引用聖句:使徒の働き24章1節-21節
司会をお願いしました兄弟は八十才近いのに、この小さな聖書の文字を殆ど間違わずに、正確に読まれるということにいつも感心をいたします。 だいたい聖書を読んでもらうと、その人がどれだけ聖書を読んでいるか分かるのです。聖書を本当に読みこなしている人と言いますか、そういう人の聖書の読み方というのは、分かるものであります。 兄弟がこの聖書を本当に深く読み込んでいらっしゃるということをいつも感心いたしております。 使徒の働き24章になりますけれども、聖書が繰り返し語っているように、また、私たちがよく見聞きするように、神は正しき者の道を知り給うお方であります。 正しい心を持って、正しいことを行なう人、正しい道を歩む人、あるいは歩もうと願っている人は、神様は必ず守ってくださる。これが聖書の語っている揺るがない真実であります。その人がまことの神様を知り、信じているかどうかに関わらずであります。 人が本当に真っ直ぐな心を持って、悪を避け、正しいこと、良心にかなったことをしようというふうに歩んでいる人は、神は決してお忘れにならない。御折にかなった助けを備えてくださるということを私たちは自分自身の経験や、色んな人々の歩みを見ながら、そのことを深く教えられるのではないかと思います。 本当に、神は正しい人の道をご存知であります。まして義であり、真実であるまことの神様を知り、信じ、その方の前に正しく歩もう、そのために自分の全ての人生、人生の全てをかけていると言いますか、神様に仕えることに自分の人生の目標を置いているパウロが、神様によって一瞬たりとも忘れられることはあり得ないのであります。 ここの一連の場面でも、主は人々をむなしい人生から救うために、文字通りに自分の身命を投げ打って、イエス・キリストによる神様の救いの道を伝えている、真理そのものを人々に伝えようとしているパウロに対して、十分な助け手を備えてくださったのであります。 この騒動の起こった始めから、不思議にもパウロに心を留め、懸命に心を砕いて彼を守ろうとするローマ軍の千人隊長クラウデオ・ルシヤというのが彼のそばに置かれました。 千人隊長というのは、部下が、下に百人隊長が十人いるということでしょう。その百人隊長が百人を統括しているわけですので、千人隊長という名前が付くわけですから、かなりの位になるわけでしょう。 クラウデオ・ルシヤという名前が23章で初めて出てきました。彼の心にこのパウロへのただならない思いと言いますか、格別な思いを主は与えてくださいました。 普通なら、ローマ市民権を持つとは言え、一介のユダヤ人ひとりのために、これほどの物々しい護衛をつけて守ろうとするでしょうか。そのようなことはあり得ないのではないかと思います。もう一回23章まで戻ってください。 使徒の働き23:23-35
あのエルサレム。ユダヤの首都エルサレム。そこから、この海辺に面しているローマ総督の滞在地がカイザリヤと言いました。ローマ皇帝のカイザルの名前をとって付けられた町であります。それが、ローマの兵士たちが駐屯して、このシリヤ州ですか、このユダヤ地方がこの当時組み込まれていたのはシリヤの州であります。シリヤ州であります。 そういうわけで、エルサレムに置いておくと危ないということをクラウデオ・ルシヤは知ったものですから、その情報を得たその晩に、直ちにふたりの百人隊長を呼び寄せて、これだけを兵を揃えて、夜中に、アンテパトリスというのはちょうど間の六十キロぐらいの所であります。エルサレムからカイザリヤまでの。 そこで引き渡して、この騎兵たちが護送してカイザリヤまで連れて行ったわけであります。こうしてパウロは、ユダヤ人たちの手の届かないカイザリヤのローマ総督官邸に保護されることになるわけであります。 聖書には先ほど言ったように度々、「主は正しき者の道を知り給う。主を信頼する者は、主は決して忘れられることはない。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高くあげよう。」というふうに聖書のみことばはあります。 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼の願いをきこう。」ということばがありますけれども、ご自分の福音のために、仕えるパウロを主は完全に守ってくださっていることがわかります。 聖書全体を通してそういう個所がいくつも出てくるのです。例えばイザヤ書をちょっと見てみましょうか。旧約聖書のイザヤ書の45章。預言者イザヤを通して語られた主のことばなのですけれども、 イザヤ書45:1
