引用聖句:使徒の働き26章1節-6節
ひと月、時間があきましたけれども、今まで学んで来たことに続いて、この使徒の働き、今日は26章ということになりますが、ごいっしょに考えてみたいと思います。 あちらこちらの個所を開けますので、ひとつゆっくり申し上げますから、聖書を開いて、聖書の文言に目を留めていただきたいと思います。 これまで見て来ましたように、パウロは西暦56年ごろ、小アジア、今日のトルコからギリシア方面にかけた第三次伝道旅行を終えて帰国し、エルサレムに上りましたが、エルサレムの教会の責任を負っている長老たち、その中心は、イエス様の実の弟ヤコブだったそうでありますけれども、このエルサレム教会の長老たちの勧めに従って、神殿でささげ物をする儀式を行なうことになりました。 身をきよめて宮に入り、七日目に頭を剃って供え物をささげるという、ナジル人の誓願というのがあります。旧約聖書の民数記の6章の中に記されていますけれども、関心のある方はあとでお読みになったらいいと思いますが、ナジル人の誓願というのは、神様への献身、聖別の儀式であります。 自分自身を神様の御手にゆだねるための、そういう、自分をささげるという、そういう信仰の態度を表わす儀式のようでありますが、パウロはこれをするために、エルサレムの中心であるところの神殿に上がったわけです。 この儀式はクリスチャンとなったパウロにとっては、もはや意味のあるものではありませんでしたけれども、当時ユダヤ教から改宗したクリスチャンたちが非常に増えていて、パウロが旧約聖書の律法を否定しているという、事実とは違った噂が立っていたために、この人々の間にパウロへの不信感があることを心配した教会の長老たちが、その噂を打ち消すために、パウロに勧めたことでありました。パウロはちゃんと律法を守っている人だと、彼らに示そうとしたわけであります。 これまで学んで来たように、パウロは、人が救われ、神の前に義と認められるのは、旧約聖書の律法を守ることによってではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によるという、福音の奥義を命懸けで宣べ伝えた人であります。 彼はこの一点については絶対に譲ることはありませんでした。 人は律法の行ないによって義とされるのではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の前に義と認められるのである。 すなわち、受け入れられるのである。すなわち、救われるのである。もうこれが福音の奥義と言うべきものであります。 これについては、パウロの書簡その他に繰り返し、繰り返し出てくるわけであります。まずガラテヤ人への手紙をちょっと見てください。ガラテヤ人への手紙の2章15節と16節だけをちょっとお読みします。 ガラテヤ人への手紙2:15-16
ガラテヤ人への手紙2:20-21
非常にはっきりしています。もし人が律法の行ないによって義と認められるというのであれば、キリストが死んだ意味は無いのだ。十字架の贖いのみわざというのは、実は存在しないのだ。こういうふうにパウロは言っているわけであります。 ローマ人への手紙の3章19節から。 ローマ人への手紙3:19
律法の下にある人々というのは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人以外の国民は律法を持っていなかったからです。ですから、律法の下にある人々に対して言われている、これは、ユダヤ人に対して言われているということ知っていますという意味です。 ローマ人への手紙3:19-28
私たちが自分の正しい行ないによって、神様に義と認められるのであれば、私たちは自らを誇ることができる。しかし、だれも神の前に誇ることはできないのだ。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる人は、ひとりもいないからである。 そうではなくて、ただ信仰によって、イエス・キリストを信ずる者を義と認めてくださるという信仰によって、人は神の前に義と認められるのである。 神は義なるお方であり、イエス・キリストを信ずる者を義と認めてくださるという、こういう二つの意味を、「神の義」ということばは表わしております。 信仰によって与えられる義のことを神の義と言い、神ご自身が完全に義なる方であるという意味で神の義ということばが使われていますから、両面そこに含まれているということが分かります。 この神の義ということばこそが実は新約聖書の中心をなすことばであります。今のところの31節。 ローマ人への手紙3:31
