引用聖句:使徒の働き2章22節-33節
前回は、使徒の働き2章の最初のほうの、おもに聖霊、聖霊降臨についてお話をしたと思うんですね。この、五旬節と言われるペンテコステの日に、聖霊が、約束の聖霊がくだった。 大音響を発して、周りの人々が驚いて駆けつけて来たという記事であります。われわれには想像ができないような出来事であります。 本来の意味でのキリストの教会というのは、このときに成立したということになるのではないかと思うんですね。普通、そういうふうに言われてるんじゃないでしょうかね。 このペンテコステの日にキリストの教会が生まれる。もちろんその前から、1章で見たように、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたと書いてありますから、もちろん集っていたわけです。 しかしその方々が、このペンテコステの日に、キリストの御霊に全員が浴するわけですね。正真正銘のキリスト者、キリストの所有とされたと考えられるからであります。 この前もお読みしたように、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」と、ローマ人への手紙8章9節に書いてあるんですね。 だから、クリスチャンであるかないかの印は、その人が御霊をうちに宿しているかどうかだっていうことなんですね。 ついでに、 ローマ人への手紙8:14
非常に大事なことですね。神の御霊に導かれる人、それが信仰の一番大事なポイントだろうと思うんですね。私たちが内なる御霊によって導かれるかどうか、そこにいつも聞く声に、耳をいつも向けているかどうか、それが決め手じゃないかと思うんですね。 エペソ人への手紙1:13-14 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。 聖霊こそ、印鑑なんですね。ポン!と、神さまがわたしのものだという、所有印を押してくださる。それが御霊なんだということであります。 ともかくキリストの御霊、聖霊については、私たちの信仰生活の中心にする問題ですし、クリスチャンが祈りをもって日々接している信仰の導き手ですから、常に深く心を留めておかなければならないわけであります。 聖霊については、聖書のいたるところに語られていますので、それがどういうお方かについては特に注意をして学ぶ必要があると思うんですね。 この前も見たように、御霊をけがすということは最大の罪である。聖霊をけがすということに対して、私たちは深い注意をはらっておかなければならない。「たとえ私たちが神を冒涜しても、イエス・キリストを冒涜しても赦される。」と、イエス様は仰ってるんです。 しかし、「聖霊を冒涜してはいけない。」、なぜなら聖霊は直接に私たちに臨まれるお方であり、この方を私たちが拒むならば、私たちは導き手を失うのであります。真理を閉め出してしまうのであります。 ですからそういうことがないように、注意しなければならないのですね。 この前も言ったように私たち人間は、神さまをけがすということはできないんです。月に手が届かないように。キリストをけがすということもできないのであります。 しかし、御霊をけがすことはできるのであります。なぜなら御霊は、私たちの良心に語りかけてこられるお方だからなんですね。だから、御霊に対して私たちはやっぱり恐れる心を忘れてはいけないのであります。 あえて言えば、クリスチャン信仰の成長のレベルは、その人がどれだけ聖霊について教えられているか、身をもって知っているかということになるのではないかと思います。 御霊によって動いてるのか、それはやっぱり非常に大切なことですよね。聖書の知識とか、色んなこと、そういうもんじゃなくて、その人のうちに聖霊が住んでいらっしゃるかどうか、その人の行動が御霊によって導かれているかどうか、それをおのずと分かってくわけであります。 御霊はその人間性というものを潤してくるんですね。柔らかく包んでくると言いますか、生のままの人間の持っているその個性そのままではなくて、聖霊はそれを包んで、聖めてまいります。 ぼくは、それがやっぱり非常に大事なことなんではないかと思いますね。