引用聖句:使徒の働き21章31節-40節
前回は、第三次伝道旅行から帰ってエルサレムに到着したパウロが、イエス様の実の弟であり、エルサレム教会の中心的存在であったヤコブを訪問し、そこでエルサレム教会の長老たち一同と会ったと書いてありました。 イエス様の肉の弟、マリヤが産んだ子ども、息子がここで出て来るヤコブなのですけれども、このヤコブは「長老ヤコブ」というふうに呼ばれたそうであります。 イエス様の12使徒の中にもう一人ヤコブという人がいました。これは「使徒ヤコブ」と呼ばれておりました。あのヨハネの福音書とかヨハネの手紙、それからヨハネの黙示録などを書いたあのヨハネの兄弟がヤコブです。 12使徒の中で最初に殉教の死を遂げた人が、この使徒ヤコブであります。パウロがこの21章の18節でしたか、そこで、 使徒の働き21:18
と書いていますが、これはいわゆる「長老ヤコブ」、イエス様の弟のヤコブであります。 そこに訪ねたときに、このエルサレムの教会の長老たちは待ち受けていたかのように、パウロにあることを懇請したわけであります。 すなわち、パウロが律法を無視している人であるかのように誤解されているから、あなたが決してそうではないということ、モーセの律法を大切に守っている人であるということを証明するために、ユダヤ人の中から回心したクリスチャンの兄弟たちといっしょに、神殿でナジル人の誓願を立ててくれるように。そしてその誓願の期間、7日間が終わったときに彼らが髪を剃る、その費用を出してくれるように、そういうふうにお願いをしたと書いてありました。 ちょうどその誓願の期間が終わる7日目にユダヤ人たちによってパウロが襲われたのであります。 そこがこの前、30節まで見たところでしたけれども、先回もお話したことですが、ユダヤ教の律法を、モーセの律法とイエス・キリストを信ずる信仰との関係を巡る対立はイエス様の時代からユダヤ教との間に熾烈な対立抗争を引き起こし続けました。 イエス様が十字架に追い詰められていった最大の理由は、結局イエス様の福音とユダヤ人のいわゆる律法の対立であったということ。さらにパウロも終生この問題で苦しめられていたわけであります。 単にイエス様やパウロだけでなく、今日までの2,000年近いキリスト教の歴史においても、繰り返し繰り返しこの問題はむしかえされて来ました。 五世紀半ばの、あのアウグストゥスとペラギウスとの大論争も有名であります。信仰による救いなのか、律法が必要なのか。この問題は繰り返し繰り返し出て来るわけです。 しかしながら聖書をよく読めば、この問題についての答えは極めて明瞭であって、議論の余地は全くないということがわかります。 イエス様も仰ったようにモーセの律法というのは、神様のみこころの啓示でありますから、真理そのものであります。それは決して無視されるべきものではないのであります。それは成就されるべきものであります。 マタイの福音書の5章。先週もこの問題を言及したと思いますけれども、もう一回マタイの福音書の5章17節から見てください。 マタイの福音書5:17-20
この20節で語られているように、天国にはいることのできる義は、パリサイ人や律法学者の義にまさるものでなければならないとイエス様はここで仰っているわけであります。 天地が滅びるよりも律法の一点一画が滅びるのが早いのだと、天地の滅びるほうが先なのだとおっしゃいました。決してイエス様は律法を否定するために来られたわけではないのであります。 ローマ人への手紙3:28-31
信仰によって、神のみこころである律法は確立されていくのだとイエス様もパウロも言っているわけなのです。 もし律法主義者やパリサイ人たちのように、律法を守ることによって救われるかどうかが決定されるならば、律法がどの程度守られれば合格なのかという基準を巡って、実に大変な厄介な問題が生ずるはずであります。 救いを本気に求めている人間ならば、この問題で気がおかしくなるほどに悩むのではないでしょうか。かつてのあのルターのようにです。 いったい律法を守ることによって、本当に私は義と認められるのだろうか。この程度でいいのだろうか。その律法を守る程度というのは、おそらく人が真剣にこの問題を考えれば考えるほど、確信は持てないのではないかと思います。 この程度でいいのだとか、勝手に律法を守る基準を自分たちで設けてそれで安心する。そういうようなことはルターにはできなかったわけであります。 神の前で、いったい本当に律法をどの程度守ることによって人はよしと認められるか。