引用聖句:使徒の働き23章1節-11節
使徒の働きの23章、ご一緒に見てみたいと思います。 この前の第22章の学びには三回も費やしましたけれども、今回のこの第23章はそれほど学ぶべき内容はないかのように思われます。 内容のあらすじとしましては、パウロがユダヤ人たちにリンチされそうな、そういう況から、ローマの千人隊長、名前はクラウディオ・ルシアであるということがこの23章で初めて明らかになってきますけれども、この千人隊長の手によって救出されて、ユダヤ人の最高法廷であるサンヘドリンに立たされましたが、そのサンヘドリンも大混乱に陥って収拾がつかなくなり、パウロの身の安全のためにローマ総督の滞在地であるカイザリヤへ護送される。そういうことがこの23章の内容になっております。 22章の30節にちょっと目を留めますとこう書いてあります。 使徒の働き22:30
と、こうなっています。 この千人隊長の動きはなかなか機敏であります。エルサレムの治安維持をゆだねられている者としては、事態は看過出来ないと考えたのでしょう。まかり間違うと騒乱状態になる。そういうことで彼は機敏に動いているわけであります。 当時のローマ帝国の法律は厳格で、もし処置を誤ると、その責任が厳しく問われることになるという恐れがあったのだろうと思います。 そのことは、これまで見て来たこの使徒の働きのあちらこちらでうかがわれます。 確かにこの記事の時代は、あの暴君ネロの化け物の如き怪物だということを聖書事典を引きますとネロのことが書いていますけれども、この恐るべきネロのちょうど支配している時代です。 この四、五年あとにあのネロは自殺するわけですけれども、追い詰められて。そのネロのような超法規的存在というものがあって、必ずしも厳格な法治主義国家ではなかったでしょうけれども、それでも法律によって市民の権利が平等に保護されていたということは大したものであります。 例えば19章にもちょっと戻って見てください。19章でパウロがまた大変な騒動に巻き込まれて、身動き取れないような状態になったときの話が19章、エペソの記事があります。 使徒の働き19:35-41
非常に法律に則って、「ちゃんと文句があるのだったら訴え出よ。それをしないでこういうことを引き起こすと、騒擾罪に問われるのだ。」と言って、いきり立つ群衆を静めたというようなことが書いていますけれども、我が国などはまだ歴史に登場しすらしない2,000年も昔のことです。 当時のローマ帝国の法というのは、非常に遵守されていたものであることがここでもわかります。 このことはまた千人隊長が、パウロがローマ市民であることを知らないで、鎖で縛ったことを非常に恐れたことでもわかります。22章。さっきのところの22章を見てください。22章の24節から。 使徒の働き22:24-29
いかにローマ市民というのが法律によって保護されているか。間違って縛るだけで自分の責任を問われるという、こういうことがわかります。16章に戻ってください。 使徒の働き16:35-39
このローマの市民権、それがどんな特権だったかということがよくわかります。ただしそれは、ローマ市民に限定されていたのです。 ローマ市民の特権ということを当時の人々はみなよく知っていたので、クリスチャンの神の国の民たる特権が聖書でよく語られているのは、これになぞらえてのことだということが言われております。 ローマの市民権があれほど値打ちのあるものである。すばらしい特権である。守られている、それによって。それになぞらえて、神を信じ、イエス様を信じて神の子とされたキリスト者たちが神の国の民としてどんなに大きな特権を神様からいただくのか。そのことを聖書は色んな形で伝えているのです。 エペソ人への手紙の2章、ちょっと見てください。 エペソ人への手紙2:11-13
エペソ人への手紙2:18-19
今は聖徒たちと同じ国民であり、と書いています。このようにパウロは家が裕福だったのでしょう。 彼は生まれながらのローマ人。ローマの市民権をもった人だったのであります。ですからよく言われますように、ペテロが逆さ十字架に架けられて、殉教の死を遂げたのに対して、十字架刑はパウロには科せれなかったと言われています。それは、ローマ市民には残虐な刑は科せられなかったからであります。ですからパウロは斬首だったと言われています。 さて、もう一回、使徒の働きの23章に戻ります。 使徒の働き23:1
サンヘドリンの議院議場に立たされたパウロは、祭司長や議員たちを見つめて、このように言い放ったのであります。何か自信に満ちて、この世の権威者である、支配者である彼らを何て言いますか・・・睨み返しているかのように。 あるいは、ちょっと挑発でもしているかのように、この感じがするわけであります。 22章の1節を見てください。ここでパウロは自分も暴行して、殺そうとして襲って来たあの群集たちに対して、22章の1節にはこう書いています。 使徒の働き22:1
