引用聖句:使徒の働き22章17節-24節
使徒の働き22章ですね、一、二回で終わるつもりが、実は今日も途中から読んでいただきましたけれども、少し言い足りないというようなところがあるものですから、もう一回22章の後半のところにちょっと触れて、次に進みたいと思っております。 前回と前々回の二回、この使徒の働きの22章からごいっしょに学びました。この章の主題、その主要テーマは、パウロの回心というものでありました。 パウロ本人の証言によって、彼のあの歴史的なと言いますか、人間の回心というのは神様から見たらもちろん差は無いわけであります。霊的なことですから、こちらの回心がすばらしくて、こちらはそうでないというようなことはあり得ないわけですけれども。 しかし、その回心の結果がもたらした実と言いますか、証しの実と言いますか、それはパウロのこの回心の結果がどんなに大きなものであったかということはすべてのクリスチャンがよく知っているわけであります。そういう意味において、パウロの回心というのは実に特殊な重みをもっているということは、また事実だろうと思うのです。 パウロが自分自身の口から自らの回心の経緯について語った。それがこの使徒の働きの22章で一度出てくるということなのです。 あとでもう一回彼はアグリッパ王の前でもっと詳細な証しを自分自身の口からやっておりますから、パウロは自分の口で二回、詳細に回心のいきさつについて触れているのです。 使徒の働きの9章でルカはそれを客観的な出来事として記述しておりますけれども、このようにしてパウロの口から語られたのはこの22章が初めてであるということでありました。 パウロの回心の最大の特徴はどこにあるかと言いますと、初めにパウロが内面的な啓示を受けて、真理を悟った。いわゆる、心の目が開かれた。あるいは、救いが何かを知ったというところにはありません。そうではなくて、パウロの外側から、彼の頭上から復活のキリストが彼に臨んだというところにこの特徴があります。 すなわち、それはパウロ個人の内面的な、主観的な体験としてではなくて、何よりも外面的な、客観的な出来事として起こったということであります。すなわち、太陽の光よりも強い光が彼を巡り照らしたこと。彼と同行していたユダヤ人たちの幾人かも、ともにその事実を経験した。客観的な出来事として起こったということであります。 私たちは聖書を読んでみたり、集会に行って先輩たちの聖書講解を聞くことを通しながら段々段々、言わば内面を照らされていって、目が開かれていくというのが普通です。 ところがパウロはそうではないのです。彼の内側から起こったことではありませんでした。彼の外側から、その回心というのが彼に臨んでくるのであります。 このときの様子については細かく見ると、実は使徒の働き9章とあとに出てくる使徒の働き26章の記述ではやや異なっているのであります。異なっていることもちゃんと申し上げないと我田引水になりますから、やはりそこは私たちはそこのところは知っておくべきでありますが。 パウロと同行していた人たち、というふうに複数形が使われております。9章の7節です。26章の13節では、同行者たちと言って、やっぱりこれも複数形が使われております。 ですから、このときパウロと一緒にいた人は複数であったということは確かでありますが、この同行者たちがその天からの強い光を受けて、パウロとともに地に倒れたという記述が26章の14節にありますけれども、パウロだけが倒れ、彼らは立ったままであったとの記述が9章の7節にあるのであります。ちょっと26章を見てみましょうか。 使徒の働き26:13-14
14節、私たちはみな地に倒れましたが、と書いてあるでしょう。だから彼と一緒にいた、そのユダヤ人たち、ダマスコの会堂に向けて祭司長たちからの紹介状を持ってパウロと一緒にクリスチャンたちを迫害するために出掛けた、その何人かのユダヤ人たち、この人たちも一緒に、パウロと一緒に地に倒れたと書いてあるわけでしょう。9章の7節を見てください。 使徒の働き9:7-8
