引用聖句:使徒の働き25章1節-12節
また先回に続いて使徒の働きの第25章からごいっしょに見てみたいと思います。 使徒の働き25章は、特に突っ込んで学ぶべき材料も無いように思うのですが、パウロがいよいよローマ皇帝ネロ、彼のところに送られる、そのための裁判が正式に開かれる。それは26章であります。そこに至るところの事情がここに記されているというだけであります。 しかしサーっと見ながら、色んなところに脱線するかもしれませんけれども、しばらくの間ごいっしょにこのストーリーを追ってみたいと思います。 前回の使徒の働き24章で見ましたように、パウロは主の御手に守られて、ユダヤのカイザリヤに滞在するシリア州の総督ペリクスの保護下に置かれました。 当時のローマの支配体制によると、ユダヤ地方というのはシリア州の中に組み込まれていたようであります。 のちにユダヤはひとつの州として別に扱われるようになっているようでありますけれども、このペリクスという総督はシリア州の総督なのです。 しかし彼の滞在していたのはユダヤの地のカイザリヤ。カイザルの名前を取った都です。港湾都市でありました。 この総督ペリクスなる人物は、パウロが何らの犯罪をも犯していないということを彼ははっきり認めながら、釈放しようとはしないで、いかにもしたたかな政治家らしく、ユダヤ人との交渉の材料に使おうとしてパウロを二年間も投獄したままにしておいたわけであります。白黒決着をつけて、彼にはその罪は無いからといって釈放すればよさそうなのですけれど、そうしなかったのです。 そのうちに彼の、総督の任期が切れてこの事件の決着はペリクスの後任である総督フェストにゆだねられることになったわけであります。 ちなみにペリクスという名前は幸福という意味だそうでありますが、元は解放奴隷、すなわち奴隷の身分から解放されて、ローマ市民とされた人であったそうで、このペリクス総督の治世は、強権的、高圧的でユダヤ人の間では評判は良くなかったと聖書辞典を開くと出てまいります。彼は不穏な動きをするユダヤ人たち、相当の数を殺害しております。 ローマの歴史家タキトゥスは、ペリクスは奴隷根性を抜け切れなかったと書いているというふうに紹介されていますけれども、どういう意味で奴隷根性と言っているのか分かりませんが、あまり評判は良くなかったのです。 他人の妻であったドルシラを横取りし、また金銭欲が強いという、道徳的水準の低い人物であったので、パウロの正義と節制とやがて来る神の審判についての説教に恐れを感じ、動揺した様子でしたけれども、悔い改めようとはいたしませんでした。 悔い改めるとは、神様の前に心から罪をお詫びし、さらに罪の生活を清算し、神様のもとに立ち返ることであります。人は神の審判を恐れることはあっても、自分の罪の人生を清算して正しい道に立ち返ろうとは、なかなかしないものであります。 心から悔い改める人には、神の審判はもはや恐れではなくなるものであります。私たちだれもが子どもの頃は何度か経験したことがあるはずでありますが、親に怒られるようなことをしながらそれを隠していると、いつばれるかと思って、親の前でビクビクいたします。しかし、それが自分から決心して言い出すなり、あるいは何らかの思いもかけない事情によって明らかになるなりされて、光に出されて、ついに謝って清算せざるを得なくなってくる。 白状して、親の前に正直に説明しなければならない。申し開きをしなければならない。謝らなければならない。そうすると心の重しが取れて、ビクビクしていたその良心の恐れが消えて無くなるということを私たちは何べんか経験したのであります。 悔い改めて立ち返る人にとって神は恐ろしい方ではなくて、慕わしい方と変わってまいります。不思議と言えば不思議ですが、当然と言えば当然であります。 本当に神様の前に正直に、ありのままに出て行く。もう一切弁解はしない。そのようにして主の前に悔い改めると、その途端に神様は慕わしい方になります。恐ろしい方でもなくなってくるのであります。昔われわれが親の前で経験したことと同じことを私たちは経験するわけであります。 ヨハネの福音書の3章。よく読まれる個所です。 ヨハネの福音書3:20-21
確かに私たちはかつて光を恐れる者でした。自分の内にやみがあるからであります。光を避けようとしていた者でした。 しかしあるときに光の中に出て行こうと決心したのであります。もう先送りしてはならない。問題は解決されなければならない。問題は解決されて初めて新しい出発が行なわれるのだ。 そのことに気が付いたときに、もう逃げるのをやめたのであります。ありのままに神様のところに行こう。そして恐れは喜びに変わっていくのであります。 エペソ人への手紙5:8-14