ヘブル語でそう語った、と書いてあります。この二つの表現には、ことばには違いがあるのです。 普通のユダヤ人たちには、彼らが自分をリンチにかけようとしたにも関わらず、「兄弟たち、父たちよ。」と親しみを込めてパウロは謙遜に呼びかけておりますが、お偉方を前にしては、「兄弟たちよ。」とだけ呼びかけています。本来はここでこそ、「父たちよ。」と呼びかけるべきかもしれません。彼らは民の指導者ですから。 当時のユダヤ人の最高の指導者たちが集まっているわけでありますが、パウロはただ、「兄弟たちよ。」と言っただけであります。しかも、「私は今日まで、きよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」、パウロはなかなか、こういうことは言わない人です。 何かこの民の指導者たちに対して、言いたいことがあると言いますか、パウロの心の中にそういう思いが湧き出て来たのではないかと思います。 われらこそは神の律法の権威者であるとして、そっくり返っていながら、しかも律法から外れた生活をしている世の権力者たち。イエス様があれほどの口をきわめてその偽善を弾劾されたのが彼らでありました。 その人々に向かってパウロは言っているわけであります。 マタイの福音書23:1-3
27節、28節。この1章の中には、パリサイ人、律法学者に対する口をきわめた激しい弾劾が語られています。イエス様がこれほど激しいことばを使っているのは、ほかにはないわけでありますが。 マタイの福音書23:27-28
マタイの福音書23:33
これは、これ以上無いというほどの厳しい弾劾です。この世の権威者に向かって、イエス様は本当に厳しいことばを放っておられるわけであります。 パウロが通常とは違って、あえて、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ましたと語ったのは、彼らに対してです。 あなたがたはそのように律法の権威者として人々をさばく立場に座を占めているが、自分自身が神のさばきの前に立たされることは自覚しているのか。あなたがた自身はそのさばきに耐えうるのかと彼らの心にその棘を突きつけているのだと思われます。 パウロはここで、彼らをも神のさばきの座に引き出そうとしているのであります。 自分をさばく律法の専門家たち。祭司長たち。彼らを同じく神のさばきの座に立たせようとしている。それがこのパウロのことばの意味なのだろうと思います。 ローマ人への手紙の2章1節からちょっと見てください。 ローマ人への手紙2:1-13
ローマ人への手紙2:17-29
この2章はすべて同胞であるユダヤ人に対するパウロの厳しい弾劾です。本当にこの2章は徹底的に、このユダヤ人の誇りを打ち砕いているわけであります。 そういうふうなこのユダヤ人の代表者たち、それが今パウロの前にいるサンヘドリンの議員たちなのであります。 使徒の働き23:2-5
大祭司アナニヤが怒ったのは、彼らの良心に対して発せられたパウロのこの指摘と挑戦に対する恐れと反発によるものでしょう。パウロはするどく彼の内心に、心に迫ってるわけでしょう。 神を恐れ、神の前に生活していますから。神のさばきがあることを、あなたたちは自覚していますか。神のさばきに対してあなたたちはどのような言い開きをするつもりですか。これがパウロに最初に語ったことばの意味だろうと思うのです。 繰り返し言いますように、パウロは彼ら、そのサンヘドリンの議員たち、大祭司アナニヤを始め、彼らをも聖なる神の前に引き出そうしているわけであります。ですからアナニヤは恐れを感ずると同時に、怒ったのでしょう。 24章の中でも総督に対してパウロがこういうことを言っていて、総督が恐れたということが書いてあります。 使徒の働き24:24-26
