使徒の働き45


蘇畑兄

(調布学び会、2006/11/30)

引用聖句:使徒の働き26章13節-24節
13その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
15私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
19こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、
20ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。
21そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。
22こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。
23すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」
24パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。

初めて聖書にふれる方々なものですから、それで少し最近、聖書の色んなところに話が広がってしまっているのですけれども、今日の使徒の26章、もう三回目ですので、今日でこの章を終わりたいと思っておりますけれども。
私自身がどうも納得いかないで残っているところをご一緒に考えてみたいと思います。

ご存知のように、このパウロの回心というのは、使徒の働きで三ヶ所出てきたのです。第9章にそのことが最初に出てきます。
そして22章と26章は、パウロ自身の口から、彼が自分のイエス様との出会いについて語った個所であって、この三ヶ所が使徒の働きに出てきているということなのです。

パウロがクリスチャン信仰を根絶やしにしようと決心して、聖書の表現によれば、脅かしと殺害の意に燃えて、同行者たちとともにシリアの首都ダマスコの城門の近くまで来たとき、真昼ごろ、天から、太陽の光よりもさらに強い光が彼ら一行をめぐり照らし、パウロは地に倒れました。
このとき、パウロが地に倒れたことは、この事件を知る人は、今言った三ヶ所全部において明らかですけれども、同行者たちもパウロといっしょに地に倒れたということは、26章にだけ記されているのであります。今読んでいただいた26章の14節で、

使徒の働き26:14
14私たちはみな地に倒れました

とパウロ自身が語っていますが、ほかの個所ではそう出ていないわけであります。
9章の7節をちょっと見てください。今日はこの三ヶ所のところを少し照らし合わせてみたいと思いますが。

使徒の働き9:7
7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

こう書いてあるのです。
パウロは地に倒れて、何か、この同行者たちは倒れなかったかのように、こういう感じであります。
22章の9節を見てください。

使徒の働き22:9
9私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。

いっしょにいた人たちがどうだったかということはここには書いてありません。倒れたのか、立ったままだったのかもここでははっきりしないのです。
なぜこの点にこだわるのかと言いますと、パウロのこの不思議な、また、驚くべきダマスコ体験が、彼の全く個人的、主観的な体験に過ぎず、強い日差しを長く浴びて旅をしていたために、一種の立ちくらみでもしたのではないか。
幻覚や幻聴のようなものに過ぎなかったのではないかという、時として抱かれる疑問について確認しておきたいからなのであります。

この点についてはそうではなくて、客観的な出来事であったことの証拠が、第一には、同行者たちも光を見たということ。パウロの幻覚ではなかったということ。
第二には、同行者たちもイエス様のパウロに語りかける声を聞いたということ。しかし彼らには聞き分けることができなかったということ。パウロだけが聞いたのではないということであります。
そして三つ目は、同行者たちも地に倒れたことということを挙げることができるからなのですけれども。

この同行者たちも地に倒れたということは今言ったように、パウロが26章で言っているところにだけ出てきているということです。
この三つを合わせれば、パウロだけに見え、パウロだけに聞かれ、パウロだけが倒れたのというのではないということになるわけですけれども、その第三の点がここではちょっと引っかかっているということなのです。
もちろんそのあとのパウロの生涯が、彼のこのダマスコ体験が本物であり、それはイエス様の直弟子たちの証言、すなわち、イエス様は復活して、生きておられるとの証言と一致しているのですから、クリスチャンとして見れば、何ら問題はないわけです。

これは客観的な事実だったのだということをクリスチャンなら容易に認めることができるわけですが、まだ信仰を持っていない人々の立場からは、これは彼の思い込みではないのか、そういうような思いが、疑いがよく抱かれるものですから、その点を確認しようとしているわけであります。
ですから前回に申したとおり、この9章と26章の食い違いについては、この思いもかけない天からの強い光に照らされて、パウロも同行者たちもみないっしょに地に倒れたけれども、パウロだけはなかなか立ち上がれなかったのではないか、ということであります。
パウロは倒れたままイエス様の声を聞き、イエス様に問い返しているわけであります。要するに、問答しているわけであります。またパウロにとっては、ことばでは全く表現することのできないほどの驚愕に襲われているからであります。

