引用聖句:使徒の働き22章1節-16節
紀元前5世紀の半ばごろに生きていた古代ギリシャの歴史家で、歴史の父と言われるヘロドトスという人がいるのだそうですけれども、彼は当時の世界を広く行き巡って、人々の生活や色んな出来事を注意深く観察した人であります。 彼が次のようなことを言っているのだそうであります。「おのおのの民族によって風俗や習慣は異なるけれども、共通していることが一つある。それは全ての民族が神を拝むということである。」とヘロドトスが記しているのだそうであります。 確かに、古代にさかのぼればさかのぼるほど、人々の生活は神を祭る祭儀が中心であったことが確かなようであります。日本の最も古い歴史のひとつ、例えば卑弥呼なんかを見ますと、彼女は巫女です。 古代社会であればあるほど、その共同体というものはいわゆる宗教を中心にして成り立っていたということがよくわかるわけであります。それ無しの社会というのは、おそらく無かったであろうと言って間違いないと思います。 ですからヘロドトスはそういうふうに、どの民族であっても神を拝むということは、これは共通していると言っているわけであります。ですから宗教の種類も、民族や部族の数ほど多くあったということになるわけであります。 最も非宗教的な国民である現代の我が日本民族も、つい60年ほど前までは国内はもちろんのこと、植民地においても至る所で神社を作っては人々に参拝を強制し、自分の国を神国とし、天の現人神としていたのですから、ヘロドトスの指摘は今日でもそのまま当てはまるかもしれないのであります。 21世紀の厄介な問題は宗教の対立です。みなさんご承知のように本当に、特にイスラム原理主義のようなああいう過激な宗教がこの世に大変な緊張感をもたらして、人類は頭を抱えているわけですけれども、宗教に関して一番距離を置いているような、このわれわれ日本国民もつい数十年前までは決してそうではなかったわけであります。 このように神を祀り崇めるのが宗教であり、この宗教の種類にはこれまで無数のものがあったわけですけれども、それら無数の諸々の宗教の中でただ一つ歴史的、現実的な根拠をもつのが、いわゆるこのキリスト教信仰であり、そこにこそ、このクリスチャン信仰の最大の特質があると私は考えております。 キリスト教だけが、聖書によってその教義の根拠の歴史性、現実性を主張して止まないのであります。すなわちイエス・キリストは事実この地上に人の形をとって来られた神のひとり子であり、旧約聖書で何千年にも亘って預言されていたまことの救い主なのだと聖書は主張するのであります。 ですから、これは人類の歴史上どこそこでいつ起こったことなのか。だれがそれを見たのかという、極めて実証的な問題を決定的な契機としてと言いますか、としてそれを内に持っているわけです。ここが私は諸々の無数のいわゆる宗教というものと、聖書が私たちに示しているところのまことの信仰、神を信ずるという、このキリスト教信仰との決定的な違いなのだと、実は思っているわけです。 私たちの信仰はこの歴史の上に事実現われた、そのことを通して神様のご存在と神様の救いの約束の確かさというものを私たちは受け入れるわけであります。 すばらしい教えだけれども、そこにはいったいどこの話でいつのことなのかが全く捉えどころがないというようなところと、聖書は決定的に違うのだということ。このことを私たちははっきり意識しておきたいのであります。 こうしてこのクリスチャン信仰において最も大切なことは、単なる教えではなくて、事実の問題であります。言い換えれば、本当にイエス・キリストなる人物は神の子だったのかという一点こそが決定的に重要なのであります。 例えばイエス様が語られた、あのマタイの福音書5章から7章に出てくる山上に垂訓なんか読むと、私たちはそこに語られているイエスのことばの比類なき崇高さというものをだれでもが感じるわけであります。 愛について、謙遜について、義について、人類の歴史上、あの山上の垂訓で語られたようなことばを語った人はひとりもいないと言って間違いないと思います。 「あなたの目がもし罪を犯すなら、えぐり出して、捨てよ。あなたの手があなたに罪を犯させるなら、それを切って、捨てなさい。」 イエス様は人間の心の中に起こるさまざまな邪悪な念、色情を始め、色々なものを、そのものをも容赦せずにそれは罪なのだ。ゆえに肉体が滅びるよりは霊が救われるほうがいい。肉体にどんな苦しみがあろうよりも、むしろ霊の救いのほうが大切なのだというようなことを今まで徹底的なことを仰っているわけです。人間は徹底的なことを言えないのであります。 徹底的なことを言うと、自分に跳ね返ってくるものですから口に出来ないでしょう。人間は妥協的なことしか言えないのです。ところが山上の垂訓に出てくるイエス様の説かれている教え、これは一点の妥協もないわけであります。