このペリクスというローマ総督は、下心をもってパウロから金を取ろうとして呼び出しているわけなのですけれども、パウロはそれを見抜いていたのです。 そして、キリスト・イエスを信じる信仰について、正義と節制とやがて来る審判とについて彼が語ったので、ペリクスは恐れを感じて、「今は帰ってよい。」と言ったと言っています。このときと同じようなことをここでパウロはやっぱり語っているのだろうと思います。 アナニヤ、大祭司アナニヤという名前が出ていますけれども、聖書にはアナニヤという男性の名前がよく出てまいります。 聖霊を欺いた偽善行為のためにペテロに叱責されて即死したあのアナニヤとサッピラの夫婦のことが使徒の働きの最初のほうに出ていました。 教会に土地を売って、お金を持って来た。しかし一部は隠しておいて、残りだけを持って来て、土地を全部売った代金であるかのように振舞ったのであります。 ペテロはそのことを見抜いて、「これは土地を売った代金の全部なのか。」と言ったら、「そうです。」とアナニヤが言ったというのです。ペテロは別に、「土地を売ってそのお金を教会に寄付せよ。」何てことは何も言っていないのであります。 だれもそういう強制をしたことはないのでありますけれども、アナニヤとサッピラの夫婦は、人々の評判が欲しかったのであります。ですから、土地を全部売って、一部を残して一部を教会に持って来て、すべてをささげたかのように振舞ったのです。その偽善をペテロは叱責しました。 「土地を売ってみんな持って来いとだれも言ってないではないか。そんなことはだれも要求してはいない。どうしてこういう偽善的な行為をするのか。それは人を欺くのではなく、聖霊を欺く行為なのだ。」と叱責をした。 その声を聞くと、アナニヤは倒れて息を引き取ったと書いてありました。そのことを知らずに、しばらくして妻のサッピラがやって来ます。 それでペテロは、あなたたたちは、これこれの値段で土地を売ったのかと言ったら、サッピラは平然として、「そのとおりです。」と答えました。 そのときにペテロは、「あなたの夫、アナニヤを葬って帰って来る人々が、そこに来ている。すぐ、彼らは来る。あなたも同じようにしよ。見てみよ。」と言って、さばきを受けるサッピラもその声を聞いて、倒れて息を引き取ったというようなことが使徒の働きの最初に出てきます。 主の教会に偽善的な振る舞いというのがいつの間にか入り込んでくる。神様を恐れないで、人の目の前に振舞うような人々が出てくる。 人に、ああ、あの人は熱心であるとか、あの人はたくさんの献金をしたとか、そういうことを評価を受けたい。それは偽善です。見せかけの振る舞いというのは、主の教会をけがすものである。段々段々そこには御霊の支配が無くなってくる。単なる人々の集まりになってくる。 教会がきよめられなければならない。ちょうど、多くの人々が回心して、一日に五千人の人々が洗礼を受けたりした時代ですから、もう教会がごった煮みたいになって、その中でこのアナニヤとサッピラの夫婦の事件が起こったのであります。 そのことをきっかけに、教会には主に対する恐れが生じ、人々は本当にすべてをご覧になっている神様の前に歩まなければいけないとして、そこから教会は新しい出発をしたということが最初のところに出てきます。5章でしたか。たぶん7章か5章あたりです。 教会は常に真実な心をもって集う場所でなければいけません。御霊が支配するところでなければいけません。そうでなかったら教会は無力になっていくのであります。単なるクラブになっていくのであります。そこには何の力もない。 本当に悩んで、絶望している人々を悔い改めに導き、本当の意味で癒していく力というのが失われていくのであります。だから教会は常にきよめられなければいけないのです。そういう意味で、この最初の使徒の働きに出てくるアナニヤというのは非常に悲劇的な、多くのクリスチャンにとっての厳しい教訓となった人の名前であります。 また、回心したパウロのところに主によって遣わされたダマスコの指導的クリスチャンの名前もアナニヤでした。 「アナニヤよ。」と主がお呼びになって、「まっすぐという路地に、」、そこのシモンの家でしたか、「そこでサウロが今、祈っている。彼のところに行きなさい。」と主によって遣わされたのもアナニヤでした。 アナニヤは「はい。」と言ってすぐに行かずに、「主よ。あの人はエルサレムでも多くのクリスチャンたちを迫害し、牢に入れた人です。」、なかなか、「うん。」とは素直に言いませんでした。 しかし主はアナニヤに、「行きなさい。彼は異邦人にわたしの福音を伝える器として選ばれた人だ。」とさらに言われたものですから、アナニヤはこのパウロのところに行ったというようなことが聖書に出ていました。 「兄弟サウロよ。見えるようになりなさい。」、彼がパウロの上に手を置いたので、パウロの失明していた目は開いた。うろこのようなものが落ちて見えるようになったと書いてありました。この人物の名前もアナニヤであります。 ここでの大祭司もアナニヤですが、この大祭司アナニヤは厚顔不遜な人物というふうに歴史書も記しているようであります。ふんぞり返っていた人なのです。ユダヤ人の中で最高の権威をもっていた大祭司なわけです。 その自分の目の前に何らの尊敬の念も表わさずに、堂々と立って、しかも挑むかのように語ってくるパウロに、「こいつめ。」、と思ったわけです。 パウロはそういう意味でこのアナニヤとか、そのサンヘドリンの多くの学者、律法学者、パリサイ人たち、サドカイ人たちに対して、やっぱりこの不快な思いというものを、どうも抑えきれなかったのではないだろうかという気がするわけです。 大祭司アナニヤは、「パウロの口を打て。」と命じたと言うのであります。パウロも負けていません。彼は皮肉を込めてやり返します。「ああ、白く塗った壁。」、彼が白い大祭司の服でも着ていたのでしょうか、 使徒の働き23:3-5
