引用聖句:使徒の働き3章4節-8節
内村鑑三は、ルツ子という娘を亡くしたときの経験だと思うんですけども、「キリストを信ずる信仰の本当の価値というのは、親しい者の死に際してもっとも強く現われてくる。」ということを書き残してますけれども、まったくその通りだと思うんですね。 矢内原忠雄先生は、この旧制一高の学生の頃に、まだ求道中で、内村鑑三の聖書講演に出ていたそうであります。そのときにルツ子さんの葬儀があって、雑司ヶ谷の墓地にルツ子さんを埋葬するために、自分も葬列の後について出かけて行ったということを書いてらっしゃるんですね。 棺を下ろすための穴が掘られて、いよいよ棺が下ろされて、土がかぶされようとしたときに、内村鑑三が一握りの土を掴んで、天にそれを上げて、「ルツ子さん、万歳!」と言った。「今日はルツ子さんの結婚式の日である。」 その言葉を、矢内原先生はまだ少年でありながら、それを聞いたときに雷に打たれるような衝撃をおぼえた。キリスト教信仰をもつということは、命がけのことなんだということを思ったってなことをなんかに書いてらっしゃるんですね。 それまでは、なにかいい人生を歩むにはどうしたらいいかとか、良き人間になるために求道してるつもりの訳ですよね。どうもキリスト教信仰は、聖書には良い人間として正しく生きるための、道筋が書いてあるんじゃないかという漠然たる思いで、実は聖書の話を聞いていた。 ところが、そうじゃないっていうこと。信仰というのは、聖書が伝えてる救いというのは、この生死に対する問題であるということを、死に対する答えであるということ、そのことを初めて気付かされたということだと思うんですね。 クリスチャンになるまでは、私たちが経験するように、難しいことをさかんに考えるんですよ、色んなことを。結果的にはなんということもないようなことを、難しくひねくり回して一生懸命考えて。 しかし、救いを得て分かることは、死に対する問題の解決なんだ。永遠に、神さまのもとにあって生きるという、永遠のいのちというものを与えられるということが、結局、聖書が伝える信仰のすべてなのだ。そういうことに気付かされていくんですね。 だからもう難しいことなんかあんまり考えない。そんなこと、どうでもいいことなんで、いのちの問題なんだ。本当に、死にあっても喜んで、人が死の彼方に希望をもって生きることのできる、その本当の希望、それこそが実は聖書が私たちに示している一番重要なものなんだということに気付くんですね。 クリスチャンは、だから、あんまり難しいことゴチャゴチャ考えなくなりますね。非常に単純に、神さまから与えられたこの永遠のいのちというものを感謝し、そのいのちの中にとどまって生きる。非常に生活そのものも、人生観もシンプルになってきますね。 イエス様を信ずるということは、このいのちの問題、生と死の問題への解決なのだと気付かされる。それは私たちの同じ経験なんだということを、思うわけであります。 今日は、使徒の働きの3章になるわけですけども、前回、前々回、使徒の働きの第2章を学んだんですね。そこで、聖霊降臨があり、いわゆる初代教会というのが、そのときに誕生したということが記されておりました。 1日で3,000人もの人々が信仰に導かれ、洗礼を受けたという、それこそ爆発的な霊的覚醒がエルサレムをおおった記事が、2章に記されておりました。 私たちはこの集会で特に、初代教会という言葉を耳になさると思うんですね。初代教会は、キリストの教会の本来の姿として、いつの時代であっても教会がそこに立ち返るべき模範と考えられえております。 確かに、すべての兄弟姉妹たちが、同じ立場に立ちながら、同じ、主に救われた兄弟姉妹としての同じ立場に立ちながら、しかも見事に調和の取れた、全体としての一致を保って、信仰の証しは成されているわけであります。 この点に心を留めながら、使徒の働きを見ていったら、大いに参考になるんじゃないかと思うんですね。 私たちは、キリスト集会といういわゆるエクレシアに属していて、この集会のあり方をごく当然なものと考えておりますけれども、このような集会のあり方に至るためには、ベックご兄姉の、いわば宣教師生命をかけると言いますか、そういうような大変な決断があったのではないかと思うんですね。 