使徒の働き40


蘇畑兄

(調布学び会、2006/04/27)

引用聖句:使徒の働き23章1節-11節
1パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」
2すると大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。
3その時、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」
4するとそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と言ったので、
5パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」
6しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」
7彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。
8サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
9騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかも知れない。」と言った。
10論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。
11その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。

使徒の働きの23章、ご一緒に見てみたいと思います。
この前の第22章の学びには三回も費やしましたけれども、今回のこの第23章はそれほど学ぶべき内容はないかのように思われます。
内容のあらすじとしましては、パウロがユダヤ人たちにリンチされそうな、そういう況から、ローマの千人隊長、名前はクラウディオ・ルシアであるということがこの23章で初めて明らかになってきますけれども、この千人隊長の手によって救出されて、ユダヤ人の最高法廷であるサンヘドリンに立たされましたが、そのサンヘドリンも大混乱に陥って収拾がつかなくなり、パウロの身の安全のためにローマ総督の滞在地であるカイザリヤへ護送される。そういうことがこの23章の内容になっております。

22章の30節にちょっと目を留めますとこう書いてあります。

使徒の働き22:30
30その翌日、千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人に告訴されたのかを確かめたいと思って、パウロの鎖を解いてやり、祭司長たちと全議会の召集を命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせた。

と、こうなっています。
この千人隊長の動きはなかなか機敏であります。エルサレムの治安維持をゆだねられている者としては、事態は看過出来ないと考えたのでしょう。まかり間違うと騒乱状態になる。そういうことで彼は機敏に動いているわけであります。
当時のローマ帝国の法律は厳格で、もし処置を誤ると、その責任が厳しく問われることになるという恐れがあったのだろうと思います。
そのことは、これまで見て来たこの使徒の働きのあちらこちらでうかがわれます。

確かにこの記事の時代は、あの暴君ネロの化け物の如き怪物だということを聖書事典を引きますとネロのことが書いていますけれども、この恐るべきネロのちょうど支配している時代です。
この四、五年あとにあのネロは自殺するわけですけれども、追い詰められて。そのネロのような超法規的存在というものがあって、必ずしも厳格な法治主義国家ではなかったでしょうけれども、それでも法律によって市民の権利が平等に保護されていたということは大したものであります。
例えば19章にもちょっと戻って見てください。19章でパウロがまた大変な騒動に巻き込まれて、身動き取れないような状態になったときの話が19章、エペソの記事があります。

使徒の働き19:35-41
35町の書記役は、群衆を押し静めてこう言った。「エペソの皆さん。エペソの町が、大女神アルテミスと天から下ったそのご神体との守護者であることを知らない者が、いったいいるでしょうか。
36これは否定できない事実ですから、皆さんは静かにして、軽はずみなことをしないようにしなければいけません。
37皆さんがここに引き連れて来たこの人たちは、宮を汚した者でもなく、私たちの女神をそしった者でもないのです。
38それで、もしデメテリオとその仲間の職人たちが、だれかに文句があるのなら、裁判の日があるし、地方総督たちもいることですから、互いに訴え出たらよいのです。
39もしあなたがたに、これ以上何か要求することがあるなら、正式の議会で決めてもらわなければいけません。
40きょうの事件については、正当な理由がないのですから、騒擾罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動の弁護はできません。」
41こう言って、その集まりを解散させた。

非常に法律に則って、「ちゃんと文句があるのだったら訴え出よ。それをしないでこういうことを引き起こすと、騒擾罪に問われるのだ。」と言って、いきり立つ群衆を静めたというようなことが書いていますけれども、我が国などはまだ歴史に登場しすらしない2,000年も昔のことです。
当時のローマ帝国の法というのは、非常に遵守されていたものであることがここでもわかります。
このことはまた千人隊長が、パウロがローマ市民であることを知らないで、鎖で縛ったことを非常に恐れたことでもわかります。22章。さっきのところの22章を見てください。22章の24節から。

使徒の働き22:24-29
24千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れるように命じ、人々がなぜこのようにパウロに向かって叫ぶのかを知ろうとして、彼をむち打って取り調べるようにと言った。
25彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」
26これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところに行って報告し、「どうなさいますか。あの人はローマ人です。」と言った。
27千人隊長はパウロのところに来て、「あなたはローマ市民なのか、私に言ってくれ。」と言った。パウロは「そうです。」と言った。
28すると、千人隊長は、「私はたくさんの金を出して、この市民権を買ったのだ。」と言った。そこでパウロは、「私は生まれながらの市民です。」と言った。
29このため、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。