皮肉を込めているのでしょう。彼のような男が大祭司だとは思ってもみなかった、との軽蔑の意味を込めているわけでしょう。 あからさまにそうは言っていないので、言質と取られていませんけれども、これは明らかにパウロが、あの男が大祭司なのか、あんな男がそうなのかという、意味をこれは含めているのです。 聖書には確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と旧約聖書のモーセの書には書いてありますからと言って、彼は引き下がるわけであります。 その23章の6節以降では、このパウロの仕掛けによってこのサンヘドリンがまた、収拾がつかない混乱に陥るのであります。 このように、このサンヘドリンでの審問は、冒頭から波乱含みです。もう、大祭司アナニヤとパウロとがもう、このことばはともかく、その腹の中では、コノヤローと思って、敵意をもって対峙しているわけですから、とても冷静にパウロの話を聞いてもらうということは不可能であります。正しく判断してもらうことは無理だということは、もうわかるわけでしょう。 そこでパウロは撹乱戦法に出るわけであります。パウロはなかなか機を見て敏な人であります。6節で、 使徒の働き23:6-7
パウロはこのことを知っているわけです。自分がこのことを言えば、サンヘドリンの議会は二つに割れるということ。ですから彼はこの撹乱をするわけであります。 イエス様は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりましたとペテロが言っていますけれども、パウロは一方的にやられっ放しという人ではなさそうであります。そこがイエス様と違って、彼の人間臭いところで、非常に面白いと思うのです。 色んな手を使うのです。パウロという人は。意外と。そう簡単には思う壺にはならないと言いますか。なかなかパウロという人の人柄が出ているように思うのですけれども、強烈な個性をもっていた人なのでしょう。 パウロは、パリサイ人とサドカイ人という同じユダヤ教徒であるにも関わらず、根深い宗派対立にある人々の弱点を巧みに突いて、分裂させたわけであります。 サドカイ派はおもに祭司などの指導的階層に属し、いわゆる上流階級の人々だったそうであります。このサドカイ派の人というのは、霊だとか天使だとか復活などというような霊的なことは一切信じないという人々なのです。理性主義者とでも言いますか。そういう人々なのです。 そういう人々がユダヤ教のかなり支配的な階層を占めていたというのは、ちょっと不思議なのですけれど。非常にこう、理性的に信じられることでなければ認めて受け入れようとしない。それがサドカイ派の人々であります。サドカイ派は上流階級の人々ですから、そのような階級間の微妙な感情対立というのも絡んでいたのかもしれません。 マタイの福音書22章で、イエス様にこのサドカイ人たちが質問したことが書いてあります。マタイの福音書の22章。 最初はその15節からはパリサイ人たちがイエス様をことばの罠にかけようとして、質問してきたことが書いてあります。23節からは、サドカイ人たちが、今度はイエス様に質問をしてくる。そういうシーンがここに出ています。 ついでに15節のパリサイ人たちのイエス様への罠にかけようとした質問を、ちょっとそこから見ましょう。 マタイの福音書22:15-22
有名なことばです。カイザルのものはカイザルへ。神のものは神へ。イエス様は自分に近寄って来る人の動機を一瞬にして見抜かれる人のようであります。ですから彼らが近寄って来て、本当に知りたいから言っているのではないのです。そうではなくて、 (テープ A面 → B面) この質問は非常に巧妙だと言われています。 カイザルに税金を納めるべきだとイエス様が言えば、それはローマの支配というものを認める人だとして、愛国者たちから反発を食うし、カイザルに税金を納めてはならないと言うと、ローマ帝国から反逆者として睨まれるし、という、どっちを取っても危険な、そういうわなをイエス様に仕掛けてきたと言われています。 それに対してイエス様は、「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい。」、カイザルはその政治的支配の故に納税と市民的服従の義務を市民たちに課し、神はその霊的支配の故に礼拝と宗教的服従を要求されるとこの注に書いていますけれど、この世の支配者に対しては税金を納めなさい。その命令に従いなさい。しかし、礼拝すべき方は神ご自身、一人だけなのだ。これが、イエス様が仰っていることであります。 23節からは、サドカイ人たちの問いであります。そこを見てください。 マタイの福音書22:23-33