この中には、いわゆる教会からいらした方々もかなりいらっしゃるはずであります。ですから、今の集会ってもののあり方と、いわゆる普通の教会がどんなに大きく違うかということも、よく分かると思うんですが、私たちその中で、このキリスト集会という囲いの中で生まれ育ってきた人々は、そのことはよく分からないんですね。もう当たり前なわけです。そういう意味での苦労というものは、私たちは経験してないわけであります。 しかし、既成の教会のあり方から離れて、新たな出発をするということは、これは容易ではなかったと思うんですね。 あんまりみなさん、お聞きにならないと思いますけれども、ベック兄姉がドイツから遣わされて、リーベン・ゼーラ(愛の泉)というそのミッションから離れて、まったくなんの保障もないままに、5人のお子さんを連れて、この新しい未知の歩みをなさるということ。 随分、ベック兄のお父さんは、気がおかしくなったんじゃないかと、非常に厳しいことを仰ったということを聞いております。「もう日本に行く必要はない。」、そういうところを通って、私たちのこの集会ってのはあるわけですね。 もちろん私たちの集会が、模範として目指しているのは、ここに出てくる初代教会なわけであります。全員が同じ立場の兄弟姉妹でありながら、主の権威を恐れることを知ってるがゆえに、服従と従順ということを忘れてはならない。 自発性や自由というものを非常に尊重しながら、強制っていうことをしないで、規則で縛らないで、ひとりひとりの自発性にすべてゆだねながら、整然とした秩序が宿るところの、エクレシアでなければならない。 愛と信頼をもって、主と、まだ主を知らない人々に仕えるという、そういうクリスチャンの群れでなければならない。これはただ、聖霊の働きによってだけ生み出されるものであって、人間がどんなに知恵と力を振り絞っても作り出すことのできないものであるということであります。 本当の教会・・・。教会と言ったり、集会と言ったりするんで、みなさん混乱なさると思いますが、エクレシアという言葉だそうですね。 召し出された者の群れ、引っ張り出された者の群れという意味だそうですけども、本当の意味での主の教会というのは、生み出されてくるものであって、作り出すことができるものではないということ、霊的いのちを持って生きている者であると聖書が言ってるというのは、そういうことだと思うんですね。 ですから、聖霊のご支配が消えてしまっている集会は、生命を失っている集会になるわけであります。本当のいのちを持たない交わりになってしまうのであります。 そこには、人間のたましいの救いというもっとも大切な、霊的な実りというものは生まれてこないわけであります。 多くのいわゆる教会が、そのようないのちのない抜け殻になってしまっているのでないか。ときにはただのサロンに化してしまっているのではないか。 あるいは社会改革運動の拠点になっていたりするのではないか。 そうであってはならないということなんですね。本当のエクレシアは、人間がまことの主なる神と出会う場なんですね。「神なんかいるもんか。」と高を括ってた人間が、その交わりに行って、初めてそこに、目に見えないけれども確かにある、自分の経験してない存在があるということ、生きているものがあるということ、聖なる存在がそこにあるということに気付かされる場なんですね。永遠の滅びから救われる救いの発見の場でなければならないわけです。 本当の意味でのエクレシアにおいてだけ、人は、目に見えないまことの主なる神と出会うのであります。ここに本当の意味での真理があるということに目が開かれていくのであります。その経験の場なんですよね。 真の教会だけが果たしうるこの使命を、なんとしても果たさなければならない。この願いこそが、私たちのキリスト集会の根底にある願いだと言っていいんじゃないかと思うんですね。 そういう願いによって、この集会の歩みは始められたのではないかと思います。ですから大切なことは、いつでもキリスト者の交わりが聖霊のご支配のもとにあるということなんですね。 聖霊のご支配の条件とは、決して難しいものではありません。