使徒の働き7


蘇畑兄

(調布学び会、2002/12/26)

引用聖句:使徒の働き4章23節-31節
23釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
24これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
25あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
26地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』
27事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
28あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

前回は、使徒の働き4章の1節から22節辺りまでをごいっしょに学びました。そこでのもっとも重要なみことばは、というよりも、この4章でもっとも重要なみことばは、4章12節のこの有名な箇所ではないかと思うんですね。

使徒の働き4:12
12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

これはペテロの確信に満ち満ちた言葉であります。たとえなにがあっても間違いないという確信が、ここに表われているように思うのであります。
かつてイエス様によって、その盲目をいやされたあの盲人と同じように、ペテロも、「私はほかのことはよく知らないし、よく分からない、知らないこといっぱいあるし、理解できないこといっぱいあります。ただ、復活されたイエス様によって、自分は確かに救われたのである。これは自分自身で見、また、体験したことですから、事実だと語らない訳にはいかないのです。」と、言い続けて止まないのであります。

このあと続く5章、6章辺りで、この問題で彼は何べんも牢に入れられるわけですけども、なにがあってもこのことは事実なのだ、救われたい人は救われる道が開かれているのだ、そのことを、彼は叫ばずにはおられなかったのであります。
このようなペテロの、なにものによっても押さえつけることのできない心からの思いがほとばしっているんですね。

これは、のちの章に続いていくわけであります。だれも押さえつけることができなかった大祭司も、あのローマ帝国の力をもってしても、止めることができなかったペテロ、ヨハネを始め、救われた人々の叫びだったんですね。それは当然のことであります。
イエス様の復活という出来事に立ちあい、身をもってそれを目撃し、救いを体験しながら冷静になにも語らずにいるということは、できないのであります。
かつてイエス様のエルサレム入城の折、多くの群衆や弟子たちが、イエス様を歓迎して叫んだ。

ルカの福音書19:37-40
37イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
38こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
39するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。
40イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

イエス様は、「この人々が黙れば、石が叫ぶであろう。」と、なんか恐ろしいようなことを仰ったんですね。
ペテロだけでなく、救われた人々だれもが、その抑えがたい喜びを語らざるを得ないのであります。人間は心から喜び、あるいは感動するときには、いつもの冷静な、ちょっと取り澄ました振る舞いというものが崩れるのであります。
かつて、エポデを身にまとって、民の先頭にたって踊ったダビデのように。

ダビデは喜びのあまり、王の威厳をかなぐり捨てて、祭司が着るエポデを身にまとって、民の先頭にたって踊りながら、契約の箱が来るのを喜んだことが、サムエル記第IIのところにありますね。
それを見ていた妻、ミカルが自分の住まいの上から見ていて、ダビデを軽蔑をした。「今日の王は威厳がありましたね。」と、皮肉を言ったということが書いてあります。
「私はお前の目にいやしめられても、お前のはしためたちに喜ばれたいのだ。」とダビデは言いました。主の前で喜び踊るその姿を見て、ミカルはさげすんだ。ミカルには子どもが生まれなかったと、そのあとに書いてあります。

心からの喜び、あるいは悲しみ、そういうものが人を襲うと、その人の心の底が露わになってくるんですね。要するに人は正直になるのであります。
主はそれを待っていらっしゃるんですね。
私たちが取り澄まして、見かけをつくろって振る舞ってる。そういうものを私たちがかなぐり捨てられて、主の前に立つ。いわば裸になって、主の前に心の底から立つ。そのときに主は確かに私たちに語ってこられるわけですけれども、主と出会った人というのは、そういうふうに変えられていくんじゃないでしょうかね。
あんなに冷静で、いつも澄ましているような人が、主と出会って大喜びになって語るようになる。そういうものじゃないかと思うんですね。

先日、新聞の人生相談欄に、女子高校生の投書が出ていました。「人を信頼することができず、傷付くことを恐れている孤独な青年がいる。彼は心から笑おうとしない。だれに対しても距離を置いている。」というような感じですね。
「しかし私は、彼のその孤独をいやしたい。信頼できる人もいるのだということを、なんとか教えてあげる。そのための存在でありたい。」っていうような、乙女らしい感傷の満ちた投書でありました。