七人の兄弟がひとりの妻をめとって、みんな子を残さずに死んだなんていうのは、こんな事実あったのでしょうか。質問のための質問として考えだした話ではないのでしょうか。どうも作り話のような感じがするのです。仮定の上での話と言いますか。 聖書で大事なのは、自分が本当に、問題として本当に突き当たっている問題なのかどうか。それを本当に自分が、やっぱりこれは何とかしなければならないのだという信仰上の疑問なのかどうか。それが大事なのです。そうでもないような一般的な神学上の問題とか、そういうことを議論すると言いますか、そういうことは単なる遊びですから、暇人のやることですから、私たちもそういうことは避けなければいけないと思います。 「例えばこういうことが起こったらどうしますか。」というような質問をよくなさる人がいますけれど、例えばそうだったら、「そんなの放っておきなさい。」 本当に私は今、こういうことで実は壁に突き当たって、こういう信仰上の疑問が自分を悩ませている。真剣なギリギリの問題です。そういう問題になら聖書は答えます。 一般的な、ある仮定の上での普遍的な問いと言いますか、そういうことは信仰上、あまり意味が無いのであります。それは神学上の質問だからです。私たちはそういうのに関わる必要はないのであります。 向こうはこのサドカイ人たちのイエス様に持ち出してきたこの話というのは、どうも仮定の上の話ではないかと思うのです。もしこういうことが起こったらどうしますかという単なる理論上の問題です。イエス様は殆ど取り合わなかったのです。 マタイの福音書22:29-30
天国に行ったら夫婦の関係は解消されているわけでしょう。結婚というのは、この地上におけるわれわれの契約関係だと聖書は言っているわけです。 そういうことを言うと、何かがっかりなさる人もいるだろうし、ホッとなさる人もいるかもしれません。どうでしょうか。 聖書は、天国に行っても夫婦だなんてことは言っていないのです。イエス様はそう言っています。 マタイの福音書22:30
そこでは婚姻関係というのは無いのだ。だから、だれの妻になるのでしょうか、なんていう質問は、それは、あなたが聖書も神の力も知らないからなのだ。 彼らはそういうようなことを言って、その復活の時ですか、七人の兄弟たちのうちのだれの妻になるかという、そういうことを言って、復活なんていうのはないのだということを言いたいのでしょう。 これは。復活ということがあったら、理屈に合わなくなってくるから。説明できないから。七人のうちのだれかひとりの妻にならなければいけないとなってくると、道理に合わなくなってきます。だから復活があっては困ると言いますか。復活ということも成り立たない。 それに対してイエス様は、あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからだと仰ったあとで、復活について、あなたがたは読んだことがないのかと言って、思いもかけないことばを引用なさっているでしょう。これは創世記のことばです。 マタイの福音書22:32
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった。』とは言ってないのです。『わたしは、今も、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるのだ。』と言っているわけでしょう。 過去ではないのであります。すなわち、アブラハムも、イサクも、ヤコブもわたしとの繋がりは今なお持っているのだ。 マタイの福音書22:32
神が生きられるので、人も生きるのです。イエス様はこの聖書のことばを、このことを読んだことがないのか。と仰ったのです。驚くべき、確かにことばです。 マタイの福音書22:32
今もなお神はそうであり続けるのであります。そこに、アブラハム、イサク、ヤコブは死んでいなくなったのではない。今もなお、神とともに生きているのだと言っているのであります。 使徒の働きのほうにもう一回戻ってみたいと思いますが、 使徒の働き23:8-10