エリヤと闘って敗れて、バアルの預言者たちが、雨乞いしながら踊り狂って、あとは自分のからだを傷つけて、血を流しながらバアル人に叫び求めたと列王記第Iの18章にありますけども、そういう踊り狂いながら、あとは自分でからだを傷つけて、半狂乱になりながら、神さまがなにか答えてくださるかのような、そういう彼らの振る舞いを見るときに、無知と愚かさ、まことの主なる神を知らないということのもたらす、そういう無知や愚かさというものを私たちは見るのであります。 主のご臨在、聖霊のご支配は、正直さと謙遜、主への聖い恐れのあるところに必ずあるからなんです。 決して難しく考える必要はなにもないんですね。私たちが主の前に本当に正直であるということ。本当に正直であれば、人はへりくだらざるを得ません。 そして主を恐れる恐れというものを人が失わないときに、必ず主はそこにおられるからであります。イザヤ書の57章に、すばらしいみことばがありますね。 イザヤ書57:15
神は、高く聖なる所にいらっしゃる方だけれども、心砕かれて、へりくだった人とともに住むと書いてあります。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。 詩篇25:14
詩篇25:12
まことの主なる神、この天地万物を創造された唯一の神を人間が知る方法は、この方に対する恐れをもつことなんです。本当に、神を神として、人が主を恐れるようになるときに主は、ご自身の御心を啓示してこられる。これは非常に大事なことなんです。恐れ敬う者に対して主はご自分を明らかになさる。 私たちの子どもたちを見ても分かりますよ。親を本当に、心から尊敬し、親の言葉を大切に受け取ってる子どもに対して、親は自分の心の奥底にある考えや、願いを語るものであります。この子は分かるからなんですね。 で、親なんかどこにいるかってな感じで、だれが親かってな感じで、親を親とも思わない子どもに親は語れないんですね。これは無駄であります。 だから、神さまの御心を知るということも、そんなに難しくはないのであります。私たちが本当に、モーセやダビデ、アブラハムが恐れたように、主を深く恐れること、主を心から慕うこと、主なる神を主なる神とすること、このことによって初めて人は、「ああ、主が私とともにおられる。」、そういうことを経験するのであります。 逆に、偽りや高ぶりという肉なるものの支配する所には、争いと分裂がありますね。サタンの蹂躙するところとなりますね。 悪魔は暗やみを望むものであります。悪魔に蹂躙されたければ、悪魔に良いようにもてあそばれたければ、偽りと暗やみの中にとどまればよろしい。 しかし、「神よ。われらとともにいます。」というインマヌエルの人生。イエス様の名前が、「神よ。われらとともにいます。」という意味ですけれども、そういう人生を私たちが歩みたいと思うならば、やっぱり常に、聖書が言ってるように、光の中にだけいかないということですよね。 主が私たちの心のうちを照らしてくださいます。その主の照らされる光の中に人はとどまらなければいけない。主はそこにしかおられないからであります。 ヨハネの福音書3:17-21
私たちはかつて、やみを愛する者でした。みなさんはどうですか?光の中に出ることはやっぱり怖かったのであります。だから聖書を避けて、教会を避けていたのであります。 しかしあるとき、もう、光を避けて生きるわけにはいかない、そういうことに気付いたんですね。光の中に出よう。暗やみの人生を清算しよう。今までの人生と決別しよう。光の中を歩もう。そういうふうに決心をいたしました。 光の中を歩むときに初めて、人のたましいはやすらぐものだし、本当の意味での人生の充実ってのはそこにあるわけですしね。 暗やみの中にとどまるということは要するに、虚しさの中にとどまるということでもあるんですね。 いつまでたっても、なんの実りのない人生の中にいるということであります。あるがままに、自分のみじめな、なんにもない、自分のありのままの姿を素直に認めて、光の中に出よう。 それが主の招きに応えた、悔い改めと言いますか、回心の体験だったんですね。 ヨハネの手紙第I、1:5-7