そういうわけで、私たちはそのキリストのことばに驚かざるを得ない。 ここに確かに聖なる存在という方がいらっしゃるというふうにわれわれは認めるようになるに違いありませんが、しかしそれにも関わらずそれらの道徳訓というのはいわば付録のようなものであります。 聖書において最も大切なのは、人間としてこうありなさいという倫理道徳的な教えではなくて、イエスとはいったい何者か、彼はどんなことをしたのかという歴史的な事実の問題なのであります。 最初にこの使徒の働きを学び始めるときに、私がなぜ使徒の働きをいっしょに読みましょうと言ったかというその理由は、そのときに申し上げましたけれども、それはこの使徒の働きが四福音書と同様に歴史の書であるからであります。 歴史的な書物です。だからこの使徒の働きをいっしょに読んでみましょうと申し上げたわけであります。こういうわけで私たちは出来る限り聖書の中の諸々の記事がいつ頃に起こったことなのか、それを年代的に確定したい。折に触れて強くこだわってきたわけであります。 この書かれているこの記事はいったい何年ごろのものなのか。新約聖書の記事と当時の残されている歴史書の記事とが照合できますから。もちろん全部ではありませんけれども。そういうことを通してほぼ確定できるわけであります。 イエス様が誕生なさったのが紀元前4年か5年ごろであったということも今日ではほぼ間違いないわけです。 イエス様が生まれた年を基準にして西暦を定めたはずなのですけれども、4年か5年ずれが生じていて、イエス様が生まれたのは西暦1年ではなかった。それはヘロデ大王が死んだ年がわかっているからであります。 イエス様が生まれたときに、ユダヤの王が生まれると言って、そのベツレヘム近辺の幼子たち、幼児たちをみんな殺させたという記事がマタイの福音書にあって、その残忍極まりないあのヘロデ大王がそれを命じたということが書いてありますけれども、そのヘロデ大王が死んだ年が紀元前4年ごろであるということがわかっているわけでありますから、その前だということになるのです。 十字架の死と復活、イエス様が十字架につかれた年というのも、西暦29年から30年ごろであるということも、ほぼ間違いないわけであります。イエス様が公の生涯に立たれたのが歳30のころであったとルカが記しているからであります。 そして3年間くらいイエス様が公生涯をなさったということは、聖書の記事を数えてみると、3年以上経っているというとこから計算できるということです。 こういうふうに、私たちのこのクリスチャン信仰というのが、歴史的な、現実的な土台に立っているということ。それは決して非歴史的な、観念的な土台と言いますか、土台の無い、そういうものではないということ。そこにこそ私は、このクリスチャン信仰の唯一無二と言いますか、ほかのものにあり得ないところの特質があるのだと思うわけです。だから徹底的に私たちは事実にこだわるわけであります。 ヨハネの福音書の1章。有名なところです。ちょっと読んでみましょうか。 ヨハネの福音書1:1-5
ヨハネの福音書1:14
私たちはこの方の栄光を見たと言っているわけであります。ヨハネは、ことばが、「ロゴス」ということばを使っているのだそうでありますけれども、ロゴスが人となって。正しい原語の意味は、「肉となって、」というふうになっているようであります。 ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見たと言っているわけであります。 ヨハネの手紙第I。同じ福音書を書いたおなじヨハネが書いている手紙が3つ残っているのです。 ヨハネの手紙第I、1:1-2
私たちが聞き、目で見、じっと見、また手でさわったものと言っているわけでしょう。そこにこの聖書のもっている特異さと言いますか、それがあるということです。 ペテロもそのペテロの手紙第II、 ペテロの手紙第II、1:16
見たのだという彼らの証言に実は、聖書の信仰全体が立っているのだということです。これを覚えていてほしいのであります。 ところで、このキリスト教信仰の宣教の歴史における最大の出来事と言えば、パウロの回心であることは間違いありません。新約聖書の約半分を一人で書き残すようになったパウロ。 元のユダヤ名はサウロでありますけれども。イエス・キリストを除いてこれほどに人類の歴史に大きな影響を今なお与え続けている人間はほかにいないのであります。 彼の書き残した13通の手紙は、新約聖書の中に神様からのメッセージとして今も何億、何十億かもしれません、人々に毎日実は深い祈りの中に読まれておるのであり、この世界を動かしているのであります。 