いかにローマ市民というのが法律によって保護されているか。間違って縛るだけで自分の責任を問われるという、こういうことがわかります。16章に戻ってください。

使徒の働き16:35-39
35夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ。」と言わせた。
36そこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください。」と言った。
37ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」
38警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人であると聞いて恐れ、
39自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。

このローマの市民権、それがどんな特権だったかということがよくわかります。ただしそれは、ローマ市民に限定されていたのです。
ローマ市民の特権ということを当時の人々はみなよく知っていたので、クリスチャンの神の国の民たる特権が聖書でよく語られているのは、これになぞらえてのことだということが言われております。
ローマの市民権があれほど値打ちのあるものである。すばらしい特権である。守られている、それによって。それになぞらえて、神を信じ、イエス様を信じて神の子とされたキリスト者たちが神の国の民としてどんなに大きな特権を神様からいただくのか。そのことを聖書は色んな形で伝えているのです。

エペソ人への手紙の2章、ちょっと見てください。

エペソ人への手紙2:11-13
11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
12そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

エペソ人への手紙2:18-19
18私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

今は聖徒たちと同じ国民であり、と書いています。このようにパウロは家が裕福だったのでしょう。
彼は生まれながらのローマ人。ローマの市民権をもった人だったのであります。ですからよく言われますように、ペテロが逆さ十字架に架けられて、殉教の死を遂げたのに対して、十字架刑はパウロには科せれなかったと言われています。それは、ローマ市民には残虐な刑は科せられなかったからであります。ですからパウロは斬首だったと言われています。
さて、もう一回、使徒の働きの23章に戻ります。

使徒の働き23:1
1パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」

サンヘドリンの議院議場に立たされたパウロは、祭司長や議員たちを見つめて、このように言い放ったのであります。何か自信に満ちて、この世の権威者である、支配者である彼らを何て言いますか・・・睨み返しているかのように。
あるいは、ちょっと挑発でもしているかのように、この感じがするわけであります。
22章の1節を見てください。ここでパウロは自分も暴行して、殺そうとして襲って来たあの群集たちに対して、22章の1節にはこう書いています。

使徒の働き22:1
1「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。」

ヘブル語でそう語った、と書いてあります。この二つの表現には、ことばには違いがあるのです。
普通のユダヤ人たちには、彼らが自分をリンチにかけようとしたにも関わらず、「兄弟たち、父たちよ。」と親しみを込めてパウロは謙遜に呼びかけておりますが、お偉方を前にしては、「兄弟たちよ。」とだけ呼びかけています。本来はここでこそ、「父たちよ。」と呼びかけるべきかもしれません。彼らは民の指導者ですから。
当時のユダヤ人の最高の指導者たちが集まっているわけでありますが、パウロはただ、「兄弟たちよ。」と言っただけであります。しかも、「私は今日まで、きよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」、パウロはなかなか、こういうことは言わない人です。

何かこの民の指導者たちに対して、言いたいことがあると言いますか、パウロの心の中にそういう思いが湧き出て来たのではないかと思います。
われらこそは神の律法の権威者であるとして、そっくり返っていながら、しかも律法から外れた生活をしている世の権力者たち。イエス様があれほどの口をきわめてその偽善を弾劾されたのが彼らでありました。
その人々に向かってパウロは言っているわけであります。

マタイの福音書23:1-3
1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。

27節、28節。この1章の中には、パリサイ人、律法学者に対する口をきわめた激しい弾劾が語られています。イエス様がこれほど激しいことばを使っているのは、ほかにはないわけでありますが。

マタイの福音書23:27-28
27忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
28あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

マタイの福音書23:33
33おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

これは、これ以上無いというほどの厳しい弾劾です。この世の権威者に向かって、イエス様は本当に厳しいことばを放っておられるわけであります。
パウロが通常とは違って、あえて、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ましたと語ったのは、彼らに対してです。
あなたがたはそのように律法の権威者として人々をさばく立場に座を占めているが、自分自身が神のさばきの前に立たされることは自覚しているのか。あなたがた自身はそのさばきに耐えうるのかと彼らの心にその棘を突きつけているのだと思われます。

パウロはここで、彼らをも神のさばきの座に引き出そうとしているのであります。
自分をさばく律法の専門家たち。祭司長たち。彼らを同じく神のさばきの座に立たせようとしている。それがこのパウロのことばの意味なのだろうと思います。
ローマ人への手紙の2章1節からちょっと見てください。