明らかにされたものはみな、光となる。私たちは今まで隠されていた自分の罪、そういうものが光に現わされることによって、神様の恵みを知るようになる。神様を慕わしいという心を与えられてくる。罪というのはそういうものなのだということなのです。 祝福の仲立ちをするものというふうに言えるかもしれません。罪というおぞましいものが、これが心から悔い改められると、神様の祝福を受ける手段となっていく。 昔、ラジオ牧師の羽鳥明先生が、部屋の中にひっくり返って、ゴロンと横になっていたときに、戸の、雨戸の節目から光が差し込んできて、それが部屋の中で漂っているゴミに当たる。そのちりに当たる。そのちりが光を受けて、それをご覧になりながら、人間の罪のようだ。空中に浮遊しているところのゴミくずなのだけれども、ちいちゃなゴミなのだけれども、それに外側からの光が当たるとそれが光ってくる。 光というのは何かぶつかるものがないと、光として認められないわけであります。われわれの目に入ってこないわけであります。 この全宇宙に光は満ちているわけでしょう。しかしそれに当たるものがないために、私たちはそこに光があるというのは分からないわけです。 光はそれを受け止め、それを反射するものがあって初めて、光として私たちの目に入ってくるわけでありますが、人間の罪というのもそういうものなのでしょう。 罪というのは人間にとってはおぞましく、痛くてつらいものですけれども。しかし、それを通して初めて人は神様の恵みに直に触れるものとなっていくに違いないわけであります。 イエス様のように、罪を知らない方が神様の恵みを知られるということ。そういうのはもちろんありますけれども、それ以外の全ての人間はおそらく、ただ罪を通してだけ、その悔い改めを通してだけ神様の赦しと恵み、あわれみに直に触れていくと言いますか、そういう経験するのではないかと思います。 罪の増すところ、恵みもいやませるというような、ローマ人への手紙のことばがありますけれども。どうもそういうもののようであります。ですから、明らかにされたものは、もはや罪ではなく、光なのだ。それは私たちに神様の救いといのちとをもたらすところの手段となるのだ。聖書はそのように言っているようであります。 神は、私たちが罪の人生ではなくて、光の中を歩む祝福された人生、神様に愛され、神様を愛するという、まことのいのちに満ち満ちた人生を生きるようにと切に願っていらっしゃいます。その神のいのちの祝福にあずからせようとして、神は招いておられます。 それなのに人は光を恐れ、逃げよう、逃げようとばかりするのであります。勇気を出して正面から向き合う決心をしなければいけません。 人間はいつか自分の罪と正面から向き合う決心をしなければいけません。そして初めて私たちは真の解決というものを見いだすことができるからです。ごまかしてはダメです。そこに解決はないから。先送りしてはならないのであります。遅かれ早かれ、人は清算せざるを得なくなってくるからであります。逃げるのをやめ、正面から向き合う決心をすると、人はもうビクつかないものであります。 神様はそのような決心をしてご自分に近づいて来る者に対して、「恐れるな。わたしはあなたを贖ったのだから。」という声をかけてくださいます。大切なことはやっぱり、主の前に出て行こうという決心ではないでしょうか。 イエス様は、恐れてご自分の前にひざまずいて、「主よ、私から離れてください。私は汚れた者ですから。」と言ったペテロに対して、「恐れるな。」と仰いました。「わたしはあなたを、人を漁どる漁師にするから。」と仰いました。 本日の主題は25章ですが、冒頭に書いてありますように、ポルキオ・フェストがペリクスの後任としてこのカイザリヤに着任いたします。 この前申し上げましたように、ほぼ紀元58年頃であろうというように、一、二年差があるかもしれませんけれども、聖書辞典なんか開きますと、ちょっと一年ぐらいずれた説明もしてありますので、どれがはっきりしているかわかりませんが、この私が持っている大きな聖書の解説では58年となっています。その頃にフェストが着任いたします。 フェストとは喜びという意味だそうでありますから、この総督たちは名前だけは立派と言っては悪いですけれど、一方は幸福でありますし、一方は喜びでありますし、クリスチャンが付けそうな名前を二人とも持っております。 私は人の名前には非常に関心があって、旧約聖書を読むときには、いちいちその名前の意味を調べたりしているのですけれども。旧約聖書を読んで驚くのは、ユダヤ人たちの名前というのがすごい名前がいっぱい付けられているのです。 