まれのユダヤ人、アポロという人でした。 彼は非常に聖書に精通していたけれども、ヨハネのバプテスマしか知らなかったとここに書いてあります。これがエペソの信者たちの信仰にある曖昧さを残していた理由なのではないかと思います。 19章の3節に、 使徒の働き19:3-5
とあります。クリスチャンであれば、だれからみことばを聞いても、どういう人によって信仰を教えられても同じだということはないのであります。 それはその人がもっているその信仰の深さと言いますか、それによって学ぶ人々は大きく違ってくるわけであって、みことばは正確に、しかも深く教えられなければなりません。 それによって人の心に真理の知識がしっかりと根付くわけであります。それは霊的な力となって、その人の人生を揺るがないものと変えていきます。 力のある信仰、真理に堅く立った深い根をもった信仰でなければ、福音は深く伝えることはできませんし、そういう信仰を受け継がなければ、クリスチャン信仰と言いながら、全くこの訳のわからないと言いますか、焦点のはっきりしないものになるのではないでしょうか。 パウロは、神の国はことばではなく力ですと言いましたけれども、弱さをも破壊するほどの神の力だと彼は信仰の力について言いましたが、そういうものですね、それはそのような信仰を受け継いだ人を通してもらわなければならないのです。 だから、どういうクリスチャンと出会うかということは、決定的な意味を持っているのであります。 私たちはこういうキリスト集会というような集会に属していて、本当にぼくは、これはかけがえのない恵みだといつも思っております。 それはどこに行ってもあるものではないのであります。多くの経路をたどって、私たちに信仰が伝えられた。それはみなさんが色んな教会や色んなクリスチャンたちと交わればお分かりになるはずであります。 同じクリスチャン信仰であっても、そこに信仰の色彩と言いますか、それが濃厚に違っているということを感じられるでしょう。 それは私たちに信仰がいかなるものであるかということを身をもって伝えてくれる人々を通して、私たちが教えられ、学ぶものなのです。体得していくものでしょう。 徹頭徹尾、自分の知恵や力にではなくて、生きておられる主に頼らなければならないこと。それは徹底しなければばらないこと。信仰の歩みにおいて、目指されるべきはただ主の栄光であって、自分のエゴ、すなわち肉の思いに注意しなければならないこと。 このような信仰の姿勢や知恵がどんなに大切なものかは、先達の信仰から厳しく身をもって教えてもらわなければ学び得ないものであります。 ヨハネの福音書6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。イエス様のおことばであります。私たちは多くの優れた信仰の先達から学ぶことができるこのチャンスを与えられているということ。それは本当にかけがえのないことだと思います。 クリスチャンと言っても千差万別であります。霊と肉の判別すらできず、そのようなことに関心すら持っていないかのようないわゆるクリスチャンも多いのであります。 ですからクリスチャンは御霊に従って歩まなければならないという信仰の根本的なこともよく知らないで、そういうことを教えられないで、ただ漫然とクリスチャンというのは何かヒューマニスティックな、そういう存在であるかのように、この世の平和だとか、この世の慈善活動だとか、そういうことが何かクリスチャンの最大の使命であるかのように考えている人、誤解している人も多いわけです。 しかしどんなに優れた信仰の人、霊の人が身近にいても、私たちが、主を深く知りたい、信仰を深く学びたい、真理についてさらに知りたいという、そういう熱心な思いがなければ、どうにもならないことではあります。 見ても見ず、聞いても聞かず、宝物が側にあってもそれが宝物だと気が付かないということは、どんなに多いことでしょうか。私たちの内側から目覚めないとどうにもならないものでしょう。 人の心が内側から目覚めてくる。蒔かれた種が芽を出して伸びてくる。地上に出て来るように、人のたましいが本当に目覚めてくる。そういうふうになればいくらでも周りにチャンスはあるわけであります。真理への導き手はいらっしゃるわけであります。 私たちのたましいが、心が内側から目覚めてくるかどうか、飢え渇きを持つようになるかどうかであります。本当にそれが難しいですよね。人の願いや思いには拠りませんので。 要するに、エペソのクリスチャンたちは聖霊のご支配のもとで、聖霊に従って生活するということについて全く無知だったのであります。聞いたことすらないと言うのですから。 だからパウロはその点を自覚させようとしたのでしょう。人が主の聖霊を受け入れ、従いたいと願うなら、主は必ず聖霊を与えて導いてくださる。これは聖書の約束であります。 ルカの福音書11:9-13
