引用聖句:使徒の働き20章17節-36節
今日は読んでいただきましたけれども、使徒の働きの20章1節から38節までを見て行きたいと思います。 前回学びましたように、パウロはエペソに約3年滞在し、そこを拠点としてアジヤ州全体にくまなく福音を伝えたのでしたけれども、アルテミス神殿の模型を作って商売する、銀細工人のかしらデメテリオの扇動によって起こされた暴動をきっかけとして、潮時とみたのか、エペソを去ってマケドニヤへ向かいます。 どこからがヨーロッパなのかということは難しい線引きだろうと思いますけれども、やっぱりこのボスポラス海峡の西側と言いますか、黒海とエーゲ海をほんのわずかな距離で、あのボスポラス海峡というのがあります。そこから西のほうはヨーロッパ大陸にはいるということになるのだろうと思いますが、こちら側は小アジヤになるわけであります。 マケドニヤというのはヨーロッパに属するわけですが、このマケドニヤはアジヤ州の州都であるエペソからは、エーゲ海を北西のほうにだいたい4、5百キロ渡った対岸にあります。 パウロはこのエーゲ海を第二次伝道旅行のときにすでに往復していますから、今回は3回目の横断ということになります。 エペソから、当時の定期航路に沿ってトロアスへ北上し、そこからエーゲ海を渡って、マケドニヤのネアポリスに到着し、それからピリピ、アムピポリス、アポロニヤ、テサロニケ、ベレヤを通って、アカヤ州、すなわちギリシヤにはいって、アテネ、さらにコリントに達していることが聖書地図からわかります。 以前にも少し触れましたけれども、パウロの働きにとってはアテネは実りのない場所だったようで、ギリシヤに来たものの、ただ3か月を過ごしたと記されているだけで、そこで何があったのか、どのような福音の働きがなされたのか全く述べられておりません。 使徒の働き20:1-3
こういうふうに書いています。通過した都市の名前すら全く記されていないのであります。記録に値することは何も無かったということでしょうか。 彼は第二次伝道旅行のときに起こされた、各地の教会の状況を確認しながら、足早にマケドニヤとアカヤの地を一巡したようであります。そして五旬節までにエルサレムに到着しようと、このギリシヤからシリヤに向けて船出しようとしていたと、今ありました。 シリヤというのは、当時はユダヤもシリヤの中に含まれておりました。ですからシリヤと言っても、これはユダヤの地、エルサレムですね、そこから彼はアンテオケに戻って行くわけですから、ペンテコステまで、五旬節の頃までにエルサレムに居たいと思って、急いでいたようであります。 コリントは港町で商業都市なのですが、ちょうど東京に横浜がくっついているように、コリントにケンクレヤという町がくっついていて、14、5キロ離れたところにケンクレヤという町があって、船便はここを起点としていたようであります。 第二次伝道旅行の帰途にパウロが、ケンクレヤで髪をそったと書いてありましたね。なぜそったのかよくわからないのですけれども、ある誓願を立てて、ケンクレヤの町で髪をそったと書いてありました。 パウロはコリントのすぐ隣の、このケンクレヤという船便がここから起点として、あちらこちらに船が通っている。そこで自分に対するユダヤ人の陰謀があることがわかったので、シリヤへ向けて船出する計画を中止し、元来た道を戻って、マケドニヤへと北上して、ピリピに達するのであります。 あの美しいピリピ人への手紙で知られているピリピ。あの紫布の商人、ヨーロッパ最初のクリスチャンの姉妹となったルデヤとその家族のいる町ピリピ。私たちクリスチャンにとっては非常に心地よい響きがする地名ですよね。パウロはこのピリピに到達いたします。 このピリピ滞在の時期はいつ頃かということは、その6節を見るとわかるのですけれども、4節からちょっとお読みします。 使徒の働き20:4-6