十字架で惨い死に方をした神の冒涜者。のろわれてしかるべき者と確信していたあのナザレのイエスが弟子たちの証言のとおりに復活していて、今このように自分の前に現われ、しかも、「主よ、あなたはどなたですか。」、という問いかけに、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。」、とはっきり答えてきたからであります。
イエス様のこの声はパウロの耳をはっきりと打っているわけであります。しかし同行者たちは、音は聞こえたと書いています。聞き分けることができなかった。
神様と人間との間におけるこの霊的な、ある神秘的な出来事というのは、どうもそういうもののようなのです。

この人にははっきりと声が聞こえて、示されているにも関わらず、隣の人にとっては全く音がするようにはした、ということです。
私たちも信仰の歩みにおいて、多かれ少なかれ色んな経験をするようになります。かつては信ずることのできなかったような、とても理解できなかったようなことをだんだん経験するようになって、今まで自分が考えていた、単なるこの五感の世界と言いますか、そういうものを超えた世界があるのだということ、それに気がついてくるのではないでしょうか。
ですから私たちは、昔は聖書のそういう記事を本当に馬鹿みたいな話だというふうに一蹴していたにも関わらず、そうではない、ということに気がついてくるわけでしょう。文字通り神秘と言いますか、そういうものに触れるようになってくるのであります。

旧約聖書の中に、預言者エリシャが死んだ少年を生き返らせたという記事があります。
旧約聖書の中には、ぼくはこの一ヶ所ぐらいしか思い浮かばないのですけれども、聖書に精通していたパウロも、死者の復活などということをどの程度いったい理解していたでしょうか。信じていたでしょうか。ちょっと疑問であります。
彼がおそらく漠然と理解していた死者の復活なんていうこと、それが、イエス様が自分に今現われて、語りかけているということとは、ずいぶん違った考え方を持っていたのではないかと思うのです。要は、ベールに覆われている。

霊的な世界というのは、この罪の中にある人間にとって、人間のその心の目が開かれるまでは漠然としておおわれているわけです。
ベールが目の前に掛かっているわけでありますから、彼が分かるはずはないのであります。ですから、十字架で殺され、三日間も墓に入れられていた人、腐りかけていたはずの人が復活して、目の前で直接自分に語りかけるということは、これは天地開闢以来の出来事と言っても、決して大げさではないわけであります。こんなことがありえようか。
どんなに人間が思い巡らせたとしても、想像できなかったことでしょう。パウロの世界観を根底からひっくり返すのに十二分でしょう。これ以上驚くべきことは、この世界の歴史に起こったことはないのでしょう。

キリストの復活ということを信ずるようになって、これを事実として知るようになった人の人生観が根本からひっくり返らないというのは、これこそ不思議なはずです。
こういうことからパウロはとにかく容易に立ち上がれなかったはずであります。彼といっしょにいたその同行者たち、同じく迫害するためにパウロについて行っていた人たちには、これほどの衝撃は無かったかもしれません。
それはパウロとこのほかの人々との間には、この問題に対する態度の違いと言いますか、そこに大きな差があったはずであります。

パウロはとにかくこの出来事を通して、彼はとにかく起き上がれないような激しい衝撃を受けるわけでありますが、それは当然であります。
「立ち上がって、ダマスコに行きなさい。」、とのイエス様の声に従って、パウロはようやく立ち上がりますが、目を開いていても何も見えません。
あの光の強さのせいなのか、精神的な衝撃のせいなのかは、はっきりしません。

彼は同行者たちに手を引かれてダマスコに入りますが、三日の間目が見えず、また、飲み食いもしませんでした。飲み食いする心のゆとりなど全く無かったからであります。
そのような心身ともに全く身動きのできない状態のパウロに、イエス様のみこころを告げたのはダマスコに住んでいたクリスチャン、アナニヤでした。
これも9章と22章に出てきましたから、以前見ましたが、もう一回ちょっと見てください。

使徒の働き9:10-19
10さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
11すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
12彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
13しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
15しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
16彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
17そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
18するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
19食事をして元気づいた。

と書いています。
22章を見てください。

使徒の働き22:10-16
10私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる。』と言われました。
11ところが、その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、いっしょにいた者たちに手を引かれてダマスコにはいりました。
12すると、律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が、
13私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ。見えるようになりなさい。』と言いました。すると、そのとき、私はその人が見えるようになりました。
14彼はこう言いました。『私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。
15あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。
16さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』