こういうふうになっています。マタイの福音書の同じような個所では、「どうして良きものを与えないことがありましょう。」というふうになっていますが、ルカは、どうして聖霊を下さらないことがありましょうと書き記しております。求める人たちに、どうして神が御霊を与えられないことがあろうかということであります。 クリスチャン信仰の決め手は聖霊であります。このキリストの霊に聖なる霊が、信仰によって人の内に宿るとき、そこに初めて罪からの聖めがもたらされてくるわけでしょう。 クリスチャン信仰の独逸性と言いますか、ユニークさとはいうのは、ほかの信仰に無いユニークというのは、御霊の支配ではないですか。もちろんイエス様もそうですけれど。 信ずる者の中にキリストの御霊が宿ってくださる。この御霊は私たちの内側に働いてくださって、私たちのこの罪に汚れたこの生活というものを整え、きよめていてくださる。どうでしょうか。 ぼくは昔、学生時代、22、3歳の頃に無我夢中で聖書を読んでおりましたけれども、もちろん、殆どわかりませんでした。一生懸命、集会に、それこそ雨の日も風の日も、まだ2、30人ぐらいしか人がいないところに通い詰めざるを得ないで、通っておりました。 しかし聖書はよくわからない。しかし何ヶ月か過ぎて、あるとき、住んでいた池袋の街を、通りを、いつものように歩きながら、あるとき、この2、3ヶ月間のうちに自分の生活が、そういえば随分、気が付いたら変えられて来たな。そういうことをふと気付かされたときがありました。 聖書を読んでいるうちに段々、この信仰にふさわしくないと言いますか、聖書とそぐわないような自分の部屋にあったさまざまなものを外に捨て始めたからであります。この小説は良くない。選び出して、捨てるわけであります。 こういうふうにして自分が段々、こう、聖書を読んでいるうちに、そういうふうに変えられていっている。 友人たちと集まっては酔っ払って、盛んに・・・そんな生活をしておりました。一緒に呑み屋に行って酒を呑んだりやっておりました。しかし、その親しかった友人たちとも今生の別れではありませんけれども、別れて、彼らの呼び出しに、「ぼくは教会へ行くから。」と言って了解してもらって、彼らは随分悲しんでくれましたけれども・・・。「あいつは別の世界に行ってしまったのだから。」なんて言われまして、別れましたけれども、 そういうことを通しながら自分の生活がいつの間にか確かに変えられて来ている。それに気が付いてハッとしたのであります。 御霊が人の内に宿るというのはこういうことなのだろうか。確かにイエス様を信じるようになって、聖霊は自分の生活を段々段々変えてきておられる。そのときに初めてぼくは御霊というのは、こういう働きをなさるのだということを感じたのを今でも覚えているのであります。 内住の御霊。信ずる者の内に宿ってくださるキリストの霊。これこそがクリスチャン信仰の決め手だと思います。イエス様を信ずることによって、聖なる御霊が私たちの内に宿ってくださることによって、きよさの片鱗が、土くれに過ぎないわれわれ人間の内にも宿るようになるのだと聖書は教えているのであります。 ですからその人間性の中に、そのきよさが全く感じられないとなってくると、その信仰には根本的な問題があるわけです。 人間はもちろん自らきよくなることはできない者であります。しかしクリスチャン信仰の特徴は、キリストの御霊によって私たちがきよめていただくということであります。クリスチャンというのは「聖徒」と呼ばれているでしょう。聖なる輩であります。 キリストのものだから、キリストが聖なるお方だから、キリストに属する者は聖なる者であるということから、「聖徒たちへ」ということばが繰り返し、繰り返し手紙の送り先に書かれてくるわけであります。 やっぱり私は、クリスチャンというのはきよくあってほしい。その品性において。人格においてそうであってほしいというふうに切に思います。それはやっぱり、この世に一番欠けているものはこのきよさだからであります。 主は私たちを聖なる者となさるために、キリストによって私たちを贖ってくださったのだと聖書は言っています。 俗っぽくあってはいけないと思うのであります。私たちはいったいどうでしょうか。パウロは「くだらないその俗悪なことは、ことばであってすら気を付けよ。」というような言い方をしています。 それは御霊にはっきり気付いて、御霊が内に住んでくださるから。この御霊を聖書が教えているように、悲しませてはいけないから。御霊に従うことこそがクリスチャンの歩みなのだから。それこそが祝福の秘訣なのだから。そこに注意を払わなければいけないからであります。 御霊は私たちをコントロールする、何て言いますか、ちょうど馬に掛けられている手綱みたいなものではないでしょうか。この御霊の手綱を振り切って走ったりする。その挙句は必ず破局がやって来るのであります。 ローマ人への手紙8:5-9