ヤコブの12人の子ども一人でしたか、「わが苦しみの子」なんて。母親が産んだときに自分は死んでいく、その産みの苦しみから、確か死んでいくとき叫びでしたか、「わが苦しみの子」と名前を子どもに付けると。 あのルツ記に出てくるナオミの子なんかは、「病弱」という名前です。息子なんかは。全く、よくこんな名前を付けるものだというふうに思いますけれども。 サムエル記に出てくるあのエリ、大祭司エリの二人の息子の子ども、神様の前に本当に不道徳な、神を恐れぬ振る舞いばっかりして、この二人の息子は一日のうちにいのちを失い、その知らせを聞いたエリは、高い椅子の上から転げ落ちて、首を折って死ぬという、一日のうちにこのエリの上に神のさばきが下されますが、そのエリの孫なんかは、そのときの知らせで陣痛を起こして、恐怖にとらわれ、陣痛を起こしたその嫁が産んだとき、子どもなどは「イスラエルから栄光が失われた」という意味の名前です。 全く、ユダヤ人というのは何かそのときの状況、状況を子どもに全く容赦なく付ける習性を持っていたようであります。 モーセという名前の意味はご存知ですか。「引き出す」という意味です。彼がナイル川から引き出されたということもあるのですけれども、エジプトの地から民を引き出すという意味がその中にあるという、預言のように含まれているわけであります。 ヨシュアの名前は、新約聖書では「イエス」というふうに訳されている、同じ名前ですが、ヨシュアの名前の意味、「主は救い」という意味です。 ですからイエス様の名前の意味は、「主は救い」という意味を持っています。これも本当に全くその通りの実態を表わしています。ヨシュアはモーセからイスラエルの民を引き連れてカナンの地にはいる。救い出した人であります。 イエス様が例え話で語っているあの貧乏人ラザロ、「主は助け」でしたか。確かそういう意味を持っています。名前はなかなか面白いのでありますが、むしろこのローマ人たちの名前の付け方のほうが私たちにはすんなり理解できそうであります。 フェストは、今言ったように、「喜び」という意味を持っている名前なのですけれども、カイザリヤに着任した3日後に、彼はエルサレムに上っております。 当時のユダヤ人の間に不穏な空気があったので、その状況把握のためであろうというふうに言われております。25章をもう一回見てみましょう。 使徒の働き25:1-3
この前に見た千人隊長ルシヤにしてもそうですが、この総督フェストも非常に動きが機敏であります。 ローマ総督としての職務というのが、やはり相当厳しい、ちょっとした落ち度があると、住民に、法廷に訴えられ、解任されたり、処罰されたりするというのは、当時のローマの法体系だったようでありまして、とにかく、こう見ていると、彼らのこの動きというのは非常に素早いと言いますか、グズグズしていないところがあります。 前総督のペリクスにしても、明らかに無罪であるパウロを、法律を曲げてまでユダヤ人に引き渡すことができなくて、と言って、取り引き材料として利用するために釈放もせず、拘束したまま置いていたということだろうと思います。 明らかな法律違反というのはローマでは許されなかったようであります。それによって総督を解任されたり、総督の任期が終わったあとで裁判にかけられて、処罰されたりという例がずいぶんこのローマでは起こっているようです。かつてのそのローマ帝国の中では。 ユダヤの祭司長や指導者たちは、着任したばかりのフェストを自分たちの味方につけようとして、あの手この手で篭絡をし始めます。しかしフェストはこの件については何も知らないようであるのに、彼らのその手に乗りません。 フェストには、この着任前から反乱や騒動を繰り返し、手に負えないユダヤ人たちへの警戒心があったのではないかと思います。ユダヤ人というのはなかなか統治しづらかった民のようであります。4節を見てください。 使徒の働き25:4-5
かなり冷たい語調と言いますか、ユダヤ人たちの申し出を、懇願をピシッと拒絶しているような感じがします。ちゃんと手続きを踏んで、きちっと告訴をして、裁判所で決着を着けるべきでは・・・。 何とか取り入ろうとする、そういうユダヤ人たちのこの態度をフェストはピシッと断っている感じがします。こうしてカイザリヤに下って来た翌日、早速フェストは裁判を開くわけであります。6節からもう一回見ましょう。 使徒の働き25:6
これはかなりルカがやっぱり正確をきそうとして書いているのでしょう。八日あるいは十日ばかり滞在しただけで、 使徒の働き25:6-7