人は、孤独のときに、黙って、孤独を語ろうとはしないものであります。心は冷たく閉ざされているのであります。本当に絶望しているのか、あるいはただ、一種の孤独癖と言いますか、ポーズにすぎないのか、分かりませんけれども。その青年が本当に孤独の中に呻き苦しんでいるのか。
どうもぼくにはそうには思えないんですけどね。それはひとつのポーズと言いますか、そういう場合のほうが多いんじゃないかと思うんですね。
本当の孤独というのは、恐怖であります。絶望であります。人は耐え得ないようなものだろうと思うんですね。孤独に人がいるときに、人は、語りません。自分の殻に閉じこもってしまいます。

中高生のクリスチャンの集会で、お父さんを亡くされた高校生の証しを聞きながら、その兄弟が救いの喜びを語らずにはおれない様子を見て、キリストの福音の力というものを改めて、圧倒される思いで、聞いておりました。
私は彼のお父さんをよく知っていたので、その少年がその証しをしたときに非常に感銘深かったんですね。悲しみが極まると、人は喜怒哀楽の感覚をも失うようであります。そのような中から救い出されて、彼の喜びはもう抑えがたく、はじけるようにして彼は語っていたのであります。
お父さんのそのような死という、なかなか口にしづらい悲しみ。この世でこれ以上の悲しみはないはずですけれども、この若い兄弟がで、このことをも心から感謝をして受け入れてるという様子に、本当に、救いというものを持っている力を改めて感じ入ったのであります。

しかし、救いというのは始まりにすぎないのであります。いつも目覚めていなければならない。いつも心から主の御前で悔い改めることを忘れてはならないと思うんですね。
私たちはさまざまなプロセスを通って救いに至りますけれども、それはあまり重要ではないと思います。救われるということは、同じスタートラインに立つということであります。それから先のほうが本当の意味での、クリスチャンとしての、あるいは人としての、本当の真剣勝負じゃないかと思うんですね。救われることは出発なんですね。

救われたことに安心しないで、本当に信仰にあって歩まなければいけない。信仰から信仰へと進まなければならないと思うのであります。
前回申し上げたように、イエス様の復活という客観的な事実があり、イエス様による解放、自我からの、罪と死からの解放という、自分の内側における体験があって、ペテロもヨハネも、この世のものはどうでもいい、自分のこの肉体の命すら、もし主のために奪われるならば、それでもよいと、心から思っていたのであります。
なにがなんでもこの福音、イエス様の福音を伝えなければならない。彼らはそういうふうにさせられたわけであります。

この4章の後半分の23節から終わりの31節までは、ペテロとヨハネが釈放されて仲間の兄弟姉妹たちのところに行って、今までの経緯を話したことが述べられています。
そのあとの4章32節から37節は、いわゆるクリスチャン的な共産主義と言われるものですね。初代教会時代に短い間だけ、自然発生的に成立した共産主義的共同生活について触れているわけです。
これはよく問題になるところですけれども、長くは続かなかったらしいですね。聖書にはこの一箇所だけ書いてあるわけです。32節に、

使徒の働き4:32
32信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

クリスチャンの歴史において、その最初にほんの少しだけ生じた、財産を共有して、必要な人々にそれを与える。そういう生活があったということが分かるんですね。しかし、それはごく短い期間であったようであります。
そしてまたそのことが、次の第5章のアナニヤとサッピラ夫婦の問題、偽善的な行為を呼び起こして、重大な結果をもたらすことにつながっていくのであります。

やっぱり一つの家庭が、その家庭の財産ってもの持っていて、それを用いて自由に、自発的に人々に役立てたり、差し出したり、そういうあり方がやっぱり、どうも正しいあり方と言いますか、神さまが人間に与えられているあり方なんだろうなと思うんですね。すべてを一緒にして、という共同生活したものの、どうしても無理が出てくるようであります。
われわれの憲法なんかでは、私有財産っていうのは、侵すことのできない、人間の本来の権利みたいなんですね。この表現が、どこの国の憲法でも、民主主義国家においてはなされているわけです。

やっぱりこの財産っていうのは、どうも、個々人が自分のものとして管理し、自発的にこれを用いていく。
神さまのために、また、隣人のために使っていくというのが、どうも人間の本性にかなった、神さまが定められたあり方なんだろうという気がしますね。それを無理にすると、いびつなのがどうも出てくる。長持ちしない。クリスチャンの世界ですら長持ちしなかった。
そういうこと考えるときに、やっぱり、主が定められている、そういうことがらがそこに本質的にあるんだろう、含まれているんだろうなという気がするんですね。

アナニヤとサッピラの問題が起こって、おそらく、そういうことが発生していったために、自発的に起こった共産主義的な共同生活というものが、崩れていったと言いますか、これはまずいと、そういうことになっていったのかという思いがしますけども、そのことについては、また改めて、次の章でかかってきますから、見ることにして。