私たちが時々会って、優れたと言いますか、印象を受ける信仰の先輩たちっていうのは、やっぱりそういう違いを持ってるんじゃないでしょうか。 この聖霊降臨によって大きな音が生じ、人々がその音に驚いて集まって来た。 この聖書の注には、そのときは、あの1章にあった二階の部屋ではなかろうというふに書いてあります。屋上の部屋ではなかろうと書いてますね。おそらくエルサレムの神殿だったんじゃないだろうかというふうに、聖書の注には書いてありますが。 そのときに、弟子たちがいっせいに他国の言葉で語り出したということでしたですね。そしてそこに集まって来た多くの外国人たちは驚いた。そこにはいっぱい、十ヶ国ぐらいの地域から来てるユダヤ人や改宗者たちがいたわけであります。 ユダヤでは、ユダヤ人として生まれなかったけれども、ユダヤ教に改宗してきた人々、それもユダヤ人として認められたんですね。正統のユダヤ人として扱われたわけです。彼らは驚いた。 そこで驚いている外国人たちに向かって、おもに使徒たちを代表してペテロが、その理由を説明したということになっています。この2章は47節から成ってますけども、その中の半分以上、25節はペテロの言葉になっておりますね。 引用した聖句も、ペテロの話したことの一番肝心なところになっているんですね。 この前もちょっとお話したと思うんですけども、他国の言葉が、のちのちに言われる異言問題の発端となっていくわけですね。 注意して調べてみると、やっぱり他国の言葉っていう表現のようですね。異言というふうにコリント人への手紙の中に出てきます。これもやっぱり、同じような言葉なんですね。 やはり日本語では、異言というふうにコリント人への手紙第Iで訳されており、ここでは他国の言葉っていうふうな、複数形で、色んな他国の色んな言葉というようなことから、何か異言問題が出てきて、私たちの集会なんかじゃもう、異言なんてのはまったく問題にもならないっていうか、問題にもしないからいいですけども、こういうことで結構、苦しんでる方々も実はいるんですね。 異言を語れなければ聖霊の賜物を持っていない。そのために一人前のクリスチャンでもないというようなことが言われて、それで焦って、異言を語りたいと願う人々が出て来るということですね。 気の毒な人々ですけども、そのような人々の弱さにつけこむ、惑わしっていうのも常に起こるっていうのが、信仰のやっかいなところです。 これは信仰一般についてあてはまるんですね。いわゆる宗教っていうのはいっぱいあるわけですけども、こういう本筋から外れたことで人々を惑わす。本当に困ったもんでありますね。 一種の強迫観念に訴えてくるんですね。本当にけしからん話です。またそれによって、そういう思いにかりたてられてしまうんですね。いわゆる、信仰の弱い人たちが惑わされてしまう。そんなことをどうでもいいような問題だということに気が付かないで、何かそういうことができないと自分は半人前のクリスチャンじゃないだろうか。 あるいは自分の救いは、不確かなもんじゃないだろうかという、そういう思いに陥るということなんですよね。 なんかそう言われると大丈夫なんだろうかということになってしまう。言ってみれば、それを信仰の弱い人たちということになると思うんですね。「そうじゃない!」と確信をもって言えないもんですから、それによって振り回されてしまうんですね。 少し問題は、それとはずれていますが、例えばローマ人への手紙の14章1節。いつの時代にもこういう人々がいた。それに対して十分な配慮をしなさいと、パウロはここで書き送ってるんですね。ここがやっぱり教えられるところですね。 ローマ人への手紙14:1-2
弱いっていうのは、信仰の弱いっていう意味ですよ。 ローマ人への手紙14:3-8
この信仰の土台に立っとれば、あとのことはどうでもいいんですよ。問題はこの土台に立ってること、これはすごい、しかし立場でしょう。 ローマ人への手紙14:7-8
もしこう立てたら、それは決して信仰の弱い人ではありませんね。もしここに立つならば、何を食べよう、何を食べないということはどうでもいい問題である。 どの日が聖なる日、どの日はそうでない日というふうに分けても分けなくても構わない、どうでもいいことであります。 だから自分と違う考え方をしてる人をさばいてはならないと、彼は言ってるんですね。 コリント人への手紙第Iの8章の4節では、肉の問題ですね。偶像にささげられた肉、やっぱり同じ食べ物についてなんですが、 コリント人への手紙第I、8:4-9
