引用聖句:使徒の働き4章12節
ヨハネの福音書の3章の16節にあるように、 ヨハネの福音書3:16
と聖書は言っています。すべての人間が神に愛されているかけがえのない存在であると聖書は言ってるんですね。神に愛されていない人間なんか一人もいない。神はご自分のすべてを差し出すほどに一人一人を愛していらっしゃる。 今主を知ってる人も知らない人も、等しく神の愛の対象である。聖書はそう言っているわけであります。この人は愛するけれども、あの人は愛さないなんてことは、神にはありえないことであります。 ルカの福音書15:1-10
天に大いなる喜びがあるとイエス様は仰ったんですね。ちょうどこの当時の律法学者やパリサイ人、彼らが取ったような態度を、のちのいわゆるキリスト教徒たちが取るようになったわけですね。 テモテへの手紙第I、2:4-6
イザヤ書49:15
主はすべての人に対して、このように語りかけていらっしゃるんですね。特定の人、ある人だけをってことは神にとってありえないことであります。神さまの愛はすべての人に対して同じように限りなく注がれているわけであります。 ところで私たち人間は、すべての人を同じようには愛せませんね。自分が愛し慕う人と、苦手な、避けたいと思う人とはいつでもいるものであります。それは一体なぜなんでしょうか。 それはその人の性格や外見に目がいくからではないでしょうか。その人のたましいに目が注がれていないからではないかと思うんですね。 性格とか外見とか、あるいは才能とか関係なしに、それらの奥にあるその人のたましいという、かけがえのないものに私たちの目が届かないから、私たちは外側に現われるところの、表面的なその人の性格や外見や才能やそういうもので人を、どうも苦手だとか、この人は気が合うとか、そういうふうに見るんでしょうね。 神さまはそういうふうに見られないということであります。 神さまがその御目を注がれている愛の対象というのは、ひとりひとりの奥底にあるたましいそのものにであります。人間の愛がエロスの愛であると言われているのは、結局人間がその人の性格だとか外見だとか才能だとか、そういう、その人そのものじゃなくて、その人に付随するものに向くのだ。それにしか向かないのだということなんでしょうね。 それに対して神さまの愛をアガペーというふうに呼ばれるということは、結局、神さまはそういうものをご覧にならない。 今は失われて、自分自身を見失って、放蕩息子のように、罪の中に転がり回っているんだけれど、あるいは醜悪なエゴのかたまりとなって、我利我利亡者のように、自分のことしか考えないっていう、そういう浅ましい状態になっているけれど、しかしそれにも関わらず、神さまはその人が自分を見失っている、そのたましいそのものにいつも目を注いでいらっしゃる。 だから、われわれの人間のさまざまなありようとは関わりなしに、神さまの前にひとりひとりはかけがえのない存在なのだ。こういうふうに、聖書は言ってると思うんですよね。 イエス様は十字架の上で、「彼らをお赦しください。彼らはなにをしているか、知らないでいるのです。分からないからです。」と仰いましたね。 なにをしているのか分からないけれども、しかし神さまにとってはかけがえがない。聖書が言っている神の愛というのは、そういうものだと思うんです。 だから私たちは、直接にわれわれが毎日触れる人々にとって、感心できないものいっぱいある。「嫌だなぁ。」とか、われわれは毎日、通勤電車やなにやらで、思わない日はないでしょうね。 しかし神さまがご覧になって、「尊い。」と仰っているのは、自分自身を見失ってはいるけれども、その内にあるところのかけがえのないたましい、そのものに違いないんですね。 私たちは信仰の目を開いていただけます。そして、失っていた自分自身っていうものに気付かされます。本心に立ち返るっていう経験をさせていただきます。 こうして私たちは、自分のたましいっていうものに気付いたのであります。それに向き合うって言いますか、目覚めさせていただいたのであります。 ここに注がれている神さまの愛に、いくらかなりでも触れたのであります。ですから私たちは、今まで見えなかった人間を見る目と言いますか、今までは表面的な、その人の外側のもの、性格、そういうもの、よくできるとかできないとか、色んな才能があるとかないとか、そういうことにしか目が届かなかったけれど、それを超えて、その人のたましいというものに気遣いができると言いますか、そこに目を向けるということを私たちもいくらかできるようになったんじゃないかと思うんですね。 