クロスというのはペルシャの王であります。王の名前です。バビロンを滅ぼしたペルシャの王ですけれども。 イザヤ書45:1-2
イザヤ書45:4-7
ペルシャ王クロスというのはもちろんユダヤ人ではありませんから聖書のことを知らないのであります。 しかし、聖書の神は、この万有を支配しておられる神はペルシャの王クロスを呼び出して、彼を、イスラエルの民を守るために遣わす。クロスのことが聖書の中に出てまいりますけれども、「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」、こういうふうにして主はペルシャの王クロスをご自分の道具として用いられるということ。旧約聖書の中にはこの歴史的な事実が記されております。 イスラエルの捕囚を解き放ったりしたのは、このクロス王であります。バビロンからネブカデネザル王によって引き連れられて行った、捕囚となって引き連れられて行ったイスラエルの民を、クロス王が解放したと言いますが、そのことを言っているのです。 イザヤ書41:10-13
パウロの行く先々に、主は前に立って道を整え、「あなたと言い争う者はいなくなるから、だから恐れてはならない。」と仰っているかのようであります。 マタイの福音書の10章の中で、イエス様はこう仰いました。 マタイの福音書10:29-31
あなたがたの全てを神はご存知だからです。全てを御手におさめていらっしゃるから、二羽の雀に心を配られる神が、どうしてあなたがたに心配られないことがあるか。だから恐れてはならないと仰ったのです。 万物を御手におさめておられるのは、この生ける主であります。だから何の心配もする必要はないのですけれど、この主なる神を頭では知っていながら、そのみことばに心から信頼しようとしないで、無益な思い煩いをすることが何と多いことかと反省させられます。 森厳な聖書理解が必要なのではなくて、主に対する、単純な心からの信頼こそが大切だということを改めて思わされるのです。 森厳に見えるのは結局、人間の知恵によって森厳に見えるだけでしょう。主の約束のことばに無条件に信頼するということに勝る、おそらく深い信仰はあり得ないわけでしょうから、もう少し単純に主のみことばをそのまま受け取らなければならないということを思わされるわけであります。 主が、「こうしなさい。」と言われることについて、そのまま従おうとはしないで、そのみことばを色々と解釈し、理由付けて、納得してから初めて動こうとすることが非常に多いということを、自分自身に対して気付くわけであります。理由を知りたいのです、先に。 アダムが犯した、知恵の木の実を食べるという原罪のゆえに、人間はどうしても本性として、知識優先であろうとしているかのようです。信仰優先ではないのであります。 「こうしなさい。」、「こう行って来なさい。」、「こういうふうにしなさい。」と言われたら、「はい。」と言わないで、「なぜこうなのですか。」、納得したら、「じゃあ、行きましょう。」と、こういう性格というのが本当にうめき難く自分にあるということを思うのであります。 イエス様はあのマルタに対して、「『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。』とわたしは言ったではありませんか。」と仰いました。 ここにいらっしゃる方々の殆どは、心配事が多くなりそうな老年に向かっているのですから、もう一度主の約束のみことばに子どものような信頼を寄せたいものであります。 自分で考えると色々心配事が増えてきます。年をとるにつれて。聖書はそういうことに対して、心配してはならないと繰り返し言っているからであります。イエス様のことばを、もう一ヶ所お読みしたいと思います。 マタイの福音書6:25-32
神様を知らない人が。という意味です。 マタイの福音書6:32-34
このみことばを読むと、本当に何の心配もしなくていいのだということがよく分かるのですが、先ほど言ったように、幼子のようにこれに信頼しようとしない。なかなかそういう、牢乎たる性質が妨げているのだと思うわけであります。 先ほどの使徒の働きの24章のほうに戻りましょう。24章です。本題に入りますと、先ほど読んでいただいたとおり、五日の後と書いてあります。 使徒の働き24:1