パウロは、自分には信仰についての正しい知識があると言ってる、そのコリントの兄弟たちに向かって、その知識を持たない兄弟たちに対して、配慮しなさいと言ってますね。むしろ、知識を持っている兄弟たちに対して彼は、咎めているような感じですね。 「確かにあなたの言ってる通りである。偶像にささげた肉なんてのは意味がない。」、偶像の神にささげた肉を、それを市場に出して、それを売ってるわけなんですね。それを買って食べてもいいのかっていうそういう問題なんです。 それに対して、偶像の神というものは存在しない、だからそこには何の意味もない。だから偶像にささげられた肉だといって売られていても、一向に構わない。 しかしなかには、そのことが分からないで、オドオドして、これを食べたからといって、そのために良心に咎めを感じたり、悩んだりする人もいるかもしれない。そういう人を見下したりして、つまずかしてはいけないと言ってるんですね。 もし自分の正しい行為によってもつまずくなら、それは愛から出た行為ではない。 コリント人への手紙第I、8:13
恐るべき覚悟ですよね。 私たちにこれだけの配慮があるかと言うと、はるかに遠いと言わざるをえませんね。クリスチャン信仰において大切なことはただ一つのことであります。 すなわちそれは、主を心から恐れ、主を愛するということ。主を恐れ、主を愛するがゆえに罪から離れるということ。主の栄光のために生きるということですね。そのことに尽きるわけでしょ。 イエス様が仰ったように、思いを尽くし、力を尽くし、心を尽くしてあなたの主である神を愛する。これが第一の戒めである。あなたと同じようにあなたの隣人を愛せよとイエス様は仰ったんですね。それ以外のことはどうでもいいわけであります。 しかしこれを食べてもいいんだろうか、悪いんだろうか。ああしていいんだろうか。この日は聖なる日で、この日はそうでない日でとか、そういうことを心配してる人もいるんですね。 しかしそういう人々に対して、つまずきを与えないようにしなさい。パウロは、イエス様が仰ったそのことを愛という言葉で、一つの言葉で要約したわけですよね。 コリント人への手紙第I、13:1-3
コリント人への手紙第I、13:13
真実の愛というのは、人を高ぶらせないわけですけども、信仰というのは、まかり間違うと人を高ぶらせるということでしょうね。狂信的になりうるわけです。 しかし、愛は狂信的にならないと言いますか、ここに表わされているように、4節以降のパウロが挙げているように、やっぱりこういうことなんでしょうね。 パウロが先ほど言った兄弟たちへの配慮、あそこに示しているあの心遣いの深さを思うと、本当にそこから自分がどんなに遠いかという思いをさせられますね。 先ほどの本題に戻って、先のほうに進みたいと思いますが、ペテロはこの大音響とともに始まった出来事、周りに集まって来た多くの人々がいぶかしがる出来事の理由を説明するわけです。 そこはヨエル書の引用になってますが、比べてご覧になれば分かるように、一語一句その通りではありません。新約聖書に出て来る旧約聖書からの引用は、すべてそのように、文字通りの引用にはなっていません。 彼らはそれほどこだわらなかったということですね。そうじゃなくて、その意味、解釈と言いますか、それを、旧約聖書からの言葉として引用してるわけであります。 ダビデの詩篇の言葉もそうですよ。比べてご覧になると分かるように、違います。かなりね。 使徒の働き2:17-18
終わりの日と書いていますが、ヨエル書では、「その後に」となっています。要するに救い主が来られ、神の救いが成就されるときということでしょうね。そのときから終わりの時代と呼ばれるとみてよろしいですね。 旧約聖書で預言されている神の救いのとき、それが成就されるとき、イエス様がこの地上に来てくださり、十字架で死んでくださり、三日目によみがえってくださった。 約束の救いの成就した日。これが恵みの御世と今、呼ばれていますね。恵みの時代にわれわれ生きてると言われてますけども、しかしその恵みの時代は同時に、終わりの時代でもあるわけです。 神さまのご計画が完全に成就するときの時代。それが、この終わりのときという言葉の広い意味でしょうね。イエス様が来られて、神さまの救いの約束が成就したそのあとの時代であります。 それは恵みの時代でもあるんですよ。希望の時代でもあるんですよ。もちろんね。 使徒の働き2:19-20