と書いています。ですから、ここではこの二つの記事は少し違うのです。 パウロだけが倒れたというような感じで9章は述べていますが、26章のパウロ自身の説明では、ともに、全部地に倒れた。どちらが事実だったかよくわからないのであります。 ただ、同行者たちもその光を見、さらに声を聞いたのですが、その声を聞き分けることができたのはパウロだけであったということをパウロは22章の9節でも9章の中でも述べております。 9章の中では、声は聞いたけれどもわからなかった。「声」というふうには元々なっていないようであります。「音」となっているようであります。その聖書の注を見ますと。音が聞こえたのです。 側にいる人々には何か音がするということは聞こえたらしい。しかしパウロははっきりとそこで主との間の問答をやっているわけです。やり取りをしているわけであります。主はパウロの耳だけを開かれたのです。パウロははっきりと主の声を聞き、主とのやり取りを交わしています。 たぶん時計の時間で計れば、瞬時のことだったのではないかと思われますが、その対話には多くのことが含まれていたようであります。 このときの対話はパウロの心にだけ啓示され、彼の心の目を開いていきます。要するに、パウロの回心はまず外面的、客観的な奇蹟を通して彼に臨み、そのあとで彼の心を照らし、内面的な啓示として彼の心の目が開かれていくという、そういう順序を取っているということが言えるのであります。そこにパウロのこの回心の非常に際立った特徴があると思うのです。 旧約聖書の民数記の22章に、不思議な、とても信じがたいような記事があります。たくさんの報酬としてのお金に目が眩んだ預言者バラムに、彼が乗っているろばが人間の声でものを言い、彼の行動を咎めたという記事であります。 三回もこのろばが人間の声で、ことばでバラムに彼の行動を咎める。読んでみると、ユーモラスであって、おかしくなるところでもありますが、私はこのダマスコ城外でのパウロの記事と比べて見ながら、ろばはおそらく、ろばの鳴き声で鳴いたのではないかと思うのです。 ろばはどういうふうに鳴くか知らないのです。ヤギみたいに鳴くかもしれません。メェーとかヒヒーンとか鳴いたかもしれません。だからもし側にだれかがいたら、ろばはただ鳴いたというだけではなかったかと思います。しかし、このバラムの心の耳が開かれたのであります。 あの記事をちょっとあとでよく読んでみてください。三度もろばが言うことを聞かなくて、ろばをバラムが腹を蹴ったり叩いたりしておりますが、そのときに、「なぜあなたは私を叩くのか。」とろばが言ったという。「お前はろばのくせに。」と言って、「人間のことばでものを言う。」と言って、彼は頭にそれこそきて叩くのですが、三回目にろばは身動きの取れない狭いところに入って行って、そこでもう動けなくなる。 そのときに主がバラムの目を開いたと書いてあります。そしたらそこに、抜き身の剣を持って立っている御使いがいるのであります。おそるべき記事です。 あの記事は、とても笑い飛ばせるような荒唐無稽なものではありません。同じようなことをいつの時代でも人は経験するのではないかと私は思っています。 目の前の同じことを見ていながら、あるいは経験していながら、ある人は当たり前だと考えて何にも感じないのに対して、その同じものを見、経験するもうひとりの人は足もとの大地が崩れるように感じて、めまいを起こし、立ち上がることができないほどの衝撃を受けるということはあるものであります。 それは主なる神が人の心の目を開かれるからです。この世の人にとっては、何でですか?という気がし、ある人にとっては、もう、立ち上がることができない。そういうことというのは、主が人の心の目を開かれるときに実は起こるものであります。 おそらく説明しても周りの人にはわからないでしょう。いくら言っても、何で、それがどうしたということにしかならないかもしれない。 しかし、もうそれこそ、震源が、深い淵が口を開いているかのような、そういうところに気付かされるということはあるものです。それは主が人に臨まれるからであります。 パウロと行ったその同行者たちは、音のようなものが、ただしたというふうにしか聞こえなかった。しかしパウロは主との間に瞬時にして色んなやり取りが行なわれているのであります。それは26章の中で、彼が、主が自分に語られたことを通してかなりのことを述べていますから、それでわかります。 このようにパウロの回心は第一に復活のイエス・キリストの顕現という、イエス・キリストが自ら現わすという、人間的には全く理解を超えた奇蹟によって彼に臨んだものであり、第二に、パウロの主に対する無条件降伏によって成就したものであります。 彼はイエス様に白旗を掲げて徹底的に、完全にこのとき降参するのであります。 マタイの福音書21:42