クリスチャンの交わりというのはですから、光の中にある交わりなのだと、聖書は教えているわけであります。それがなくなるときに、その交わりは、エクレシアはいのちのない抜け殻の、単なる肉の争いやねたみや疑いやそういうものの満ちたものになってしまう。 そういう、いわゆるクリスチャンのありかたっていうのは、非常に多いのではないか。そうであってはいけないということなんですね。そこが先ほど言ったように、私たちのこのキリスト集会というのが目指してやまないところのものなんですね。 そこに立たなかったら、信仰というのはなんの役にも立たない。本当の私たちを生かすいのちっていうのは、そこから出てこない。そう言えると思いますね。 エペソ人への手紙5:8-11
光の中にとどまる、光の中を歩む、それが実を結ぶクリスチャンの生涯の秘訣と言えるんじゃないでしょうかね。祝福されたクリスチャン生涯の秘訣はそこにあるんじゃないでしょうか。 少しでも私たちが主の前に良心の咎めをおぼえるのならば、やっぱり、その度キチッと主の前に悔い改めなければならない。そして主の光の中に立ち返らなければいけない。それが私たちの毎日のクリスチャンの歩みじゃないかと思うんですね。 そういう意味で、クリスチャンの信仰生涯というのは、日々、悔い改めの生涯ですよね。悔い改めがなければもうそこには力も光もなんにもない。そのクリスチャン生活にはなんの力もないんです。それは明らかなことなんですね。 どこかに陰を引っ張ったままのキリスト者であってはいけないと思うんです。光の中に歩むべきであります。心底、光の中にあって、心から喜ぶ者であるべきであります。 そういうクリスチャンは多くはないんじゃないでしょうかね。 いつもの癖で、イントロダクションが長くなりましたけれども、もう一回、使徒の働きの3章の方に返ってください。 今、第2章を少し振り返ったのは、使徒たちの奇蹟を行なう記事が、この第3章から初めて出てくるからなんです。2章までには一切出てこないのであります。 3章以降になって初めて、イエス様がかつて約束されたように、ただの人間にすぎないペテロやパウロたちもが、イエス様とまったく同じように、多くの人々の病をいやしたり、それどころか、死人をよみがえらせたりするという、とてつもないような奇蹟を行なってくのであります。 ペテロもタビタというひとりの老姉妹を、死者の中から生き返らせていますよ。あとで出てきますが。パウロもそうですね。 イエス様がちょうどなされていたような奇蹟を、彼らが行なってくる。もうそれどころか、彼らの着てるものに触るだけで人々はいやされるなんていう、ちょっと想像できないようなことが起こってくるのであります。 その最初の記事がここに出てくる、「美しの門」と、あしなえの男のいやしであります。ヨハネの福音書の14章をちょっと見てみましょうか。 ヨハネの福音書14:10-12
この12節で、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」 ぼくはこのみことばを読む度に、イエス様というのはすごいなと本当に思うんですね。 普通のいわゆる教祖さまなら、「私とお前たちとはもともと出来が違うんだ。お前たちには逆立ちしたって出来やしないんだ。」、あからさまに言わなくてもなんか匂わせそうではありませんか。自分だけは別の境地にいる者だと。 ところが、まことの主のひとり子でありながら、本当に神の御子であられながら、イエス様はあのどうしようもないような、この福音書に出てくる弟子たちは本当にどうしようもないのでありますから、とんちんかんなことばっかりやっている、まったく無学なガリラヤの漁師に向かって、このように仰るんですね。さすがだな、これこそが神の御子の所以なんだな、というふうに思うのであります。 わたしがなす以上のわざを、あなたがたがなすようになる。なんていうことだろうかと思うんですね。わたしがやったように、あなたがたにもできる。 わたしが父とともにおり、父がわたしのうちにみわざをなしているように、あなたがたの中に聖霊が宿るようになる。その御霊があなたがたを通して同じこと、いや、それ以上のことをなさるのだというのであります。驚きですね。 そしてそのおことばの通り、弟子たちは全世界に出て行きました。イエス様がなされたと同じようなわざを、それ以来なし続けているのであります。 ただ、自ら復活し、天に昇るということがないだけですね。ペテロやパウロだって死人のよみがえりを実際行なってるんですから。 