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではないと書いています。 エゴ、すなわち「私」なるものによって支配されているのが肉の人であり、罪の中にいる人であり、キリストの御霊なる聖霊によって支配されている人がクリスチャン、すなわち救いにあずかっている人であります。 このローマ人への手紙の8章の前の7章は、ご存知のように非常に有名な個所でしょ?パウロが苦悩の限りをここで記しているのです。「ああ。私は、何とみじめな人間だろう。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのだろうか。」と言った、あの個所は7章でしょう。 この7章には、一番多く用いられていることばは「私」ということばです。「エゴ」です。ギリシャ語で言えば。数えてみますと31回出て来るのです。 この「私」ということばは。もう、私は、私は、です。初めから終わりまで。 ローマ人への手紙7:15
私、私でしょう。 ローマ人への手紙7:18-20
云々と、もう繰り返し、繰り返しです。この20節前後。31回、「私」ということばが書かれています。 ローマ人への手紙の8章は一転して、勝利の章でしょう。 ローマ人への手紙8:1-2
こういうふうになっています。一転するわけでありますが、ここで一番多く使われているのは「御霊」ということばであります。数えてみると20回出て来ます。 人は、問題の根源である「私」、これにとらわれ、これにいつも何て言いますか、いつもこの私、私、私にとらわれてしまって、「私はダメだ。」とか、「私は弱い。」とか、「私はどうの。」とか、こういうことを、これは自己憐憫でしょうか。よく、自己憐憫は罪である。自分のあわれむのは罪だというふうにわれわれはよく教えられましたけれども。後ろを振り向かれなければならない、このエゴというものに対していつもこれに執着をするのです。 これは捨てなければいけないのです。これは根本的に切り離されなければならないし、無視されなければいけない。これはもう関わりのないものとして私たちはこれにかまけてはいけない。 もちろん自分を反省するという意味において私たちは深くさぐられなければいけませんけれど、私たちはそれはもう脱ぎ捨てて、主の御霊によって新しく生かされ・・・ (テープ A面 → B面) エペソ人への手紙1:13-14
約束の聖霊をもって証印を押されましたと出ています。キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではない。キリスト者とは言えないということであります。 エペソの信者たちは唯一のまことの神を信じ、御子イエス様を救い主として信じ、その罪の贖いと復活ともアポロから教えられて信じたでしょうが、聖霊のご支配については知りもせず、聞いてもいなかったのであります。だからそこにはクリスチャン信仰からもたらされる生き生きとした内なるもの、生ける望みや喜びというようなもの。群れにおける一致というようなもの。そういうものが欠けていたのではないでしょうか。 彼らが一緒に集まってもその場を支配なさるのは主の御霊ではなかったのであります。御霊を知らなかったからであります。 クリスチャンはしょっちゅう集いますけれど、一緒になりますけれど、いつも大切にされなければならないのは御霊のご支配でしょう。 もちろん年の差だとか、色んなキャリアの差だとか、この世の偉い人もいるもだろうし、そうでない人もいますし、色々いらっしゃいますけれど、しかしキリスト者が集まるときには、そこには主の御霊の支配がなければならないわけです。 そうするとそこに人間では計画できないような麗しい調和と言いますか、秩序がそこに生まれてくるでしょう。 ここにも年配の、私なんかからするとこの世のキャリアにおいて立派な兄弟たちが何人もいらっしゃいますけれど、集会で交わるときに、あるいは兄弟姉妹との交わりにおいて私たちは主の御霊の支配のもとに服しますから、この世のものとは違った、そこに麗しい一致と秩序が見いだされてきます。 そういうところに主を知らない人がいらっしゃる、それによって今まで触れたことのないものにそこで触れるわけであります。それが集会というものが持っている非常に大切な使命ではないかと思います。 コリント人への手紙第Iの3章。御霊の支配について無関心である、そういう状況についてパウロは、このコリントの手紙の中で、3章の1節から4節までお読みします。こう書いています。 コリント人への手紙第I、3:1-4