ですから私たちは色々なところでこのパウロの名前を、セント・パウロ・ユニバース始め、聖パウロ寺院だとか、サンパウロという町の名だとか、とにかく世界中でこのパウロの名前を見聞きするわけであります。 熱烈なユダヤ教徒であり、そのためにキリスト教徒狂暴な迫害者であったパウロが、シリアのあのダマスコの城外で復活のキリストに出会い、一瞬にして変えられるのですけれども、そのあまりにも有名な回心の時期はいったいいつなのか。これはなかなか確定しづらいのであります。 何とかその正確な時代はわからないのかと思って、色々聖書は何べんもあっちこっち開けて見たりするのですけれども、確定できません。 先ほど言いましたように、パウロは13の書簡の書いております。間違いなくパウロが書いたということがわかっている書簡は13あります。 ヘブル人への手紙はパウロではないかという人もいますけれども、ぼくは違うと思います。文体が違うのです。 パウロが書いたかのような言い回しもありますけれども、テモテについての言及がありますが、どうもパウロもほかの手紙とは違うのではないかという、私は気がしますので・・・、もちろんだれもわからないわけでありますが。 パウロが実際に書いたことが明らかな書簡は13であります。これらの手紙はいつ書かれたのか、どこで書かれたのかというようなことはほぼ確定できているのです。 また彼がローマ皇帝、5代目のローマ皇帝ネロの迫害によって殉教の死を遂げたとされる年代もほぼ確定できます。ところが、彼のこの回心の年代については聖書の記事からどうもはっきりしないのです。 私たちが今まで見て来たように、パウロの回心の記事というのは、使徒の働きの9章に出ていました。その9章のパウロの回心、彼がよみがえったキリストの光に照らされて地に倒れたという、あの有名な記事がありますけれども、その前の2章、8章と7章辺りで、エルサレムでキリスト教徒への迫害が始まってきて、ステパノが裁判にかけられ、殉教いたしますでしょう。 クリスチャンの中で最初の殉教者がステパノでした。それが使徒の働きの7章。そこにわれわれが以前見ましたように、ステパノの裁判の様子が記されております。これをきっかけにして、一気に迫害の炎が燃え広がります。 このときにこのステパノの死に関わっていたのが、このパウロですから。7章の51節をちょっと見てください。ステパノがその裁判で語った最期のことばが51節から書かれています。 使徒の働き7:51-52
正しい方というのはイエス・キリストのことです。 使徒の働き7:53-58
サウロ。ここに出てくるのがパウロです。彼はこの石打ちの刑のときの責任者のひとりということです。彼はその上着を預かったわけです。 このときに、58節に、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いたと書いてあります。ですから当時パウロが青年だったということ。 これをきっかけにしてエルサレムで迫害が起こり始めて、クリスチャンたちはエルサレムをあとにしてほかの地方に散って行くわけですが、パウロはその地方に散って行くクリスチャンたちを追いかけてシリアのダマスコまで行くわけです。そこで彼はあのイエス様との不思議な出会い、劇的な出会いと言いますか、それを経験するわけであります。 アメリカの聖書学者、新約聖書学なんかを書いている方の年代計算には、パウロのこの回心はAD31年ごろではないかとなっていますから、イエス様が殉教の死を遂げられ、復活されてわずか1、2年でこの出来事が起こったのではないかというふうに推定されているようですけれども、聖書からどうもそれを割り出すことはできないように思うのです。 青年と言うと、20代ぐらいだとぼくの常識的には思うのですが、これも聖書辞典でちょっと調べてみるとユダヤ人は、24歳から40歳ぐらいまでは青年と言ったというのですから、随分当時の青年というのは・・・、40歳になっても青年というのは今の日本人なんかの感覚よりももっと歳とった者も青年にはいっていたのだなぁと思いますので、やっぱりかなりの幅があります。ですからこれは断定できないということです。 このパウロのこの回心の記事は、この使徒の働きの中で3回出てまいります。この使徒の働きの9章とわれわれが今問題にしている22章と、さらに26章で、3度出てくるわけです。 第一回目の使徒の働きの9章は、この使徒の働きを書いたルカの記述です。あとの二回は、パウロ自身の弁明であります。 彼がユダヤ人に対して行なった弁明と、もう一つはアグリッパ王の前で、王の前で公にと言いますか、正規に自分の弁明したときの記事が使徒の働きの26章に克明に出てきます。 使徒の働きの9章をちょっと見てみましょうか。もう一回記憶を新たにするために使徒の働きの9章を開けてください。 使徒の働き9:1-2