マタイの福音書21:44
不思議なことばでしょう。特にこの44節は。家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。 スミの親石というのがここから出てきますけれども、ユダヤ人たちに見捨てられ、はりつけにされたその石が、礎の石だという聖書のことばをあなたがたは知らないのかと、ここでイエス様は詩篇のことばを、これはわたしのことだと仰っているのです。 まだ十字架に架かられる前ですから、弟子たちは何のことかわからなかったと思います。 しかしイエス様はすでに知っていました。家作りらの石、見捨てた石、ユダヤ人たちが見捨てた石、つまずきの石となってしまった石。この石がこれの、人を粉みじんに飛ばしてしまう。 マタイの福音書21:44
イエス・キリストとの出会いというのはそういうものなのです。私たちのあらゆるものが粉みじんに砕かれていくと言いますか、そういうものでしょう。 自分の力によって生きれると思っていた。自分の経験や知恵を通して生きる自信というのは何とか培ってきたつもりでありますが、それが粉みじんに打ち砕かれていく。それをこのときパウロは徹底的な意味で経験させられていくわけであります。 全力をもって、命懸けで、ある意味でイエスという方にぶつかって行って、粉みじんに砕かれていったのがパウロであります。パウロは命懸けでした。文字通り。彼はそこに自分のすべてをかけるつもりでした。なぜなら、ユダヤ人に約束された神の約束、それを彼は継承し、ユダヤ人の誇りにかけてです。 「このクリスチャンなる者を、とんでもないことを言っている連中を滅ぼさなければならない。」と信じて疑いませんでしたから。彼は自分のすべてをそのときかけておりました。 そして、このダマスコの途上で復活されたキリストの顕現によって、彼は本当に粉みじんに砕かれていくのであります。それは彼の想像をはるかに超えることでした。 パウロはそれまでの人生の歩みを、良いことも悪いことも一切合切後ろに投げ捨てて、のちのパウロの表現にしたがえば、十字架につけ葬り去って、まったく新しい出発をするのであります。 なぜなら、それこそが神による救いの本当の意味であり、そのまったく新しい人生へ、すなわち、キリストによって神とともなる人生へと人は招かれているのだと彼は悟ったからであります。 神様は滅びに向かう罪の人生から私たちをイエス・キリストを通してご自分とともに歩むいのちの道へ、永遠なるいのちの道へと招いていらっしゃるのだ。これがキリストによる救いの意味なのだと彼はこのときに悟るのであります。 新しく生まれるとはこのことなのだということを彼はこのとき知るわけでしょう。いかなるものによっても損なわれることのない救いがそこにあるのだ。このことこそがパウロにとってはあらゆるものにまさる真理の発見でありました。「ここにすべてがある。」と彼は確信したのであります。 よくご存知のように、イエス様は、 ヨハネの福音書3:3
と仰いました。人は、新しく生まれることができるのだということ。そのために、自分が今まで良いと思ったことも、失敗だと思ったことも、一切合切を私たちは後ろに投げ捨て、キリストのいのちにあって新しい人生へと踏み出すことができるのだということ。パウロはこのときに経験するわけであります。 割礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なことは、新しい創造です。新しく造られることですとガラテヤ人への手紙の中に書きました。 だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。見よ。古きは過ぎ去り、新しくなった。古いものは過ぎ去って、すべて新しくなったと彼は書きました。 このときからパウロの人生の目標は、ただキリストに従うことによってキリストのうちにとどまり続けること、キリストのいのちを生きること、これが彼の人生の目標となっていきます。 ピリピ人への手紙の3章。今までも何べんも引用しましたけれども、 ピリピ人への手紙3:12-14