ローマ人への手紙2:1-13
1ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
2私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
3そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
7忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
9患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、
10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
11神にはえこひいきなどはないからです。
12律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
13それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。

ローマ人への手紙2:17-29
17もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
18みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
19また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、
2121 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
22姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
23律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。
24これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。
25もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。
26もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
27また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
28外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

この2章はすべて同胞であるユダヤ人に対するパウロの厳しい弾劾です。本当にこの2章は徹底的に、このユダヤ人の誇りを打ち砕いているわけであります。
そういうふうなこのユダヤ人の代表者たち、それが今パウロの前にいるサンヘドリンの議員たちなのであります。

使徒の働き23:2-5
2すると大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。
3その時、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」
4するとそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と言ったので、
5パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」

大祭司アナニヤが怒ったのは、彼らの良心に対して発せられたパウロのこの指摘と挑戦に対する恐れと反発によるものでしょう。パウロはするどく彼の内心に、心に迫ってるわけでしょう。
神を恐れ、神の前に生活していますから。神のさばきがあることを、あなたたちは自覚していますか。神のさばきに対してあなたたちはどのような言い開きをするつもりですか。これがパウロに最初に語ったことばの意味だろうと思うのです。
繰り返し言いますように、パウロは彼ら、そのサンヘドリンの議員たち、大祭司アナニヤを始め、彼らをも聖なる神の前に引き出そうしているわけであります。ですからアナニヤは恐れを感ずると同時に、怒ったのでしょう。

24章の中でも総督に対してパウロがこういうことを言っていて、総督が恐れたということが書いてあります。

使徒の働き24:24-26
24数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
25しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。
26それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。

このペリクスというローマ総督は、下心をもってパウロから金を取ろうとして呼び出しているわけなのですけれども、パウロはそれを見抜いていたのです。
そして、キリスト・イエスを信じる信仰について、正義と節制とやがて来る審判とについて彼が語ったので、ペリクスは恐れを感じて、「今は帰ってよい。」と言ったと言っています。このときと同じようなことをここでパウロはやっぱり語っているのだろうと思います。
アナニヤ、大祭司アナニヤという名前が出ていますけれども、聖書にはアナニヤという男性の名前がよく出てまいります。

聖霊を欺いた偽善行為のためにペテロに叱責されて即死したあのアナニヤとサッピラの夫婦のことが使徒の働きの最初のほうに出ていました。
教会に土地を売って、お金を持って来た。しかし一部は隠しておいて、残りだけを持って来て、土地を全部売った代金であるかのように振舞ったのであります。
ペテロはそのことを見抜いて、「これは土地を売った代金の全部なのか。」と言ったら、「そうです。」とアナニヤが言ったというのです。ペテロは別に、「土地を売ってそのお金を教会に寄付せよ。」何てことは何も言っていないのであります。

だれもそういう強制をしたことはないのでありますけれども、アナニヤとサッピラの夫婦は、人々の評判が欲しかったのであります。ですから、土地を全部売って、一部を残して一部を教会に持って来て、すべてをささげたかのように振舞ったのです。その偽善をペテロは叱責しました。
「土地を売ってみんな持って来いとだれも言ってないではないか。そんなことはだれも要求してはいない。どうしてこういう偽善的な行為をするのか。それは人を欺くのではなく、聖霊を欺く行為なのだ。」と叱責をした。
その声を聞くと、アナニヤは倒れて息を引き取ったと書いてありました。そのことを知らずに、しばらくして妻のサッピラがやって来ます。

それでペテロは、あなたたたちは、これこれの値段で土地を売ったのかと言ったら、サッピラは平然として、「そのとおりです。」と答えました。
そのときにペテロは、「あなたの夫、アナニヤを葬って帰って来る人々が、そこに来ている。すぐ、彼らは来る。あなたも同じようにしよ。見てみよ。」と言って、さばきを受けるサッピラもその声を聞いて、倒れて息を引き取ったというようなことが使徒の働きの最初に出てきます。

主の教会に偽善的な振る舞いというのがいつの間にか入り込んでくる。神様を恐れないで、人の目の前に振舞うような人々が出てくる。
人に、ああ、あの人は熱心であるとか、あの人はたくさんの献金をしたとか、そういうことを評価を受けたい。それは偽善です。見せかけの振る舞いというのは、主の教会をけがすものである。段々段々そこには御霊の支配が無くなってくる。単なる人々の集まりになってくる。
教会がきよめられなければならない。ちょうど、多くの人々が回心して、一日に五千人の人々が洗礼を受けたりした時代ですから、もう教会がごった煮みたいになって、その中でこのアナニヤとサッピラの夫婦の事件が起こったのであります。