こういうふうに、イエス様はパウロに、「立って、ダマスコの町にはいりなさい。あなたがなすべきことは、そこで告げられる。」と仰ったのであります。
ですからこの時点で、ダマスコのその城門の近くで彼が地に倒れた時に、主は彼に対して、それ以上のことは語られなかったわけです。
ところが、26章にもう一回戻りますと、26章の15節からです。

使徒の働き26:15-18
15私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

こういうふうにイエス様は仰ったと書いてあるわけです。

16節後半と17節は、先ほど見たように、アナニヤを通して語られていることです。ですからパウロはアナニヤを通して主のみこころを、自分が主と出会ったこと、主に召されたこと、その目的、その使命について、アナニヤから聞いているわけです。
直接この時点でパウロがそれを聞いたというふうには考えられないわけでありますけれども、パウロはこういうふうな主のみこころについて語られたというふうに語っているわけであります。
パウロは、ダマスコの町にはいるように言われ、手を引かれて、『まっすぐ』という名の路地にはいって行った。

しかし、そこで何が告げられるかは、彼は分かっていなかった。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです、と語られているからです。
いったい自分に何が告げられるかという心配もあって、彼はその間、全く飲み食いは出来なかったのかもしれません。ですから、アナニヤがパウロに告げたとされることばの内容、アナニヤが主から聞き、しかし9章を見ると、そのことについて全部言っているというふうには思いませんけれど、アナニヤを通して告げられた主のことば、その意味をパウロはこういうような形で普遍して述べているわけであります。
26章の18節は、パウロが遣わされた目的、福音の本質をここで普遍して述べているというふうに言うことができると思います。

これらの、同じパウロのダマスコ事件に関わる三つの章では、このように、細かい点では少し文言に違いがありまして、さらに26章には、14節と18節の二節が加えられているというところがちょっと際立っていると言えるかもしれません。ほかのところには無いからであります。
この前も申し上げたとおり、26章の14節の後半、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」、非常に意味深いことばのように思います。
この、とげのついた棒をけるというのは、当時、牛に仕事をさせるとき、とげのある棒を鞭として使用したけれども、時には牛がそれを嫌って、蹴ったということでありますが、その比喩だそうであります。

「とげのついた棒をけると、それはあなた自身を傷つけることになるのだ。」、イエス様はパウロにそう仰っているわけです。
この主の黙示と言いますか、ことばでもって語られたことかどうか分かりませんが、光のようにパウロの心に差し込んできた主のみこころであったことは間違いありません。
パウロよ。神事に向かって激しく抗ってくる。そのパウロに対して、それはおまえ自身を傷付けることになるのだ。イエス様はそのように言っているように思うのです。

パウロはクリスチャンを迫害することによって反対に自分自身が追い込まれていくという、そういう状況を感じているわけでしょう。
クリスチャンたちは偽りを語らず、誠実であり、謙遜であります。何の反逆もしようとしないのであります。それに対してパウロはますます凶暴化していくわけです。ますます事実を捻じ曲げていこうとするわけであります。
有りもしないことまでこのクリスチャンたちに認めさせようとしているわけです。

彼が26章の11節に書いていますように、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとしたのでしょう。無理矢理にも冒涜的なことばを彼らに吐かせようとまでしているわけです。
これはパウロ自身が冒涜的になっていっているということであります。神様をけがす行為をパウロ自身がしようとしているということです。
こういう状態までパウロは自分が追い込まれてきているということであります。

それでも彼は、自分の行為は偽りの信仰を滅ぼすための正しい行為であると自己正当化し続けていくわけです。しかし彼の良心はますます自分の行為に対して疑問を感じ、自分をむしろ責めてきている。そういう状況にパウロがあった、ということは言えると思います。
あの民数記に出てくる愚かな預言者バラムのように、主の道と反対の道に行こうとするから、ろばがバラムの言うことを聞かない。それでバラムは怒って自分の乗っているろばを叩くと、思いもかけずろばが人間の声でものを言う。「なぜ私をたたくのか。」と言ったというのですから、全く驚きであります。
三回それを繰り返していくのです。ろばのくせにものを言うかと言って、彼はまたろばをたたく。こうして三回、同じことを繰り返して、ろばは身動き取れない狭い道のほうに入って行って、ついに動けなくなってしまう。