私が最近気付いて、喜んでいる小さなこと。みなさんは、「なんだ。」と思われるかもしれないようなことを、ちょっとお話しようかと思うんですね。
信仰生活というのは、イエス様と出会う、自分の罪という問題に気付かされる。まったく神さまとは無関係な生活を送ってきた、神さまの前に立って生きるという人間の存在のあり方なんぞまったく知らなかった。聖書が言っている、まったく、自分自身の欲望、自分の神として生きてきた。
聖書のみことばに触れるようになって、人はだんだんそういうことに気が付いてきますね。自分が立つべき本当の原点というのは、神さまの前に立つのだ。神さまを見上げて、神さまとの正しい関係の中に生きなきゃいけないのだ。それが本当の人間の生き方なんだ。
そこに立つときに人は、本当の意味で揺るがない土台の上に立つことができる。勝利の人生を歩むことができる。聖書はそのように教えているのであります。そういうことに気が付いて主の前に立ち返ること。これが救いですよね。

自分のさまざまな悩みの原因は、このことを知らないところにあった。神さまから離れて、どこに行くかも分からないまま、ただひたすら自分の欲望を追っかけて、人間の本当のあり方を見失って、動物と変わらないような生き方をしていた。
そこにこそあらゆる問題の原因があったということに気付かされる。そして主の前に立ち返ってくる。
見えなかった心の目が開かれてきますね。それが、悔い改めて立ち返るってことの意味でしょう。救いにあずかるってことの意味でしょうね。
そのことに気付かされたら、さっき言ったように、なにがあっても、私たちはそこに立ち続けなきゃいけない。主との正しい関係の中に生きていかなきゃいけない。そうしなかったらまた、大変なことになってくるということ、よく知っておるわけです。

スタートラインに立つと言いましたけれども、そういうふうにして、日々主との交わりの中にいるって言うか。主の御心にかなわないものがあれば、そこから離れなければいけない。それが悔い改めであります。
そういうふうにして私たちの霊やたましいは、生き生きと主の前に生かされてくると思うんですよね。こういうふうにして信仰生活が私たちの人生そのものにならざるを得ないわけであります。

そういうふうにして歩みながら、私たちは、神ご自身の真実と言いますか、真理そのものと言いますか、そういうことをひとつひとつ教えられていきますよね。
今まで忘れなかったこと、「ああこうか。」というふうに気付かされたり。ある人にはとっくに分かっていることが、他の人にはなかなか気が付かなかったり。人それぞれかもしれませんね。
ちょうど真理の断片って言いますかね、聖書読みながら、信仰の歩みを歩みながら、真理のひとかけらひとかけらのようなものを、ひとつひとつ私たちは学んでいくんじゃないでしょうか。そして、それに気が付くと喜ぶんですね。

あの大自然科学者のニュートン、アイザック・ニュートンは、この自然のことについてはなんでも知ってるんじゃないかと誤解されるぐらい、当時は名声が高かったそうでありますけども、このニュートンがある人に、「自分は海岸を歩きながら、珍しい小石を見つけて喜んでる子どもみたいなもんだ。自分の目の前には、無限の大海原が広がっているのだ。」
そういうようなことを言ったということが、クリスチャンの本で紹介されております。
神さまが造られたこの世界の、小さな断片に気が付いて、それを見いだして、喜んでる子どもみたいなものだ。無限の神さまの真理が、常に自分の目の前に広がっている、そういうふうに言いました。

私たちクリスチャンの歩みというのは、ニュートンのような、自然科学的の法則とか、真理とかというものとは違いますけども、霊的な真理、そういうことを聖書のみことばを見ながら、生活の過ごした体験を通しながら、「ああ、そうだったのか。」と見つけていく、気付かされていく、それを拾い集めて、それぞれの籠に納めているようなもんじゃないかと思いますね。いかがでしょうかね。
信仰生活を歩む中で、私たちはそういうことを教えられて、それを大事に自分の中にしまっていますね。そして、だんだんそれが増えていくと言いますか、神さまをより深く、広く知って、ということになるんじゃないかと思うんですね。

私が最近、気付かされたと言いますか、そういうふうに思って喜んでいる他愛ないことになるかもしれませんけども、それは、この見える世界、この宇宙と、見えない世界、永遠の世界、イザヤ書57章に出てくる、「永遠の住まいに住んでおられる、聖なる方、神ご自身が、こう仰る。」
神は永遠の住まいに住んでおられます。私たちの目には、肉眼では見えない世界に、主は住んでいらっしゃる。その、見える、私たちがその中におり、見ることのできるこの世界、この宇宙というものと、神ご自身が永遠の住まいに住まれるという、その永遠の世界との関係についてであります。