証拠をきちっと出して相手の罪を、罪状を確認すると言いますか。そういう法的な手続きというのがやっぱりきちっとこのときから成されているということです。 どうなのでしょうか。日本のかつての裁判なんかはどういうふうになっていたのかと思いますが。本当にこう、証拠をつめて、いかにも実証的と言いますか。そんな感じがするのですが。証拠が出せない。 そこでフェストはこのユダヤ人たちの訴えには根拠が無いということをちゃんと知るわけであります。しかしながら、これからのユダヤ地方の統治を平穏に進めたいフェストとしては、やはりユダヤ人に恩を売るための良いカードだという思惑がでてまいります。先の総督ペリクスと同じように、ユダヤ人と上手くやりたい。ユダヤ人に迎合しそうな気配がここで出てくるわけであります。 使徒の働き25:8-11
パウロはフェストのその心の動きを見逃しません。したがってパウロはすぐに決断するわけであります。それにはローマ皇帝への上訴という手段しか残されていないのです。 ここでのパウロの主張で非常に心に残るのは、11節のことばであります。 使徒の働き25:11
パウロはいのちが惜しいからこのような反応を繰り返しているのではありません。死罪にあたることをしたのであれば、死をのがれようとは思わないとは、パウロの当然の決意であります。彼は卑怯なことはキリストの御名の上に消して行なわない決心をしている人であります。 彼はこの数年後に殉教の死を遂げます。ただ死を恐れ、死からのがれようとしているのではありません。ユダヤ人たちの謀略に陥ることを避けるために、彼はやむを得ず時のローマ皇帝、あのネロに上訴せざるを得なくなったのであります。 こうしてローマ帝国史上最悪の皇帝ネロとパウロが相対する機会が生まれたわけですが、これもまた主のご計画なのでしょう。しかしこの両者の対面については、聖書は何も記しておりません。 少し余談になりますけれども、ここ十数年来でしょうか。もっと以前からでしょうか。わが国でも死刑廃止論が台頭してきております。それが世界の潮流であるということであります。 いったい聖書はこのような問題についてどう言っているのでしょうか。人命はいかなる場合でも奪われてはならないと聖書は言っているのでしょうか。 そうでないのは明白です。旧約聖書から見て、全然そのようなことは言っていない。旧約聖書の規定などはもう非常に厳しくて、死罪にあたる罪を犯した者にあわれみをかけてはならないとまで命じているわけであります。 この死刑廃止論という問題がマスコミで取り上げられる度に、私はこの25章の11節のことばをいつも思い浮かべるのですけれども。 死罪にあたる罪に対しては、死刑は当然であると。人は不当に人の命を奪ったならば、自分の命をもって償うのが当然であると。これは聖書の一貫した証であります。 旧約聖書のレビ記などにはその刑罰の詳細な規定が述べられています。 例えば山に行って木を切っている。木を切るときに、その人の斧の頭が外れて人にぶつかって、その人を殺した場合はいったいどうするか。そういう規定が書いています。 全く故意ではなかった。全くの偶然であった。そういうときには死罪にはならない。しかし、その人は償わなければいけないとか。 飼っている牛が日頃から人を突く癖があることを知っていながら放置していて、それで人をその牛が殺した場合、そのときには飼い主はどういう処置を受けなければならないかとか。 とにかく厳しい罰則が設けられております。いずれにしても、故意に人を、罪のない人を故意に殺した場合には、旧約聖書は全くその考慮の余地は与えていません。その者は殺されなければならないという規定を明確に述べております。 ですから聖書を読めばイスラエルの歴史において、そういうことが何べんも、何べんも行なわれているということを私たちは知っているわけであります。 最近の日本の風潮は、死刑廃止。人を殺しても、本当に十年や十数年で刑期が終わるという例が多くて、私などはずいぶんこれに対しては、刑が軽すぎるのではないかという思いをいつもいたしております。 マタイの福音書5:17-19
イエス様は愛のお方だから、この人権擁護論者たちのような立場ではないだろうかと思うのは、とんでもない間違いだと思います。 マタイの福音書5:18