そういうふうに、人間のそのたましいに目を注ぐということ。これが私は、人を人として尊重することだと思いますね。これもまたパウロが言うように、見えないものに目を留めるっていうことのひとつの重要な大切な意味なのではないか、と思うのであります。 かけがえのない一個のたましい。すなわち、人格として接する。人はこのように接せられて、接せられることによって、自ら目覚める機会にもなるのではないかってな気がしますね。 自分の若い頃を振り返ってみると、本当に自分をわきまえませんでした。霊的に盲目でありました。ですから、自分をいっぱしの者であるかのように思いながら、やってることは実に、この世の粗雑な生き方。 カラカラにたましいは渇いているような、しかもそれに気が付かずに、それゆえに振る舞いは粗野である。そういう青年時代だったと思うんですね。そういうものに当時のクリスチャンの方々は、クリスチャンの先生などはやっぱり、私のたましいに目を向けておられた。今思うとそういう気がするんですね。 そういうことを通して、目覚めさせていただいた。目覚める機会となったのでないかという気がするのであります。ですから、私たちが覚えるべきなのは、神の前においてすべての人間がかけがえのない存在であるということ。 主を知る者も知らない者も、主の前に失われている者も、それは主の愛の対象であるということなのであります。 単なる律法的に、協議の上で区別をし、なにか白と黒かのように区別をする。そういうことはやってはいけない。たましいそのものに目を注がなければいけない。そういうふうに改めて思う次第であります。 先ほど読んでいただいた使徒の働きの4章のほうを、ちょっと見ていきたいと思いますけれど。 この4章は、ペテロやヨハネが初めて捕えられ、議会の前に引き出され、出て行く最初の箇所であります。早速このことが始まったんですね。 イエス様が仰ったように、「弟子はその死にまさらず。」、そう仰いました。自分に起こったようなことがあなたがたにも起こる。あなたがたもまた、多くの偉い異邦人のさばきの座に引き出される。 しかし恐れることはないとイエス様は仰ったんですけれども、もう、使徒の働きの4章で、早速そのことが始まるわけであります。 ペンテコステが起こって、イエス様が十字架に架かられて、土曜日、そして日曜日によみがえられ、そして五十日目の日曜日、ペンテコステの日に聖霊がくだりますね。 ですから、そんなに時間は経ってないはずであります。 ペンテコステの記事が2章にあったわけですから、3章で、この四十歳くらいの生まれつき足のきかない人が、ペテロとヨハネに出会っていやされますね。そして、早速その4章で、ペテロとヨハネは捕えられていくわけであります。 使徒の働き4:1-3
3章の1節を見ると、午後三時の祈りのために宮に上ったと書いてます。これから数時間経って、夕方になっていたんですね。多くの人々が彼らの周りに押し寄せて来ました。 そこでペテロとヨハネは、イエス様の復活を例にあげて、「人は必ず復活するのだ。神のさばきの前に立たなきゃいけないのだ。」、そういうことを伝えたんでしょう。イエスのことを例にあげて、死者の復活を宣べ伝えていると書いてます。それで困り果てたと書いてあります。 サドカイ人というのはよく言われていますように、当時の支配階級ですよね。上流階級であって、しかも復活を信じない人々だったんですね。パリサイ人たちがこれに対して復活を主張したわけですけども、サドカイ派の人々は死者の復活を否定する人々でした。 ですからそのことを通してパウロと、パリサイ出身であるパウロと、サドカイ人とのかけひきがのちのちに起こってきますよね。 パウロの裁判の時にね。こういうわけで、当時の支配階級であったサドカイ人たちは、ペテロとヨハネのこの説教に困った。それで捕まえて、翌日まで留置所に置いたと書いてあります。 使徒の働き4:4
この5,000人ほどっていうのはどうでしょうかね。この日一日だとは、ぼくには思えないんですね。その前に、3,000人ほど弟子が加えられたと書いていますから、2章41節に。ですから、それからその後の、人々の全体のことを言ってるんじゃないでしょうかね。 この日に5,000人もの人々が救われたという意味ではどうもないんじゃないかという気がしますが、しかしみことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が5,000人ほどになった。あるいは、この日一日だったかも知れませんね。 使徒の働き4:5-6