当時は、「この道」と言うのです。このクリスチャン信仰は呼ばれていました。まだ「キリスト教徒」という名前は無かったのであります。 使徒の働き9:3-20
これが、ルカが記している回心の出来事、客観的な事実であります。使徒の働きの21章の37節からもう一回見てみます。 使徒の働き21:37-40
この21章でパウロは何年ぶりかで、ヨーロッパの巡っていた伝道、ギリシヤを回っていたその伝道から帰って、そしてエルサレムで当時のエルサレム教会の責任者であったペテロだとかヤコブ、そういう人々に勧められて、神殿でささげものをするところを、日頃からこのパウロを敵視していたユダヤ人たちにつかまれて殺されそうになっていた。 大騒ぎになって彼がリンチで殺されそうになっていたのを、当時のローマ軍が聞きつけて、千人隊長に引き連れられた兵隊たちがパウロをその群衆の中から救い出して二つの鎖に繋いで、さらに群衆の暴行から避けるために兵士たちがパウロを担ぎ上げて、その神殿に隣接していたローマ軍の駐屯地、アントニヤ要塞というのがすぐ後ろにあったのです。 そこに保護するために連れて行くそのとき、パウロが私に、このユダヤ人たちに、「私の同胞の方々に話させてほしい。」と言って、ここでこの階段の上に立って、話しているわけであります。 今お読みした21章の38節。この、「以前暴動を起こして、4,000人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人」という、この事件がこの前も言ったように、紀元54年であるという、これが歴史家のヨセフスによって記されているということなのです。 ですから、以前暴動を起こした、と書いてあるわけですから、ここからやっぱりちょっと時間が経っている。たぶん2年か3年だろうと言われております。 パウロがこの22章で語ったとき、これは紀元、西暦ADの57年前後である。56年か57年であるということがほぼ間違いないわけであります。これはパウロの死のほぼ10年前であります。こうして彼はここで自分を、興奮して、リンチをして殺しかねないこの同胞のユダヤ人たちに向かって語りかけるわけです。 使徒の働き22:1-5
こう言っています。このパウロは、タルソのパウロというふうに呼ばれたように、当時のギリシヤを代表する、当時のローマ帝国、そのローマ帝国を代表する学問の都のひとつがタルソであります。 ギリシヤ本土のアテネとエジプトのアレキサンドリアと並んだ、有名な学問の都だったそうでありますけれども、パウロはこの異邦人の学問であるギリシヤ哲学には目もくれず、少年期に碩学として名高かったガマリエルの門下でユダヤの旧約聖書、律法を学ぶためにエルサレムに上ったようであります。 ついでにちょっと読んでみましょう。コロサイ人への手紙の2章の8節。彼は当時のギリシヤ哲学に対してこういうことを言っています。 コロサイ人への手紙2:8-9
コロサイ人への手紙2:3
(テープ A面 → B面) あの十字架で惨たらしい死を遂げた大罪人を「神の子」とは、何という冒涜、何という虚言妄言であるか。これは徹底的に根絶しなければならない。これはユダヤ人としての神の義務である。彼にはこの行動が絶対に正しいという確信があったのです。だから彼は荒れ狂うようにして、手段を選ばないでクリスチャン迫害へと駆り立てられて行ったわけであります。 彼がその使徒の働きのところで、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」、と書いてあります。殺害の意に燃えて、燃え立って彼は迫害者となっていくわけであります。 神様に対する、ユダヤ人を召してくださった、旧約聖書にあれだけ預言者を通して自分を啓示なさった神様に対する、これは義務であると、その思いが強くて、彼は見境も無しに殺害の意に燃えていく。そこにこのパウロがやはり若者であったというひとつの証拠があるのかもしれません。 パウロの先生のガマリエルという人のことが聖書に一回だけ出てきます。 これもまた前に見ましたけれども、使徒の働きの5章を見てください。 使徒の働き5:29-35
云々と言って、非常に冷静にいきり立っている議会の議員たちを、ガマリエルが静めているところがあります。このことは神様から出ているのかもしれないのだ。だから気をつけなさいということをこう言っています。 使徒の働き5:38-39
ガマリエルはこう言ったというのです。さすがにこのガマリエルという人の思慮深さと言いますか、円熟した人間性と言いますか、当時の有名な碩学、よくしられていたこの人のこの言動というものが、パウロと違うということをわれわれは知ることはできると思うのです。 もう一回使徒の働きの22章のほうにちょっと戻ってください。 使徒の働き22:6-11