これも正確にその通りではありませんけども、ヨエル書の言葉であります。これはイエス様が語られた、主の御再臨のときの預言にもよく似ていますね。 マタイの福音書24:1-3
ヘロデ大王が着手して、七十年ぐらい経ってもまだ完成していなかったような、当時のエルサレムの大神殿ですね。この世の権力の象徴であったその大神殿のすばらしさを見て、弟子たちは感嘆していたんですね。 何てすばらしい宮でしょう。何と大きな石だろう。イエス様はそれをはるかに超えたところを見ていらっしゃる。これが跡形も無くなるときが来る。 人の見るところと、主が見ていらっしゃるところはいつも天と地のように開きがあるわけですけども、イエス様は石が他の石の上に乗ったまま残ることはないであろう。根こそぎ、この神殿がくずれ去るときが来ると仰ったわけですね。それで弟子たちは驚いたのであります。主よ。それはいつでしょうか。 マタイの福音書24:29-31
兄弟姉妹がよくご存知のところですね。集会では、多くの兄弟たちがこのところを、主の再臨について多くの学びをなさっているでしょ。確かに、私たちの周りの出来事を思うとそれはいつでもありうることだと思いますね。 だれにもそれは断言できないのであります。しかしイエス様が仰ってるように、主は御使いを遣わして、地の果てから果てまでご自分の民を集めてきました。その日に慌てて飛び出してはいけないかのようなことばもありますね。 だから私たちは、安心して主のみわざに日々励めばいいのであります。それ以外に方法はないのであります。主の再臨が近いんじゃないか。 ある若い兄弟が、子どもの教育保険を解約したほうがいいんじゃないかと悩んでいるそうでありまして、そういう心配をなさる人々がやっぱり出て来るんだろうなと思いますけども、当たり前に、いつものように堅実に歩んで、しかし日々、本当に信仰によって歩む、私たちは自分の身丈に応じた歩みしかできないんですから、それぞれの信仰にとどまれと、パウロが言ってるように、身丈に応じて歩むということですよね。背伸びしたって始まらないわけですから。 安心して、腰を浮かさないで、その場その場において信仰の歩みを全うするということだと思いますね。そうすれば、主はご自分のほうから、ご自分の民を集められるわけであります。 だから問題は、ぼくはいつ主の再臨があってもなくても、私たちの歩みは同じ姿勢に立ってなきゃならないということと思うんですけどね。いかがですか。 ペテロの手紙第I、4:7-11
とありますね。ですからクリスチャンっていうのは、いつでも、最後のときにいる人間だと思っています。堅い表現をすると、終末的な存在だと思っています。 私たちは、いつこの地上から取り去られるか分かりませんし、主はいつ再臨なさるか分かりませんよね?しかしクリスチャンは、いつでもその意識は持ってるものであります。そういう意味で、クリスチャンてのは、いつでも死というものを身近に感じてるんだ。 しかしその死はまた、決してこの世の人が感じてるような死ではない。だからクリスチャンの生涯というのは、そういう意味では獲物にならざるを得ないわけですよね。それこそ、一日一生であります。 使徒の働き2:21
この言葉はローマ人への手紙の10章にも引用されていますね。 ローマ人への手紙10:13