とイエス様は仰っているのであります。 「正義をして正しめよ。たとえ世界は滅ぶとも。」という西洋の諺があります。正義をして貫徹させよ。たとえ世界は滅ぶとしても。これは逆に言うと、この正しさということが成り立たなければ、正義というものが正されなければ、逆に世界は滅びるということでしょう。 私は、この諺はイエス様のこの福音書のことばから来ているのではないかというふうに思っております。 神が人間の罪をイエス様の十字架の死によって贖われるということ。それを見るときに、いかに正義というものが蹂躙されてはならないかとだれもが思うのではないでしょうか。 それでは聖書に救いはないかと言うと、もちろんそうではありません。犯罪者が神の御前に真実に罪を悔い改め、神様の救いの御手である主イエス・キリストを受け取るならば赦されると約束しております。そのたましいは確実に救われ、永遠の天の御国に、神の子として迎えられることは間違いないのです。 どんな極悪な犯罪を犯した人でも、それは同じであります。しかし、その人が犯した犯罪の結果は買い取らなければならないのであります。刑罰を正しく受けなければならないと聖書は教えています。 クリスチャンになれば、今までのこの世の中でやったことは帳消しで、責任は全く取らなくてもいいかのように考えるならば、それはもう、とんでもない話です。 神様を信ずるからこそ、悔い改めたからこそ、人は自分の犯した過ちの結果に対しては責任を取らなければならないのであります。 ですから、刑務所で福音に触れ、悔い改め、救われた死刑囚たちの中には、何十年も本当にすばらしい生き方をする、生活の仕方をする模範囚が出てくるわけです。 死刑執行までどれぐらいあるのか分かりませんけれども、五年、十年あるわけでしょう。その人々の生活の仕方は、その悔い改めた生き方を見て、多くの人々の中から減刑の嘆願書というのが出されるときがあるそうであります。 死刑が確定してからそういうことがあるのかどうか、ちょっと不思議なのですけれども。そうあるそうです。 ただ人間は長生きすればいいというものではないわけでしょう。この肉体の命が何よりも尊いというわけではないわけでしょう。聖書は決してそういう人命至上主義ではありません。 人命を超えて永遠なるものがあるのだということ。私たちの目はそこに向けられなければならないということ。だからある意味で聖書は人の命を奪うと言いますか、死罪にあたる罪を犯した者に対しては、はっきりその刑罰を科すということを述べているわけであります。 パウロは、「私が、死罪にあたることをしたのであれば、私は死刑を免れようとは思っていない。」、彼はそのように総督フェストに向かって言っておりますが、それは当然のことであります。 真に悔い改めた人は自分の罪の結果を心から受け入れようと願うものではありませんでしょうか。私はそうだと思います。 使徒の働き25章の13節以下はこのテーマの後半部分になるのですが、あんまり学ぶものがありませんので、ちょっとだけ見て終わりたいと思います。 使徒の働き25:13-14
云々と書いています。アグリッパ王とベルニケとの登場であります。 ここにもまた底知れぬ罪の暗やみが現われてまいります。というのは、このアグリッパ王とベルニケとは、実の兄妹ありながら、終生同棲するというスキャンダルで、歴史上有名な二人だからであります。 ここのアグリッパ王とは、新約聖書の中でおそらくユダと並んで最もおぞましい人物の名前であるべきあのヘロデ大王のひ孫でありますけれども、ヘロデ・アグリッパ一世の子どものヘロデ・アグリッパ二世のことです。 それではベルニケは腹違いの妹かと思うのですけれども、そうではないのであります。同じ母親から生まれた実の妹なのでありますから、私たちは言葉を失うのであります。 さらにまた24章の24節に出てきた前総督ペリクスの妻、ユダヤ人である妻ドルシラと書いています。これはこの前も申し上げましたように、人の妻を奪ったのでありますけれども、このドルシラというのはこのベルニケの妹なのです。ですから、このアグリッパとベルニケとドルシラとは兄弟姉妹なのであります。 ヘロデ一家の家系を見ると、他人だけでなく身内の妻や子の殺害、殺戮と伯父と姪、兄弟姉妹間を含む不倫乱倫に満ちていて、嘔吐をもよおすような気分になってまいります。 ヘロデ大王の後ろ盾であったローマの初代皇帝アウグストゥスは、ヘロデがあまりに自分の子どもを次々と殺していくので、ヘロデの子どもであるよりも、豚の子であるほうがよいと言ったというように言われております。 聖書の主題は、人間の罪の問題ですが、まるで人間の罪の標本がこのヘロデ一家によって新約聖書の正面に掲げられているかのようであります。 イエス様が降誕したときに、そのベツレヘムの周辺の子ども、二、三歳以下の子どもでしたか、ヘロデはその殺害を命じます。ヘロデ大王は。 イエス様の誕生のその時から、ずっと、実に使徒の働き全体を通すほどにこのヘロデの一家というのは付きまとって来てやまないのであります。 福音の光とヘロデ一家に代表される罪のやみとか、互いを浮かび上がらせているかのように配置されております。これももちろん偶然ではないでしょう。 