そのときに主がバラムの目を開いたと書いていますが。そしたらそばに抜き身の剣を持った御使いが立っていた。バラムはそのときはっきり自分の愚かさを悟り、そこで主の前に悔い改めたところがあります。
このまま行ったらおまえは御使いの剣で殺されていただろうということをそこに言われております。
民数記の22章、ちょっと見てください。欲に目のくらんだ預言者であります。こうあります。イスラエルの民をのろえという、このモアブのつかさたちの誘いに惑わされて、欲に目がくらんで、報酬に目がくらんで、従っていこうとした、この預言者バラムのことが出ています。

民数記22:21-33
21朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。
22しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。
23ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。
24しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
25ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。
26主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。
27ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。
28すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
29バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
30ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」
31そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
32主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
33ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

真理というのは、人間がそれにあえて逆らうと、盲目にされていくというものであります。
正しいことに対してそれは正しいとして、それを受け入れなければ人はかたくなにされていくのであります。
真実が明らかにされたとき、私たちはどういう態度を取るかによって、さばかれていくのであります。

パウロはイエス様に、実はそのことをここで言われているのではないかと思います。「パウロよ、目を覚ませ。」、そうイエス様は仰ったと思います。目的が正しいというのであれば、手段も正しくなければなりません。それが真理の特徴であります。
目的のためにはどんな偽りの手段でも使うという宗教団体が、今日多くありますけれども、これは悪魔のわざ、暗やみのわざの特徴であります。
いいことをしているかのように装って、嘘八百、平気で並べながら、募金をしたりしているでしょう。それはこの世を救済するためであるというようなことを信じ込ませて、平気で嘘を言います。あれは悪魔から出たわざであります。聖書はそのことを厳しく弾劾しているわけであります。

ヨハネの手紙第I、1:5-7
5神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

光の中に立ち続けること。これが、聖書が私たちに求めていることであります。
パウロは、自分は神に仕えている者である。何としてもあのクリスチャン信仰を滅ぼさなければならないという、そういう思いから、だんだん、だんだんおかしくなっていきます。白を黒と言わせようとしてきます。
そのこと自体が大変なことなのだということに彼は気がつかなかったようであります。

とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ。光に目を閉ざすことは、非常に危険なことなのだ。イエス様はパウロにこう語り告げられたのでしょう。
このときパウロは自分の恐るべき狂気と言いますか、霊的な倒錯に目が開かれていたのではないでしょうか。もう自分を頑強に弁護しようとしてはならない。あえて光に目を閉ざそうとしてはならない。その先にあるのは、徹底的な破滅なのだから。容赦のない神のさばきと滅びなのだから。
パウロはこのことに気がつくのでしょう。パウロはここで、自分が救いと滅びの分かれ道に置かれていることに気付いたのではないでしょうか。

神は救いを強制することはできません。真理につくかどうか、最終的にはその人が決心しなければならないのであります。
なお逆らえばパウロも滅びるのであります。その点において、神のさばきは容赦ないのであります。

申命記30:19-20
19私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
20あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。

あなたの前に、いのちと死、祝福とのろいを置く。あなたはいのちを選びなさい。断固として真理のがわに立ちなさい。何としてでもいのちを選び取りなさい。そうしなければ、あなたは滅びるから。聖書は私たちにそのように示してくるのです。
ですから私たちは何があっても光のがわにつかなければいけない。真理を真理としなければならない。いのちを選び取らなければいけない。
信仰を受け入れるときに私たちはその選択をします。それは人がそう言ったからではなくて、本当に自分がそれを選ぶという決心をしなくてはならないのであります。信仰はそういう意味において個人的な、あくまでも個人的な選択であります。主のがわにつくという選択です。

パウロはここで心から降参し、イエス様の軍門にくだるのであります。イエス様はあのモーセやサムエルやダビデやダニエルたちのような器をこのとき獲得されたわけであります。
しかし先ほど述べたように、イエス様がなぜ自分にこのように臨まれたかをパウロが悟ったのは、その少しあと、アナニヤを通し、また、彼の祈りへの主の啓示によってでしょう。ガラテヤ人への手紙の1章15節にこう書いてあります。

ガラテヤ人への手紙1:15-16
15けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
16異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、