いったいだれがどの程度で合格と判定してくれるのだろうか。かつての律法学者やパリサイ人、あるいは現代の司祭や牧師さんたちがその判定者なのでしょうか。その人々の判定は本当に正しいと確信してもよいのでしょうか。 あるいはまた、救われているかどうかは、人が死んで神の前に出るまでは知ることのできないものなのでしょうか。もしそうであれば人は宙ぶらりんのまま、一生不安の中で生きなければならなくなります。 このように律法主義からは迷路に入ったような解決不可能な問題が生じてまいります。 そこには決して救いの確信などというものは見いだせなくなってきます。 この世において、自分の救いに確信が持てなければ人は一生宙ぶらりんのままです。死んでみなければわからないのであれば、これは大変なことであります。ルターはそういうことには安んずることはできなかったのです。パウロもそうであります。 本当に間違いない救いの確信というものを、聖書は私たちに与えることができると言っているのですけれども、律法主義というのは、どこまで行っても私たちに確信を与えることのできないものであります。 キリストの福音というのはこの律法主義とは全く方向が逆なのであります。人間の考えることとは反対なのであります。 私のかつての信仰の先輩がイエス様を信じて救われた経験を、「自分にとってこの救いというのは天地がひっくり返るような思いがした。」と仰ったことがあります。 全てがあべこべである。逆転する。イエス様との出会いを通して、自分の考えは逆さまだったのだと気付かされること。自分が真理を理解し、つかまえようとするのではなくて、私たちが神様によってすべて知られているということに気付かされること。 自分がつかまえるのではなくて、神様によって自分がつかまれているということに気付くこと。 私が、私がと、私が中心である限り、人は絶対に揺るがない確信と本当の意味での平安というものを見いだすことはできないのであります。律法主義というのはあくまでも私中心であります。私がどれだけ律法を守ることができたか。 そういうことが問題になってきますから、これは本当にこのことを追究していくと、人はイエス様が仰ったように、偽善に陥るか、適当にごまかしてしまうか、確信も無いのに確かなことであるかのように人々に偽って、そういうことを言うようになるのか。 結局本当の確信、安心。これでいいのだという本当の意味での揺るがない土台というものに立つことはできないのです。 イエス様との出会いを通して人は全く逆転させられていきます。考え方が反対だと気付かされていきます。 私が中心ではなくて、主ご自身こそが中心なのだ。私は主の御手の中に消えるべき者なのだ。主がすべてのすべてとなるべきなのだ。そういうことに気が付くようになって初めて私たちはここに真理があるということを気付くようになるはずであります。 ローマ人への手紙3:21-26
律法とは別に、しかし、律法と預言者によって旧約聖書を通して証しされた神の義が、信仰による神の義が示されたのだと言っています。 ガラテヤ人への手紙2:16
人は行ないによってではなく、ただ信仰によって義と認められる。神に受け入れられ、神の子とされるのだ。これが聖書の一貫して言っていることです。 このような、ただ信仰による義と救いについて人は、何と安易な救いだろうか。何と楽な救いの方法だろうかと言うかもしれません。しかしある意味においてはそうかもしれませんが、他の意味においてはとんでもない誤解であります。 イエス様がその信仰による救いについて何と言っておられるかを知れば、あまりの厳しさに人は恐れ驚かれるのではないでしょうか。 ルカの福音書14:25-27
自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることはできないと仰っています。これ以上の要求は無いわけであります。 マルコの福音書8:34-35