議会ですよね。議会が開かれます。ここには、はっきり議会と書いてありませんけれども、4章の15節には、「議会から退場するように命じ」と書いてますから、イエス様がちょうど議会にかけられたように、サンヘドリンですか、審議されたように、ペテロとヨハネは当時のイスラエルの国会にあたる、その議会に引き出されたっていうことでしょう。 使徒の働き4:7
と、なってますね。このペテロの尋問やさばきっていうのは、この次の5章にも出てきますし、さらに12章にはヘロデによって捕えられて、厳重な牢の中に入れられて、厳重な警戒をされていますね。 この4章の尋問はペテロにとっては最初の経験だったわけであります。 イエス様が議会にかけられたのと同じように、彼らは早速その体験をするんですね。イエス様と使徒たちの議会における尋問、あるいは裁判で共通しているところは、彼らは同じように良きわざのために訴えられているということであります。 具体的に訴えられるべき行為を取り上げるとそれは、いずれも問題のないことばかりであり、それどころか、良い行ないばかりですから、処罰のしようがないんですね。 当時の、今から2,000年も前の話なんですけどもやっぱりすごいもんですよね。 当時のローマの法廷というのは、厳格な手続きを取るんですね。日本なんかいつ頃からこんなことがなされたのか。ごく最近じゃないでしょうか。それこそ百何十年くらい昔じゃないでしょうか。 法治主義とでも言いますかね、法律によって厳格な手続きが取られているんですね。裁判にかけられ、訴えられる。証拠をあげるんでしょ?証拠をあげなきゃならない。 やっぱりすごいもんですよ。そういう意味ではね。この法に反してさばきをすると、さばいたほうが責任を問われる。たとえば、あとに出てくるパウロなんかの場合は、パウロはれっきとしたローマ市民権を持っていましたから、パウロを裁判にかけないで、正式な手続きを取らないで牢に入れて、鞭打ちをして、そういうことを行なった人が、パウロがローマ市民権を持っているということを聞いて、恐れて、パウロのところに来て、丁重な対応をしていますよね。 「どうぞ出て来てください。」と言って、ペコペコ、平身低頭していることがあとで出てきますね。それを見ると、本当にやっぱりすごいもんだと思いますよね。公式の裁判所に引き出して、この場合は国会に引き出して、証人が呼び出されて、証拠をあげるんです。 ところがイエス様の例でも出たように、証拠があがらない。色んな虚偽の証言をするけれども、いずれも証拠がないのであります。困り果てるでしょうね。死刑にする理由がないんですから。 このところでもそうなんですね。いつでもそうなんです。ですから裁判所は、虚偽の証拠をねつ造していかなきゃならなくなるんですね。正しいさばきをしなければならないはずの議会が、逆に自ら正しさを捻じ曲げていくという、奇妙な結果になっていくんですね。 こうして、さばくべき人々が逆にさばかれていくのであります。さばいている人々の不正が明らかにされていくのであります。こういうところに、この聖書で行なわれるイエス様を始め、使徒たちの裁判における奇妙な結果が、明らかになっていくんですね。 イエス様とあの総督ピラトの対話など、ピラトのほうこそがさばかれているんですよ。ピラトはイエス様の前に立って、「私がお前をさばく。」っていうこと言いますけども、逆にピラトのほうがさばかれていくんですね。 いわば、真理の前に引き出されて、ピラトの不正のほうが明らかにされていく。こういうところに、聖書に出てくる展開というものの持っている、奇妙な逆説、パラドックスがあると思うんですよね。 使徒たちを捕えてはさばく。さばくけれども、さばきようがない。これで事実を捻じ曲げていく。こういうことを繰り返すのであります。 ペテロの手紙第I、2:12-15
クリスチャンの生き方、戦い方がここにあるんですよね。善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることなんです。いつでもそうしなさいと、彼は書いていますし、そのように彼らはしたのであります。 ペテロの手紙第I、2:19-20
善を行なって苦しみを受けるなら、むしろそれを喜びとする。神さま、報いてくださるから。彼らの生き方というのは、こういうところに立っていたんですよね。 ですからさばきようがなかったのであります。 ペテロの手紙第I、3:13-14