と書いています。パウロは自分がイエス様とこのとき出会ったのは、異邦人の間にまことの救い主、キリストを宣べ伝えさせるためであるということを、アナニヤの口を通し、またそのごの主の啓示を通してはっきり知るようになるわけであります。
主の器として用いられるために、彼はこのとき主と出会ったのです。こうして彼は今までの人生の歩みを全く捨て去って、ここから新しい、主に仕えるという人生を始めるわけでしょう。
先ほど申し上げましたように、使徒の働きの26章18節に、福音の本質が要約されております。26章の18節。もう一回お読みします。

使徒の働き26:18
18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

イエス・キリストの福音とは、人がイエス様を信じ、従うことによって、心の目を開かれること。暗やみから光に移されること。サタンの支配から神に立ち返り、イエス様の贖いのゆえに、罪の赦しを受けること。
さらに、神の聖徒とされて、御国を受け継ぐ者とされるという、途方も無いような祝福であります。この一節の中に福音のすべてが記されているのであります。

エペソ人への手紙1:3-7
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
6それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

神は私たちを世界の基の置かれる前から、この地球が、この宇宙が造られる前から、キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようと計画しておられたのだとパウロは言っています。
確かにさっき私は、人はイエス様の救いの前に立たされて、自分で選ばなければいけない。私ははっきりこれを受け取る。私はここにつく、という選択をしなければいけないと言いました。
しかし、パウロは振り返ってみて、自分のこの、主を選ぶことができたこと、救いを選び取ることができたこともまた、主のあわれみだったのだということを何の矛盾もなく感じ取っているわけであります。

はっきりと自分で選択しなければならない。決断しなければいけない。この世につくか、天の御国につくか。キリストのしもべとして、キリストに従う人生を選び取るかどうか。あるいは、なお自分自身を主人として、この地上の人生を選ぶか。選ばなければいけません。
自分で私たちは決断したというふうに思うかもしれません。しかし、振り返ってみると、これもまた主のあわれみだったのだ、と人は納得するようになる。
選びと自由意思というのは、実は人間の理屈では両立しないことかもしれないけれど、信仰の次元においては、実は何の矛盾もないのだということなのでしょう。だからパウロはここで、世界の基の置かれる前から、主は選ばれた。救いに定められた、と言っているわけであります。

どうでしょうか。おひとりおひとりの体験が色々ありますから、違いますので、みんなが同じだと言えませんけれど。
私なんかは自分の今までのこの信仰の出発、そのごのことを思うと、なかなか目の前に主の救いを示されても、やっぱり頑固に自分を手放そうとしない。そういうこの主との綱引きと言いますか、ある意味で汗みどろになりながらも、なお手放そうとしない。
そういう、この抗うことというのはやっぱりありました。何としても手を離したくない。自分というものを。これは非常によく覚えております。

しかしそのことが自分を絶望と滅びに追い込んでいくということを、それもまた間違いのないことである。
そのことを突き付けられておきながらもなお、自分を手放さない。そういう、この自己に対する執着の強さと言いますか、そのすさまじいほどの自己愛と言いますか、そういうものを見せつけられるような思いをしたこと。
その主を受け入れる前後に、そういうことがありました。

主を受け取らなければ、自分は間違いなく滅びるのだ。そういうことを突き付けられて、どうにもならなくて、ある意味で、どうにもならなくて、イエス・キリストの十字架を贖い、すなわちイエス様が仰ったように、自分の十字架を負うてわたしに従え。キリストとともに自分自身が十字架につけられたのだという、この信仰の事実を受け取る。そういうことだったように思っております。
主が罪にとどまり続ける者を本当に滅ぼすのだというのは本気なのです。単なる脅しではないのであります。
神様は本気だということに気がついて初めて、逆らうわけにはいかない。そういうことを示されたような、納得させられたような気がするわけであります。

がしかしこれもまた、今申し上げましたように、主のあわれみによる選びである。主が永遠のむかしから、そのことを定めておられたからである。今パウロはそう書いてありますけれども、そのことも納得できるわけであります。
使徒の働きの、先ほどの26章、もう一回戻りますと、パウロはこういうふうにアグリッパに向かって自分の証しをする。彼が心から真剣にこのことを言っている。もうこれは疑いのないことです。
パウロは自分の経験を熱誠込めてここで語っているわけです。決して作り話をしているわけではない。そのことをアグリッパもフェストも十分分かっているわけであります。しかし彼、パウロの語ることはもう、とんでもないような、自分たちの思いからすると、まったく理解できないような内容であります。