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うと仰っています。 私の先輩がかつて私に向かって、「それは、君は信仰で生きているのだから、楽に違いない。俺は信仰ではなく、自分で生きているのだ。」というような意味のことをちょっと漏らしたことがあります。「君は信仰で生きているから、だから楽だろう。」それは確かに一面においてはそうです。 しかし、日々自分を主に明け渡すということは、そんなに簡単なことではありません。いや、人間自身の力では不可能なほどに困難なことであり、身を切られるように、それはつらいことであるに違いありません。 自分自身に死んで、キリストのうちに復活することこそがまことの救いであり、信仰によって義と認められるということの意味であります。 滅ぶべき自分にとどまることはもはやできないから、自分をキリストとともに十字架につけて、キリストとともによみがえりのいのちにあずかるのであります。 そのことを信仰による義と言っております。自分はしっかり保持したまま、自分というものはしっかり握ったまま、律法のこのことを守り、この掟を守る。この言いつけを守るということとは全然違うことでしょう。 この自分なるものを根本的に否定するように。キリストとともに十字架につけるように。全く新しいイエス・キリストのいのちによって生きるように。いのちの入れ替えを言っているわけです。聖書が言っていることは。 聖書はイエス様が仰っている、そのことを本当の意味で私たちが気付くようになって初めて私たちは本当の意味での揺るがない確信と深いたましいの安らぎと言いますか、安心というものを見いだすわけです。 そうでなくて、律法主義的なものが残っている限り、人は常にあれも足りない、これも足りないのではないか。これではいったい確かなのだろうか。自分の救いは大丈夫なのだろうかとか、自分の行ないはどうなのだろうかとか、そういうことに常に悩まされなければならなくなってしまうわけであります。聖書はそう言ってないわけであります。 私たちそのものが全否定されなければならないのであります。そしてイエス・キリストご自身が私たちのうちに迎え入れられなければならないのであります。キリストのご支配を私たちは受け入れなければならないのであります。 パウロが言っているように、イエス・キリストの奴隷という立場、これこそが実はクリスチャン信仰に生きるということであります。 「どうですか。あなたはこれを受け入れますか。」と言うと、人は容易にこれを受け入れようとは仰いません。必死になって拒絶なさるでしょう。 何か部分的なことを与えてもらうというのでしたら、喜んで来るかもしれません。多くの群衆はそういうふうにイエス様のあとについて来たのです。当時。何か自分にありがたいもの、自分にとっていいものが貰えるのではないかと思って群衆はイエス様を取り巻いているわけです。 ところがイエス様はその群衆に向かってこう仰っているのです。今の、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 わたしが父のみこころのために自分の全てを捨てて歩んでいるように、あなたがたもまた、わたしのために全てを捨ててごらん。そうすればあなたがたのうちに本当の意味でのいのちが湧き出て来るから。 イエス様はそのことを常に仰っているわけですけれども、人々は自分にとって何が益であるか、自分にとってよいと思われるものをもらいたいと思ってイエス様のところに群がっていくのです。 ガラテヤ人への手紙2:19-20
パウロは律法主義に対して死んだと言っています。 コリント人への手紙第II、5:17
ヨハネの福音書の3章3節。ニコデモにイエス様が仰ったことばが3章の3節にあります。 ヨハネの福音書3:3
問題は新しいいのちであります。そのいのちを自分のものとして受け取ること。このイエス様のいのちにあずかった人であればもはや、律法と信仰との問題に迷わされることは決してないからであります。 あれやこれやの戒めや定め、それを守ることが信仰生活なのではない。そうではなくて、古き自分を主に明け渡して、キリストのいのちによってキリストとともに生きる者となること。これこそが本当の救いなのだ。神によって義と認められ、受け入れられるということの意味なのだ。 このことを経験するようになれば、人はもう迷いません。ここに真理があるという確信を持つようになるからです。それは今まで私たちが想像したこともないようなものだからであります。 ややこしい議論をする聖書学者や神学者は、いつの世にもクリスチャンの中に紛れ込んでいますけれども、そういう人たちはまことの悔い改めと新生の経験がないばっかりに有害無益な議論を繰り返しているのであります。 それがどんなに神の御前で責任を問われるべきことか。そういうことに気が付かないで、勝手な自分の考えを本当であるかのように述べるのであります。 イエス様はこのことをかつて律法学者やパリサイ人の義と呼んで、「これによっては天国にはいることはできない。それどころか災いである。偽善の律法学者やパリサイ人たち。あなたがたは災いである。」と仰ったのであります。 救いを知る者は主を恐れることを知っています。救いを知らない人は主を恐れません。主を恐れる人は自分勝手な無責任なことを言わないものであります。 いつものように学びの冒頭でちょっと脱線をいたしましたけれども、先ほどの使徒の働きの21章のテーマに戻りますと、パウロは頑迷この上ないユダヤ人たちによって襲われ、捕えられ、宮の外へ引きずり出されました。21章の30節にそう書いてありました。 使徒の働き21:30