2、3年前、ザビエル450年祭があって、ザビエル展というのを観に行きました。 そのザビエル展によると、ザビエルも数々の奇跡をなしたと言われているとあります。死人をもよみがえらせたって言われてたというようにありますが、ザビエルは、「私のようなものが、どうしてそのようなことができましょう。」と答えたと言われています。 ぼくは信じますね。おそらくザビエルがいたときのインドは、すっごい社会です。彼は東奔西走して、病んで、死に瀕している人々を多く世話してるわけですから、ザビエルについて、そういうふうに云われてるっていいますけども、ぼくは、大いにありうることだし、今もあると思っています。 ただ、あんまり、そういうことを公にしないっていうだけであって、やっぱり主は今も生きていらっしゃるし、奇蹟をなしていらっしゃるし、大いに、2,000年の間、続けられているわけであります。 ただ、気をつけなきゃならないのは、「よみがえらせる。」というのと、「復活」は違うという意味なんですね。 イエス様が復活されたということは、復活、永遠の、いわゆる復活のからだにイエス様がよみがえられたのであって、イエス様が、12歳の娘に対して、「娘よ。起きなさい。」と仰ったら死んでる娘が起きた。 あるいは、ラザロの復活もありますね。あるいは、あのひとり息子を亡くして悲しんでる母親が、棺の側に立ってるところに、イエス様が通りかかって、棺に手をかけて、「青年よ。起きなさい。」と仰った。そういう記事が、福音書の中に出てきます。 イエス様が、死者からよみがえらされた記事が3回くらい出ておりますよね。しかしそういうのは、復活ではないのであります。蘇生って言いますかね。 死んでいた者がもういっぺん生き返りますけども、それは復活の意味ではありません。復活というのは、永遠のからだ、朽ちることのない永遠の、いわば霊的なからだと言いますか。そういうものを与えられるということですから、イエス様だけが、それを弟子たちの前に現わされたのであって、ほかの人々はまた死んだんですね。 聖書はそういう区別をしていますから、ちょっとそれははっきり分ける必要があると思うんですね。 使徒の働きの3章にもう1回戻りますと、この第3章の記事は、もっぱらこの足のきかない男のいやしに関するものであります。「生まれつき足のきかない男が、」となっていますね。 実はこの言葉遣いも、最近の、なんて言いますかね、身体に障害をもっていらっしゃる方々への配慮で、かつてのように使っちゃいけないという形になって、直されてきてるんですね。 この美しの門の宮の脇に置いてもらっていた男は、何歳ぐらいなのか分かりませんけども、生まれながらにして歩いた経験がなかったのであります。 使徒の働き3:1
と書いてありますね。ぼくは最初は、ペテロやヨハネがまだユダヤ教の長い習慣に縛られていて、キリストの福音とかつてのユダヤ教との、そのはっきりとした違いってことにまだ気が付かないで、そういう渾然とした状態の中にあって、それを引きずっていたので、いつものように・・・ (テープ A面 → B面) 午後三時の祈りの時間に宮に上って行ったんだろうっていうふうに、ちょっと思ってたんですが、どうも違うんじゃないかって思いがしました。おそらく、多くの人々が集まる祈りの時間であったために、彼らは福音を伝えるために出かけたに違いないのであります。 主はペテロとヨハネの思いもつかないような伝道の場を、やっぱり用意されたわけであります。 伝道というのは、このような思いがけない展開に導かれるものですよね。初めは分からずに行くわけですから。そうすると、思いもかけない、福音伝道の場が展開され、それが多くの人々の経験ではないかと思いますけど、やっぱり主が先立って用意しておられるということ思いますね。 当時、足のきかない障害者が生きてくわけですから、今では考えられないような厳しさだったでしょうね。ただ、人々の情けにすがって一日一日いのちをつなぐわけであります。 だから、施しということが、大切な命令として旧約の律法には記されているわけであります。そういう身体障害者、一人では生きていけないような人々に対する配慮というものが、モーセの律法の中には厳しく記されていますね。 忘れてはならないと書かれています。 