大祭司アナニヤ。ユダヤの最高権力者になるわけです。祭政一致のようなものですから、政治的な権力を持っているのは、もちろんローマ総督ですけれども、ユダヤ人固有の中から見ますと、ユダヤ人として見ますと、それは大祭司アナニヤが最高の権力者であります。 彼が数人の長老たちと、テルトロという名前だそうです。これはこの大きな聖書の注によるとローマ名だそうです、ローマ人の名前だそうですけれども、その弁護士を連れて、わざわざエルサレムからカイザリヤまで五日後に下って来ます。 ときのローマ総督ペリクスに、パウロの罪を認めさせ、奪い返して、エルサレムに連れ戻す途中で殺害するためであります。正確に言いますと、パウロの裁判をエルサレムで開かせるように、総督を説得して、パウロを総督の保護下から奪い返して、その途中で暗殺しようというのが、彼らの目論見であります。 ですから、有罪か無罪かという判決をこの場で下す必要はなかったのです。ただ裁判を受けさせる必要があるということ。これを、そのエルサレムで受けさせようという、それが彼らの魂胆であります。 パウロが呼び出されて法廷に立ちますと、テルトロがいかにも抜かりのない、有能な弁護士らしく、まず総督ペリクス本人への称賛と感謝のことばを述べるのであります。 2節を見てください。 使徒の働き24:2-3
ペリクスの心をくすぐるような、そういうことをちゃんと図った上での言葉だと思います。 この総督ペリクスは、紀元52年から58年の頃までユダヤの総督だったそうでありますが、この頃はユダヤ地方では反乱が多発していた時代であって、決して治安が安定していたのではないのだそうであります。 ちょっとわれわれは二、三章前に、そのパウロを、その千人隊長クラウデオ・ルシヤが二、三年前に暴動を起こして、4,000人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないかというふうに21章で言ったということが書いてあります。 これは西暦54年であるということが分かっていますが、この頃に4,000人の刺客、暗殺者を連れて、エルサレムで暴動を起こした人物もいたわけであります。 こういうふうに、決してペリクスのおかげで平和が保たれているということはないわけでありますので、これは明らかなお追従を述べているわけであります。 すぐあとのパウロのことばと比べると、両者の心持ちと言いますか、その態度が分かります。10節をちょっと見てください。 使徒の働き24:10
これがパウロの言葉であります。パウロは決して無作法な態度は取りませんけれども、お追従を述べてはおりません。少しも彼はへつらおうとしてはいません。 テルトロの訴えは非常にごく短いものであったことが分かりますけれども、わずか四、五節で終わっています。 もう一回4節から見てください。 使徒の働き24:4-5
パウロのことです。 使徒の働き24:5-9
非常に短いです。先ほども言ったように、ただパウロをエルサレムに連れ戻すことができればいい、このローマ総督の官邸から引き出しさえすればいいということで、こういうことで済んだのだろうと思います。 テルトロの訴えの中身は何かと言いますと、二つぐらいあります。本当は、ユダヤ教徒と対立するクリスチャン信仰、彼はこれを「ナザレ人という一派」というふうに呼んでいます。聖書の中で一ヶ所だけ、これだけおそらく使われていることばです。 「ナザレ人という一派」キリストのことでありますけれども、「ナザレ人という一派」、このクリスチャンなるものの集団。これを、この信仰を排斥し、根絶することが彼らの唯一の目的なのであります。 しかしこれを訴えても、ローマの総督の同意を得ることを出来ないことは、明らかなのです。 これを政治的な問題に結び付けなければならないのであります。そこが、ローマ帝国が近代国家ほどではないにしても、一応、宗教と法律とを明確に分けていた法治国家の性質を持っていたというところであります。 宗教や信仰という個人の内面の領域について、ローマ帝国は干渉いたしません。しかし人間の外面的な行為に対しては、法律の領域として厳格な関与をしてくる。それがローマの国家の体制だったようであります。 最近、聖書との関連で、ローマについて少し知りたいという思いがあって、今まで読もうと思いませんでしたけれども、塩野七生女史のあの「ローマ人の物語」を時々寝る前にひっくり返りながら読んでおります。 30巻ぐらいあるのです。文庫本で。大変な本を書いたものだと思って、女の人ですけれど、感心しておりますけれども。イタリア政府から文化勲章みたいなすごい賞を貰ったりしているようでありますが、イタリア在住のなかなかの切れ者であります。 つい最近号は、確かキリスト教徒の問題と言いますか、それとローマ帝国との問題を手がけています。彼女は。 私はまだ紀元前五、六百年昔のローマという国の興りからちょっと始まったところを少し、数巻だけ読んでおりますが、ローマ帝国は宗教問題については非常に深い配慮をしていたようであります。 