これはなんて言いますか、単純にして堂々たる生き方じゃないでしょうかね。相手がこうしたらこうするとか、そんなマニュアルは言う必要ないわけですから。 相手がどう出ようと私は善に熱心である。光の中を歩もう。 すばらしい!いとも単純な生き方じゃないでしょうか。彼らはこういう生き方を、信仰の目を開かれることによって見いだしたんですよ。この世の処方箋なんて要らない。どこでも、いつでも光の中を歩もう。だれに対してでも善をなそう。これは、単純にして明快。あらゆることに勝ち得て余りある生き方ではありませんか。だから彼らが徹底的に調べられても、さばく方がさばかれるようになる。捻じ曲がっていくんですよね。 ローマ人への手紙12:17
ローマ人への手紙12:21
時が良くても悪くても、どのような状況にあっても、相手に対して善を図りなさい。それが本当の意味での勝利なんだと言ってるんですね。 光の中を歩むことを喜びとする人々には、だれも敵し得ないのであります。 パウロもペテロもヨハネも、信仰の目を開かれて、かつてはさかんに、その弟子たちの間でもライバル意識を燃やしながら、見えないところで角を突き合わせて、やり合っていたわけですけれども、主の復活に出合い、信仰の目を開かれて、その愚かさが分かりました。 「光の中を歩むっていうことこそ、すべてなのだ。それこそが、いのちなのだ。それこそが本当の勝利なのだ。」、そのことをはっきり彼は知るようになりました。 喜び踊りながら、彼らはこの道を歩んで行くのであります。ですから彼らにはだれもかなわないのであります。クリスチャンの本当の勝利ってのはそこにあるんですよね。 悪をもって悪に報いないで、善をもって悪に打ち勝つ。こういう本当の勝利の秘訣。それこそが真実ですね。それに彼らは目が開かれていったからなんですね。 マタイの福音書5:14-16
私たち日本人というのは、どちらかというと、良き行ないってものを覆うと言いますか、隠れたところでの良き行ないってな感じになりますけれども、密かなんですね。 イエス様は、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はない。燭台の上に置く。」と仰ってるんですね。「あなたがその光を人々の前で輝かせ、あなたがたの良き行ないを人々に見させよ。」と仰ってるんですね。 どうも私たちの性格からすると、ちょっとやりづらいってな気もしますけどね。西洋人たちが本当にオープンに、なんでも出して、日本人はどうもそれが苦手だってところが見られないこともありませんね。 燭台の上に置けと。そして公にしなさい。人々が天におられるあなたがたの父をあがめるように、・・・そのように仰っております。 エペソ人への手紙5:8-10
光の中を歩む。一切の、御心に反するような、やみにつくような企みをもたない。一切を、心の奥を主に照らしていただく。そうして光の中を歩めと仰ってるんですね。 さっき言ったように、いつでもどこでも善を行ない、そういう、主にとって良いと思われることをせよと聖書は教えています。 私たちは、主を知らないときは、なんか自分だけ馬鹿を見るような、自分だけがなんか不利なことをかぶるかのように、そういう思いがあったからできなかったんですね。 良いことだと分かっていても、それをやらない。しかし、本当の勝利はそこにあるのだと。なぜなら主が報いてくださるからだ。一切のことに報いをなさる神が生きてらっしゃる。 そういうことを知るようになったから、私たちは利としないでそのような正しい生き方をすることができるんじゃないでしょうかね。 正しいということが分かっていても、以前はなさなかった、しかし今はそれをなすことができる。そんな生き方をすることができるのじゃないでしょうか。 結局それが本当の勝利なのだから、ということを知るようになったんですよね。確かに時間が経っていくとそうなんです。 主は報いてくださるんですね。 ピリピ人への手紙2:13-16
ペテロもパウロも同じようなことを語っていますね。先ほどの使徒の働きの4章にもう一回返りますと、 使徒の働き4:8-14