嬉しい言葉ですよね。 パウロはあの10章の中で、ギリシャ人でもユダヤ人でもない、神はすべての人の神である。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるからであるという、このヨエル書の言葉を引用していますね。すばらしいですよね。救われたい人は、だれでも救われる。 人が真剣に救いを求めて叫ぶときに、人は心が開かれるんですね。まだまだ何とかなるって高ぶってる限り、なかなか人は神さまの前に心の底からひれ伏さないもんですけども、どうにもならんということが分かり、もうこれで万策尽きたと言いますか、これでどうにもならないってところに人が立たされれば、人は心の底から神さまに向かって、叫ぶと思いますね。「助けてください。」と言うはずですよ。 クリスチャンになると、これを素直に言うようになるんですね。かつてはなかなかそれが言えないと言いますか、苦しくても頑張ったり、何とかそういうことを言わない。少なくとも人の前では言わない。 しかしクリスチャンになると、自分の弱さを認めること、本当に主の前に素直に助けを求めること、それをごく当たり前のように私たちは言うのであります。これがどんなに私たちを重荷から解放していることか。 素直に主の前に助けを乞い求めるということ、これはやっぱり自我が砕かれないと、人間の頑なな自我や誇りが砕かれないと、人は素直に祈れないものですね。 22節から36節までは、ペテロの最初の福音宣教の核心部分をなしているところであります。なんと一日で3,000人の人々が信仰に導かれたと書いてありますね。 使徒の働き2:41
歴史上、最大の伝道の日じゃないでしょうか。生涯かけて3,000人もの人々を信仰に導く伝道者っていうのは、あんまりいないんじゃないかと思いますけども。 ペテロの伝えた福音、すなわちイエス様の復活についてのメッセージが、当時の、ご当地だったエルサレムの人々に与えた衝撃が、どんなに大きかったかっていうことだと思うんですね。 ペテロがそこで言ってるように、それはエルサレムの町の中で起こったことでしたから、ほとんどの人々が直接にイエス様を見ていたのであります。それは一年や二年じゃありませんでしたから。 イエス様は三年半くらい、エルサレムにはしばしば来られました。しかも、イエス様が十字架にかけられたときには、エルサレムの町あげて、おそらく大人たちは全部、イエス様の十字架の道行きを見ていたはずですよね。 それは町をひっくり返すような出来事だったからであります。直接彼らはそれを見ていたんですね。 使徒の働き2:22
と、ペテロは言ってるわけです。あなたがたは見た。 使徒の働き2:22
(テープ A面 → B面) 直にイエス様を見て、その多くの言葉やわざ、奇蹟をからだが知っていたということ。これがやっぱり大きな伝道の、そのときの3,000人の人が救いに導かれたという、そういう大きな出来事の要因だったんじゃないかと思いますね。 この点がのちに、パウロがギリシャのアテネで、初めて福音を宣べ伝えたときに、多くの人々が真面目に相手にしなかった。多くの者はあざ笑い、他の者はこのことはまたあとで聞くことにしようと言って、帰って行ったということが書いてますが、その違いだと思うんですね。 イエス様がわざを行なわれた場所であり、十字架にかかられた場所であったということも、大きな要因だったと言えると思いますねー。23節では、 使徒の働き2:23
あなたがたは、イエス様の処刑について責任があるのだと彼は言ってるわけであります。 24節から32節まで、ペテロはイエス様の復活という、クリスチャン信仰の確信について述べてるんですね。文字通り驚天動地のことであります。この天地開闢以来、最大の出来事であります。 ペテロはこのことを声を大にして叫んだのであります。このことにクリスチャン信仰のすべてがかかっているのだと、ペテロは分かっていたのであります。 しかしまた、このことが分かるのも、御霊の働きによるのであり、イエス様の復活されたお姿を四十日間目で見ていながら、弟子たちが救いについてどの程度理解していたかということは、きわめて怪しいんですね。 最初のときに見たように、イエス様は四十日間、復活されてから弟子たちと一緒におられました。それは四十日間、ずっとおられたんじゃなかったんですけども、四十日にわたって、イエス様は何度もご自分を現わされ、一緒に弟子たちは食事をした。ペテロはそう書いているのであります。 しかし、彼らには理解できなかったんですよね。イエス様が確かによみがえって、ここにおられるということ。それはとんでもないことなんだけども、それは事実であるということを彼らは見てるのであります。 そのことに疑いを持たないのでありますけども、しかしその意味は分からないのであります。 