律法によって人が正しい者と認められることは無いけれども、それでは私たちは律法を否定するのであるか、無効にするのかと言うと、そうではなくて、信仰によって救われた人々が律法の行ないを正しくするように変えられていくのである。 神様の戒めを守る者と変えていただけるのである。救われてから神様の律法を完成する者へと変えていただけるのである。 だから決して自分は律法を無用なものとして否定しているのではないのだ。そうではないのだということを彼はここで繰り返し言っているのであります。同じくローマ人への手紙の10章の4節。 ローマ人への手紙10:4
今、何ヶ所か挙げましたけれども、もう明らかです。パウロの言っていることは、もう明らかであります。 人は律法の行ないによって救われるのではなくて、キリストを信じる信仰によって救われるのである。この一点にユダヤ教とキリスト信仰との違いがあるのであります。 ユダヤ教は、神の律法を守る人間の行ないによる救いを唱える、いわば自力宗であります。自分の力によって義となることができるという、こういう考え方が根底にあります。したがって律法を守る人々は自分の行ないを誇ることができました。それは今日でもユダヤ教においては同じであります。 それに対して、キリストの福音とは、キリストを信じる信仰によって、神が信ずる者に与えてくださる聖霊による救い。御霊によるところの救い。聖霊が信ずる人々を一新してくださる。新しい人に造り替えてくださる。神のみこころにかなった者にしてくださる。 そういう意味において決定的な他力宗と言いますか。自分の力によって救いを得るというのは間違いなのだ。これがパウロの、主張して止まない一点だったのです。 コリント人への手紙第IIの3章。そのローマ人への手紙の次のところがコリント人への手紙第I、そして第IIです。 コリント人への手紙第II、3:6
文字と言ったら、律法のことであります。人が律法によって自分を義としようとすると、結局、人は失望するよりほかはにない。本当に、律法を守ることによって自分を正しくしようと、人が真剣になればなるほど人はどうにもならない。 かつてあのルターが修道院に飛び込んで、神様の前に正しい者とならんという、その徹底的な精進をしようとして、僧衣の上からあばら骨が見えるほどに、この彼の骨が見られるほどに痩せ細って、時々は気を失って倒れたりしたとは言われていますけれども、そういうふうに、律法によって義と認められようとすればするほど人はどうにもならなくなってくる。 むしろ神様を怖い方として人は感じるようになってくる。パウロはそのことを、文字は殺し、しかし、御霊は人を生かすからだと言っているのです。 もう一回ローマ人への手紙に戻ります。ローマ人への手紙の8章3節。 ローマ人への手紙8:3-4
イエス様が人の形を取り、私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、私たちは肉なる者、生まれながらのエゴと言ってもいいのですけれども、このエゴを通して罪は人間を支配するものですから、このエゴの支配をイエス様は、ご自身の十字架の死を通して打ち砕いてくださった。取り除いてくださった。 こうして信ずる者に御霊をくださることによって、神様のみこころを私たちが喜んで実現するように、そういうふうに変えてくださった。そういう意味で言っています。 8節から。ローマ人への手紙8章の8節。 ローマ人への手紙8:8
生まれながらの人は、という意味です。 ローマ人への手紙8:8-10
ローマ人への手紙8:14-17
イエス様を信ずる信仰によって御霊を与えられ、神の霊、キリストの霊を与えられ、それが、私たちが神の子であるという証拠なのである。 神の子とされるということは、神様が造られた一切のものを受け継ぐ相続人となることなのである。キリストとともに私たちは神の相続人とされるのである。救いということのその壮大な意味というのがそこに出てくると思います。 神様によって義と認められ、正しい者と認めていただき、受け入れていただく。神の子としていただく。それは聖霊を与えられるということによって、それが実現するわけでありますけれども、神の子として受け入れられることによって私たちは、神がお造りになった一切のものを受け継ぐ者となるのだと言っているわけであります。 エペソ人への手紙の1章。もう少し後ろのほうになります。エペソ人への手紙の1章の13節、14節 エペソ人への手紙1:13-14