復活のイエス・キリストとの出会いです。「ナザレのイエス」というふうにここで出てきます。あのナザレの大工の息子、その方です。 「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。」と言われたと書いてあります。 パウロの回心と信仰の原点がこれでありました。パウロにとってこれこそがすべてでありました。このことなしにどのような教えも、いわゆる信仰もただの幻想に過ぎず、無価値、無力でありました。 反対にこのことのゆえに、イエス・キリストがよみがえられて自分に現われてくださったということ。キリストの復活が事実だということ。このことのゆえにパウロは死に対しても、この世に対してもすべてに勝ち得て余りあると確信するようになったのであります。 人類の根本問題でしょう、「死」ということほど、人間がどんなに頑張っても逃れることのできない鉄の鎖です。罠にかかっているけだもののようでしょう。 これに対して必死になって何とかしようとしながらどうにもならず、段々弱ってとらえられていく。これが人間の根本問題です。 パウロはこのイエス様の復活を通して、このクリスチャンたちが言おうとしている救いが何であるかということをはっきり知るようになるわけであります。 このクリスチャンたちがあれだけ激しい迫害の中で黙々と耐えながら証言し、死刑に処せられても信じて動かない。キリストの復活というこの証言。それが何を意味しているかということをパウロはこのとき初めて知るわけでしょう。 絶対にあり得ないと彼が確信していたキリストの復活を彼は身をもってこの時知るわけであります。パウロにとって文字通り、驚天動地の出来事、天地のひっくり返るような、目も眩むような事実であります。 パウロはこのことによって打ちのめされるわけであります。彼は、その光の強さのために視力を失って、3日間見えず、飲むことも食べることもしなかったと、使徒の働き9章に出てきます。 それは、パウロの受けた衝撃というのはわれわれの想像をはるかに超えるわけであります。これはこの世のあらゆる価値観を根底からくつがえすものでありました。そうでなければおかしいですよね。 あれだけ無残な十字架の死という極刑を受けた人物が、この使徒たちがいのちをかけて証言するように、3日目によみがえって、弟子たちに姿を現わされたばかりでなく、迫害者である自分にも現われたのだ。これはパウロにとってもう全てとなりました。 パウロは要するに、あとで出てくるように、当時のローマ市民権をもつ裕福なユダヤ人の子であり、ガマリエル門下で教育された秀才であり、イスラエルの将来を担う者と嘱望されていた人でしょう。 だから彼はあのステパノの処刑のときに若くしていながら、多くの人たちの、その石を持ってステパノを打つ人々の上着を預かるという、そういう責任ある立場に立たされていたわけでしょう。 そのパウロがこの出来事をきっかけにして、文字通り180度転換するわけであります。そして終生、それから何十年間、同胞のユダヤ人たちにいのちを付け狙われ、いつも迫害され、そういう生涯をたどるわけであります。 イエス様がアナニヤに向かって、「彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかをわたしは彼に示すつもりだ。」と大変なことを仰ったと書いてありますが、全くそのとおりです。 パウロの救われてから死ぬまでのほぼ三十何年間は、30、おそらく5、6年だとみて間違いないだろうと思いますけれども、その間は迫害につく迫害です。彼はそのことを通しながらキリストの福音の証しをして行きます。 パウロは自分のその経験を手紙の中で何回も短く書いておりますけれども、ピリピ人への手紙の3章をちょっと見てください。 ピリピ人への手紙3:5-8
その前のガラテヤ人への手紙。 ガラテヤ人への手紙1:13-17
テモテへの手紙第I、1:13
テモテへの手紙第I、1:16
かつて自分が救われる以前、そしてイエス様に出会ったときのことをパウロは折に触れてこう手紙に記しています。 もちろん忘れようとも忘れられない出来事であります。 コリント人への手紙第I、15:3-5
これはペテロのことです、 コリント人への手紙第I、15:5-6
死んだ人のことです、 コリント人への手紙第I、15:6-10