危うくリンチで殺されそうになったとき、その知らせを受けてローマ軍の千人隊長が兵士を連れて駆けつけて来たとあります。 使徒の働き21:31-32
パウロがこのナジル人の誓願を立てて、この聖めの期間こもっていた神殿の北西部の壁の外側にローマ軍の駐屯地であるアントニヤ要塞というのがあったようであります。そこから緊急出動したのであります。 千人隊長は、初めは事情がわからなかったために、パウロをこの騒動を引き起こした容疑者と見て、二本の鎖で縛って、その場で取り調べようとしたのですけれども、ユダヤ人たちが殺気立っていて調べられないものですから、パウロを兵営へ連れて行くように兵士たちに命じたと書いてあります。 ユダヤ人たちは群衆心理によって、もう何が原因だったかもわからないままに熱狂して、パウロを殺せと叫んでいたと書いてあります。神殿の外側の兵営に通ずる門を出ようとしたときに、パウロは千人隊長に話しかけるわけであります。 使徒の働き21:37-38
と書いてあります。エジプト人の偽預言者による反乱は、紀元54年に起こったということが歴史家ヨセフスによって古代ユダヤ史でしょうか、その歴史書に記されているそうであります。 西暦54年、この事件が起こってまだ間が無かったのでしょうから、このパウロが今、ユダヤ人たちによって襲われている、この事件はその少しあと、たぶん西暦58年か9年ごろに起こったと考えられております。 ちなみにあのネロの自殺が紀元68年であり、パウロの殉教の死はそれよりも少し前の67年かあるいは64年ごろという見方があるそうですけれども。このエルサレムの事件というのは、ですからパウロの死の数年前に起こったということになります。この事件によってパウロはローマに囚人として護送され、そしてあの皇帝ネロと対面する機会を持つようになるわけであります。 このように見ますと、このエルサレムの神殿での事件は、それ自体としてはあまり意味がなく、ただパウロがこれをきっかけとして念願のローマ行きの機会を得るようになった、そのきっかけを与えたということにすぎないのではないかと思われます。 なぜパウロはあれだけ多くの兄弟姉妹たちが泣いて止めるのも聞かずに、エルサレムに上って行ったのか。これはわからないということはこの前から申しておりますけれども、その理由はいったい何なのかわかりません。 21章の最初のところで、彼らがカイザリヤに着いたときに、そこにアガボという預言者がユダヤから下って来て、パウロに、エルサレムに上って行かないように。あなたはこのように手足を縛られて、異邦人の手に渡される。すなわちローマ人の手に渡されると聖霊がお告げになっているからと言って、引き止めたと書いてあります。多くの兄弟姉妹たちもエルサレムに上って行かないようにとパウロに必死にお願いをしたと書いてあります。 ところがパウロは頑として聞かなかった。「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。」、こういうふうに彼は聞かなかったのです。 なぜこんなにパウロが一切耳を貸さないで、エルサレム上りを強行したのか。いったいそこに何の意味があったのかということは疑問であります。 以前一度だけ、兄弟たちが何人かでここを学んだことがあって、そのときベック兄が、パウロはこの兄弟たちの言っていることに耳を貸すべきではなかったのかというようなことを仰ったことがあって、私は自分の疑問について、ベックさんがやっぱりこんなことを仰るので、ハッとしたことがあります。 パウロもまた人の子ですから、謙遜に兄弟姉妹たちのこのアドバイスを、聖霊による示しだとアガボが言っているのですから、それについて謙虚に耳を傾けるべきだったのではないだろうか。 あえてそれを拒絶して上るだけの理由があったのだろうか。ちょっと確かにそれはクエスチョンマークと言っていいのではないでしょうか。ただ結果として、彼はこの事件を通して、ローマに護送されていくわけであります。 パウロがローマへ行く機会を待っていたということは、彼の手紙から知られます。ローマ人への手紙の1章の9節からちょっと見てください。ローマにいる兄弟姉妹に向けて彼が、コリントから書いただろうと言われている手紙であります。 ローマ人への手紙1:9-13