聖書のことばを聞き、それが真理であると認めて受け入れた時に、人はその信仰のゆえに聖霊をいただくのだ。キリストを受け入れる人の中にキリストの御霊が必ず宿ってくださるのです。 この方は私たちのうちに住んでくださって、私たちに語りかけ、私たちをだんだん内側から造り変えてくださる。だんだん私たちの傲慢を取り除いてくださり、謙虚な者としてくださり、人のことが目に入らなかった人間が、人のことを大切にするようになると言いますか。自分本位ではなくて、他人本位と言いますか。そういうような私たちの生き方そのものを根本から造り変えてくださる。 それが実は御霊の働きなのであります。 律法を守ろうとする人間の生まれながらのその努力とは、根本的に違う。それが信仰によって与えられる御霊の働きなのだ。これを聖書は繰り返し言っているわけです。 ですから、約束の聖霊をもって証印を押された。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証なのである。先ほど、キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではないと書いてありましたけれども、結局何が最終的に重要な点かと言うと、その人がキリストの御霊を持つ人なのかどうかという、そこにかかってくるわけでしょう。 ガラテヤ人への手紙の3章を見てください。 ガラテヤ人への手紙3:1-7
御霊を受けたのは自分の生まれながらの力によって、意思と努力によって律法を守った結果ではない。そうではなくて、信仰をもって聞いたからなのだ。イエス・キリストを信じ、受け入れようと、私たちが信仰の選択をしたからなのだ。 その時に、御霊が私たちのうちに住んでくださるようになったのだ。あなたがたはそれを経験しているではないか。どうしてそのことがわからないのかと言って、このパウロはガラテヤ人への手紙の中で、彼らをもう一度律法に引き戻そうとしている、そういう人々に対して、このガラテヤの教会にそういう人々が入り込んできているわけですけれども、そういう人々によって惑わされそうになっているガラテヤ教会の信者たちに向かって、こういう非常に嘆きに満ちた手紙を送ったわけです。 ローマ人への手紙と、このガラテヤ人への手紙というのが、特にルターなんかの宗教改革の起動力となったとよく言われていますけれども。 これを守りなさい。こうしなさい。どうもカトリックというのは、そうではないかというような気がしますけれども、ひとつひとつの教えによって人を縛っていこうとする。ひとつひとつの手順が決まっている。それを守らないと救われない。 こういうような教えにいつの間にか変わってしまって、人々は本当のこの確信を持つことができない。自分の救いについて全然確信がない。だからいつも不安がある。死んだら自分は天国に行けるだろうかと、常にその不安がつきまとうわけであります。 あのマルチン・ルターは、旧約聖書の詩篇を読みながら、その中に、あのダビデ王が心の底から神様をほめたたえ、喜び踊っておりますが、どうしてこのダビデはこのように神様の前にあって喜ぶことができるのだろうか。それを非常に不思議に思った。それが、彼が福音を発見するに至ったひとつの大きなきっかけだったと言われております。 ダビデ王は姦淫の罪を犯し、バテ・シェバとの姦淫の罪を犯し、その夫を、ウリヤを戦場に送って、前線に出させて戦死させるなどという、とんでもないような誤りを犯した人であります。 しかしそのダビデが、本当に親の懐に飛び込んでいる子どものように、何の憂いもなく、神様の前に感謝と賛美、喜びの声を上げている。それが詩篇です。 ルターはこの詩篇の講義を大学で任されて、それを通して彼の信仰の目が開かれていくという、そういう経験をたどっているわけですけれども。 結局、聖書全体を彼は見る時に、一つのことを言っている。人が義と認められるのは、信仰によるのであるということを発見していくわけであります。 信仰の父と呼ばれているのはアブラハムであります。今のユダヤ人の始祖と言いますか、ユダヤ人はこのアブラハムから始まっているわけです。イスラエルの国のあのユダヤ人たちは。 彼らの民族の最初の人がアブラハムでありますけれども、このアブラハムは創世記の中で、アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められたという有名なことばが記されているわけです。 