キリストの身丈にまで達するように、キリストに似た者となるように、キリストへの従順、キリストに従って生きるということ。キリストのうちにとどまるという、この目標を目ざしてパウロは一心に走っているのです。 私は得たのでもないというのは、救いを得たのではないと言っているのではないのです。救いはすでに得たのであります。イエス様と出会ったときに、彼は救いが何であるかをはっきり知ったのであります。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰によって、イエス・キリストのいのちが自分にすでに与えられているということ。提供されているということ。それを受け取ったのだということです。自分は。ですから、救いはすでに自分のうちに成就しています。 しかし、キリストの身丈に達するのは、はるかなる目標であります。なぜなら、父なる神は私たちが御子キリストに似た者となるように、それを私たちの前に示しておられるからであります。 生きるということにおける、この根本的な、徹底的な転換を私たちはいったい経験しているのでしょうか。どうでしょうか。パウロはここで繰り返し言いますように、徹底的な転換というものを示すわけでしょう。 私たちはイエス・キリストを確かに信じておりますが、どうでしょうか。私たちの人生は根本的に方向転換しているのでしょうか。ただ自分の無事息災な生活のための自分本位な信仰にとどまっているのでしょうか。もしそうなら、その信仰は聖書の言う信仰ではないということを知っておかなければなりません。 ご利益信仰というのは何の役にも立たない偽信仰です。いざというときには何の役にも立たないものです。ご利益というのは。 ご利益信仰の中心にあるのは自分の欲なのです。あくまでも自分の欲望です。ここにある中心に座っている。人はそれによってはとても勝利の人生は歩めないのであります。なぜならそれは罪に根ざした生き方だからであります。 キリストを主とし、キリストに仕える信仰ではなくて、自分自身を主とし、キリストを自分のしもべとして、自分がいいように動いてもらいたいという、これがご利益信仰なのです。 クリスチャンがご利益信仰として例えば日本の仏教なんか、ほとんどの仏教なんかをあれはご利益信仰だと言って、切り捨てるでしょう。あれは何の役にも立たないと言って。それはそういうことなのです。 あくまでも中心にあるのは、後生大事に、大事にされているのは自分なのです。自分こそが一番後生大事なのです。 しかし、聖書が私たちに示している真理というのはそうではないのです。私たちが自分ではなくて、キリストのご支配の中に生きること。そのように変えられていかないとキリストのいのちは私たちのうちに流れ込んで来ないからであります。 ピリピ人への手紙3:17-19
彼らの神は彼らの腹である、欲望であり、と書いていますけれども、本当のことばは腹、お腹、腹であるということらしいです。 ローマ人への手紙10:9
イエス・キリストが死者の中からよみがえられ、今も生きておられるということを信ずること。イエスは私の主である、私の支配者であり、私の仕えるべき方であるとあなたが告白するなら、その選択をするなら、すなわちイエス・キリストを主として受け入れるなら、あなたは救われるからですと書いています。 イエス様に仕えるためにイエス様を信ずるのではなくて、自分の便利な何か都合のいい、自分を安全に守ってくださる、いざとなると手を伸ばしてくださる方として見ている。そこには大きな違いがあります。 イエス様は確かにご自分の栄光のために私たちを守ってくださいます。私たちがキリストの御名を告白するなら、主は私たちにご自分の名前がかかっているのですから。ですから私たちを完全に守ると仰っています。 それは事実であります。それはご自分の御名が汚されないためであります。決して私たちが安穏としてこの世で無病息災にこの世の幸せを享受して一生を終わるために私たちをキリスト者としているのではないです。 なぜならば、このよの安穏な幸福は神様からご覧になれば全く取るに足りないものだからです。 私たちの国籍は天にありますとさっきパウロが書いています。私たちに与えられようとしているのは神様が造られた栄光を受け継ぐという身分であり、それは私たちの創造をはるかに超えたものであると聖書は言っているわけです。 先ほどの使徒の働きをもう一回、22章の10節までちょっと戻ってくださいませんか。どうしても言い足りなかったところがこの10節なのですが。 使徒の働き22:10-16