その施しということが、西洋社会、あるいはイスラム社会の伝統ともなっているんですね。その点、日本にはあんまりそういうことは、生活の中にしっかり根付いてるようなものではないという違いがあるんじゃないかと思うんですね。 この足のきかない男は、毎日美しの門の側に置いてもらっていたのであります。人通りの多い、人々がもっとも信仰心を呼びさまされるような、そういう場と言いますか、信念ですから、神さまの律法を人々が思い出さなきゃならないような、そういう場にいるということが、彼にとっては一番良かったんでしょう。 そこに毎日連れて来てもらって座るということは、この男の生涯の仕事なわけであります。そこにペテロとヨハネが通りかかったわけです。 使徒の働き3:3
今までのように、通りすがりの人々の中の二人でしかなかったペテロとヨハネ、この男に彼は呼びかけたわけであります。名前は知らない人間同士の、もののやり取りをめぐる、そういう単なる関係、それが生涯を決定付ける、いわば出会いへと展開していくんですね。 お互いに名は知らない、無名の人同士の接触が、出会いへと、その人の人生の根本的に方向付けていく、そういう出会いへとここで転換するわけですね。 使徒の働き3:4
見つめたんですね。すると、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだんです。漠然と見たんじゃないんですね。3節の、「見て、」と書いてるのは、漠然と見てるのではありません。名も知らない、単なる行きずりの人として見てる。 これに対して、ペテロとヨハネはその男を見つめたんであります。目を注いだと書いてありますね。 この出会いへの転換、それがどうもこの言葉に込められていた気がしますね。声をかけられて見たとき、ペテロとヨハネの心に、この足なえの男に対する同情とあわれみの心が、湧き出してきたのでしょう。 それだけじゃなくてこの男の心の底にある叫び、たましいの渇きのようなものもを感じざるを得なかったのでしょうね。なんという気の毒な人だろう。生涯、ここに座るということに妥協しなきゃならない。それに対するこの男の、声にならない叫びに二人は目をとめたんだろうと思うんですね。 イエス様が収税所に座っていたマタイに目をとめて、「わたしに従ってきなさい。」と声をかけられた。マタイはすぐ立ってイエス様に従ったと書いてありますけども、イエス様はマタイを見たのであります。ジッと。 パウロが、ルステラで同じく生まれながらの足なえの男に語った記事も、使徒の働きの14章に出ています。よく似ていますが、ちょっと見てみましょうか。 使徒の働き14:8-10
と書いてますね。パウロはこのとき、この人にいやされる信仰がある。それを感じたのであります。彼は、パウロのメッセージを受け取るその用意があるということを見抜いたんですね。だから声をかけたんです。 同じように、ペテロとヨハネはピンときたんですね。だからまっすぐにこの男を見たのであります。「私たちを見なさい。」と声をかけたんですね。 ただ漫然と聖書のみことばを聞いてるのか。心にも留めずに、「ああ、そういう話もあるのかとして聞いてるのか。」、本当に、求める心をもって真剣に人が聞いてくるのか、それは分かるわけですよ。 そして、「ああ、この人は求めている。」、そういう真剣に、いわば、魚が餌に喰いついて来るように、みことばに真剣に喰いついてくる。心の真中で受け止めていく。そういうときに、「これなら大丈夫だ。」、そう彼らは判断したのです イエス様はみんなそういうふうに人を見られたのであります。人が本当に心の底から信仰を求めるならば、真理はなにかを知ろうとするならば、なにが本当の問題なのかを知ろうとするならば、救いを得るのは難しいことではないのであります。 6節のみことばに目を留めてください。有名なことばであります。 使徒の働き3:6-9