これが非常に微妙な問題であるということを知っていましたから、数々の国を戦争で打ち破って、自分の帝国の中に編入していくわけですけれども、宗教問題については、各民族、国民にゆだねて干渉しないということ。その裁判権は各民族に与えていたようです。 ローマは各国民の宗教問題に関わらない。しかしそれぞれの国家は個人の心の領域まで踏み込んで、その信仰を問題にするという、二重構造になっています。 ローマ帝国としては、全然そこには触れない。ですから、宗教の問題で訴えられて来ても、このローマ総督は聞く耳を持たないのです。全然。聞こうとしないのです。 しかし、その国の内部においては、ローマ帝国の中に編入されている各国の中においては、宗教というのが一番重要な問題ですから。古代国家では。ですから彼らはそれに対しては非常に厳しい対応をすると言いますか、そういう行動になっております。 ですからユダヤ人の宗教的な問題に関しては、その大祭司が最終的な責任者なわけです。ところがこの裁判権には制約が課せられていたようであります。例えばヨハネの福音書をちょっと見てください。18章。イエス様が処刑にされる、その日の朝のことがそこに出ていますけれども。 ヨハネの福音書18:28-32
このユダヤの最高議会、サンヘドリンと呼ばれた最高議会、これは法廷でもあったわけですけれど、彼はそこでイエス様に死刑判決が下ったわけでした。 朝早く、まだ夜の明け切らないくらい早い時期に、このサンヘドリンの最高議会が召集されて、イエス様の尋問が行なわれて、イエス様が、「わたしはあなたが言うとおり、生ける神の子である。」「あなたは、わたしが雲に乗って再び、今度見るであろうと仰った。」そのことに対して大祭司が、衣を引き裂いて、「神にたいする冒涜である。これは許すことができない。」と言って、死刑の判決を下すわけであります。 しかしこのサンヘドリン、その最高議会も死刑を執行する権限を与えられていないわけであります。だから、ローマ総督ピラトの許可が必要だったのです。 私たちはだれを死刑にすることも許されてはいません。判決はくだしましたけれども、最終許可は、判決は、許可は、ローマ総督がくださなければいけない。 そういうところからこのピラトが、思いもかけないピラトが歴史の表舞台に引き出されて、彼はひどい目にあうと言いますか、この判決をくださなければならなくなって、下すわけにもいかず、逃げるわけにもいかず、彼は立ち往生するわけです。 イエスなるこの人物に死刑判決を下すことは恐れているのですけれども、逃げるわけにはいかない。「あなたがもしこのことを見過ごすならば、あなたはカイザルに背く者です。」というユダヤ人たちの脅しの言葉に屈して、ピラトはついにイエスの死刑を認めるわけです。 このピラトという人は本当にある意味で気の毒な人です。とんでもない歴史の舞台に引き出されて、何千年もこのピラトという人物は聖書を通して読まれ、精神分析され、心理分析され、色んなことを言われるようになるわけであります。こういうふうな仕組みになっていたということです。 ローマのこの宗教と政治の問題に関する制度の隙間を縫おうとするところにこの弁護士テルトロの苦心があったと言えるでしょう。 このパウロという人物は、ペストのような人物で、世界中、当時のローマ帝国至る所で彼は回っていたわけですから。伝道のために。そこでユダヤ人たちの間に騒動を起こしているのだ。すなわち彼は、政治的な謀反と言いますか、ローマ帝国内で色んなところで平和を乱している危険人物なのだ。政治的危険人物なのだというふうに、彼はそういうふうにもって行きたいわけでしょう。 ちょうどイエス様がピラトの前に訴えられて、この人はカイザルの敵なのだというふうに話を持って行かれて、そういうのと同じようなことをパウロも経験しているということです。ここで。 それにしてパウロ暗殺という違法な手段で葬り去ろうと彼らはしていたわけであります。 総督ペリクスがユダヤ人たちのそのような目論見に気付いていたかどうかはちょっと分からないのですが、彼らの下心は明らかにそうでありました。法律に反して暗殺で葬るという、そういうことです。 まさかパウロのこの程度の罪状で死刑判決が下るわけがないでしょうから。ローマの法においては。ですからもう、とにかくエルサレムまで帰らせよう。そしてその途中で殺すのだという、そういう手はずであります。 パウロがエルサレム神殿で突然ユダヤ人の群衆に襲われ、捕えられ、そしてユダヤの最高議会で裁判にかけられたのは、彼が異邦人を、ユダヤ人以外の人々を神殿に連れ込んだという偽りの理由によるものでありました。 先ほどの24章のところで、はっきりここでは言っておりませんけれども、24章の6節のことばは、その意味です。 使徒の働き24:6