この使徒の働き22章の10節。「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」、パウロは早速この時の主の命令に従順に従う態度を示しております。 目が見えないまま、手を引かれてついて行く姿にその後のパウロの信仰の生涯が暗示されているかのようであります。 パウロはおそらく、人一倍頭の回転の速い、鉄のような意志を持っていた人のように見えますよね、私たちから見ると。自信に満ちて。しかし彼の目は開いても見えず、手を引かれて主の示すとおりに歩んで行く。主との出会いのその時点からパウロは、この信仰の従順というものを示している、非常に象徴的であります。 主へのこの従順は、初めて会うダマスコのクリスチャンであるアナニヤに対する従順と謙遜の中に見てとることができます。 パウロはイエス様との出会いのこの時点から、最初の瞬間から、信仰とはキリストへの従順であるということを悟ったのであります。彼はこのキリストへの従順の道を終生ひたすらに進んで行くのです。 あのローマ人への手紙の1章の中に有名なパウロの挨拶が記されています、 ローマ人への手紙1:1-7
ここまでがこの手紙の最初の挨拶部分なのですけれども、この5節の後半の中に、それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのですと書いています。 信仰とはキリストへの従順であります。キリストへの従順、これが兄弟姉妹への従順となって表われていきます。「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」 このことばがパウロの根本的な人生における転換を表わしているわけであります。 私たちは、主を知らない以前は、常に自分自身から出発しました。自分が理解できるかどうか、自分の気に入るかどうか、常に私から出ていくのであります。「初めに私ありき。」、であります。初めにエゴがあって、これがもう岩のように動かないものとしてあるのであります。 ここから出発すると、人はどうにもならない袋小路にはまらざるを得ないのです。パウロはそれを捨てているわけであります。この時に。 「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」、パウロは自分が理解できるかできないか、自分の気に入るか気に入らないか、そういう生き方をここではっきりと捨てるわけであります。「主よ。あなたは私に何を望んでおられますか。私はどうしたらいいのですか。あなたのみこころを示してください。」 もう、自分でああだ、こうだと考える必要はないのです。役にも立たないことをああだ、こうだと考え、迷路に落ち込んで行くような、そういう生き方から彼ははっきりと転換していくわけであります。 主は全能者である。主は自分に最善をなそうとしておられる。「主よ。あなたのみこころを示してください。」、そういうふうに彼はこの時から変えられていきます。 クリスチャンの信仰の出発点はそこにあるわけであります。ここに私たちは断固として立つならば、私たちの前には道が開けていきます。どのような中にあっても。 使徒の働き22章で見落としてはならないもう一つの個所が、この21節と22節のところであります。ここをちょっと補足しておかなければなりません。 先ほど17節から読んでいただきましたけれども、パウロはこの出来事のあと、エルサレムに上ったようであります。 どれぐらい経ったあとに上ったかは、よくわかりませんけれども、彼が最初に迫害者サウロからクリスチャンとしてエルサレムに上った。そのときに彼の前歴を恐れてクリスチャンたちはパウロを受け入れようとしなかった。彼を避けて彼を仲間に入れようとしなかったということが書いてあります。 そのときにバルナバがサウロのこの体験、パウロですよ、パウロ、元のユダヤ名はサウロ、サウロのダマスコでの回心のことをエルサレムの兄弟姉妹たちに伝えて、彼の信仰は本物だから恐れることはない。 彼を兄弟として受け入れてほしいという仲介をしてくれて、パウロはエルサレムの母教会に受け入れられるわけです。このときのことだろうというふうに考えられます。 使徒の働き22:17