聖書は始めから、結局このことを言っているのだということを、ルターは発見するようになってくるわけです。そういう目で新約聖書を読み返すと、全くそのことで満ちているわけであります。今挙げたように。 彼は修道院の中で、神様の前に完全な者になろう、義なる者になろう、聖い者になろうとして、もうぶっ倒れるほど苦行するわけですから。何の平安もないわけですから。 そういう中から彼はこのパウロの伝えている福音に目が開かれていくわけですが、それがローマ人への手紙、あるいはガラテヤ人への手紙だと言われています。先ほど言ったように、アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。 それと同じことです。3章の6節に書いていますが。パウロは初めの人アブラハムから、聖書はそう言っているではないかということを、このガラテヤの人々に言って、「もう一度律法の束縛に戻ってはいけない、あなたがたはイエス様を信ずる信仰によって、自由な者とされたのだ。もう二度と奴隷のくびきを負うようにして、律法の拘束に戻ってはいけない。」 そういうことをここで必死に彼は伝えているわけであります。 パウロの書簡というのは十いくつありますけれども、結局同じことを言っているわけです。 今挙げたのはその中の何ヶ所かですけれども、パウロは執拗にこういうことを述べている。この一点にこだわっているということは明らかだろうと思います。 ガラテヤ人への手紙の1章をちょっと見てください。1章の6節から。 ガラテヤ人への手紙1:6
神様を、という意味です。父なる神を、 ガラテヤ人への手紙1:6-10
このパウロのことばは凄まじいばかりです。その者はのろわれるべきです。人間であろうと、天使であろうと、その者はのろわれるべきです。 パウロのこの確信と言いますか、不動の彼の確信がこういう表現になっています。 イエス・キリストを信じる信仰によって、全ての人が義と認められ、受け入れられるのだ。神の子とされるのだ。彼はこの一点を決して譲らないわけであります。2章の5節にそう書いてあります。 ガラテヤ人への手紙2:5
パウロがペテロのようにこの点を曖昧にして、少しでも妥協していたなら、今日のクリスチャン信仰は異なったものとなり、私たち現代のクリスチャンは、みなユダヤ教の律法に縛られなければならなかったわけで、ある人が言っているように、パウロのこの福音の純粋さを守る戦いは、その後のクリスチャン信仰にとって決定的な意味を持ったことになります。パウロはこれについては決して妥協しなかった。 大先輩の使徒たちに対しても彼は面と向かってそのことを叱責いたしました。2章の11節にそれが書いています。 ガラテヤ人への手紙2:11
ケパというのはペテロのことです。 ガラテヤ人への手紙2:11-12
このヤコブというのは、イエス様の弟のヤコブです。エルサレムの教会の中心だったヤコブのところから来る前は ガラテヤ人への手紙2:12-14
先ほど読んだ個所はこの続きです。12使徒の中のかしらと言いますか、イエス様が特にご自分の福音を託すリーダーとなさった、あの大使徒ペテロに対してパウロは容赦しなかった。面前で、人々の面前でペテロを戒めたと書いています。 このパウロの揺るぐことのない態度と厳しい指摘に、ペテロもヤコブもバルナバも、中心的な兄弟たちが目を覚まされたわけであります。 使徒の働きの15章。エルサレム会議と呼ばれている会議が行なわれたということを、今まで見て来ました。使徒の働きの15章がその個所であります。 これが、このユダヤ教の律法をどういうふうにクリスチャンは考えるべきかということを話し合うために、使徒たちがエルサレムに集合したのであります。パウロやバルナバはそこに行って、この使徒たちとの間に大論争が生じたというふうに、そこに記されていますけれども、そこでこの6節を見てください。 使徒の働き15:6-14
ペテロのことです。 使徒の働き15:14-21