ローマに行きたい。あなたがたと会いたい。そういう切なる思いを彼は持っているのだけれども、妨げられて行くことができないのだと言っています。 同じく、 ローマ人への手紙15:22-29
このローマ人への手紙は紀元56年ごろ、コリントから書かれたということですけれども、もうマケドニヤ、ギリシヤ方面には福音を自分が伝えて宣教すべき場所はもうないからイスパニヤ、スペインの方でしょう。そこに行こうとしているわけです。 そしてそこに行く途中にローマに寄りたい。こういうふうに述べているわけであります。 先ほど言いましたように、この使徒の働きの21章は、西暦の58年から59年ごろの出来事です。それよりも2、3年前に彼はコリントにいて、コリントからこのローマ人への手紙を書いているわけであります。 そしてパウロは59年ごろにローマに到着し、その2年後に、すなわち西暦61年ごろにルカがこの使徒の働きを書いたと考えられているそうですが、64年かあるいは67年、パウロは・・・ (テープ A面 → B面) 使徒の働き21:39-40
と言って、22章のパウロの回心についての詳細な説明がなされているのです。 パウロは、どうして自分がイエス様と出会ったかということについての詳細な説明と言いますか、あるいは自分の宣教についての弁明を2回、使徒の働きの中でやっています。 一つは、ちゃんとした議会での証言として、彼がアグリッパ王の前で述べたことが26章に出てきますが、この22章では、ユダヤ人の多くの群衆に向かって、自分を殺そうとしていきり立っているそのユダヤ人たちに向かって、階段の上からその広場に向かって語る。これが22章であります。 彼はあの劇的な、不思議なイエス・キリストとの出会いの経験をここで語っております。間違いなく世界の歴史を大きく変えたパウロの回心がここで彼の口から証言されているのです。 イエス様を除けば、パウロほどに世界の歴史を変えた人間はほかに無いと言って間違いないのではないでしょうか。彼の書き残した、新約聖書中の手紙ほどに多くの人々を絶望から救い出し、真理の発見の喜びへと導いたものは、ほかにないからであります。 彼の手紙は人間の手による最大の書物と呼ばれてきました。それらのことはすべて、あのダマスコ途上でのイエス・キリストとの出会いによって生じたことでありました。 このイエス様との出会いの経験は、パウロ自身にとっても片時も忘れることのできない、あるいは忘れてはならない出来事でした。ですからパウロは繰り返し、繰り返し、このことを確認しております。 ガラテヤ人への手紙の、例えば1章を見てみましょうか。 ガラテヤ人への手紙1:1
パウロは、彼の手紙のほとんどすべてにおいて、こういう書き出しをやっています。彼の書いた手紙は13通残っています。その手紙の最初の一節を読んでみると、ほとんど同じような、こういう表現を彼は使っているのです。 私が勝手に自分の意思で使徒となったのではない。私がイエス・キリストを信ずるようになったのは人の手によったのではない。人を介してでもないと彼はここで言っています。 例えばローマ人への手紙の1章をちょっと見てください。彼の書簡の第一に出て来る1章の1節。 ローマ人への手紙1:1
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたのだと自分のことを自己紹介しているわけでしょう。 神様によって自分はあの迫害者サウロから、クリスチャンの迫害者であった自分が、キリストとの出会いを通して、キリストの福音を運ばなくてはならない者になってしまったのだ。これは私の意思ではないのだと言っているのであります。 コリント人への手紙第Iの1章1節を見てください。 コリント人への手紙第I、1:1
こう書いてあります。神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ。自分のことを常に彼はこういうふうに自己紹介をしているわけであります。 もう一回ガラテヤ人への手紙の1章に返ってみてください。 ガラテヤ人への手紙1:11-24