と17節にありますけれども。「夢ごこちになって、主を見た。」と言っています。主は言われました。 使徒の働き22:18-21
ここまで話したのです。 ここまでではこのエルサレムの神殿にいた大ぜいのユダヤ人たちは、静かにパウロの語っていることばに耳を傾けていたのです。ところが21節のことばを聞いたときに、 使徒の働き22:22-23
云々と書いています。21節のことばは、ユダヤ人たちの態度を一変させたのであります。ユダヤ人たちはまるでわれを忘れたかのように逆上した興奮状態に陥ります。 (テープ A面 → B面) ・・・愛し続けた理由であり、今日もなおキリスト教信仰を拒絶させる原因となっている問題なのであります。 ことの成り行きを見ていた千人隊長もユダヤ人たちの突然の逆上振りに驚いて、その理由がわからなかったので戸惑っております。どうしたのだろうと思っているわけです。 これは今日の私たちクリスチャンから見てもよく理解できないところであります。頭では理解できるのです。私たちは。 それはユダヤ人の持つ選民意識に根ざす問題なのであります。「選ばれた民」という、このユダヤ人が持っていた強固な宗教的、民族的誇り、これが実は問題なのです。 自分たちだけが神によって選ばれた神の民である。選民である。エリートである。このユダヤ人の思い込みというのはちょっと私たちの理解を超えているわけであります。 よく言われるように、ユダヤ人たちは異邦人に挨拶もしなかったのです。軽蔑すべき犬畜生のように彼らは異邦人というものを汚れた者として見下しておりました。ですからユダヤ人が異邦人と一緒に食事をしたりすることすら許されなかったわけでしょう。私たちは使徒の働きの10章や11章でその点について少し学んだわけであります。 使徒の代表者であるペテロは、イエス様の救いを知ったあとでも異邦人との交わりを忌避して、恐れて避けていました。そのペテロの誤った意識を正すのに、主は特別の方法を用いられたということを私たちは使徒の働きの10章で見たわけであります。 布の、四角の布に、白い布の四角の入れ物のような布が天から下ってきたのです。その中には四つ足の獣がいくつも入っていたのでした。ペテロが空腹になって、屋上で昼ご飯の前に祈っていると、夢うつつになって、主からの幻を見ます。 そのときに主からの声があって「ペテロ。ほふって食べよ。」と言われたと書いてあります。ペテロが「主よ。私は汚れた動物は食べません。」同じことが三回、繰り返されたと書いてありました。 ペテロは三回目に気付いたのでしょう。それほどに当時のユダヤ人たちの持っていた、その選民意識というのは、ちょっと私たちには理解はできないです。 異邦人が神の救いにあずかることは絶対にあり得ないとユダヤ人は信じて疑いませんでした。ところが彼ら、ユダヤ人たちこそが神の御名を汚し、異邦人の前につまずきとなっていたのであります。事実は反対でした。ですからイエス様はあれほど激しく、ユダヤ人のその迷妄を攻撃なさったわけであります。 ユダヤ人こそが実は異邦人と神様との間に立ちはだかって、異邦人が神を求めるものを妨げている者となってしまっているわけであります。彼らのその霊的な高ぶり。盲目さが神様の前における一番厄介な問題と変わっていったのです。そこに非常に大きな逆説がやっぱりあるわけです。 ユダヤ人の、最初のユダヤ人の父となったアブラハム。アブラハムを主は選ばれて、そこからユダヤ人をこの地上に送り出したわけですけれども、アブラハムの信仰に対する主の約束は子孫のユダヤ人たちにとって実にとんでもないものとして捻じ曲げられていったわけであります。 旧約聖書の中でも何度も何度もこれは預言者たちによって責められたことでしたけれども、かえってユダヤ人たちはこの預言者たちを十字架に・・・十字架ではありませんが、十字架に架けられるのはイエス様だけですから、当時は十字架刑はありませんので、だいたい石打ちですね。みんな迫害されていくわけであります。殺されていくわけであります。 このユダヤ人たちの盲目さがイエス様を、神のひとり子をも十字架へと追い詰めていくわけであります。 ローマ人への手紙の2章。1章の終わりのほうに出てくるさまざまな罪の目録ありますでしょう。ちょっと声をあげて読むのも恥ずかしくなるような、おぞましいような罪の目録が記されています。26節から31節辺りまでです。 これは異邦人の様を描いたものだと言われております。このローマ人への手紙を書いたのはコリントだと言われていますが、確かコリントでした。コリント、当時のギリシヤの道徳的な不愛がそこに記されているわけであります。性的な乱れ、同性愛から出てくるわけでしょう。ここに。 ローマ人への手紙2:29-31