またパウロは危なくなったのであります。そこでこの千人隊長は彼をその議場から無理やりに引き出させ、保護するわけでありますけれども。 使徒の働き23:11
とあります。イエス様がパウロにここでご自分を現わされたのは、今までに四回目だということだそうです。 回心のときにイエス様はパウロにご自身を現わされました。コリントでイエス様はパウロに、「恐れないで、語り続けよ。」と言って、現われたということが書いてあります。エルサレム訪問のときに、主が、私に現われたと22章の中でも言っていました。ですから、ここで四回目になります。 この主のことばは、パウロの心がくじけそうになっている証拠なのでしょう。パウロが心弱くなって、本当にこう、不安を感ずるときに、主はパウロのほうに、前に立たれるようであります。さっきの18章をちょっと見てください。 使徒の働き18:9-10
パウロがやっぱりこの時には恐れていたのでしょう。だから主はそう仰ったと思います。27章を見てください。暴風雨に巻き込まれて地中海を十四日間、嵐の中で過ごしたときのことがそこに書いています。 使徒の働き27:22-26
とにかく、凄まじい台風に巻き込まれます。ここに乗っていた人々は、277人と書いていますけれども、14日間です。二週間、彼らは物を食べれなかったと言いますか、食べる元気がなかったと書いてあるのですから、大変な状況だったと思いますけれども、そのときにも主はパウロに現われて、「心配するな。」と仰ったと書いてあります。 この船の中で一番確信に満ちていたのはパウロでありました。船員たちはもう、どうにもならない状況の中で、絶望していたわけですが、パウロだけが船の上で、荒れ狂う嵐の中で揺るぐことなく立っております。 23章の12節から35節までは、パウロへの殺害の陰謀が記されております。23章の12節をちょっと見てください。 使徒の働き23:12-15
この40人以上の人々は、パウロを殺すまでは一切飲み食いしないと誓い合ったというのですけれども、面白いのは人の誓いのいい加減さであります。 結局、彼らはその誓いを守って、餓死した者はひとりもいなかったからであります。イエス様が、誓ってはならないと言ったことばを思い出します。「必ずこうします。」などということは言ってはいけない。 クリスチャンはそういうことばを使わないように気を遣っていますけれども。「必ずそういたします。」などということは要注意なのです。聖書は、そう言ってはいけないと言っています。 彼らはお互いで誓ったと言っていますので、神様に誓ったということではないかもしれませんけれども。しかし当てにならない。 男の一言なんて格好いいこと言いますけれども、鉄より堅しですか。武士に二言なしとか言いますけれど、ああいうことは言ってはいけないのです。大上段に何か言うと途端にすぐ裏切ることになりますから、注意しなければいけません。 やっぱり神様が私たちの口から出ることばをよく聞いておられるものですから、ちょっとやっぱり怖いわけであります。大言壮語したり、必ずこうする、というような大見得を切ったりするということは非常に危険なことであります。 マタイの福音書5章。イエス様の戒めておられるところをちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書5:33-37
ヤコブの手紙4:13-16
誓ってはならない。このことで最も強く私たちの心を刺してくる悲劇が旧約聖書にありますけれども、みなさん、読まれて記憶に残っていますか。 士師記に出て来るエフタという勇士の話が出てきます。これは、一度読んだ人が決して忘れることができないような痛ましい悲劇であります。それをちょっと読んでみましょうか。旧約聖書の士師記の11章。 士師というのは、さばき人という意味です。民のリーダーとして民をまとめて、人々を敵から守ったりした人々のことを士師と言っているのですけれども、11章にエフタという勇士のことが書いています。 士師記11:1
と書いていますが、このエフタがアモン人でしたか、アモン人が攻めて来るものですから、このイスラエルの指導者の立場に押し上げられていって、その戦いに行かざるを得なくなってくるのであります。 そのときに、生きるか死ぬか、祖国が滅びるか救われるか、というそのギリギリの立場に置かれたエフタは、戦に出て行く前に、彼はこういうことを主に誓うのであります。 士師記11:29-40