信仰のことっていうのは本当に不思議なものですね。聖霊が人間の心を被ってる、このベール、罪のベールっていうものを取り除かない限り、目で見ていることが、その意味が分からないんですよ。 だから本当の意味で分からないんですね。弟子たちは四十日間、見ていたんですね。しかしやはり、とんちんかんなことを言ってるのであります。イエス様の救いが何を意味してるかが、まだ分からないのであります。 このペンテコステの日に、弟子たちの心のまなこ、信仰のまなこがはっきり開かれてきた。御霊が彼らの目を開かれた。どうも、そういうふうに思いますね。 それ以前とそれ以後は、もうガラっと変わってくるんですよね。この使徒の働きの2章以降、福音書に出てくる弟子たち、使徒の働きの1章までに出てくる弟子たちと、まったく別人になっていくんですね。 これはクリスチャンが読むと、その姿は非常に劇的に変わってくる。それは、このペンテコステをはさんでのことなんですね。イエス様の復活という事実を見ていながら、その意味が分からない。 罪からの救いということが分からなかったようであります。人が神に背を向けて生きてるという、その罪というものの恐ろしさについて彼は、やっぱり分からなかったんですね。 あれをする、これをする、こういうけしからんことをするということは、もちろんそれはよろしからぬことであります。それはもちろん罪であります。しかし、その背後にあって、人間が創造主なる神さまに背を向けているという、このことがどんなに恐ろしいものなのかということ。これに、弟子たちが気が付いてないんですね。 私たちの目が開かれて、自分と主との関係、それが問題なんです。私たちはいつでも主に背きうるもんですから、そのことを本当に心しているということですね。それが大切なことだろうと思うんです。 自分がやっていることすら、自分でわきまえないっていう、この絶望的なありかた。そういう中に自分がいたということ。そこから私たちを引き出すために、救い出すために、イエス様は来てくださったということ。 その贖いのために、神さまのさばきを一身に代わって受けてくださった。その証拠としてイエス様復活されたということ。ペテロたちはこのとき初めてそのことが分かるわけであります。復活の意味ですね。救いの意味ですね。罪が何を意味してるかっていうことですね。 ペテロの語っている言葉が、非常に力帯びてくるのはその後であります。ペンテコステ以後ですね。ペテロたちはかねてから、イエス様を神の御子に違いないと思っておりました。 彼らは、イエス様のなさることに腰を抜かさんばかりに、恐れ驚くことがしばしばであります。これは一体どういうお方なんだと、彼らはしばしば言ったのであります。 イエス様の不思議な力。ガリラヤ湖の嵐を一言で静められる、「静まれ。黙れ。」と嵐に向かって仰った。そうするとガリラヤ湖の嵐は凪いでくる。 病人を清め、死者をよみがえらせ、ペテロやヨハネたちはイエス様が十二歳の女の子をよみがえらせたときに、その場に立ち会っていたんですね。「タリタ、クミ。」、「娘よ。起きなさい。」とイエス様が仰った。聖書に書いてありますけども、そういうのを見ているのであります。 だから、彼らはこの方は神の御子であると、心からそう信じておりました。イエス様のまた真実さと言いますか、聖さと言いますか、そういうことは彼らは見ていたんですね。 しかし、イエス様についてのそれらの認識はバラバラでありました。部分部分で、全体としてつながりませんでした。 そのために彼らには、大きな戸惑いがいつもあったのであります。弟子たちの見当はずれの言葉や、行ないの理由はそこにあるのであります。 イエス様は、「あなたがたは、わたしをだれと言うか。」と聞かれましたね。そのときにペテロが言ったのであります。「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と。イエス様は、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは血肉ではなく、天にいるわたしの父だ。」と仰ったんですね。 ペテロは確かにイエス様が神の御子であるということを知っていました。心から信じていました。