こう書いてあります。この記事が書かれている時期というのは、種なしパンの祝いが過ぎてから、と書いていますから、種なしパンというのは、イエス様が十字架につけられた過越の祭りのことであります。ですから春分の日の直後、今年ならば3月26日。これがイエス様が十字架につけられた、翌日の過越の祭り、土曜日になります。 ですからこの以降、ですから3月の末から4月の初めということになります。航海にとっては、まだまだ厳しい季節であります。航海は5月の初めまでは危険であるとされていたと言いますから、まだ航海にはふさわしい時期ではなかったわけであります。 パウロのこの旅行に同行していた兄弟たちは10人前後いたようで、そのうち、パウロやルカたち以外の兄弟たち、今お読みした、ソバテロ、アリスタルコ、セクンド、ガイオ、テモテ、テキコ、トロピモ。これは7人ですが、彼らは先回りしてエーゲ海を渡ってトロアスに着いて、パウロたちの来るのを待っていたと書いてあります。 プロの子であるベレヤ人ソバテロと書いています。プロの子というのはだれかわかりませんが、おそらく当時のクリスチャンたちにはプロというのがだれかがわかっていたのでしょう。 プロの子。ああ、あの人の子か。というふうにおそらくわかっていたのだろうと思います。何の説明もなしに、こう書かれているからです。 この7人の兄弟たちは、エルサレムの貧しい聖徒たちのために贈り物をパウロに託した、諸教会の代表であるというふうに、大きな聖書の注には出ております。 こうしてパウロやルカの本隊はピリピから船出し、5日かかってトロアスに到着し、そこで7日間滞在したということが、この6節でわかるのです。 7節から12節に、トロアスで起こったエピソードが記されています。ちょっとお読みします。 使徒の働き20:7-12
非常に面白い記事であります。日曜日の聖日礼拝がもたれたと言うのですけれども、何時ごろからもたれたのでしょうか。 今日私たちが普通もっているように、午前中から聖日礼拝というのはもたれたのでしょうか。あるいは午後、あるいは夕方からもたれたのでしょうか。この当時は夜にもたれたのかもしれません。 最後の晩餐に倣って、夜に集まったのではないかと思います。そうでなければ、夜中までこの交わりと言いますか、おもにパウロが別れを惜しんで、寸暇を惜しんでと言いますか、寸刻惜しんで兄弟たちと語り合っているということなのですけれども、朝からではおそらくないと思います。 この当時のパン裂きとは、ともに食事をすることも含んでいたようであります。単に私たちが聖餐式でパンを少しちぎって、ぶどう酒といっしょに食するという形式的なものではなかったようです。 愛餐という言葉をクリスチャンはよく使いますけれども、クリスチャンたちにとってともに食事をすることは、非常に大切にされた、意味のあることだったということだったということが聖書を通してわかります。 食事とは単に、空腹を満たすためというのではなくて、交わりの重要な手段であったし、今も本当はそうだろうと思います。 私たち日本人にはそういう習慣が無いものですから、食事を取るというのは何か非常にこう、全くの個人的なことのように考えて、日頃食事をしていますけれども、聖書を見ると、食事というのはどうもそういうものではないらしいですね。 私たちはこのキリスト集会に来てから、しょっちゅう多くの兄弟姉妹とともに食事をするということを経験するようになりました。そしてそのことを通して、得ているものは非常に多いのではないかと思うのです。 食事というのは単に食欲を満たすというだけではなくて、交わりを通して、クリスチャンのともなる愛餐というのは、霊的にも満たされていくという、どうもそういう意味を確実にもっているようであります。 クリスチャン信仰の伝統のない私たちの国には、こういうことが非常に欠けているのではないでしょうか。欧米の人々には、それが伝統として受け継がれているのだと思います。 ガツガツとただお腹を満たせばいいというのではなくて、ともに祈りをもって初めて、信仰の交わりのうちに食事をともにする。そのことによって本当に霊肉ともに満たされていく。 私なんかは集会に来て、ベック兄姉が事あるごとに食事をともにしてくださる。結婚式があり、色んな記念会がある。その度に一緒に食事をします。 それが最近は当たり前のようになっていますけれども、これは考えてみますと、やはり非常に大切なものであった。かつて私たちが知らないものであったと思います。 パンを裂いて食べた。