エフタのひとり娘、ひとり子であります。イスラエルの乙女は結婚して子どもを産むこと、子孫を残すこと、それが女性としての誉れであり、どうしてもそうであることを願っていたようであります。 それはよく言われるように、救い主が女の人として生まれるということをユダヤ人たちは語り継いでいたものですから、そのためだろうと言われているのですが、このエフタの娘は、自分が結婚し、子どもを産んでいないということを嘆き悲しんだということであります。 神はエフタの軽率な誓いに対して最も厳しい報いを与えられたわけであります。 人を燔祭としてささげるということは、イスラエルの中にはないことなのです。神はそのことを要求なさったことはないのであります。 よくイサクの例が上げられますけれども、イサクは燔祭としてはささげられませんでした。神は、「やめなさい。」と言って、アブラハムをとめたと書いてあります。 神は、聖書の神、まことの神は人のいのちをささげよというようなことを要求されたことは聖書を見てもいっぺんも無いのであります。そうなさったことは。燔祭は常に動物だったわけでしょう。動物を燔祭としてささげるべきだったのです。 ところがエフタは、あまりにその状況が追い詰められたギリギリのところに立っていたのでしょう。思わずそのような誓約をして、自分の一番大切なひとり娘、それをささげなければならなくなったということです。これは本当に一度読むと忘れられません。 私だったら、「先ほどのあの誓いは本当に愚かな、軽率な私の誤りでした。赦してください。」と言います。そう言うべきです。このエフタは。主は赦されたでしょう。 イエス様が人々に誓いを戒められたときに、このエフタの悲劇が念頭にあったのではないかと私は思うわけです。 主は、このパウロ殺害の陰謀のこともパウロの甥の耳に入れることによってちゃんと対策が立てることができるように案配なさってくださいます。 パウロに姉妹がいたことが、ただ一ヶ所だけ聖書には出てくるのです。 使徒の働き23:16
パウロに姉妹がいたということがここに一回だけ出てくるわけであります。その甥っ子です、名前は出ていませんが、その甥っ子がパウロの兵営のところに来て、パウロにこの兵営に来た甥っ子は千人隊長のところに連れて行ってくれと頼んだ。 千人隊長クラウデオ・ルシヤがやっぱりパウロに好意を持つように主は仕向けておられるということがわかりますでしょう。 千人隊長ルシヤがこのパウロに非常に同情的と言いますか、パウロをことがある度に守ろうとしているのです。やはりそれは主の守りであります。ルシヤはこの甥っ子の話を聞いて、「私に言ったことを、だれにも漏らすな。」と命じて、その甥っ子を帰らせたあとで、 使徒の働き23:23-30
ちゃんと配慮し、守ってくれています。もし訴えるなら、カイザリヤまで行けと命じたわけであります。随分の兵をつけています。こうして、その晩、出発させるわけであります。 使徒の働き23:31-32
夜中にアンテパトリスまで行って、そこで騎兵にたちに渡していますから、何と手厚い保護であります。 地図で調べてみますと、アンテパトリスというのは、ちょうどエルサレムとカイザリヤのちょうど真ん中ぐらいの地点にある町です。道なりに測ってみると、だいたい120キロぐらいで、真ん中の60キロぐらいのところにある町です。 アンテパトリスというのは、あのヘロデ大王の父親の名前で、彼がこの町を作って、父親の名前を付けたのだそうであります。そして騎兵たちはカイザリヤにパウロを護送して行きます。 使徒の働き23:33-35
と書いてあります。このカイザリヤもローマの皇帝カイザルのためにささげられた、これもまたヘロデ大王が彼の庇護者であった、初代皇帝アウグスト・カイザルのご機嫌を取るために作って、カイザルの名前を付けた町です。 そこにもなかなか、このヘロデ大王というのが非常にしたたかで、力を持っている者の心を巧みにとらえることをやっている人であることがわかりますけれども。 カイザル。海に、地中海に面した町で、ここにローマ総督は滞在をして、事があるとエルサレムに行ったり来たりしていたわけであります。 パウロは、キリキヤ州タルソの生まれですが、ローマ市民は自分の出生地か訴えが出された地のどちらかで取調べを受けることができるようにローマ法で定められていたそうであります。 ですからパウロが望むのならば、彼らはタルソに護送されて、そこで裁判受ける。あるいは、訴えられているこのカイザリヤで裁判を受けるかどちらを選ぶことができるということまでローマ法は定めていたということであります。 しばらく、いつかののち、と書いてありますけれども、ペリクスはヘロデの官邸に彼を守った。これはヘロデが作った官邸で、ヘロデのものですが、当時はローマ総督の官邸になっていたようでありますが、そこにパウロを留めて、保護して、そこできちっと彼を審問にかけて、調べて、どうするかを決めるというのが、この24章以後のことになります。 今日は一応そこまでにして終わります。 |