そのことをきっかけに、教会には主に対する恐れが生じ、人々は本当にすべてをご覧になっている神様の前に歩まなければいけないとして、そこから教会は新しい出発をしたということが最初のところに出てきます。5章でしたか。たぶん7章か5章あたりです。
教会は常に真実な心をもって集う場所でなければいけません。御霊が支配するところでなければいけません。そうでなかったら教会は無力になっていくのであります。単なるクラブになっていくのであります。そこには何の力もない。
本当に悩んで、絶望している人々を悔い改めに導き、本当の意味で癒していく力というのが失われていくのであります。だから教会は常にきよめられなければいけないのです。そういう意味で、この最初の使徒の働きに出てくるアナニヤというのは非常に悲劇的な、多くのクリスチャンにとっての厳しい教訓となった人の名前であります。

また、回心したパウロのところに主によって遣わされたダマスコの指導的クリスチャンの名前もアナニヤでした。
「アナニヤよ。」と主がお呼びになって、「まっすぐという路地に、」、そこのシモンの家でしたか、「そこでサウロが今、祈っている。彼のところに行きなさい。」と主によって遣わされたのもアナニヤでした。
アナニヤは「はい。」と言ってすぐに行かずに、「主よ。あの人はエルサレムでも多くのクリスチャンたちを迫害し、牢に入れた人です。」、なかなか、「うん。」とは素直に言いませんでした。

しかし主はアナニヤに、「行きなさい。彼は異邦人にわたしの福音を伝える器として選ばれた人だ。」とさらに言われたものですから、アナニヤはこのパウロのところに行ったというようなことが聖書に出ていました。
「兄弟サウロよ。見えるようになりなさい。」、彼がパウロの上に手を置いたので、パウロの失明していた目は開いた。うろこのようなものが落ちて見えるようになったと書いてありました。この人物の名前もアナニヤであります。

ここでの大祭司もアナニヤですが、この大祭司アナニヤは厚顔不遜な人物というふうに歴史書も記しているようであります。ふんぞり返っていた人なのです。ユダヤ人の中で最高の権威をもっていた大祭司なわけです。
その自分の目の前に何らの尊敬の念も表わさずに、堂々と立って、しかも挑むかのように語ってくるパウロに、「こいつめ。」、と思ったわけです。
パウロはそういう意味でこのアナニヤとか、そのサンヘドリンの多くの学者、律法学者、パリサイ人たち、サドカイ人たちに対して、やっぱりこの不快な思いというものを、どうも抑えきれなかったのではないだろうかという気がするわけです。

大祭司アナニヤは、「パウロの口を打て。」と命じたと言うのであります。パウロも負けていません。彼は皮肉を込めてやり返します。「ああ、白く塗った壁。」、彼が白い大祭司の服でも着ていたのでしょうか、

使徒の働き23:3-5
3その時、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」
4するとそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と言ったので、
5パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。

皮肉を込めているのでしょう。彼のような男が大祭司だとは思ってもみなかった、との軽蔑の意味を込めているわけでしょう。
あからさまにそうは言っていないので、言質と取られていませんけれども、これは明らかにパウロが、あの男が大祭司なのか、あんな男がそうなのかという、意味をこれは含めているのです。
聖書には確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と旧約聖書のモーセの書には書いてありますからと言って、彼は引き下がるわけであります。

その23章の6節以降では、このパウロの仕掛けによってこのサンヘドリンがまた、収拾がつかない混乱に陥るのであります。
このように、このサンヘドリンでの審問は、冒頭から波乱含みです。もう、大祭司アナニヤとパウロとがもう、このことばはともかく、その腹の中では、コノヤローと思って、敵意をもって対峙しているわけですから、とても冷静にパウロの話を聞いてもらうということは不可能であります。正しく判断してもらうことは無理だということは、もうわかるわけでしょう。
そこでパウロは撹乱戦法に出るわけであります。パウロはなかなか機を見て敏な人であります。6節で、

使徒の働き23:6-7
6しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」
7彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。

パウロはこのことを知っているわけです。自分がこのことを言えば、サンヘドリンの議会は二つに割れるということ。ですから彼はこの撹乱をするわけであります。
イエス様は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりましたとペテロが言っていますけれども、パウロは一方的にやられっ放しという人ではなさそうであります。そこがイエス様と違って、彼の人間臭いところで、非常に面白いと思うのです。
色んな手を使うのです。パウロという人は。意外と。そう簡単には思う壺にはならないと言いますか。なかなかパウロという人の人柄が出ているように思うのですけれども、強烈な個性をもっていた人なのでしょう。