使徒の働き26:19-23
19こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、
20ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。
21そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。
22こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。
23すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」

私が言ったことは決してユダヤ人たちの知らないことではない。旧約聖書を通して預言されていることである。多くのユダヤ人たち、律法学者たちもこの預言のことを知っているのだ。
こういうふうにパウロが話し続けたときに、ローマ総督フェストはその弁明をさえぎって、大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と叫んだ。というのであります。
異邦人のフェストがこのような反応を示すのは当然のことと言うべきです。ユダヤ人であるパウロすらまったく信ずることのできなかったことですから。

このように語っているパウロ自身が、あのクリスチャンたち、使徒たちの言っていることは何ということだと、とんでもないことである、まったく議論の余地のない、ひどい嘘である、パウロはかつてそう思っていたわけでしょう。
この聖書について何の知識もない、ローマ人であるフェスト、彼がパウロのこの弁明を途中でさえぎって叫んだというのは当然です。
フェストがあのアテネの哲学者たちのようにあざ笑わなかった分、これは話にならないとせせら笑わなかった分、フェストは真面目にパウロの話を聞こうとしていたということでしょう。

彼はパウロの話をさえぎったのであります。「何ということだ、パウロ。おまえの言っていることは、それはまともな理性をもっている人間の言うことではない。気が狂っている。」と言うのです。
博学があなたの気を狂わせている。パウロの博学についてはフェストも知っていたのでしょう。こう言ったわけであります。
聖書がどんなに人間の知恵を超えるものであるか、全く人間の知恵と、このキリストの救いとの間には橋を架けることはできないという気がします。そこには大きな深淵があるようであります。

ただ神様だけがこの深い淵を超えさせることができる。ただ聖霊だけがこの事実を私たちに受け取らせることができる。それは私たちの十二分に経験したことでしょう。
聖書を読めばまったく訳の分からない書物であります。どうにもならない巨大な鉄の壁の前に立って、呆然とする思いがするわけであります。これはまったく当然であります。
しかしただ真理を知りたいという、聖書に何かあるはずだという思いでもって、知ろうとし続ける人、門を叩き続ける人、その人はだんだん、だんだん、なぜ自分は分からないのかに気がついてくるはずであります。

自分の心が自分でも知らないような高ぶりに満ちているということ。全能者である神の御前に自分がどのような、ちり灰に等しい存在であるかということに気がついていないということ。
自分の頭の理解力というのがどんなにちっぽけなものでしかないかという、その限界に気がつかないということ。
自分で理解できないものはありうべからざるものだと考えようとする、われわれのちっぽけな、その姿に気がついていないということ。

聖書にふれることによって、実は、私たちは自分自身の頑なさや自分自身の愚かさや、自分自身の小ささに気付かされていくのです。
そのことによって実は信仰の門は開かれてくるのではありませんか。
信仰の門、救いの門が開かれてくるために、実は私たちがどんなに小さな存在であるか、吹けば飛ぶような、地の塵に等しいような存在でしかないのだ。
あるいはまた、自分のうちに本当に恥と罪、けがれが満ちているのだということ。自分は自ら偽る者であるということ。そういう自分の本当の姿を、聖書にぶつかることによって人は逆に照らし出されてくるのです。

そして初めて私たちは神様の前にひざまずく者となり、また、心から祈る者と変えられていくわけであります。
主の前にひざまずいて祈るように人が変えられれば、救いはもう間近であります。
あれほど理解不可能、信ずることは不可能だと思っていた聖書の数々の記事が真理の光を放ってくるのであります。ですから私はこのフェストの反応については、実に正直な反応だと思っています。

私たちは普通、周りに真面目なクリスチャンたちをもっていますけれども、正面切って、「あなたたちは何を信じているのですか。」、「あなたたちの信仰の内容は何ですか。」と聞いたことはないです。
「ああ、あの人はクリスチャンらしい。」、それぐらいでしょう。「何か穏やかな人だなぁ。」と。「親切だなぁ。」とか。「謙虚だなぁ。」とか。そういうことぐらいは感じますけれども、「ちょっと変わった人たちだなぁ。」というぐらいです。
正面切って、「あなたたちは何を信じていますか。」という問いに対して、「キリストの十字架の死と復活。」、「罪の贖い。」、「キリストの再臨。」というような信仰の確信のことをもし言えば、その方々は「この人たちとはちょっと話ができない。これは別の世界の人だ。」というふうに私たちを一蹴するはずであります。