他人のあわれみにすがり、施しにすがる生き方、いや、金銀にすがる生き方と言ってもいいかもしれませんね、そういう生き方からこの男を、あるいは人間すべてを根本的に解放するのは、それはイエス・キリストの御名によって歩むということなのだ。 イエス様に頼り、イエス様に従って生きるということだ。ペテロとヨハネは、このことを力強く伝えたのであります。 誰にすがって、人々のあわれみにすがって、あるいはお金にすがって、それを頼りとして生きる。そういう生き方をしてはいけない。イエス・キリストの名によって歩きなさい。彼らはそう言ったんですね。ここにこそ本当の意味での独立があり、自由があるわけであります。 神が人間に与えてくださっている、人間らしい尊厳と品性の回復というものは、全能の救い主に信頼して毅然として立つという信仰からだけ生きて生まれてくるのであります。 人間はもともと神さまの前に立って、神により頼んで自由であるべきものであるし、独立すべきものなんですね。人に、この世のさまざまな権威や色んなものに媚びへつらって、そのあわれみを受けるべきものじゃないのであります。ペテロとヨハネは、このことを言ってるわけですね。 箴言29:25-26
主は人をさばかれるのである、だから主に信頼し、主に従わなければいけないんですね。それが主の御心であります。 元に戻って、使徒の働きの3章7節から11節のところは、いやしの奇蹟がもたらした大きな衝撃を記しているわけであります。人々の驚きと、この大騒ぎに対するペテロとヨハネの態度が、この第3章のポイントだろうと思うんですね。 使徒の働き3:10-11
と書いてありますね。大騒ぎになって人々は集まって来ました。ペテロやヨハネが人々の前に出かけて行って、人々を集める必要はありませんでした。彼らのほうから殺到するように押しかけてきたんですね。 12節から最後の26節までは、この章のほぼ三分の二にあたりますけども、それはペテロの言葉でしめられているのであります。ヨハネは一言も語らず、語っているペテロの傍らに、同じイエス・キリストの証人として立っているわけであります。このヨハネの役割も重要なのだ、ヨハネのその態度が、人々に何事かを強く語っていたはずだと思うんですね。 ペテロは語り、ヨハネは黙っておりました。しかし二人ともに立っておりました。そこに御霊が二人を用いて、それぞれふさわしいわざをなさせているのだと、クリスチャンの証しというものは、そういうものだっていうことなんですね。特に注目すべき言葉は12節だろうと思います。 使徒の働き3:12
これもすばらしい言葉だと思うんですよね。 ペテロは自分の、あるいは自分たちの信仰深さがこの奇蹟をなしたのではないと言ってるのであります。信仰が深いとか、浅いとかというのであれば、それはやっぱりペテロやヨハネの力になりますよね。 彼らも、聖人の賜物みたいになるわけであります。あの人は信仰が深いとかなんかよく言いますよね。どうもそういう表現ってのは、引っかからざるを得ないんですね。 なんか、その人の信仰の深さがなにか、その人の働きの、信仰上の働きの決め手であるかのように、私たちは考えがちですけども、そういうものではないと言ってるんですね。 これは人間から出たものではない。あなたがたが殺したけれども、復活され、今も生きておられる主イエス・キリストの力によるのだと、彼はここで言ってるのであります。 使徒の働き3:13-16
よみがえられたイエス・キリストが、今も事実生きておられる。そしてこのように、人間の求めに応じて力を現わしてくださったのだと、彼らは言っていますね。 私たちは、信心深そうにする必要は全然ない。大切なことは、主との正しい関係にとどまり続けるということであります。 いわゆる、信心深くなることではないんですね。主は人々を救い、ご自分を啓示されるひとつの方法として奇蹟をなされるのであります。 主がなさりたいのは、人を救いたいことですよね。そのみじめな状態から、滅びの状態から救うということ。それが主の唯一の御心なわけであります。そのひとつの方法として、主は必要に応じて、必要な場合に、奇蹟をなしてくださる。 それは主の、主ご自身の啓示ですね。主がご自分を啓示されるとき、被造物たる人間は、そこに主の栄光を見るわけであります。主がご自分の姿を現わされるとき、そこには自ずから主の栄光が光り輝いているわけでありますから。 信ずる者を、人々に超能力者と思わせるために、主はこういう奇蹟をなさられるわけじゃないんです。信ずると、なんか特別な能力がその人の中にあるかのように思わせる、こういうことに対してここで出てくるペテロも、さっきのルカオニヤに出てくるパウロも、必死になって、それを打ち消してるんですよね。 