ねたみや争いのあるところ、それは御霊の支配のないところなのです。肉なるものが支配しているところなのであります。そこにはキリストの祝福はないのであります。 私たちはそういうために召されたのではないのだと彼は言っているのです。ただの人のように歩んではならないのだと言っています。ねたみや争いというのは愚かなことだから。何の役にも立たず、むしろ人々を傷付けるだけのマイナスのものなのだから。そういうものから離れなければならないのです。 主の恵みを知るようになれば、人はそういうものから自然に離れるのであります。ねたみとか争いというのは人間同士の愚かなレベルでの話だからであります。 コリント人への手紙第I、3:16
神の御霊が、と書いています。同じく、 コリント人への手紙第I、6:19-20
すばらしいことばですね。私たちは聖霊の宮であるというのであります。ですから自分のからだをきよく保たなければいけないのであります。 このエペソの兄弟姉妹たち、キリストにある幼子でしょうね。御霊を知らずして、御霊によって歩むことを知らない人々と言って、未信者ではなさそうであります。 この人々に対してパウロは、19章にもう一度返りますと 使徒の働き19:6-7
と書いてありますが、同じようなことがたとえば8章を見てください。使徒の働きの8章14節から17節までちょっと見ましょうか。 使徒の働きの8:14-17
ここでは、イエスの御名によってバプテスマを受けていたのですけれども、聖霊は彼らに下っていなかったと書いてあります。エペソでは、ヨハネのバプテスマしか知らないと書いてあります。 手を置いた。これが按手というものの意味なら、そうですね、按手礼とよく言うでしょう。手を置くことです。私たちの集会ではやりませんね。気を付けてこういうことをやらないようであります。 パウロはテモテに対して安易にその按手をするなということを戒めたりしておりますけれども。 彼らが、パウロやペテロが彼らの上に手を置いた。按手をした。そうしたら御霊が下ったと書いています。パウロやペテロという信仰の先達が、このサマリヤの人、あるいはエペソの人々の心の留め金を外してくれて、深い安心感を与えてくれて、主の前に彼らの心を大きく開いてくれているのでしょうか。 パウロとペテロの導きに従って、彼らは改めて心から主を受け入れることを通して、御霊が彼らの心にはっきり宿られたということでしょうか。 パウロやペテロはお産婆さんみたいなものでしょうか。人の霊的誕生に立ち会って手助けをする産婆さんのようなものかもしれません。優れたお産婆さんはおそらく妊婦に深い安心感を与えてくれて、お産を楽にしてくれるのでしょうけれども。 キリスト者というのはそういうものかもしれません。その人がいてくれる。側にいてくれると本当に深い安心感を覚えるとか、それによって心を主の前に素直に人は開いていくということがあるわけであります。 19章の8節以降は、少し簡単にサーっと見て行きたいと思いますけれども。 使徒の働き19:8-10
と書いています。最初はいつものようにユダヤ人の会堂にはいって行きます。3ヶ月間ユダヤ人たちを説得しようとしましたけれども、反対者たちが邪魔をするので、この会堂を去って、ツラノの講堂で福音を語ったと書いています。ツラノというのは、この講堂の持ち主のようであります。 こうして2年間、ツラノの講堂を中心にしてパウロは主の福音を語るのです。同時に主はパウロの手によって、驚くべき奇蹟を行なわれたことが書いてあります。 使徒の働き19:12
同じ、5章をもう一回ちょっと振り返ってみましょう。 使徒の働き5:15-16
ペテロも影にかかるようなことで、大ぜいの人がいやされたと、全部の人がいやされたと書いています。あの大使徒パウロも、どうも先輩ペテロのあとを追っかけているような感じですね。やっぱり主の順序なのでしょうか。 ガリラヤの小さな村の漁師に過ぎない、このペテロが先に先に行っているわけでしょう。パウロはペテロが行なったようなこと、経験したようなことをあとからやっているような気がしますけれど。 こういう奇蹟を通して主はご自分の力をあかしのために明らかにしていらっしゃるわけであります。 使徒の働き19:13-20
スケワというユダヤの祭司長の7人の息子たちが、悪霊につかれた人たちのところに行って、試して、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。 試してやってみたら、ひとりの悪霊につかれた、気違いみたいな人でしょう、によって7人の息子たちがみんなやっつけられて、押えつけられて、傷を負って逃げ出して来たということであります。 試しに名前を使ってみる。信じてもないのに試してやってみた。とんでもない目にあったということです。 銀貨5万枚というのは、私のこの聖書の注を読むと、約250万円に相当するというのですが、この聖書は出版されたのが随分前ですので、今の物価からするとどうでしょうか。2、300万するのですね。それだけの書物、魔術のための書物が焼き捨てられたということであります。 21節から22節は・・・ 使徒の働き19:21-22