ここで決まったことは、異邦人からイエス様を信じてクリスチャンになった人々に、ユダヤ教のさまざまな掟、律法を強制してはならない。 偶像に備えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように。それを避けなさい、と。それだけでよろしいと。そういうことをこのエルサレム会議では一致して決めるわけです。 このようにパウロは、律法を守ること。ここで問題になっているのは、実は律法と言っても割礼の問題なのです。 非常に奇妙なその定めなのですけれども、ユダヤ人は男の子が生まれると、八日目でしたか、生まれて八日目に男の子の性器に割礼を施すという、そういうことを創世記の時代から行なわれてきたのです。 ですから、その割礼を受けている者がユダヤ人なのである。その割礼を持っていない者はユダヤ人ではないという、こういうことを非常にやかましく言っていた。 それが当時のクリスチャンに改宗したユダヤ教徒たちだったのであります。ですからパウロは、それは必要ないのだ。そういう外面的なしるしなどというものが救いの条件ではないのだということを彼は頑として主張するわけです。 福音書を読むと、またこれが安息日をめぐってイエス様とユダヤ人との間に激しい論争が行なわれるでしょう。ですからこのユダヤ教の律法というのは、この割礼問題と安息日問題というふうに、二つに絞られてくると言っていいぐらいなのです。 イエス様も安息日に対して、いや、そうではない、と。安息日よりも神様が心を向けていらっしゃるのは人間なのだ。安息日を守るというよりも人なのだということを仰って、ユダヤの律法学者たちと激しく対立なさるわけですけれども。 ユダヤ人たちは例えば、その安息日になると、病人を運ぶこともしてはならないとか、そういうことを言うわけです。それに対して、日を守るよりも人のほうが大事なのだ。日はどの日も同じように神様の恵みの日なのだ。土曜日でなければいけない、日曜日でなければいけないということはないのだ。どの日であってもそれは神様の恵みの日なのだ。 イエス様はこの安息日厳守というものに対しても、それはユダヤ人たちの誤解なのだということを仰っていますけれども、パウロに対しては、この割礼問題でありました。 しかしパウロは、モーセの律法、十戒が神のみこころの啓示であり、その意味で真理の具体的な現われであるということを認めておりました。 ローマ人への手紙2:17-24
モーセがあの十戒の中で述べているところの神の掟。これは神様のみこころの啓示であります。 姦淫してはならない。偽証をしてはならない。盗んではならない。殺してはならない。あなたの父と母を敬え。偶像を作ってはならない。こういうこと、これは神様のみこころです。 ですからこれはもちろん大切なことである。クリスチャンがこれらの戒めをないがしろにしないで大切にすることは、当然のことであります。 罪の中から救われ、正しく生きたいと願うように変えられた人々にとって、モーセの律法は喜ばしいものであります。 しかし、これらの戒めを完全に守って、義と認められる人はひとりもいない。これがパウロの主張であり、イエス様の言われたことでありました。 ルカの福音書をちょっと見てみましょうか。 ルカの福音書18:9-14
このイエス様のよく知られたたとえ話の中で、神さまに受け入れられる態度とは何か。自分の罪に悔いくず折れて、神さまに赦しを乞う、これこそが神さまの前に義と認められるのだと仰っています。 今まで、人が救われるのは信仰によるのだということを、色んな点から見てまいりましたけれども、しかしながら他方において、パウロはどうでもよいようなことには執着しませんでした。 先ほど兄弟が仰ったように、どうでもいい、そういうことに対しては、彼は全くこだわりませんでした。他人に譲ることのできるものは何でも喜んで譲るというのが、クリスチャンとしてのパウロの生き方でした。 人がイエス様を信じることを妨げるようなことは、極力パウロは避けました。この態度においてもパウロは徹底しておりました。 コリント人への手紙第Iの8章です。ここでパウロは自分にとって当然の権利であっても、自分が何らやましいと思わないことであっても、自分の行為によって他の人が信仰につまずくようなことがあるならば、その自分の当然持っている権利を捨てなければいけない。 そうすべきであるというようなことを言っているわけです。9節をちょっと見てください。 コリント人への手紙第I、8:9
コリント人への手紙第I、8:13
偶像の宮にささげられた肉が、そのほふられた獣が市場に出てくるわけです。当時のギリシアの世界なんかでは、神殿にささげられたいけにえの肉が、市場に出回って売りに出るわけであります。 そうすると、そういう偶像の宮にささげられた肉を食べてもいいのだろうかという、そういうふうに心配するクリスチャンたちが出てくるわけです。それに対するパウロの答えなのです。 このように、偶像の神などというものはいないのだ。だから、偶像の宮にささげられたと言っても、それが汚れているということは一切ないのだ。それを食べても当然構わないのだ。そう言っているわけです。彼はこの手紙の4節にそう書いてあります。4節をちょっと見てください。 コリント人への手紙第I、8:4