パウロは、パリサイ人とサドカイ人という同じユダヤ教徒であるにも関わらず、根深い宗派対立にある人々の弱点を巧みに突いて、分裂させたわけであります。
サドカイ派はおもに祭司などの指導的階層に属し、いわゆる上流階級の人々だったそうであります。このサドカイ派の人というのは、霊だとか天使だとか復活などというような霊的なことは一切信じないという人々なのです。理性主義者とでも言いますか。そういう人々なのです。
そういう人々がユダヤ教のかなり支配的な階層を占めていたというのは、ちょっと不思議なのですけれど。非常にこう、理性的に信じられることでなければ認めて受け入れようとしない。それがサドカイ派の人々であります。サドカイ派は上流階級の人々ですから、そのような階級間の微妙な感情対立というのも絡んでいたのかもしれません。

マタイの福音書22章で、イエス様にこのサドカイ人たちが質問したことが書いてあります。マタイの福音書の22章。
最初はその15節からはパリサイ人たちがイエス様をことばの罠にかけようとして、質問してきたことが書いてあります。23節からは、サドカイ人たちが、今度はイエス様に質問をしてくる。そういうシーンがここに出ています。
ついでに15節のパリサイ人たちのイエス様への罠にかけようとした質問を、ちょっとそこから見ましょう。

マタイの福音書22:15-22
15そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。
16彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。
17それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
18イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。
19納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
20そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
21彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
22彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

有名なことばです。カイザルのものはカイザルへ。神のものは神へ。イエス様は自分に近寄って来る人の動機を一瞬にして見抜かれる人のようであります。ですから彼らが近寄って来て、本当に知りたいから言っているのではないのです。そうではなくて、

(テープ A面 → B面)

この質問は非常に巧妙だと言われています。
カイザルに税金を納めるべきだとイエス様が言えば、それはローマの支配というものを認める人だとして、愛国者たちから反発を食うし、カイザルに税金を納めてはならないと言うと、ローマ帝国から反逆者として睨まれるし、という、どっちを取っても危険な、そういうわなをイエス様に仕掛けてきたと言われています。
それに対してイエス様は、「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい。」、カイザルはその政治的支配の故に納税と市民的服従の義務を市民たちに課し、神はその霊的支配の故に礼拝と宗教的服従を要求されるとこの注に書いていますけれど、この世の支配者に対しては税金を納めなさい。その命令に従いなさい。しかし、礼拝すべき方は神ご自身、一人だけなのだ。これが、イエス様が仰っていることであります。

23節からは、サドカイ人たちの問いであります。そこを見てください。

マタイの福音書22:23-33
23その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
24言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。
25ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
26次男も三男も、七人とも同じようになりました。
27そして、最後に、その女も死にました。
28すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
29しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
30復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
31それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

七人の兄弟がひとりの妻をめとって、みんな子を残さずに死んだなんていうのは、こんな事実あったのでしょうか。質問のための質問として考えだした話ではないのでしょうか。どうも作り話のような感じがするのです。仮定の上での話と言いますか。
聖書で大事なのは、自分が本当に、問題として本当に突き当たっている問題なのかどうか。それを本当に自分が、やっぱりこれは何とかしなければならないのだという信仰上の疑問なのかどうか。それが大事なのです。そうでもないような一般的な神学上の問題とか、そういうことを議論すると言いますか、そういうことは単なる遊びですから、暇人のやることですから、私たちもそういうことは避けなければいけないと思います。
「例えばこういうことが起こったらどうしますか。」というような質問をよくなさる人がいますけれど、例えばそうだったら、「そんなの放っておきなさい。」

本当に私は今、こういうことで実は壁に突き当たって、こういう信仰上の疑問が自分を悩ませている。真剣なギリギリの問題です。そういう問題になら聖書は答えます。
一般的な、ある仮定の上での普遍的な問いと言いますか、そういうことは信仰上、あまり意味が無いのであります。それは神学上の質問だからです。私たちはそういうのに関わる必要はないのであります。
向こうはこのサドカイ人たちのイエス様に持ち出してきたこの話というのは、どうも仮定の上の話ではないかと思うのです。もしこういうことが起こったらどうしますかという単なる理論上の問題です。イエス様は殆ど取り合わなかったのです。