というふうに書いていますけれども、これは食事をも意味しているようであります。ともかく翌日出発予定のパウロは、ともに聖日の礼拝をし、そのあと食事をしながら時を惜しむかのように人々と語り合い、その話し合いは延々と夜中まで続いたのであります。 ところが、窓辺に座っていたユテコという青年が、パウロの話が長く続くので、と書いています。とうとう眠り込んで、3階から落ちて死んだというのであります。 私はこの記事を読む度におかしくなってきます。そしてわれわれメッセンジャーの兄弟たちは大いに慰められます。 あのパウロ、新約聖書の半分を書き、第三の天まで引き上げられた経験をもつとかいう、大使徒の話でも、聞いている人があまり長いと眠り込んで、3階から落ちたという、これは実に吹き出しそうな話であります。 もちろんこの話がユーモラスで、私たち兄弟へのちょっとした慰めでもあるなというのは、この青年が生き返ったからであります。 使徒の働き20:10
そういうふうに書いています。しかし医者であるルカは、もう死んでいたと書いてあるのです。9節の終わりのほうに。 使徒の働き20:9
おそらくルカが抱き起こしたのでしょう。お医者さんなのですから。ギリシヤ人医者のルカが、もう死んでいると記しているのであります。 パウロは、「まだいのちがあります。」と言って、抱き起こした。事実はルカの判断どおりなのでしょう。ただパウロは奇蹟を奇蹟としなかったといいますから。そういう感じがするのです。 「心配することはない。まだいのちがあります。」こういうようなことを言っていますが、パウロが死人を生き返らせたという、そういうこれは事実、奇蹟として聖書は記しているのですけれども、それがひとり歩きしないようにと言いますか、そういう配慮がパウロにやっぱりあったのではないかなという気がいたします。12節に、 使徒の働き20:12
と、ここにもこう書いてあるからです。 ところで私はこの記事を読む度に、いつも思い出すことがあります。それはもう30年近く前だったと思いますけれども、当時親しかった、ある若い兄弟がこの個所について学んでくれたことがあります。 彼はこのユテコという青年が3階から落ちたことについて、それは彼が窓際の台に座っていたからだと言うのであります。 聖書はそう書いてあるのですから。部屋の真ん中近くに座っていれば、このような事故に遭うことはなかったと。これと同じように、私たちは信仰と交わりの真ん中を歩まなければならない。端っこではならないとその兄弟はこう学んだのであります。 これは私にとっては非常にこう、心に刻まれた学びでありました。 もちろん人いっぱいいたものですから、ユテコは若くて、端っこのほうに座っていたのだと思いますけれども、私たちは信仰と交わりの真ん中に身を置いておかなければならないと、その兄弟はここを説き明かしたわけであります。 何事でもそうですが、斜に構えているといつか必ず墜落するものであります。脱落するものです。 心の真ん中で物事を受け取るということは非常に大切ですけれども、なかなか難しいことです。いつも心の真ん中で物事を受け取る人というのは、やっぱりそれこそすばらしい人だと思いますけれど、私たちは斜めに見ようとしたり、どうも真っ直ぐに向き合おうとしないということが多いのではないでしょうか。 信仰はいつでも真っ直ぐに真ん中を歩む。これは忘れがたい学びでした。 13節からはちょっとまたお読みします。 使徒の働き20:13-16
と旅路を急いでいたのである。 さっきも言ったように、トロアスというのは繰り返し出て来る町の名前です。パウロが最初にトロアスで夢を見たのでしたよね。マケドニヤの人が、男が私のところに来て、私たちを救ってほしいと言う夢を見た。 それをパウロは主の自分に対する啓示として受け取って、このエーゲ海を渡るつもりは全くなかったのに、このトロアスからエーゲ海を渡って、ピリピの町に行ったと聖書は書いていましたね。 このトロアスというところは、今言ったように、小アジヤからヨーロッパ大陸のほうに渡るときの中継地のようであります。 このトロアスという港町から南のほうに下って来ると、アソスという港があります。4、50キロぐらいのようでありますが。