もう次から次にパウロは異邦人の生活の中に現われている罪の目録を指摘しているわけであります。だから異邦人というのは汚れた者であり、だからユダヤ人は彼らとは交わらないのだと。 これを読むとユダヤ人は溜飲が下がるのかもしれませんけれども、その返す刀でパウロは2章の1節で、 ローマ人への手紙2:1
これはユダヤ人に対する弾劾なのです。2章はユダヤ人に対する弾劾であります。 異邦人とはそういう者だとあなたは言っているけれども、あなたも同じことをやっているではないかと言って、パウロは同胞に対して今度はその弾劾を向けていくわけであります。 6節からちょっと見てみましょうか。 ローマ人への手紙2:6-11
異邦人はさばかれるけれども私たちはさばかれないと思うのは間違っているのだ。神はえこひいきなさらないのだと彼はここで言っているのです。 ローマ人への手紙2:17-24
24節のこの引用句は旧約聖書からのものです。 「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」あなたがたは神の恥なのだ。とパウロは容赦しないわけであります。 ローマ人への手紙3:9
ユダヤ人よ。わが同胞よ。あなたがたは異邦人を蔑んでいるけれども、あなたがたにその資格はないのだ。あなたがたは多くの恵みを受けながら、その恵みをむしろ神に対する、神の栄光を汚すものとしてかえって使っているのだ。だからあなたがたは罪は重いのだということをパウロはここで言っているわけであります。 多く与えられた人は多く求められるのであります。多くの賜物を神様からいただけた人は多くの責任がそこに加わっているのであります。 ユダヤ人はその祝福を神様に対するむしろ忘恩と言いますか、そういうものに変えていっている。イエス様がマタイの福音書の23章で悲痛極まりない叫びを発していらっしゃいます。 マタイの福音書23:13
マタイの福音書23:15
マタイの福音書23:25-28
マタイの福音書21章。イエス様はここで例え話で農夫たちが自分の主人の息子まで打ち殺したという例え話をして、収穫のときが来たら、その主人が自分の土地の地代を要求しに息子を送ったら、最後はその息子まで殺した。 何人も遣わして全部殺し、最後は息子まで殺したという、ご自分の十字架の死を予告するような例え話がそこに出ています。 33節に、もう一つのたとえを聞きなさいというふうにありますけれども、もうちょっとそこは端折ります。 マタイの福音書21:43
ユダヤ人から神の国は取り上げられ、異邦人に与えられるのだということでしょう。これは。 ユダヤ人が、神が遣わしてくださる預言者を次から次に迫害して殺していく。最後は神のひとり子であるわたしをも十字架につける。だから、神の国はあなたがたから取り上げられ、異邦人に与えられるのだということです。これは意味ははっきりしています。 ガラテヤ人への手紙です。2章の11節のところに、ペテロがユダヤ人たちの非難を恐れて、また異邦人との交わりを避けるようになったことに対するパウロの叱責のところが書いてあります。 ガラテヤ人への手紙2:11
ペテロのことです。ケパというのはペテロです。 ガラテヤ人への手紙2:11-16
福音がぼかされ、捻じ曲げられていきそうになる危険を感じて、大先輩であるペテロを面罵したのであります。 パウロという人はやっぱりすごいと言いますか、パウロの勇気と言いますか、先輩だから遠慮してというような、これは遠慮すべき的ではないということだったのでしょう。 福音がぼかされていく。そのことを非常に恐れて、パウロは面と向かって抗議したと言っています。 ローマ人への手紙1:16
ギリシヤ人というのは異邦人のことの代表であります。ユダヤ人にもギリシヤ人にも、ギリシヤ人というのは異邦人を代表して使われていることばであります。 コロサイ人への手紙3:9-11
エペソ人への手紙2:11-13
エペソ人への手紙2:18