神様が介入なさるところに、本当に、光によって浮かび上げられてくる人間の罪の暗やみというのがあらわになってまいります。このアグリッパ王とベルニケ。 当時の全ての人が知っているわけでしょう。そうであるにも彼らは全くそれによってひるむことなく、堂々と王であるとして振る舞っているのであります。当時この二人はエルサレムに住んでいたようであります。 そういうわけでエルサレムからカイザリヤにこの二人が来て、総督フェストに敬意を表するためにここに現われたわけですけれども、そこで総督フェストは、事情は分からないのです。このパウロの一件というのはどういうことなのか。 ユダヤ人の律法の問題については、フェストは訳が分からない。それで、アグリッパなら分かるのではないかということなのですが。このアグリッパというのはユダヤ人ではないのです。元々。ヘロデ一家というのはイドマヤ人。ユダヤ人ではないわけであります。 ですから彼だって本当は分からないのでしょうけれども。三代、四代、このユダヤの地にいるわけですので、フェストは相談をもちかけていくわけであります。 ちょっとまだ少し時間がありますから15節からお読みします。ちょっとそこ少し前から。 使徒の働き25:14-22
非常にこの敬意は明らかであります。 フェストもこの前のローマ総督ペリクスと全く同じ感想をもつわけです。どんな大変な罪をもった男かと思って話を聞くと、何のことはない。ローマの法律に触れるようなことは一切無い。 しかも彼らが訴えているように、パウロが異邦人を連れて入ってはいけない神殿の内側の庭、内庭に連れて入ったという証拠もない。 結局パウロが伝えている、このイエス・キリストなる、救い主なるものをめぐっての対立であるというわけで拍子抜けするわけでありますけれども。 それでこのローマ皇帝に彼を送るために、囚人として送るための訴状を作らなければいけない。いったいどういうふうに作ったらいいのか、彼は、フェストは作りようがないわけであります。それで困ってしまっているわけです。それでこのアグリッパの知恵を拝借したいというわけであります。 使徒の働き25:23-27
権威ある者らしく、大いに威儀を整えて、裁判の開かれる講堂に姿を現わしたと書いています。このアグリッパとベルニケ。 この個所を見ると、この世の権威とは何と実態のないものかと感じさせられます。このような人物たちがこの世の権威者たちとして、いわば、そっくり返っているのです。 内実はひどいものなのですけれど。どうもこの世というのは、そういうところらしいのであります。イエス様がピラトに言われたことばを思い出します。ヨハネの福音書19章4節からちょっとお読みします。 ヨハネの福音書19:4-11
イエス様はピラトの前に立ってピラトの質問に対して全く口を閉ざされた。それでピラトは少し苛立ったようです。「私には権威があるのだ。あなたを釈放する権威があり、十字架につける権威があるのだ。」、これは少し脅しているようなところがあります。 これに対してイエス様は、「もしそれが上から与えられているのでないなら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。」とピラトに対して仰っているのであります。 死刑囚という人生の果てとも言うべき境遇で自分の罪に気が付き、悔い改めて真人間に立ち返る人と、自分の腐敗し切った罪に気が付かず、威儀を整えて、人々の前に権威ある者のように振る舞う人たちとどちらに真の権威は与えられているのでしょうか。 ウォッチマン・ニーは、真の権威というのは、神様の権威に服するところにだけあるのだというようなことを言っております。 人間にはもともと権威は無いのであります。真の権威は、ただ神ご自身にだけあるものであります。この神の権威を正しく認め、この神の権威に服するところに神の権威が与えられてまいります。 親が子どもに権威を持ちたいと思うならば、親は神様の権威のもとに立たなければなりません。神の権威に服さなければいけません。神の権威に服することなしに、親は子どもに対して権威を持つことはできません。全ての人はそうなのであります。 神様の権威を知らず、神様の権威のもとに立つことを知らず、それでいながらこの世の権威者であるかのように威儀を整えて、裁判の席に出て来る。これがこの世の法と言いますか。この世の権力者たちです。 イエス様が仰ったように、「上から与えられるものでなければ、あなたに権威はない。」、私たちもそのように思っています。 目に見えない神様の権威のもとに立つこと。それがまた信仰であります。私たちの立つべきたちどころでもあるだろうというふうに思っております。 そこで終わりましょう。 |