しかし、イエス様は何のために来られたのか、どうして十字架にかかられたのか分からなかったんですね。 だから、イエス様の全体像と言いますか、イエス様の仰っていることが分からず、その確信がつかめないのであります。 しかしその部分部分のイエス様に対する認識や理解が、ここで全体としてつながってきたのであります。初めて、イエス様が分かってきたのであります。それは人類の罪を贖うために、天から来られた贖い主。救い主なのだということであります。 彼らはやっと、あのバプテスマのヨハネの理解に達したということでもありますよね。そういう意味では、ヨハネって人はただ一人イエス様を知っていた人と言えるかもしれませんね。 ヨハネの福音書1:29-34
このバプテスマのヨハネだけが、イエス様を知っていたんですよね。イエス様の母マリヤも、イエス様のことはよく分かんないんですよ。身ごもって、神の子であるということを知っていながらですね、あの弟子たちと同じように、イエス様の部分部分のところしか分からないんですね。そこにマリヤの戸惑いがありますね。 福音書を読むとマリヤの戸惑いが何ヶ所か出てまいります。 このペンテコステを通して、ペテロ始め、弟子たちの信仰の目は開かれていく。 使徒の働き2:33
弟子たちが語るその外国の言葉に驚いている人々に対して、ペテロが今までのことを話したんですね。その理由を言ったわけであります。 こういうわけでこの現象が起こっているのです、ということであります。 このダビデの詩篇もさっき言いましたように、16篇からの引用です。またあとでご覧になってくださいね。字句とは随分違います。ただ意味は、こういうふうに解釈されるだろうなっていう言葉ですよね。 さっきも言ったように、旧約聖書からの引用は、かなり解釈、意訳ですね。この事実にこのみことばがあてはまる、そういう意味を含んでるっていう、そういうところからかなり自由に持って来ているような気がいたしますね。 こういうふうに、ペテロはイエス様の復活について語ったんですね。 使徒の働き2:32
使徒の働き2:24
こうしてペテロは、はっきりと神の御救いが分かりました。確信できました。イエス様のこの復活という事実が、神の御救いの確かさを裏付けて余りある。彼はこの確信を持ちました。彼だけじゃなくすべての弟子たちがそうでしたね。 このように述べてペテロは、どうすべきかと心から教えを乞う、同胞たちに向かって、単純明瞭に力強く救いの道を指し示したのであります。 使徒の働き2:37-38
神への背きの罪を悔い改め、罪の人生を捨てて、立ち返っていきなさい。こういうふうに彼は力強く述べていますね。イエス様を受け入れ、イエス様に従う人生こそ、神に立ち返る道。救いなんだ。 虚しいこの人生から救われて、本当の希望の人生に入りなさい。私たちを祝福しようとしてやまない御父のもとに帰りなさい。神は御子を十字架に架けるほどに私たちを祝福しようとしていらっしゃるのだから。彼はこう言ってるんですね。 心からイエス様を信じようと決心すると必ず、その人に救いの証印として御霊が与えられる。イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょうと、彼は言ってるんですね。 使徒の働き2:40
概してペテロの説教は簡潔明快であります。これは彼の書き残しているふたつの手紙からも感じ取れますね。いかにも元ガリラヤ湖の漁師のリーダーらしい、素朴さと力強さと言いますか、それを感じさせる手紙であります。シンプルですよね。 ペテロの手紙っていうのは、私なんか非常に好きな手紙なんですよね。なんかあったかくて。パウロのような、なんかこう、彼の博学ファンに圧倒されるような感じがしなくて、ヨハネのように、なんか、クリスタル硝子のように透き通ったイメージでもないしね。 何て言うのかな、あったかい、薩摩焼きみたいな。あのふちの厚い、分厚くて、ああいう茶碗みたいな、本当にこう、やっぱり手紙には人の、その人の人柄がにじみ出てくるわけでしょうから、聖書の言葉もそうですよね? 神さまは人の個性を無視して何もなさらないわけですね。その人の個性を通して、ご自分のメッセージを語っておられるわけですので、やっぱりそれが大事だと思うんですよね。 その人でなければならない、伝えられないものがあるわけでしょうから、ブロードタイプに全部同じっていうのは、そういうことじゃなくて、その人ひとーりひとりの、人生の歩みを通して、その人の人柄を通して、福音ってのは証しされているわけであります。 そこの3,000人の弟子が加えられたというんですから、どうやって洗礼授けたんだろうって思いませんか、みなさん。これはものすごい数ですから、何十人で手分けしても、一日じゃとても洗礼を授けられなかったんじゃないかと思いますけども。大変なことでしたね。 使徒の働き2:43-47