なぜかパウロはルカたちから別れて、一人陸路をとったと言うのです。 トロアスから船に乗ることをやめて、彼はアソスまでの陸路、4、50キロを陸路をとって一人で行ったと書いてあります。 かつてベック兄がこの箇所について、パウロはあまりにも多忙であったために、どうしても主の前に一人静まる時間を持ちたかったのではないかと語られたことがあります。 押し寄せてくるような教会の問題の中で多忙をきわめて、自分自身が霊的に枯渇しそうになる危険を感じたのでは。ということであります。 イエス様もよく一人山に退いて、一晩中御父に祈られたと福音書は何回かふれていますけれども。パウロはこのときに一人でこの4、50キロの陸路を辿り、その間、静まりたかったのではないかというベック兄の学びでした。それを聞きながら、ベック兄も多忙なのだなと、私は、おそらく一人になりたいのだなという思いをしたのであります。 こうしてアソスでルカたちはパウロと落ち合い、ミテレネからサモスを経由してミレトという町まで下るのです。これはエペソを通り過ぎて、エペソの南の60キロの港町と記されています。 ミレトという町はアジヤ州において、エペソに次いで繁栄していた町だったそうですが、パウロはエペソに下船しないで、それを越えてミレトまで行ったのであります。 それはエペソに寄って、そこで時間を取られたくなかったからだとそこに書いてあります。ここでも理由は述べられておりません。パウロはエルサレムへと急いでいたのです。ともかく理由が説明されていない行動が多々あります。 こうしてパウロはミレトからエペソの教会へ使いを送って、教会の長老たちを呼び、そこで先ほど読んでいただいた惜別の辞と言いますか、感動的な今生の別れと言いますか、それをここで告げているのです。 17節以降が先ほど読んでいただいたところです。これはパウロの遺言なのですけれども、その内容は幾つかに分けることができると思います。 最初のほうは、パウロがアジヤにおいて今までにやってきたこと。彼らとともに3年間、自分が何をやってきたかということをパウロはこのエペソの長老たちに告げております。 そしてその次は、彼がこれからエルサレムに上り、そこで直面すると御霊が自分に告げていることについて、そしてそれについてのパウロの決心について。 そしてさらには、長老たちへの訓戒であり、最後の個所は長老たちに見習ってほしいと願うパウロ自身の歩みについて。こういうふうに分けることができると思います。もう一回。先ほど読んでいただきましたけれども、17節からちょっとお読みします。 使徒の働き20:17-21
これがパウロが過去3年間、このアジヤにおいてやったことについての言及です。私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、あなたがたはよく知っていると言っているわけです。私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、と書いています。謙遜の限りを尽くした。 何か私たちから言うと、ちょっと自分のことをこういうふうに言うのは言いづらいなというふうに今思いますけれども、パウロは事実は事実として、それが十分なものであったかどうかはともかくとして、ということでしょうね。 もちろん完全なこと、完全な謙遜を示したというような、そのようなことを彼は言っていないわけであります。しかし自分としてはできる限りの努力をして、謙遜であるようにと心掛けてきた。そういう意味ででしょうね。 同じ、このエペソに書いた手紙の中に同じような表現があります。エペソ人への手紙の4章の1節から。この手紙は、この決別の辞がここで述べられた、おそらく何年かあとにローマの獄中から書かれた手紙ですから。 エペソ人への手紙4:1-6