これは、異邦人を連れ込んだということであります。彼らの、ナザレ人の一派の仲間である異邦人のクリスチャンたちを神殿に連れ込んだのだということです。 ユダヤ教の律法によりますと、神殿の内には、外側の庭と内側の庭がありました。内庭であります。内庭に入る異邦人は死刑に処せられるというタブーがありまして、その警告文は、内庭に通じる階段の一番下の部分にギリシヤ語とラテン語で明記されていたと言われております。 ですから、異邦人はそこに来たら必ず止まらなければいけないのであります。 パウロが異邦人のクリスチャン仲間を神殿の内庭にもし入れていたならば、そこには正当な理由があり、これはローマ総督もユダヤ人の律法の問題ですから退けるというわけにはいかないでしょう。 これは死刑に処されるべきという律法で定めているのですから、死刑の許可を与えなければいけないわけでしょう。しかしながらその訴えは真実ではなく、偽りであります。 ですから彼らは、パウロを度々騒乱を起こす政治的危険人物としてローマの保護下から奪還したかったわけであります。 先ほど見ましたように、ちょうどイエス様が総督ピラトの前に訴えられたときのような状況です。イエス様が言われたとおりで、弟子はその師にまさらず、であります。イエス様を信ずる者はイエス様の道を行くのであります。 パウロはイエス様の辿られた道を、今辿っているわけであります。クリスチャン信仰の弾圧、排斥に乗り出すユダヤ人たちの行動には必ずこのようなごまかし、偽りが混じっているということがお分かりでしょう。強引に潰しにかかってくるからであります。 何が真実かを本当の意味で良心的に問おうとは、彼らはしないのであります。問答無用であります。白を黒と言いくるめても、目的を達成すればいいのだとの対応が見え見えであります。 しかしこれはかつてクリスチャンの迫害者として荒れ狂っていたあのパウロ自身の姿でもあるのです。ですから、ここでパウロはかつての自分の姿を見ているのであります。 かつての自分の罪を見せられるほどに辛いことはないでしょうから、パウロは辛かったろうと思います。自分の同胞たちがやっていることは、自分がかつてやっていたことであります。 使徒の働きの9章にちょっと戻ってください。9章。パウロがイエス様と出会って回心した、有名なダマスコ途上のときの記事がありますけれども。 使徒の働き9:9-19
この敬虔な主のしもべ、ダマスコにいた当時のユダヤ人、このアナニヤに対して主が語られたこの15節、16節のことばは非常に強烈なことばでしょう。これを読むときに私たちの心は本当に痛みを覚えるわけです。 そこに神様の本当にこの侮り難い厳しさと言いますか、それがまたにじんでいます。 使徒の働き9:16
迫害者パウロ。元の名はサウロです。それを主はこの世に選ばれたわけであります。 しかし、その選ばれたということがどんなにこのパウロの生涯にとって多くの痛みと苦しみ、それをもたらすものであるか。しかもそれを通してパウロは、主がどんなお方で、主の正しさ、主の聖さと主の愛、主の恵み、そういうものがどんなものなのかを経験していかなければならないのであります。 ですから、この使徒の働きをずっと追いかけてみると、パウロがかつてやっていたこと、彼の本当に愚かで、目の見えないその狂気と言いますか、そういうものを至るところで彼は突き当たって、見せられていくわけであります。 その度にパウロは神様の前に本当に弁明の出来ない人間であることを自覚させられたのではないか。 福音の使者というのは、そういう二面を負っている者ではないでしょうか。神様の驚くべき恵みのわざと同時に、・・・ (テープ A面 → B面) 昔、内村鑑三がヨハネの黙示録の中に、私は、そのヨハネでしょうか、天使によって示されたある巻き物を受け取った。それを食べよと言うものですから、食べた。それは口には甘かったけれども、腹には苦かった。 そういう言葉に彼が触れているところがあって、忘れがたいのですが。福音というのは甘い蜂蜜の滴る如く甘いものであるけれども、強烈にお腹にこたえてきて、その福音のもっている、何と言いますか、パウロがここで会っているような、そのことです。 それを、腹には苦かったというふうに言っているのだというようなことを書いているのがあって、忘れがたいのです。 今パウロは、全く自分と同じような、無茶苦茶なと言いますか、盲目的な振る舞いに見えるかつての自分の同僚たち、その姿をずっと見せられていくわけです。 そういう意味で、パウロは決して自分の同胞たちを冷たくさばいているのではありません。自分と同じ過ちを犯してはならないのだと彼は悲痛な叫びを上げているわけであります。 彼は決して、自分のこの同胞たち、あるいは先輩たちですね、そういう人たちを一方的に弾劾しているのではないということなのです。 ローマ人への手紙9:1-3