だから、偶像の宮にささげられたそのけだもの、牛や羊、山羊などの肉、それをクリスチャンが食べてもそれによって汚されることはありません。 しかし、その知識を持っていないまだ赤ん坊のようなクリスチャンは、その知識がないから、そのことをよくわきまえている方々が、クリスチャンたちがその肉を平気で食べるのを見て、彼らはつまずくかもしれない。 コリント人への手紙第I、8:7-9
自分の当然のことを、何でも問題ないことを自分がやっていて、それを信仰の弱い人々が見て、良心を炒めたり、信仰のつまずきとなったり、迷いを起こさせたりするということであるなら、私は今後いっさい肉を食べることをしない。 これがパウロの生き方の特徴と言いますか、原則だったわけであります。今のコリント人への手紙第Iの9章の19節。 コリント人への手紙第I、9:19-21
異邦人という意味です。 コリント人への手紙第I、9:21-22
自分を捨てている人の生き方であります。自分を本当に彼は捨てているわけです。 弱い人には、弱い者のように。ユダヤ人には、ユダヤ人のように。異邦人には、異邦人のように。すべての人に対して、すべての人のようになったと書いています。 それは、その人々を救うためなのだ。キリストのところに導いて来るためなのだというわけであります。そのためには、自分は一生肉を食べなくてもいいと思っているのだ。自分の正当な権利をも自分は捨てるつもりなのだ。徹底的な他者本位の生き方でしょう。 これが、愛に生きるということの本当の意味だろうと思います。 そこにはまた、本当の自由というのが生まれてくるわけでしょう。すなわち、エゴからの解放です。 信仰があなたがたを自由にする。イエス様が、真理があなたがたを自由にすると仰いましたけれど、結局そのことを聖書は示しているわけであります。 このクリスチャン信仰を与えられて、非常にありがたい。いつも嬉しいというふうに感じます。 本当にこの信仰が与えられたことを私たちはいつも、心からの喜びとして感じていますけれども、私などは、このような生き方があるのだということを知ったことが非常に嬉しいのであります。 パウロのような生き方があるのだ。このような生き方こそが真理にかなった生き方なのだ。すべての人が本当の意味で目指すべき生き方とは、こういう生き方なのだ。これは、本当の意味での勝利の人生です。そういうことを聖書が私たちにはっきり教えていてくれる。 そこに真理の世界が開かれてくるというような思いが私はいつもするわけであります。 そのことを思うと、非常にありがたいです。心の中に感謝と喜ばしい思いというのが、湧き上がってくる思いがするわけであります。 もちろん、現実の自分と、その理想との間には大きな距離があるわけでありますけれども、しかし、その目標に向かって生きることが出来るということは、本当にこれはありがたいことです。 いかにしてこのように徹底的に自分を捨てた生き方を実現できるか。この理想に近づいていくということ、これが嬉しいわけです。 なぜならば、そこに本当の自由があるからであります。本当の力がそこから湧いてくるわけでしょう。 なぜなら、そのときに主が私たちとともにいらっしゃるからであります。私たちが自分を本当にパウロのように捨てれば、そこに中心になっておられるのは、キリストご自身であります。そのときに私たちはこの力に満たされることになるわけであります。パウロのこの態度というのは、本当に徹底していると言いますか、その決意を彼はもっているわけです。 もしだれかが自分の行為でつまずくならば、私は生涯肉を食べることをしない。本当にすごい彼の決意だと思いますけれども。現代の社会というのは正反対です。ひとりひとりが自分の権利を100%主張して譲らないという生き方でしょう。 紛争、裁判沙汰、葬儀、そういうことに満ちている社会でありますけれども、パウロは全く正反対のほうに向かっているわけであります。人のために本当に役に立つなら、その人を愛することになるなら、私は自分のあらゆる権利を放棄しよう。 聖書はそれが実はクリスチャンの生き方の原理原則だと私たちに教えているわけであります。その生き方こそが真の勝利、人生の勝利というものを私たちにもたらすのだということであります。 パウロはピリピ人への手紙の3章の12節の中で、よく知られていますが、こういうふうに書いています。 ピリピ人への手紙3:12-14