「よくこんなことが信じられるなぁ。」という、これぐらいだと思います。まったくそのとおりであります。
私たちクリスチャンの信じている信仰の確信は、「おまえたちは気が狂っているぞ。」、とフェストが言ったとおり。まったくそのようなものなのであります。しかし気が狂っているわりには、意外とまともに生活していると言えるかもしれません。気が狂っているのだったら、破綻するはずですから。どうもそうではない。そこが福音というものの本当の証しだろうと思います。

一見すると、本当にとんでもない、とてつもないことを信じているのがキリスト者ですが、そのとてつもないことを信じて生きている連中が、この人生において生活そのものが破綻していない。
むしろ、ある意味でまともである。そこにこの福音が真実のものであるということのひとつの証拠と言いますか、それがあるのではないでしょうか。

あのマルチン・ルターは、彼の経験とかを書いている。彼の自分自身の体験というのは、一見すると、この人は精神病ではないかというような、一種のそういう疑いまで持たれかねない人だそうであります。
確かにそういう紙一重のところがどうもあるのではないかと思います。しかしある人が言っているように、あのルターのとてつもないような働き、あの宗教改革の嵐の中で、当時のある意味でヨーロッパ全世界を相手に回して、当時のドイツの農民一揆や激しい動乱の中に身を置かざるを得なくなるわけですが、こんな膨大な著作を残さざるを得なかった。
もうとにかく書いて、人々に指示したり、教えたりしなければならなかった。そのルターのなしたことを見ると、彼が病気ではないということ、彼のほうが実は深い真理に立っていたということが分かるというような意味のことをある人が言っていますけれども、そうだろうと思います。

パウロにしてもだから、そういうことが言えるわけです。一見すると全くたちくらみでもしたのではないか。幻想や幻覚を覚えているのではないか。あなたが神様の声を聞いたとか、幻で主を見たとか言っているけれども、ちょっとおかしいのではないか。
精神のほうがずれているのではないか。と、ともすると、言われかねないわけですけれども、しかし彼が生きたその生き方、残した足跡というのがどんなに巨大なものだったか。とてもではないけれども普通の人間のスケールを超えているということ。
それを人はだれもが認めざるを得ないわけですけれども。それを知るときに、彼らの経験というものが間違いのないものだったということ。彼らの信じた信仰というものが確かなものであったということ。それを裏付けていると言えるのではないでしょうか。

いずれにしても、私はそういう意味で、このフェストの叫びに対しては、心から共感をする思いがいたします。あなたが感じたように感ずるのが、それが当たり前である。
まともな人間であればあなたが思ったように、パウロよ、おまえは気が狂っていると言うであろうというように私も思います。
しかし福音というのはそういうものである。しかもその福音は人間を本当に救う力をもつものである。人の心の目を開き、永遠の世界へと人を、眼を開いていくものである。そう思います。

コリント人への手紙第I、1:18-24
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

コリント人への手紙第I、2:7-9
7私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
8この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

コリント人への手紙第I、2:14
14生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

この世の人にとっては神の知恵、キリストのこの救いの福音は愚かなものでしかない。
先ほどの使徒の働き26章、最後のところをちょっと読んで終わりたいと思いますけれども。26章の25節からお読みしましょう。

使徒の働き26:25-32
25するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。
26王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。
27アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」
28するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。
29パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」
30ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。
31彼らは退場してから、互いに話し合って言った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」
32またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに。」と言った。

こうして、総督フェストはただ驚き、呆れております。アグリッパ王は戸惑いを隠せないでおります。
ただパウロには、弾劾されるべき罪はないことだけは、彼らは確認して、このユダヤ人とパウロとの紛争と言いますか、裁判沙汰、この問題の決着はつけられたということになるのであります。
パウロはもしここで釈放されていたら、やっぱり危なかったでしょう。ですからそういう意味ではローマのほうに護送されて、向こうで皇帝ネロの裁判の前に立つというのは、そういう意味ではむしろ良かったのではないかというふうに思われます。

上訴していなかったなら、釈放されていたであろう。
かえって彼が罪はないにも関わらず、上訴したということ。これはパウロの身をむしろ守ることになったのではないかというふうに思います。
そこまでで終わりたいと思います。




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