マタイの福音書22:29-30
29しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
30復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

天国に行ったら夫婦の関係は解消されているわけでしょう。結婚というのは、この地上におけるわれわれの契約関係だと聖書は言っているわけです。
そういうことを言うと、何かがっかりなさる人もいるだろうし、ホッとなさる人もいるかもしれません。どうでしょうか。
聖書は、天国に行っても夫婦だなんてことは言っていないのです。イエス様はそう言っています。

マタイの福音書22:30
30人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

そこでは婚姻関係というのは無いのだ。だから、だれの妻になるのでしょうか、なんていう質問は、それは、あなたが聖書も神の力も知らないからなのだ。
彼らはそういうようなことを言って、その復活の時ですか、七人の兄弟たちのうちのだれの妻になるかという、そういうことを言って、復活なんていうのはないのだということを言いたいのでしょう。
これは。復活ということがあったら、理屈に合わなくなってくるから。説明できないから。七人のうちのだれかひとりの妻にならなければいけないとなってくると、道理に合わなくなってきます。だから復活があっては困ると言いますか。復活ということも成り立たない。

それに対してイエス様は、あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからだと仰ったあとで、復活について、あなたがたは読んだことがないのかと言って、思いもかけないことばを引用なさっているでしょう。これは創世記のことばです。

マタイの福音書22:32
32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。

『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった。』とは言ってないのです。『わたしは、今も、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるのだ。』と言っているわけでしょう。
過去ではないのであります。すなわち、アブラハムも、イサクも、ヤコブもわたしとの繋がりは今なお持っているのだ。

マタイの福音書22:32
32神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

神が生きられるので、人も生きるのです。イエス様はこの聖書のことばを、このことを読んだことがないのか。と仰ったのです。驚くべき、確かにことばです。

マタイの福音書22:32
32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』

今もなお神はそうであり続けるのであります。そこに、アブラハム、イサク、ヤコブは死んでいなくなったのではない。今もなお、神とともに生きているのだと言っているのであります。
使徒の働きのほうにもう一回戻ってみたいと思いますが、

使徒の働き23:8-10
8サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
9騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかも知れない。」と言った。
10論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。

またパウロは危なくなったのであります。そこでこの千人隊長は彼をその議場から無理やりに引き出させ、保護するわけでありますけれども。

使徒の働き23:11
11その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。

とあります。イエス様がパウロにここでご自分を現わされたのは、今までに四回目だということだそうです。
回心のときにイエス様はパウロにご自身を現わされました。コリントでイエス様はパウロに、「恐れないで、語り続けよ。」と言って、現われたということが書いてあります。エルサレム訪問のときに、主が、私に現われたと22章の中でも言っていました。ですから、ここで四回目になります。
この主のことばは、パウロの心がくじけそうになっている証拠なのでしょう。パウロが心弱くなって、本当にこう、不安を感ずるときに、主はパウロのほうに、前に立たれるようであります。さっきの18章をちょっと見てください。

使徒の働き18:9-10
9ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
10わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。

パウロがやっぱりこの時には恐れていたのでしょう。だから主はそう仰ったと思います。27章を見てください。暴風雨に巻き込まれて地中海を十四日間、嵐の中で過ごしたときのことがそこに書いています。

使徒の働き27:22-26
22しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
23昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、
24こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』
25ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。
26私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。

とにかく、凄まじい台風に巻き込まれます。ここに乗っていた人々は、277人と書いていますけれども、14日間です。二週間、彼らは物を食べれなかったと言いますか、食べる元気がなかったと書いてあるのですから、大変な状況だったと思いますけれども、そのときにも主はパウロに現われて、「心配するな。」と仰ったと書いてあります。
この船の中で一番確信に満ちていたのはパウロでありました。船員たちはもう、どうにもならない状況の中で、絶望していたわけですが、パウロだけが船の上で、荒れ狂う嵐の中で揺るぐことなく立っております。
23章の12節から35節までは、パウロへの殺害の陰謀が記されております。23章の12節をちょっと見てください。

使徒の働き23:12-15
12夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。
13この陰謀に加わった者は、四十人以上であった。
14彼らは、祭司長たち、長老たちのところに行って、こう言った。「私たちは、パウロを殺すまでは何も食べない、と堅く誓い合いました。
15そこで、今あなたがたは議会と組んで、パウロのことをもっと詳しく調べるふりをして、彼をあなたがたのところに連れて来るように千人隊長に願い出てください。私たちのほうでは、彼がそこに近づく前に殺す手はずにしています。」