パウロが目ざしていると、ここで言っているのも、そういう目標かもしれません。 自分自身から本当に完全に解放され、真に愛の人として生きると言いますか。そういう生き方。これがイエス・キリストご自身を表わしているからであります。イエス様はまったくその生き方をなさったお方でありますから。 そういうわけで実は、あれほど律法に対して厳しい態度を取り、一歩も譲らないと言っていたパウロが、ナジル人の誓約の儀式を勧められたときに、彼は素直にそれを受け入れたわけであります。 どうでもいいものに対しては、彼はいくらでも妥協したわけであります。以前私たちが見てきたように、ナジル人の誓約の儀式が終わる七日目に彼は、突如としてユダヤ人たちに襲撃され、危うく殺されそうになったのであります。そのような暴動の中からパウロを引き出したのは、千人隊長クラウディオ・ルシア。ローマの千人隊長でした。 こうしてパウロは、ローマ総督ペリクスの放下に置かれましたけれども、ペリクスはパウロが無罪であると知りながら、釈放しようとせず、パウロの身柄はその二年後、西暦58年であることがわかっています。 58年に後任の総督ポルキオ・フェストが赴任いたします。こうしてパウロは、フェストに身柄を預けられるという、こういう経緯になっていたわけであります。 この総督ポルキオ・フェストの前でのパウロの裁判の様子がこの前の25章の学びで見たところでした。 新しく赴任して来た総督フェスト、この前にユダヤ人たちが訴え出て、パウロは引き出されて、そこで尋問を受ける。これは正式の裁判です。聖書に裁判と書いてあります。裁判の席についたと書いてあります。 パウロはその裁判の成り行きから、仕方なくローマ皇帝に上訴することを決意いたしました。使徒の働きの25章の中にそれが出てきました。25章の9節。 使徒の働き25:9-11
総督フェストがユダヤ人たちに迎合して、自分をユダヤ人の手に引き渡しかねないということがわかったときにパウロは、思いもかけず、結局この選択をしなければならなかったわけであります。下級裁判所では不利だと感じた被告が上級裁判所に告訴したというわけであります。 ローマ市民であるパウロの権利は、2,000年前のローマ世界ですでにこのようにきっちり守られていたのですから、私たちからすれば驚きでありますけれども、パウロが、私たちの国籍は天にあると述べる時ときには、この国籍、すなわち、市民権というものの持つ特別な特権です。 保護や特権を意識してのことだと言われております。パウロはれっきとしたローマの市民権を持つ人でしたから、彼にはこの法的な法が与えられていたわけであります。 イエス様を信じる人々は、神の子としての身分を神によって与えられ、天の国籍を持つ者となり、イエス様とともに神の国を継ぐ者となるとパウロはさっき書いておりましたけれども、彼はこの市民権の持っている力というものを、このような形でもよく知っていたというわけであります。 パウロのこの上訴は、フェストにとっては予期しないことだったでしょう。しかしローマ市民が皇帝に上訴したのですから、総督としては、その手続きを取らなければなりません。 フェストはパウロをローマ皇帝、当時の皇帝はネロですが、あのネロに告訴するための理由を見いだすために告訴状を作成しなければならないわけであります。パウロをローマ皇帝ネロのところに、その裁判に、彼の前での裁判にかけなければならないわけですから、その理由を書かなければいけない。 そのような状況にあったとき、丁度好都合なことに、アグリッパ王が、新しく赴任した総督フェストに挨拶に来たわけであります。 使徒の働き25:13-14
云々と書いてあります。前回お話しましたように、このアグリッパ王とベルニケ、これは実の兄弟姉妹でありながら、まったくおぞましいことなのですが、終生同棲をしていた相手だったのです。 アグリッパ王とベルニケが、と書いています。実の兄弟姉妹であります。まったくおぞましい、このヘロデの一家でありますけれども。 ユダヤ人とパウロのこの争いの原因が理解できないフェストは、その間の事情に詳しいと思われるアグリッパ王に意見を求めたわけです。それが使徒の26章の実は内容であるということになります。 前回も申し上げましたけれども、このアグリッパ王とは、ヘロデ・アグリッパ二世のことで、ヘロデ・アグリッパ一世の子ども。あのヘロデ大王には、ひ孫にあたるわけであります。西暦100年に73歳で没したとありますから、随分長生きした人物であります。 新約聖書全体について、よくご存知でない方々がいらっしゃるかもしれませんので、ちょっとだけ見てみたいと思うのですけれども、このヘロデ・アグリッパ二世、今のアグリッパ王の祖祖父にあたるヘロデ大王は、福音書の初めのほうに、ほんのわずかだけ出てくる人です。ちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書2:1-3