主の御霊が働かれるところには、人の心に聖なる恐れが生じるのです。そしてそのことが、人間の心から私心、私の心を取り除くようであります。そのときに主のみわざが現われてくるんですね。 人間が自分の考えや自分の私心によって、がんじがらめになっているとき、やっぱり主は働かれられないんですね。自ら主を恐れて、自分のそういうような肉なる心というのが消え失せるときと言いますか、取り除かれるとき、吹き飛んでしまうとき、そのときに主のみわざがそこに現われてくる。 だから聖書のあちらこちらに書いてるように、主の臨在されるとき、主の御霊が働かれるとき、人々は深い主の前における恐れを感ずるのであります。 モーセの記事にしてもそうですよね。アブラハムなんかにしてもそうなんです。 御霊は私たちに聖なる方の臨在を示してきますので、人はそこに深い恐れを覚えてくるんですね。だからペテロにしてもパウロにしても、彼らが大きなわざをする、いやしのわざとかね、そういうときには決まって、人々のうちに深い神への恐れが脅威してくるときなんですね。 私たちの自己中心のさまざまな考えや打算、そういうものから私たちが解き放たれるとき、主は確かに働いておられるのであります。 47節に、「すべての民に好意を持たれた。」と書いてますね。この集まっていたクリスチャンたちは、この世のものとは違う聖い交わりが、周りの民に好意を持って見られたのであります。 それは彼らがやっぱり、内側を聖められてきたからなんですね。今までのそういう、この世的な、お互いの肉なるそういうものから解き放たれてきたときに、それは自然に周りに共感をもって、「ああ、なかなか尊敬すべき人たちだ。」ってな、そういう自然の結果をもたらしたってことでしょうね。 このあかしが、救いにあずかる人々を日々増やしていったわけであります。問題はやっぱり私たちの交わりが、そういうものであるかどうかってことですよね。それがやっぱり集会にとっていつも大事なことだと思うんですよね。 それはひとりひとりのやっぱり内なることなんですね。主の前に私たちが内側を本当に整えられる。それを通して、生まれてくるものだと思いますね。 江戸初期のキリシタン迫害の頃に来日したバテレンが、来てすぐ捕えられて、九州から江戸に送られたそうであります。 何ヶ月か、あるいは一年ぐらいだったかもしれませんが、江戸の牢に、座敷牢のようなところに入れられて、そのバテレンの世話係を老夫婦が命じられて、この人の世話をしたんですね。 その老夫婦が、このバテレンの様子をじっと見ながら、自らキリシタンになって、名乗り出て処刑されたという記録があるそうであります。 キリシタンになると処刑されるということをよく知っていて、それでありながら、そのバテレンの生活ぶりを見て、あえてキリシタンになって、名乗り出ていった。これは事実だそうですけども、確かにすごいもんですよね。 クリスチャンの生活において、「何だ、あれがクリスチャンか。」って。「あれなら結構だ。」って、往々にありがちであります。自分の命と引き換えだと分かっていながら、十分それを承知していながら、自分もまたあの信仰によって生きたいと願う。それは圧倒的ですね。 ベック兄が再臨のことをよく仰るそうですけども、おそらく、「そのように信仰に歩め。」ということを仰りたいんじゃないのかって思いがするんですね。そういう自覚に立てということなんじゃないかと思うんですけども、やっぱり安穏に単なる主の恵みを受けるだけの、その安穏なって言いますか、いつの間にかそういう信仰の歩みに流れやすい者ですけれども、本当に帯を締めて、立たなきゃいけない。そういうことを、改めて思わされます。 |