この40人以上の人々は、パウロを殺すまでは一切飲み食いしないと誓い合ったというのですけれども、面白いのは人の誓いのいい加減さであります。
結局、彼らはその誓いを守って、餓死した者はひとりもいなかったからであります。イエス様が、誓ってはならないと言ったことばを思い出します。「必ずこうします。」などということは言ってはいけない。
クリスチャンはそういうことばを使わないように気を遣っていますけれども。「必ずそういたします。」などということは要注意なのです。聖書は、そう言ってはいけないと言っています。

彼らはお互いで誓ったと言っていますので、神様に誓ったということではないかもしれませんけれども。しかし当てにならない。
男の一言なんて格好いいこと言いますけれども、鉄より堅しですか。武士に二言なしとか言いますけれど、ああいうことは言ってはいけないのです。大上段に何か言うと途端にすぐ裏切ることになりますから、注意しなければいけません。
やっぱり神様が私たちの口から出ることばをよく聞いておられるものですから、ちょっとやっぱり怖いわけであります。大言壮語したり、必ずこうする、というような大見得を切ったりするということは非常に危険なことであります。

マタイの福音書5章。イエス様の戒めておられるところをちょっと見てみましょうか。

マタイの福音書5:33-37
33さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
37だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

ヤコブの手紙4:13-16
13聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
14あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
15むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
16ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

誓ってはならない。このことで最も強く私たちの心を刺してくる悲劇が旧約聖書にありますけれども、みなさん、読まれて記憶に残っていますか。
士師記に出て来るエフタという勇士の話が出てきます。これは、一度読んだ人が決して忘れることができないような痛ましい悲劇であります。それをちょっと読んでみましょうか。旧約聖書の士師記の11章。
士師というのは、さばき人という意味です。民のリーダーとして民をまとめて、人々を敵から守ったりした人々のことを士師と言っているのですけれども、11章にエフタという勇士のことが書いています。

士師記11:1
1さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。

と書いていますが、このエフタがアモン人でしたか、アモン人が攻めて来るものですから、このイスラエルの指導者の立場に押し上げられていって、その戦いに行かざるを得なくなってくるのであります。
そのときに、生きるか死ぬか、祖国が滅びるか救われるか、というそのギリギリの立場に置かれたエフタは、戦に出て行く前に、彼はこういうことを主に誓うのであります。

士師記11:29-40
29主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ついで、ギルアデのミツパを通って、ギルアデのミツパからアモン人のところへ進んで行った。
30エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
31私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
32こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。
33ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。
34エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
35エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」
36すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」
37そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」
38エフタは、「行きなさい。」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。
39二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行なった。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、
40毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。

エフタのひとり娘、ひとり子であります。イスラエルの乙女は結婚して子どもを産むこと、子孫を残すこと、それが女性としての誉れであり、どうしてもそうであることを願っていたようであります。
それはよく言われるように、救い主が女の人として生まれるということをユダヤ人たちは語り継いでいたものですから、そのためだろうと言われているのですが、このエフタの娘は、自分が結婚し、子どもを産んでいないということを嘆き悲しんだということであります。
神はエフタの軽率な誓いに対して最も厳しい報いを与えられたわけであります。

人を燔祭としてささげるということは、イスラエルの中にはないことなのです。神はそのことを要求なさったことはないのであります。
よくイサクの例が上げられますけれども、イサクは燔祭としてはささげられませんでした。神は、「やめなさい。」と言って、アブラハムをとめたと書いてあります。
神は、聖書の神、まことの神は人のいのちをささげよというようなことを要求されたことは聖書を見てもいっぺんも無いのであります。そうなさったことは。燔祭は常に動物だったわけでしょう。動物を燔祭としてささげるべきだったのです。

ところがエフタは、あまりにその状況が追い詰められたギリギリのところに立っていたのでしょう。思わずそのような誓約をして、自分の一番大切なひとり娘、それをささげなければならなくなったということです。これは本当に一度読むと忘れられません。
私だったら、「先ほどのあの誓いは本当に愚かな、軽率な私の誤りでした。赦してください。」と言います。そう言うべきです。このエフタは。主は赦されたでしょう。
イエス様が人々に誓いを戒められたときに、このエフタの悲劇が念頭にあったのではないかと私は思うわけです。

主は、このパウロ殺害の陰謀のこともパウロの甥の耳に入れることによってちゃんと対策が立てることができるように案配なさってくださいます。
パウロに姉妹がいたことが、ただ一ヶ所だけ聖書には出てくるのです。