2節に、謙遜と柔和の限りを尽くし、と書いています。 先ほどのところに戻りますと、20章の19節です。主に仕えましたと書いてあります。涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。 主に仕えたとは、主のみこころに従って人たちに、またあなたがたに仕えたという意味です。見えない主に仕えるとは、みこころに従って人に仕えるということでありますから、謙遜の限りを尽くし、涙をもって、私はまだ主を知らない多くの人々と、また、すでに主を知っているあなたがたに仕えた。こう言っているわけであります。 それは具体的には神への悔い改めと、主イエスへの信仰による救いを真っ直ぐに伝え、必要だと思うときには何の躊躇もなしに兄弟姉妹たちを教え、戒め、また信仰生活を正しく歩むように物心両面に亘ってできるだけのサポートをしたという意味だろうと思います。 34節のところに、こう書いてあります。 使徒の働き20:34
パウロは単なるメッセンジャーではなかったのです。彼は天幕織りの仕事を持っているわけですから。暇があると天幕を織って、自分の生活を糧を得、それでさらに余るのは必要としている兄弟姉妹のサポートとして用いていたということがわかります。 パウロはそういうふうな伝道の生涯、信仰の生涯を走り抜いた人でした。おそらく、与えるばかりの人だったのではないでしょうか。 22節から27節までは、パウロがエルサレムへと急かされている理由を語っていますが、具体的にはどのようなことが自分に起こるかわからないと言っております。 使徒の働き20:22-23
なわめ、捕縛されて、縛られて連行されるというなわめと苦しみが投獄、あるいは鞭打ちというような、そういうことが自分を待っているということは確かである。この旅路の町々で聖霊がはっきりとこれらのことを自分に告げていると言っているわけであります。 しかしそれがどういうことなのか、具体的にはわからないと言っているのです。 使徒の働き20:24-27
パウロは自分の信仰生涯の総仕上げが迫って来ているのを感じて、ちょうどホームストレッチを前にしてラストスパートにはいるマラソンランナーのような、そういう心境だったのではないかと思います。 どんなものでもひとつひとつのステージというものは、その人の歩みに応じて備えられるものだと思います。パウロにはパウロにふさわしいフィナーレが用意され、彼はそれに向かってラストスパートをかけようとしているわけであります。 私たちがどういうふうに日々歩んでいるか。その歩みに応じて私たちの総仕上げと言いますか、それが用意されてくるのだろと思うのです。 パウロは自分の信仰の生涯の最後が、苦難であり、殉教の死であるということをはっきり段々わかってきているわけです。 しかし、それにも関わらず、彼は、彼の歩みはそこまで一歩一歩積み上げられてきたものですから、彼ははっきりそこに目を留めて、最後のゴールインをする用意をしているということだと思います。 ベック兄が「実を結ぶいのち」のドイツ語版ですか、姉妹からちょっと見せてもらったのですけれども、その表題のところに、ちょうどホームストレッチを前にしたマラソンランナーのように、長距離ランナーのようにという、そういう確か副題みたいなものがついていたと思います。長い信仰の総仕上げがそこに迫ってきている。彼はそれに向かって全力を上げて近づいて行くわけであります。 自分に何の後悔もないとここで言っています。人々の受けるさばきにについて責任がない。自分は走るべき行程を走って来たのだ。こう、彼は言っているわけであります。 ピリピ人への手紙3:13-14
テモテへの手紙第II、4:6-8
文字通りこのテモテへの手紙第II、彼の遺言書と言われているこの最後の手紙の中で、いよいよその時が来たと言っております。 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した。マラソンランナーにパウロは何度も例えているのです。 私たちの信仰というのは長距離ランナーのレースみたいなものだと言うのです。途中で辛くなって横道に逸れようとしたり、色々あるけれども、その度に真っ直ぐに走り通さなければいけない。ルールどおりに走らなければいけない。完走しなければいけない。パウロはそう、私たちに励ましております。 使徒の働き20:28-32