パウロは今われわれのテキストで、ユダヤ人に襲われ、殴り殺されようとして、八つ裂きにされようとしていますけれども、実はかつて彼がクリスチャンたちに対してやっていたことを彼が今、同胞から受けているわけであります。 ですからパウロは、自分を迫害するユダヤ人たちの気持ちはだれよりもよくわかっている人なのです。同じことをやっていたのですから。 コリント人への手紙第I、15:3-7
これは弟ヤコブです。 コリント人への手紙第I、15:7-10
ここでもまたパウロは、自分のあの主との出会いの時のことについて語っているわけです。よみがえられたキリストが、月足らずで生まれた者と同様な私にも、ご自身を現わしてくださった。 あのダマスコの城門の外側で、ダマスコの町に入るその城門の外で、イエス様が事実私に現われてくださったと彼は言っているわけであります。 パウロにとって、何て言いますか、彼の愚かさの極みにおいて、彼が狂気のように荒れ狂っていた、その一番ひどい状況の中で、主はご自身を現わしてくださったのであります。 人がイエス様と出会う時というのは、一番自分にとってみじめな時です。一番自分が思い出したくない、恥の深みにある時です。キリストとの出会いというのはそういうものです。 ですから私たちは主との出会いを思い起こす度に自分の愚かであったこと、みじめであったこと、盲目であったこと、そういうことを同時に照らし出されてくるのであります。 人は決して自分の得意の絶頂においてキリストと出会うことは在り得ません。自分のみじめさの一番どん底において人は主と出会います。高ぶることが二度とないようにと言いますか、高ぶることを嫌われる主は私たちのみじめさの中にご自身を啓示なさるお方であります。 ですからパウロはイエス様との出会いを思えば思うほど、自分がどんな者であったか。 彼はステパノの殉教の死の時の責任者の一人であり、多くの何の罪もないクリスチャンたちを迫害し、刑務所に送り、死に追いやった責任を負う人でした。 パウロのこの過去というものは、決して彼から忘れ去られることはありませんでした。それは常に鮮明でした。自分はそういう中から救い出された者だ。 ですからパウロはここで、使徒の中で最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。あるいは、月足らずで生まれた者だと自分のことを言っています。 聖徒たちの中で最も小さい者というふうに彼は言い、罪人のかしらだと自分のことを書いておりますけれども、イエス様との出会いを彼は忘れることはできなかった。 そしてそのときに自分に託された使命を彼は片時も忘れることはできなかった。 だから彼はむしろ自ら激しい迫害の嵐の中に、そちらのほうにそっちへと進んで行くわけであります。 私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働いたと書いてあるでしょう。パウロはやっぱりそのことは事実として、彼はそうだと自分で思っていたのです。 あのペテロたちよりも、ヨハネたちよりも自分は多くの働きをしたと書いているのですから。しかしそれは私ではなく、私にある神の恵みです。主が私を通して働いてくださったのですと彼は加えてはいます。 パウロが使徒たちの中で最も大きな負い目を抱いていた人だということかもしれません。パウロは一番主の前に深い負い目を負っていたのでしょう。迫害者でしたから。そのことが返って彼にあれだけの福音の働きを遂げさせたのでしょう。テモテへの手紙第Iの1章の1節をちょっと見てください。これも同じ表現が出ています。 テモテへの手紙第I、1:1-2
こういうふうに書いていますが、とにかくパウロは常にこの枕詞を使っております。 テモテへの手紙第I、1:12-17
ここでも自分が神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者であった。そのような中から主は私をあわれんでくださった。そればかりでなく、ご自身の祝福に満ちた栄光の福音を私にゆだねてくださった。11節にそう書いてあります。 テモテへの手紙第I、1:11
このような者を主は忠実な者として認めてくださったのだ。だから何があっても私はこの使命を果たさなければならないのだ。こういうふうに彼は言って、17節で、主への賛美が彼の心からほとばしっているわけなのです。 パウロの弁明、あるいは自らの回心の証言については、次の22章でご一緒に見たいと思いますし、もう私たちのよく知っていることなのですけれど、パウロはそれをどう語ったかは、また改めて学びたいと思います。 そこまでで終わりましょう。 |