使徒の働き23:16
16ところが、パウロの姉妹の子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営にはいってパウロにそれを知らせた。

パウロに姉妹がいたということがここに一回だけ出てくるわけであります。その甥っ子です、名前は出ていませんが、その甥っ子がパウロの兵営のところに来て、パウロにこの兵営に来た甥っ子は千人隊長のところに連れて行ってくれと頼んだ。
千人隊長クラウデオ・ルシヤがやっぱりパウロに好意を持つように主は仕向けておられるということがわかりますでしょう。
千人隊長ルシヤがこのパウロに非常に同情的と言いますか、パウロをことがある度に守ろうとしているのです。やはりそれは主の守りであります。ルシヤはこの甥っ子の話を聞いて、「私に言ったことを、だれにも漏らすな。」と命じて、その甥っ子を帰らせたあとで、

使徒の働き23:23-30
23そしてふたりの百人隊長を呼び、「今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ。」と言いつけた。
24また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。
25そして、次のような文面の手紙を書いた。
26「クラウデオ・ルシヤ、つつしんで総督ペリクス閣下にごあいさつ申し上げます。
27この者が、ユダヤ人に捕えられ、まさに殺されようとしていたとき、彼がローマ市民であることを知りましたので、私は兵隊を率いて行って、彼を助け出しました。
28それから、どんな理由で彼が訴えられたかを知ろうと思い、彼をユダヤ人の議会に出頭させました。
29その結果、彼が訴えられているのは、ユダヤ人の律法に関する問題のためで、死刑や投獄に当たる罪はないことがわかりました。
30しかし、この者に対する陰謀があるという情報を得ましたので、私はただちに彼を閣下のもとにお送りし、訴える者たちには、閣下の前で彼のことを訴えるようにと言い渡しておきました。」

ちゃんと配慮し、守ってくれています。もし訴えるなら、カイザリヤまで行けと命じたわけであります。随分の兵をつけています。こうして、その晩、出発させるわけであります。

使徒の働き23:31-32
31そこで兵士たちは、命じられたとおりにパウロを引き取り、夜中にアンテパトリスまで連れて行き、
32翌日、騎兵たちにパウロの護送を任せて、兵営に帰った。

夜中にアンテパトリスまで行って、そこで騎兵にたちに渡していますから、何と手厚い保護であります。
地図で調べてみますと、アンテパトリスというのは、ちょうどエルサレムとカイザリヤのちょうど真ん中ぐらいの地点にある町です。道なりに測ってみると、だいたい120キロぐらいで、真ん中の60キロぐらいのところにある町です。
アンテパトリスというのは、あのヘロデ大王の父親の名前で、彼がこの町を作って、父親の名前を付けたのだそうであります。そして騎兵たちはカイザリヤにパウロを護送して行きます。

使徒の働き23:33-35
33騎兵たちは、カイザリヤに着き、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた。
34総督は手紙を読んでから、パウロに、どの州の者かと尋ね、キリキヤの出であることを知って、
35「あなたを訴える者が来てから、よく聞くことにしよう。」と言った。そして、ヘロデの官邸に彼を守っておくように命じた。

と書いてあります。このカイザリヤもローマの皇帝カイザルのためにささげられた、これもまたヘロデ大王が彼の庇護者であった、初代皇帝アウグスト・カイザルのご機嫌を取るために作って、カイザルの名前を付けた町です。
そこにもなかなか、このヘロデ大王というのが非常にしたたかで、力を持っている者の心を巧みにとらえることをやっている人であることがわかりますけれども。
カイザル。海に、地中海に面した町で、ここにローマ総督は滞在をして、事があるとエルサレムに行ったり来たりしていたわけであります。

パウロは、キリキヤ州タルソの生まれですが、ローマ市民は自分の出生地か訴えが出された地のどちらかで取調べを受けることができるようにローマ法で定められていたそうであります。
ですからパウロが望むのならば、彼らはタルソに護送されて、そこで裁判受ける。あるいは、訴えられているこのカイザリヤで裁判を受けるかどちらを選ぶことができるということまでローマ法は定めていたということであります。
しばらく、いつかののち、と書いてありますけれども、ペリクスはヘロデの官邸に彼を守った。これはヘロデが作った官邸で、ヘロデのものですが、当時はローマ総督の官邸になっていたようでありますが、そこにパウロを留めて、保護して、そこできちっと彼を審問にかけて、調べて、どうするかを決めるというのが、この24章以後のことになります。

今日は一応そこまでにして終わります。




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