マタイの福音書2:7
マタイの福音書2:16
イエス様がお生まれになった時に、ベツレヘム近辺の二歳以下の男の子を全部殺させたという、この幼児殺しをした本人。これがヘロデ大王と言われている人です。 なかなか巧みな政治手腕を持っていて、ローマ皇帝アウグストゥスに取り入って、強固な支配体制を作った人物であります。 ヘロデ大王はユダヤ人を懐柔するために、ヘロデの神殿と呼ばれた豪壮な神殿を再建したりしました。ちょっと、マルコの福音書の13章。 マルコの福音書13:1-5
この豪壮な神殿、ヘロデの神殿に圧倒されている弟子たちに向かってイエス様は、これらの石が積まれたままで残ることはない。根こそぎこの神殿が崩される時がやって来ると仰ったのであります。 このヘロデの神殿と呼ばれる、当時のエルサレムの神殿は、紀元前20年にヘロデ大王によって着工されて、西暦64年に完成したというのですから、84年間かかって作り上げられたものであります。 しかし、そのわずか6年後、70年に、ローマの将軍ティティウス、のちのローマ皇帝になりますけれども、この将軍ティティウスによって徹底的に破壊され尽くすわけであります。ひとつの石もそのほかの石の上には残らないとイエス様が仰ったように、この神殿は根こそぎ破壊されていくわけです。 このときからユダヤ民族の亡国と流浪が始まります。このときからユダヤ人は国を失って、世界中に散らされていったわけであります。 そして1948年でしたか、イスラエル建国まで2,000年間、ほぼ2,000年間、ユダヤ人は全世界に散って、行く先々でさまざまな迫害を受けるということをしてくるわけですけれども、その結果、世界の火薬庫と言われている、あのパレスチナ問題が今起こっているわけであります。 こういう背景を私たちはやはり知っておく必要があるのではないかと思います。 このヘロデ大王は、紀元前4年ごろに70歳で没しています。そしてまた、ヘロデ・アグリッパ二世の父親のヘロデ・アグリッパ一世は、使徒の働き12章にも出てきましたけれども、使徒たちを迫害し、突然死した人物です。 ちょっとだけそこまで見て終わりたいと思いますけれども、 使徒の働き12:1-5
このヘロデが、実はヘロデ・アグリッパ一世なのです。さっき出て来た、アグリッパ王の父親なのです。 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し、そして今度はペテロを捕えにかかり、彼を牢に入れる。過越の祭りの日に、ペテロを牢から引き出そうとしたら、何とその晩、主の御使いが牢で眠っているペテロのわき腹をたたいて起こして、ペテロをこの牢の中から引き出していったという、驚くべき記事がそこに出ています。 門がひとりでに開いて、第一、第二の衛所を通って、町に通ずる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。ペテロはこのヘロデの牢から主の御使いによって引き出されていくわけですけれども。 使徒の働き12:18-19
十六人の兵士たちは処刑を命じられるわけであります。 使徒の働き12:20-23
「神の声だ。人の声ではない。」という民衆の叫びに対して、主がヘロデを打たれたと書いています。 西暦44年、このヘロデ・アグリッパ一世は五十四歳で突然死をしております。 このような諸々の事情を背景にしながら、パウロの弁解、弁明が始まるわけであります。パウロが自分の回心について、もっとも詳しく述べているのが、この使徒の働きの26章なのです。 あと2、3回でこの使徒の働きの学びが終わるものですから、少し後ろにかえって、遠回りをしながら少し時間稼ぎみたいなお話をしましたけれど、この次に、この26章のパウロの弁明についてまた学びたいと思います。 長々とお話をして、お疲れだったと思います。終わりましょう。 |