(テープ A面 → B面) ・・・者として、交わりをきよく保つように。主の教会をきよく保つように、あなたがたはそのために立てられているのだからと彼は言っています。 そのためには自分自身に深く気を配って、肉の思いをもって兄弟姉妹たちを支配しようとすることがないように注意しなさい。と、こう言っているわけでしょう。 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。こう言っています。 色んな信仰的なことのような装いをして、霊的な装いをしているかのようにしながら、その実は兄弟姉妹たちを自分の支配のもとに引き込もうとする。そういうことが起こるだろう。だから気をつけなさい。 パウロはここで非常に重要な注意をしているわけです。兄弟姉妹は主によって贖われた者であり、主のものであります。その兄弟姉妹を人がいかなる意味においても支配してはならないのであります。 それは非常に主の御前における重大な違反なのです。しかし教会というのはいつの時代も外部からの攻撃に対して戦うよりも、内側の愚かな肉の支配欲に駆られた人々との戦いに無駄なエネルギーを費やしてきたのではないかと思います。 主はご自身の教会をきよめられると聖書が語っているように、大切なことは本当に主がご支配なさらなければいけないということです。 御霊が中心にいらっしゃらなければいけない。御霊が支配しておられなければいけない。私たちの交わりの中心には常に主の聖霊のご支配がなければならないということであります。 パウロは散々こういう教会を見てきたから。また、悪魔がどんなに巧妙で、執拗なものであるかということをよく知っていたから、彼はこの長老たちに、目をさましていなさい。 使徒の働き20:31
と、まるで懇願しているわけであります。 使徒の働き20:32
この当時のみことばというのは、イエス様のことばとして語り告げられていたみことばが中心でしょう。もちろん旧約聖書もあったでしょうけれども、イエス様はこういうふうにおっしゃった。そういうことが口コミで人たちから伝えられて、多くの兄弟姉妹の間に行き渡っていたのでしょうから。 主のみことばに、イエス様が語ってくださったそのみことばにあなたがたをゆだねると彼は言っているわけであります。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々、罪から救い出され、きよめられた人たちとともに御国を継がせることができると言っています。 パウロはもうここにいないのですから。主の生けるみことばにあなたがたをゆだねる。こう言っているわけであります。 使徒の働き20:33-35
この最後の結びのことばは、私が主イエスに倣って歩んだように、あなたがたは私をひとつの生きた見本として歩んでほしい。あなたがたは3年間も私と信仰生活をともにし、私がどのように振舞ったかをよく見ているのだからと、こういう意味でしょう。 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはない。パウロはそう言っています。そして先ほど言ったように、私は、この両手は、自分といっしょにいる人々のためにも、働いて来た。こう言っているわけです。 パウロは人の評判だとか、この世に金銀だとか、そういうものに心を全く向けていませんでした。彼はそれらを別に求めようとは思っていなかったわけです。パウロの求めていたものは、この地上のものではありませんでした。 何らかの下心をもって彼は福音を伝えるということは一切やりませんでした。主の前に、自分の心をご存知の主の前に私は福音を伝えるのだと彼は言っていました。 もし私が人々に取り入ろうとするならば、私はキリストのしもべではないと彼は言っていました。彼はそういうふうに歩んだ人でありました。 パウロはここで大胆に言うと、私を信仰の模範にしてくださいと言っているわけです。これもまた私たち日本人からすると、ちょっとよくまた言うなというふうに思うかもしれませんけれども、それは違うのです。テモテへの手紙第Iの1章の13節。パウロが書いたこの手紙の中で、彼はこう書いています。 テモテへの手紙第I、1:13-17
最後はこの賛美。頌栄で終わっていますけれど、この今読んだ個所の16節のほうに、 テモテへの手紙第I、1:16