この手紙が書かれたのは、イエス様の死と復活後、約25年後、西暦55、6年であるということもほぼ間違いありません。ということは、当時ほとんどのイエス様の復活の証人たちが生きていたということであります。 パウロはここで書いてあるように、一番大事なことはこのことなのだ。 イエス様が私たちの罪のために、全人類の罪の問題を解決するために、神様の前にその贖いをするために、代価を払って罪の赦しをいただくことができるために、十字架に死んでくださったこと。そして葬られ、3日目によみがえられたこと。これは旧約の聖書がすでに預言をしているとおりなのだと言っているのです。 そしてこの聖書のことばをしっかり保っているなら、この福音によって人は救われるのだと言っているわけであります。 人間がどんなに頑張っても、どんなに精進しても、人間は死の問題をほんのわずかでも克服することはできませんけれども、イエス様が死を滅ぼしてくださり、3日目によみがえって今も生きておられる。 そしてイエス・キリストを受け入れる者、信ずる者にご自身のそのとこしえのいのちを与えてくださる。ですから私たちのこの肉体の死は終わりではない。 私たちのために永遠の世界が、天の御国が備えられており、この肉体もまた復活するのだ。これが聖書の伝えているメッセージでありますから、これはもう全く人間の想像をはるかに超えていることです。 コリント人への手紙第I、2:9
福音というのが、どんなにこのこの世の人間の考えやこの世の、何て言いますか、この世の良きものと考えられているものと全く次元を異にするかということが、今までお読みした聖書のことばを通しても明らかではないかと思います。 これはこの世的な次元をはるかに超えているものであるということ。この聖書の福音に触れるときに人間は本当に人生がどんでん返しをされるように根本的にひっくり返されるということ。 私たちの人生の意味と目的が全く、今まで想像すらできなかったものに変えられていくということ。それが実はキリストの福音と呼ばれているものであります。 私たちの人生が根本的に変わらなければ、それはおかしいのです。私たちが追い求めていたものが全く今までのものと違うものにならなければ、それは私たちの信仰がどこかおかしいからなのです。 なぜならば、この世のものはみな朽ちていくから。朽ちないものは、ただこのキリストの復活を通して示されているところの永遠なるもの、神の国それなのだということを聖書は私たちに教えているからであります。 前も言いましたように、この当時、クリスチャンたちは迫害に次ぐ迫害の中を通っていったわけでしょう。初代教会のクリスチャンたちは。 とくにあのネロの時代は、迫害は凄まじかったようであります。どうして迫害されたかという理由は以前も申し上げましたように二つだったと言われております。 一つは、どんなに迫害されても、禁じられても当時のこのクリスチャンたちが伝道をやめようとしなかったこと。キリストの救いを人々に伝えることをやめなかったことが一つ。 もう一つは、当時の諸々の宗教はいっぱいあったわけです。今よりも。そういう諸々の宗教を彼らが問題視しなかった。この二つだというふうにある人は書いております。 さっきも言ったように、親鸞とか、法然とか、日蓮なんて人はすごい人々であります。実際問題として。しかし私たちは、どんなに彼らが人間として優れていたとしても、私たちが信ずる信仰というものとは同じレベルで論争したり、何かするというものではないということを知っております。 聖書が私たちに示しているキリストの福音というのは、そういうことなのだということであります。 パウロは使徒の働きの22章の10節で、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」と言ったと書いてあります。パウロの、天地のひっくり返るようにひっくり返った人生の始まりを象徴することばではないでしょうか。 彼は自分のこれまで学んだ多くの知識や経験に従い、彼は人一倍おそらく精進した人物でしょう。人よりはるかに精進していたと自分で言っているのですから。律法の教えについては同年の者たちよりもはるかに自分は進んでいたと言っているわけです。 人一倍何事にも努力を惜しまずに、はるかに抜きん出ていたその彼の知識や経験、それらによって培われた自分の信念に従って生きる人生と彼はここではっきり決別するわけであります。 「これからはキリストのしもべとしてキリストに手を引かれるようにして歩む。主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」、ここにパウロの人生の転換というのが示されているのではないかと思います。 これこそがまた、信仰というものの根本的な態度であると言えるのではないでしょうか。「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」 パウロは自分の手紙の冒頭にいつでも、「イエス・キリストのしもべパウロ」、と書いていますけれど、ここでパウロはキリストによって捕われた人、キリストに仕える者、神とキリストのしもべという人生の転換点を迎えるわけであります。 イエス・キリストとの出会いは私たちにとっても同じように、この決定的な転換をもたらすものだと思います。 |