ユダヤ人のために ローマ人への手紙9:3
イスラエルの民、神様から選ばれた選びの民であり、キリストもまた人として彼らの中から出て来た。その栄光を受くべきイスラエルの民が今や神様によって、もう激しくむち打たれている。 神様の道における大きな妨げとなってしまっている。救い主を十字架まで追い詰めていくという、この霊的な倒錯状態と言いますか、そのことを思うと、私の心には耐えざる痛みがある。 そのために私は自分がのろわれてもいいと願いたいくらいなのだと彼はここで言っているわけです。 ローマ人への手紙10:1
これはずっとユダヤ人のことです。彼らというのは。 ローマ人への手紙10:2-4
ですから繰り返し言いますように、パウロは決して自分は関係ないかのようにユダヤ人たちを弾劾し、彼らに激しいことばを投げつけているのではないということであります。それはかつての自分の姿だからです。そういう意味において、人はだれをもさばくことはできない者なのです。 クリスチャンはたぶん、この世のさまざまな犯罪を見る度に、それが自分自身と関わっているということに必ず気が付くはずです。どのような犯罪とも自分は無縁ではないということを知るはずであります。私たちはそのような者であります。 私たちは色んな犯罪を見る度に、本当に痛ましいと思って嘆きますけれども、しかしそれは決して、自分はそれとは全く関係のない存在ではないなどということ。それを心の痛みをもって感じないことはないです。 もちろんパウロもそうであります。彼らはあのイエス様を裏切ったユダですら、決して彼を特別な人間として弾劾はしませんでした。ユダの問題について彼らはただ沈黙したに過ぎません。 ユダは特別な人間ではなかった。自分らもまた一歩誤ると、その危険性をもっていたということを知っていたからであります。使徒たちの書いていることを、証言を見ると私たちはそのことがよく分かると思います。 パウロの主張は何であったかと言いますと、24章に戻りますと、 使徒の働き24:11-13
こう言っています。わずか十二日間しかたたない。ここに五日間いるわけですから、エルサレムにいたのは七日間であります。その間に私が騒動を起こしたということを証言できる人はひとりもいない。私はそんなことをしておりませんと言っているわけです。 しかしユダヤ人たちが、今隠してはいるけれど、公にはしていないけれども、一番問題にしているクリスチャン信仰について自分は確かに彼らの言うとおり、「ナザレ人という一派」に属する者であると言っているのです。 使徒の働き24:14
パウロは、この道という表現を取ったのです。クリスチャン信仰という名前、キリスト教というような名前は、ずっとあとに出来てきたものであって、当時の人たちはこの道というような表現をしておりました。 私は、この道に属する者である。それはそのとおりでありますと言っています。そして、自分の信じていることについて短く書かれています。 それは何かと言いますと、神のさばきを受けるために、義人も悪人もすべての人間が復活するということであって、これは、この自分を訴えているユダヤ人たちも信じていることです。 ただ、両方の信仰の違いは、ナザレのイエスを約束されたメシヤであると信ずるかどうか、旧約聖書が長い間約束し、預言してきた救い主メシヤである。神から遣わされたメシヤだと信ずるかどうか。そこが違うのです。 私たち、ナザレ人の一派という者は、この方こそメシヤであると信じている者だ。これがパウロの言っていることの内容です。 使徒の働き24:16
総督ペリクスに向かって、この16節のことばは述べられていますが、「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」 このことばと、一章前の23章の1節のことばをちょっと見比べて見てください。23章の1節。これはユダヤ人の最高議会、サンヘドリンの法廷に立たされたときのパウロの最初のことばです。 使徒の働き23:1