この口語訳聖書の訳では、永遠のいのちを得ようとしている人々の模範にしようと、と訳しています。模範にしようと。です。 おそらく両方訳せるはずです。だけどパウロは模範とまで自分を思わなかったのでしょう。おそらく。ですから見本というふうに訳し変えているわけであります。 私のような者の、あの荒れ狂って、迫害者となって、多くのクリスチャンの殉教の死に責任を負っている私のような者も、イエス様の救いにあずかって、このようにあわれんでいただいたのです。 イエス・キリストを信じて生きるという信仰はこういうものなのです。これほど恵みに満ちたものなのです。あらゆるものに勝ち得て余りあるものなのです。そういうことを、私は身を持って現わさなければならないのだ。これがパウロが救われたときの彼の自覚だったのです。 だからイエス・キリストを信じて生きる信仰とはこういうものだ。どうぞ私を見てください。私を通して働いておられる全能の主をどうか見てください。私に何か不足したことがありましたか。この世が私に打ち勝つことができましたか。彼はそういうことを書いているわけでしょう。 コリント人への手紙第IIの6章の1節からちょっとお読みしましょうか。パウロの雄叫びみたいなことがここに書かれてあります。 コリント人への手紙第II、6:1-10
すごいですよね。パウロこそが王者ではありませんか。これを読むとそう思います。彼こそが真の王者ですよ。 何も持たないようでも、すべてのものを持っている。と彼は言っています。それがイエス・キリストを信ずることなのだと言っているわけであります。 ピリピ人への手紙の3章の中で、彼は・・・ ピリピ人への手紙3:17
パウロは謙遜の限りを尽くして、こう懇願しているわけでしょう。 私を見ならう者になってください。あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。大した自信と言えば自信ですけれども。パウロは主が自分を召してくださったときに、自分の使命は何かということをそのときにすでに知っていたのです。 信仰を真っ直ぐに歩むということはどういうことか。それを通して主がどのようにご自身を現わしてくださるか。それを主を知らない人々に明らかにしていくことが自分の選ばれた使命なのだと自覚していたわけです。ですから、私を見ならう者になってほしいと言っているわけです。 いつも申し上げますように、信仰というのは本で読んでわからないのです。世の中のものはだいたいそうです。本を読んだぐらいではわからないのです。 実際にその人について見て、その人の生活を通して見て、実際にやっているのを見て、見様見まねをしながら、よくその人を知って、その人の内にあるものを学んでいかなければいけないでしょう。 だから教会というのは必要なのです。聖書だけあればいいとか、信仰書と聖書だけあればいいというのではないのです。 優れた信仰というものを受け継いで来た人々の信仰を通して、私たちはこういうふうに歩むものだということを知るわけであります。信仰とはこれほどに厳しいものであり、これほどにまた恵みに満ちたものであり、これほどに豊かなものであるということを知るわけでしょう。 パウロは、あなたがたは私と3年間いっしょに生活をしたのだから。私がどのように主に従ったか。私の振る舞いを見たのだから。それに倣ってほしいと最後に言っているわけであります。 今年の新年礼拝のメッセージでベック兄は、御代田の、あの集会で、このパウロの今お読みした、惜別の辞を取り上げられました。これをテレビ中継で聴かれたある年配の兄弟は私に、まるでベック兄の遺言のように感じながら拝聴いたしましたと申されました。ここのところのベック兄のメッセージは、すべてベック兄の遺言なのだろうなと思いながら実は私は聴いております。 なかなか姉妹方のように毎週、毎週はベック兄のメッセージを聴く機会はなくて、何ヶ月かに一度ですけれど、心して心に刻まなければいけないと思いながらお聴きしているわけであります。 使徒の働きの20章。最後のところを読んで終わりましょう。 使徒の働きの20:36-38
こうしてパウロはエルサレムへ向けて地中海を越えていくわけであります。 今日はそこまでで終わりましょう。 |