そういう誤った考え方をしてはいけない。そういうものではない。私たちを通して、主があわれみをもって私たちを通して、働いてくださるから、こういうことが現われてくるのだ。こういう奇蹟が起こるのだ。 私たちのうちになにか力があると思ってはいけないのだ。彼らはそのことを、本当に声を大にして叫んでいるわけですけども、また逆に、あとで出てきますけれども、なにかそういう能力を、超能力者の不思議な能力を手に入れたいと思って、イエス様を信じようとした魔術師が出てきます。 そういう、とんでもない誤解と言いますか、信仰にはいつもこういうのが混ざって入ってくるんですけども、いつも悪魔が、その光の、この側に来ては、いつもそこに入り込もうとして、それが、信仰の歴史を通していつも、影のようについて来るところだと思いますけども、パウロやペテロは、そのことをはっきりとわきまえていました。彼らはあんなみじめな経験をしたんですから。 ペテロなんていうのは、本当にどうしようもないような経験をした、みじめな経験をした人物ですから、自分がまるで人とは違ったなにか超能力者であるかのような振る舞いっていうのは、ペテロにはもう、しようたってできなかったと言いますかね。 もちろん彼はそれを非常に恐れて、気を付けていたわけですけれども、ただ人への愛とあわれみのゆえに、救わんとの願いのゆえに、主はご自分のみわざを時々、奇蹟という形をもってなされるわけであります。 信仰というのはパイプのようなものだと思うんですね。そのパイプを通して、主の御力が私たちに届けられるのであります。通り良き管となれという聖歌がありますけども、クリスチャンと主との間にパイプが、ちゃんと通っている。 そのパイプを通して主は、ご自分のいのちを豊かに私たちに注いでくださる。私たちに力を与えてくださる。 私たちの生涯は、整えて、ご自分の証人として用いようとしてくださる。信仰というのは、そういう主と私たちを結ぶ管なんですね。 なにもだからといってわれわれがそれを誇れるような、手柄になるかのような。そういうものじゃないんですね。 力の源泉は、私たちの信仰にあるのではなくて、主ご自身にあるのですから。 主の喜ばれない、色々なものがそのパイプを詰まらせないようにするっていうことが大切だと、聖書はいたるところで私たちに教えているわけであります。 神への背きによって罪の中に転落し、生きる目的と意味とを見失い、虚無の人生をさまよっている人間。その心には喜びも望みも聖さもなく、邪悪さや敵意や冷たさに満ちている私たち。聖書は私たちをそう言ってるんですね。それはただ、神への背きという罪のゆえであります。 そこから救い出すために、神は御子イエス様を遣わしてくださったと聖書は語っているわけであります。 使徒の働き3:26
パウロは、同じようなことをコロサイ人への手紙でこう書いています。 コロサイ人への手紙1:19-22
邪悪な生活から救い出すためだと書いてありますね。邪悪な生活なんて言われると、なんかちょっと言葉がきついなと言いますか、そんな感じがいたしますよね。 あのペテロの語りかけなんか見ますと、「そんな邪悪な生活、まだしてない。ほどほどの生活してるのに。」と思うかもしれませんよね。 だけどペテロの霊眼から見れば、信仰の目をもって見れば、よこしまに満ちている生活。ペテロは自分自身を反省しつつ、そう言ってるわけであります。 パウロも言ってますよね。「心において、敵となって悪い行ないの中にあったのですから。今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」 神が最初にお造りになった、創造の目的にかなった人間。その人間にもう一回、神はイエス様の救いを通して私たちを回復させようとしていらっしゃるんですね。 本当に聖く、傷なく、非難されるところのない者として、私たちが本当の人間性を回復して生きるように。そのために主の十字架は私たちのために立てられたのだと言ってるんですね。 ぼくは本当にそうだと思いますね。心の底からその通りだと私も感ずるのであります。最後に、 ペテロの手紙第I、1:18-21
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