ちょっとニュアンスが違いますでしょう。この23章の1節は断言しています。 「全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」、ペリクスに対して彼は、「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、努めてきました。」、「努めております。」こういう表現をしています。 この前のときも申し上げたように、この23章の1節のことばというのは、何かこのパウロの、挑戦的と言いますか、ユダヤの祭司長を初めとした、ユダヤ教の権威者たちに向かって、彼の何か挑戦的な含みがあるのではないかというような気がする、とこの前、申し上げました。 宗教的権威を振りかざして、そこにそっくり返っている大祭司アナニヤ。ユダヤ教の指導者たちに対してパウロが言いたかったのは、「あなたたちは人々の前に宗教的権威者の如く振る舞っているけれども、神のさばきはあなたがたの上にも同じように下されるということを自覚してはいません。あなたがたの実際生活は、その宗教的権威にふさわしいものですか。私たちの良心をご覧になる神の前であなたがたはどうなのですか。」、こういうことを突き付けているのだろうと思うのです。 彼らの良心に向かってそれを述べた。だから大祭司アナニヤが怒って、「あの者の口を打て。」と命じたと23章に出ていました。「パウロの口を打て。」と命じた。 パウロはかつて自分がユダヤ人の中の、そのパリサイ人の中心にいましたから、当時のユダヤの祭司長たちがどんな生活をしているか、よく知っていたろうと思うのです。 イエス様が仰ったように、長い衣を着て、裾にはさまざまな房を付けて、道では「先生。先生。」と言って頭を下げられて。そういう人たちだった。 「白く塗りたる墓よ。」とイエス様が弾劾をなさいました。そういう人たち。その信仰生活の内実は、実に白く塗られた墓が外側だけ美しくて、中は醜悪な腐ったもので満ちているように、そういうものだったのではないか。 この世の政治的権力と結託して、当時のユダヤの祭司長階層が腐敗していたと、それをパウロは知っていましたから、いきなり彼らに向かってそのことを言ったのだろうと思います。 一番痛いところを突かれたものです。アナニヤは。非常に憤慨して、あの者の口を打て。そう王座から命じたわけでしょう。 ルカの福音書の12章41節からちょっと読んでみましょうか。 ルカの福音書12:41-48
これが聖書の原則であります。 多く与えられた者から、多く要求されていきます。神様に多くの賜物を与えられている人は、多くの責任を神様に負っております。それをちゃんと果たさなければ罰はもっと大きいのだと、ここで仰っているのです。 ユダヤ教の指導者として神様からそういう立場を与えられていながら、民たちの上にただ君臨して、自分たちの務めを正しくわきまえず、果たそうとしないユダヤの祭司階級に対してパウロはそれを問うているわけであります。 先回もちょっとお読みしたのではないかと思いますけれども、ローマ人への手紙の2章をもう一回見てみましょうか。 ローマ人への手紙2:6-10
ローマ人への手紙2:17-22
あなたがたは、異邦人にとってのつまずきとなっているのだ。あなたがたのゆえに、異邦人は神様を侮るのだ。あなたがたは決して神様の栄光を現わしている者ではないのだという、パウロの本当に徹底的な弾劾です。ユダヤ人に対する。 これがローマ人への手紙2章であります。 「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。神は侮られている。」ということであります。 ユダヤ人を見て、「ああ、ああいう神様なんかまっぴらごめんだ。」というふうに神を知らない人々は言うというのであります。 私たちクリスチャンもまた問われているのです。「ああ、あのような信仰ならまっぴらごめんだ。」、そういうふうに思わせるキリスト者は少なくないかもしれません。つまずきとなっている。 私たちはあるとき、本物のクリスチャンに出会ったから見直したのです。これが本物だろう。これが本当のクリスチャン信仰だろうと目が開かれたのです。 人がクリスチャンになるのは、人との出会いによるわけであります。本を読んでクリスチャンになる人なんかいないのです。 本当の聖書の信仰に生きている人を見て初めて、私たちは信仰の何たるかを知るのであります。そういう意味で責任重大です。 ヤコブの手紙。 ヤコブの手紙3:1