イエス様の死によって、ユダヤ人と異邦人との区別が取り除かれた。すべての人がキリストにあって、一つとなって、神の御前に出て行くことができる。 すべてのものを一つにするために、イエス様はこの世に来られ、ご自分を死に渡された。和解の福音というふうに言われているのはそういうことだと思います。隔ての壁を打ちこわされたというふうにも14節には書いています。 エペソ人への手紙2:14-15
となっています。ユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁を打ちこわす方として、イエス様は来られた。そこに福音の奥義があるのだということでありますから、これはほんのわずかでも後退させるわけにはいかなかったということでしょう。 ユダヤ教にもういっぺん戻るということは許されなかった。それはイエス様の十字架を無効とすることなのだということでしょう。パウロは、この一点はもう譲れなかったのでしょう。 だから彼はほかのところでも言っています。私がもし、キリストの十字架ということを語らなければ、私に対する迫害はないのだと言っています。 かつてのユダヤ人のこの霊的な盲目さ、霊的高ぶりというものが今日のクリスチャンのうちにも知らず知らずのうちにはびこってきているのではないかという指摘をなさる私の尊敬する先輩なんかもおられます。 クリスチャンだけが救いに選ばれた人々であるということが誤解されてしまって、ほかのものを切り捨ててしまって、キリスト教原理主義などと言われているものに、そういう危惧はないのかということを仰る方もいるのです。 イエス様によって選ばれるということは、この前も申し上げたように、自分自身を捨てるように選ばれるということであります。主と人々に遣える者として選ばれるということであります。 何か神様から特別に目をかけてもらった特権的な何かそういう、何かエリートみたいな、昔のユダヤ人たちのもっていた選民意識というのは、とんでもない誤解であるということなのです。 そこに立ったら、もう一回私たちは福音書の時代に戻ってしまい、イエス様があれほど激しく非難されたユダヤ人たちと同じところに立ってしまうことになる。 あれほどパウロを終生迫害し続けたユダヤ人たちと同じところに立ってしまうことになる。クリスチャンは何よりも自分自身を捨てて、神と人とに仕えるべく召し出された者であるということ。それが神様が仰る、選びということの意味なのだということ。私たちは正しくそれを理解しなければいけないと思うのです。 正しい方はただ主だけであるということ。私たちはクリスチャンだから、私たちの言っていることは正しいということではない。私たちは人間ですから、私たちは正しくない。正しい方はただ主だけである。これが常に変わらない聖書の宣言であります。 ここにいつも私たちは立たなければいけないと思います。そういう信仰にだけ主はご自身のみこころを、真理を悟る真の知恵を与えられるのではないでしょうか。 エペソ人への手紙2:8-9
ローマ人への手紙11:12
ローマ人への手紙11:15
ユダヤ人が捨てられたことによって福音は私たち異邦人に届いたけれども、しかしユダヤ人が悔い改めて立ち返るならば、それは死者の中から生き返ることでなくて何だろうかと言っています。 ローマ人への手紙11:17-20
ユダヤ人は ローマ人への手紙11:20-24
だからあなたがたは、ユダヤ人は捨てられたと言って見下げてはいけないというパウロの警告です。 ユダヤ人は、そのときが来たらすべて救われるというふうにそのあとで書いているわけですけれども。30節からちょっと見てください。 ローマ人への手紙11:30-31
ローマ人への手紙11:33
神はすべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたというふうに32節に書いています。 人間の知恵をはるかに超える神様の摂理なのだと、パウロはそこで感嘆のことばをもらしているわけであります。 最後にパウロは、私たちクリスチャンが目指すべき目標を改めて示しています。 ユダヤ人と異邦人である私たちとの間のさまざまないきさつがありますけれど、しかしすべての人の目指すべき目標はこれなのだと言って、彼はそのローマ人への手紙の12章の1節、2節でこう述べています。 最後にそのところまで読んで終わりたいと思います。 ローマ人への手紙12:1-2
そこまでで終わりましょう。 |