2年3か月前後、パウロはエペソにとどまって、ここに腰を据えて宣教に励んだのです。それが一段落したわけでしょう。あとはこの兄弟たちに任せることができるという目処がついたので、パウロのうちにさらなる道の沃野の開拓、ローマ伝道の思いが湧き出てくるわけであります。 パウロは常に開拓伝道を志していたようであります。彼の手紙のどこかに書いてありましたけれども、私は人の行かないところに行くのだ。私は先に福音が宣べ伝えられているところではなくて、まだ宣べ伝えられていないところに行くというふうに彼は言っています。 荒野を切り開き、道を通し、要所、要所に福音の種を蒔いて根を下ろさせる。教会の基礎が固まると新たな知恵とさらに進んでいく。とどまることを知らないパウロの伝道の姿勢であります。 みなさんはベック兄の「主による召命のみことば」を知っていますか。だれか知っていらっしゃいます? むかし、一度だけ仰ったことがあるので、ぼくは聖書に印を付けて、ゴッドホルド・ベック兄の召命のことばとして印してあるところがあります。貴重な個所です。是非覚えておられたらいいと思います。 イザヤ書62:10
これが十何歳のベック兄に臨んだ、聖書のみことばだそうであります。こういう、ご自分と主との聖なる秘密と言いますか、そういうこともベック兄が洩らしてくださって、ぼくは本当にこれを感謝しています。 ご自分の胸深くに、ただ秘めておかれて、それがだいたい普通かなと思うのですが、そういうことをなさらないで、このみことばによって自分は宣教師として遣わされたのだ。このみことばだったと仰っています。 イザヤ書62:10
あの強力を奮って土を盛り上げ、大路を造っていらっしゃる。石を取り除いて民の上に旗を揚げる。確かにそういう働きをしておられるのです。 パウロはローマ帝国の首都であるローマに向かって、ここで目標を定めるわけです。使徒の働き19章。あとちょっとだけ急いでいきましょうか。 19章の23節から終わりまでは、このアルテミス神殿を巡る騒動であります。この神殿は古代世界の7不思議の一つと言われたほどの壮麗な建物だったとこのコンコーダンス付きの聖書には記されております。 とにかくその大女神、アルテミスの神殿というのは、非常に壮麗な建物で、古代世界の不思議に数えられたと言うのですから、大変なものだったのでしょう。ですから、このアジアだけでなく、小アジア、あるいはマケドニヤ、ギリシヤを含めて、当時の世界には知れ渡っていたわけであります。 この神殿の模型を銀で作って、参詣者たちがこの模型を買って、神殿に奉納するということによって、銀細工人たちの商売が成り立っていたらしいのであります。 その職人たちの頭目がデメテリオという人なのです。この人がパウロたちの宣教によって自分たちの将来がダメになることを恐れて、騒動を起こしたと記されております。 使徒の働き19:23-27
アルテミスというのは要するに豊穣の神のようですが、神はこの天地万物をお造りになった唯一の神である。このパウロが説く福音に対して商売が成り立たないと危機を感じたわけであります。 信仰や真理よりも商売、この世のビジネス、儲け、お金。こういう人はいつの時代も圧倒的な数、比率を占めているわけであります。聞く耳を持って、パウロのことばに耳を傾けようと、人はなかなかしないのです。 この偶像のことについては、もう開きませんけれどもイザヤ書の44章の中にあります。実に偶像の愚かさについて明快に、皮肉たっぷりに書かれていますから、みなさんご存知だと思います。 こうしてこのエペソの町は大騒ぎになって、ガリオとアリスタルコというパウロの同行者たちを捕えて、一団となって劇場へなだれ込んだ。この野外劇場は2万5千人の収容能力があったと言うのですが、そこに人々は殺到して、大混乱に陥って、大多数の人々は、なぜ集まったのかすらわからなかったのに、騒いでいたと書いてあります。 群衆心理に駆られて無責任な行動に走るのもまた罪の性質の現われであります。こうして2時間ばかり、「偉大なのは、エペソ人のアルテミスだ。」と大声を張り上げたこの群衆。 ついに町の書記役が来て、この群衆を押し静めて、「あなたがたのやっているのは騒擾罪にあたる。パウロの一行は、何もこの神殿を汚したり、女神をそしったりしてはいないのだ。あなたがたはこれを続けると責任を問われることになる。」と言って、厳しく制止したと書いています。非常に冷静で理性的な説得が印象的であります。 最後にガラテヤ人への手紙の5章です。ちょっと読んで終わりましょうか。 ガラテヤ人への手紙5:16-26
そこまでで終わりましょうか。 |