パウロが言いたかったのはこのことだろうと思うのです。 「多くの者が信仰の教師になってはいけない。なぜなら、教師は特に厳しいさばきを受けるのだから。 ユダヤ人の指導者たちよ。あなたがたに対する神のさばきは普通の人のさばきどころではありませんよ。それが分かっていますか。」と、パウロは言っているわけです。 そういうところにぼくは23章に出て来たあのパウロの非常に挑戦的なと言いますか、最初読んで、おや?と感じられる。その口調とこのペリクスに対して彼が言っていることばのニュアンスの違いがあるのではないかという気がするわけです。 総督ピラトもパウロに対するユダヤ人たちの訴えが、何ら凶悪犯罪に関わるものではなく、政治的な重大犯罪であるというようなこともなく、千人隊長ルシヤの手紙にあったように、彼らの信仰内の対立であるということが分かったので、緊急性のあるものではなく、どうもパウロの言っていることのほうが正しいと感じたようであります。そのため裁判を延期して、ユダヤ人たちをエルサレムへ引き上げさせます。 そしてパウロを保護し、軟禁状態に置いたと書いてあります。24章です。使徒の働きの24章をちょっと見てください。 使徒の働き24:22
クリスチャン信仰についてという意味です。 使徒の働き24:22-23
と書いてあります。パウロを保護し、しかもある程度の自由を与えて、兄弟たちが来てパウロの身辺の世話をすることを許したということであります。 使徒の働き24:24-25
パウロはこのペリクスがどういう人間かを知っていたために、こういうことを言ったのかどうか。知っていたでしょう。噂として。 この、ユダヤ人の妻ドルシラというのは、ペリクスが最初の夫から盗んだ女性だと記されております。ですから、ペリクスという人のそういう不道徳な側面を知っていたから、正義と節制とやがて来る審判とをパウロは正面切って話したのかどうか。それでペリクスは恐れを感じたのであります。 「今日は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」ということであります。 使徒の働き24:26-27
と書いていますが、2年経って彼はローマ総督の地位を外れたというのですから、パウロがここに連れて来られたのは、紀元56六年ぐらいです。 キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いたとありましたけれども、本心からこれに関心を持ったのかどうか。単なる好奇心からなのか。 当時のローマ総督というと、これはローマ皇帝の代理人なのです。大変な権力を持っているわけであります。 当時のローマ皇帝がどんなにすごかったか、もう本当にこの世の神かと思います。もう、すべての人が震え上がって、彼の一言によって首が飛ぶどころではありません。すべて財産を没収され、いちどころ、あっという間に処刑される。ローマ皇帝の戯言ひとつでどうにでもなるわけですから、文字通り、この世の神という感じがするわけであります。あのネロなどは。 しかし、そのローマ皇帝の代理人であるほどの地位にある人が、一介の伝道者の懐に物欲しげな視線を送っているのであります。何というさもしい心情だろうかと思います。パウロから金をもらいたい下心があったというのです。 パウロは天幕降りです。彼は天幕降りながら当時のヨーロッパ世界を伝道しているわけですから、そのパウロからローマ総督たる者が金を要求しようというのですから、本当に情けないなぁという気がします。 それはともかくとして、この情けないような、卑しいと言いますか、そういう下心を持った総督ペリクスを通してではありますけれども、ここでもパウロへの主の守りがやはり備えられていると言えるのではないでしょうか。 ペリクスはちゃんとパウロを保護下に置いて、ただユダヤ人たちに恩を売ろうとして二年間放置したまま、自分はローマ総督の地位を去って、このユダヤ地方からいなくなったわけですけれども。 彼を拘束していたから、パウロはこの危険を免れていたわけでしょうし、解放されたらユダヤにおれませんから、やはりこれも主の守り、主のご配慮であろうと私たちは思うわけであります。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。」と主は言われたとありますけれども、賢い主のなさることは、十分以上ではないかもしれませんけれども、十分ではあります。私たちもこの十分な主の恵みを日々受けていることを再確認して歩みたいものであります。 賢い親は子どもに必要以上のものを与えないとよく言います。必要なものだけを与える。主は賢いお方ですから、私たちにちょうど十分なだけのものをいつも備えていてくださるのだということを覚えたいのであります。 コリント人への手紙第IIの12章を最後に読んで終わりましょう。 コリント人への手紙第II、12:9
主は、十分な備えを私たちに日々していらっしゃるのだということ。 そしてそのゆえに、つぶやかないで、前進をしたいと願う者であります。 そこまでにしましょうか。 |