と書いてありますね。8節で、ペテロは聖霊に満たされたと書いてあります。私たちが取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであると、ここでも言っていますね。 良いわざのために、私たちはこのように訴えられているのだと彼らは言ってるのです。 ペテロとヨハネは光の中を歩んだから、責められることのない良心をもって神の御前に立っていたから、約束の聖霊の知恵と力とを彼らに臨まれたのでしょう。 確かに私たちが主の前に問題を解決して、主の前に良心をもって、平安をもって出て行くことができるという基本に立ち返らなければ、御霊は私たちのうちに働かないですよね。 自分自身がどういう歩みをしてるかということについて無知であれば、それすらわきまえることができなければ、御霊は私たちに支えてくださいませんね。 主の前に正しく歩んで、立ち返って、悔い改めて、戻って初めて、御霊は私たちに臨んでくださる。これは信仰生活の原理であります。 約束の御霊が、イエス様が仰ったように、なにを語るべきか。裁判の場に引っ張り出されたら、言うべきことに、新たに心配しなくてもよい。そのときに聖霊があなたがたに示すことを語れとイエス様は仰いましたけども、その通りですね。ペテロはここで確信に満ちて、語っているわけであります。 ペテロはその前の日に、ソロモンの会堂で多くの群衆に向かって語ったこと、あるいは弁明したことと言ったほうがいいかな。 私たちの力ではないのだ。あなたがたユダヤ人が十字架に架け、神がよみがえらせてくださったナザレのイエス・キリストの力が、信ずる者を通して働いていらっしゃるのだと言ったのが、あのソロモンの会堂でのペテロの話ですよね。ですから弁明と言ったほうがいいかもしれませんね。 私たちになにか力があるかのように私たちを見ないでくれと、彼は叫んだんですよ。イエス・キリストが生きて働いていらっしゃるのだ。彼はそういうふうに言ったんです。 だからペテロの説教というよりは、むしろペテロの弁明であります。その弁明を、彼はイスラエル国家の代表者たちの前で繰り返しているにすぎないんですね。 使徒の働き4:12
福音の本質を、簡潔明瞭にペテロはここで言い表わしているわけです。なぜなら、この方だけが死から復活されたと言える。ペテロ自身がその直接の目撃者であり、証人だからだ。 ペテロがここでなによりも強調してるのは、イエス様の復活という事実であります。 このよみがえられたイエスが、信ずる者のうちに働いてくださるのだ。このことを私たちが体験したならば、今あなたがたが見ているようにこの人をいやされたのだと、必死になってペテロは、なんとかこの事実を知ってもらいたいと思って、語っているわけであります。 聖書は明らかに、イエス様の復活が歴史的事実だと語っているのであります。イエス様はよみがえってくださった。イエス様はよみがえられてから四十日の間、なんべんも弟子たちの前にご自分を現わされた。いっしょに食事をした。 使徒の働きの中にも出てきますが、もちろんルカの福音書の記事をペテロは言っているわけですけども、そういうことを聖書は繰り返し語っているのであります。 もしこれが歴史的事実ではないというのであれば、聖書は嘘を書いてるということです。 例えで言ってることを、事実のように言ってるということですよね。これは実に不思議なことであります。あれだけパウロが、渾身の思いを込めてコリント人への手紙第Iの中で語っているんですね。 もし、キリストがよみがえらなかったなら、私たちの信仰はむなしく、それどころか私たちは偽りを語っていることになる。神に対して偽証していることになると、パウロは言ってるのであります。 事実が先にあって、もちろん信仰があとに続くのであります。このことは聖書に明らかですよね。ただイエス様の復活の意味は、聖霊の啓示によらなければだれにも理解できない。これは本当であります。 弟子たちも復活された主を目の前に見ていながら、狐につままれたようにぼう然としていたんですね。訳が分からなかった。そのことは確かに聖書の終わりのほうに出てきますね。 私たちのクリスチャン信仰が本当のものか偽物かの分岐点は、イエス様の復活についてのその人の信仰によって見られてまいります。 使徒の働き5:30-32
正しい信仰には御霊がともなってきます。御霊が私たちの目を開いてきます。聖霊が私たちの今までの罪の人生を聖めてくださいます。御霊は私たちに霊的な洞察力を勝手に与えてくださいますね。 ペテロは、自分がまったく振り返られたことを経験していたんです。それはイエス様がよみがえられて、イエス様が仰ったように、信ずる者に約束の御霊を与えてくださったからなんですね。 動かすことのできない客観的な事実と、目の前に立ってくださっているイエス様のよみがえりという事実。自分のうちに起こったイエス様の約束の聖霊により、覚醒、新生、そういう二つの事実をペテロは身をもって体験しています。 ですから、疑いようがなかったんですよね。 使徒の働き4:10-12
これ以外に救いはないのであります。イエス様を受け入れることによって初めて、まことの生ける神に出会うのであります。福音を体験してるんですね。 結局人が救われるのは、よみがえられて今も生きておられるイエス・キリストを信じ、受け入れる信仰によるのです。 いくら聖書を読み、学びを聞いても、イエス様を信じ受け入れなければ、多くの神学者のように福音のドアの外側にとどまったままなんです。そこから聖書についてのさまざまな誤解が、訳の分からないようなさまざまな歴史が生まれてくるんですね。 悔い改めて立ち返ろう。今までの自分の罪の人生を清算しよう。イエス様に従って、これから生きていこう。そういう決心をもってイエス様を受け入れてないのであれば、そういう自分の頭で解釈するとかなんとかっていうことじゃなくて、自分の人生を導く、自分の実生活と言いますかね、自分の人生そのものをー、本当に聖書が招いているように、イエス・キリストの御手にゆだねて、主に従う人生そのものの方向転換と言いますか、本当の回心ということを経験していないんですね。 自分の今までの生き方や考え方に、むしろ聖書の解釈を合わせるもんですから、聖書は訳の分からないことになってしまうんですね。相変わらず自分の今までの立場に立っているんですよ。今までの人生の歩みに。 信仰というのは、そこから、イエス・キリストの立っていらっしゃるところに変わることなんですよ。主の導きに従うことなんですよ。 相変わらず自分の立場に立って、動かないで、さかんに聖書のことを解釈して、「ああだ。こうだ。」と、いくらつじつまを合わそうとしても、それは不可能であります。自分の立ってる場所を変えない限り。 キリストに導かれて歩もうという、自分の人生をそこに方向転換しない限り、聖書は結局人間には絶対に分かりませんね。肝腎なところはおおわれたままで、理解できないんですね。 その人の人生は依然、健在だと言うんですかね。これが、全然もとのままですから、この世についてるんですから、この世に根を生やす、この世にしがみついているんです。 そこから本当に、主に従っていこう、この世の民としてではなくて、天国に属する者として、天の国籍をもつ者として、主に従って生きよう。人は本当にこういうはっきりとした態度を取るならば、この人の目は開かれていくのだ。ペテロがここで言ってることがはっきりと分かってくる。 ローマ人への手紙10:9-10
よく分かったから信じようってことはありえないんですよ。これは一人一人の体験でよく分かることですよね。「よく分かりました。だから信じます。」ということはありえないことなんです。 よく分からないけれど、主が招いていらっしゃる、それに信頼して主を受け入れる、そういうふうに、本当に自分の心のドアを開くんですね。そうして初めて、人は救いの中に入るのです。 そうしたら主が仰ったことが自分のうちに起こってきます。私たちはそれを経験したんですね。 信仰なしに、神さまの救いのみわざは分かりません。聖書の真理は分からないんです。 信ずるべきことは、パウロが言っていますね。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、主は生きておられる。」 生きておられるイエス様を信じよう、自分の心に迎え入れよう、イエス様に従っていこう、信じるということはそういうことですよね。そういうふうに語っています。 主は確かに私たちにうちに住んでくださる。御手を伸べて導いてくださる。主に従って私たちは本当に歩むなら、主は天の窓を開いて豊かに祝福を与えてくださる。それは私たちが日頃経験することなんですね。 イエス様の救いが分かると、パーッと、一気に、ある意味で旧約聖書から新約聖書まで全体の存在が分かってまいります。 それなしには、もうさっぱり訳分からないんですね。救われれば、聖書全体が、一気になに言ってるか分かってまいります。それなしにはどんなに頑張っても聖書は分かりませんね。 コリント人への手紙第I、1:18-24
聖書がよく分からなければ、問題が残ってるということです。その人のうちに解決されるべき問題が残っているのであります。 それはなにかと言うと、悔い改めと信仰による。悔い改めて、主に立ち返るなら、聖書についてなるほど分かるんですね。 聖書の肝腎なことが分からないと思われるなら、自分のうちにまだ、なされなければならないことがあると考えなければいけないですね。 聖書がおかしいというふうに、とんでもないことを仰るのは、本当に馬鹿げたことですね。なぜなら、そういうことになれば、救いはどこにもないから。 ヨハネの黙示録3:17-20
戸を開けて主を招き入れる... |