その二つの世界は、聖書によれば実在するものであります。もちろんこの目に見える宇宙と世界が実在することは、みなさん疑っていらっしゃいませんね。
目で見ることができ、手で触ることができるものは確かに存在してるものであって、人間の勝手な妄想の産物ではないということ。それはそうですよね。

私は学生時代に、本当にここに物があるということの確証というのは、いったいどこにあるんだろうかということに、そういう疑いと言いますか、そういう中に入ってしまって、私のクリスチャンの先生に、「つまらんことを疑うんじゃない!」って叱られたことがあるんですね。
人間の感覚というのは、最終的な決め手になるんだろうか。人間は五感でもって物の存在を確認するけれども、本当にそれで確認できるってことになるんだろうか。そういう問題だったんですね。訳分かんない疑いの中にいるわけであります。

私にとってはかなり真剣な疑いだったんですけども、私の先生は、ぼくは屁理屈を言ってるというふうに思われたのかですね、ぼくは叱られたことあるんですね。
そのときにデカルトの例を出して、デカルトが一切のものを疑って、疑って、一切を疑っていた。しかし最後に、疑ってる自分は疑えないだろうっていう、それが、「われ思う故に、われあり。」っていう有名なデカルトの言葉ですよね。
ぼくはそういうとこ、納得できなかったんだな。そんな経験をなさった方々、ここにおられないだろうと思うんですが。究極的に、物がそこにあるっていうこと。

要するに私たち、究極のものっていうのは、どうやって人は知り得るかっていうことが私の当時の、大学四年生くらいですけども、問題だったわけですね。
この宇宙は存在する。目で見ることができる。手で触ることができる。物質はそこにある。そういうことですよね。

ぼくは、だんだんだんだん聖書に触れていって、結局思わされたことは、人間の感覚とか、五感とかっていうものによって、人間が確認できることを、神さまは、それでよしとなさると言いますか、それじゃ神さまの、人間に与えられた確認の限界と言いますか、その限界を超えてはならない、「海の波を。お前は荒れ狂ってもこの浜の砂を、この海岸を超えてはならない。」、ヨブ記の中にある言葉ですけれども、人間の立ち止まるべき限界と言いますか、神さまがそれでよしとなさる。
ヨハネが、私たちは自分の目で見たもの、手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて、とヨハネの手紙第Iの冒頭に出てきますけれど、そういうふうに、人間が確認できる方法と言いますか、確認のしかたと言いますか、それを神さまが、そういうふうに定めて、それでよしとなさる。
果てしなくそれを疑い続けてはならない。

聖書読みながら、自分のそういうとりとめのない、終わりのない、そういう懐疑のひとつ、そういうものを打ち切られると言いますかね、断ち切られると言いますか、気がしたのを今でも覚えております。
アウグストゥスが告白録の中で、「なぜかなぜかと、これ以上問うてはならない。問うのではなくて、あなたは従わなければならない。」
アウグストゥスが、そう書いておりますけども。アウグストゥスほどものを疑った人はいないと言われていますが、疑い、疑い、一切のものを疑いながら彼はついに、神さまの御心ってのはそこにない。疑う、問いを発することをやめよう。そうではなくて、従わなければならない。その通りなんですよね。

人間が、定められてる限界を超えて問うてはならない。それは神さまの、いわば定めを超えるものですね。
聖書という規範を持たずして、果てしなく疑い、果てしなくさまよう。そういうことを少し経験したことがあって、目で見、手でふれることができる、それが実在であるということですね。私たちはそれを確認できるんですね。
自分の理性でもって、確かにここにある、調べてみれば分かるわけでありますから。そういう区別が人間にはつくんですね。こういふうに、私たちがその中に存在し、確認できるところの、この無限の目に見える大宇宙という世界。これに対して目に見ることのできない永遠の世界。聖書が言っております。
その永遠の世界は決して概念的なものではない。ことばの上だけのものではない。実在するものであると聖書は記しているということなんですね。

具体的に言えば、復活されたイエス様、今どこにおられますか?みなさん、そういうこと考えられませんか?クリスチャンはもうそんなこと考えないで喜んじゃって、もう考えなくてもいいことですよね、
もちろんそんなこと、分かっても分からなくても、大したことない。
だけどおそらく、信仰をもたない未信者の人々は、そのイエス・キリストなる方は一体今どこにいるんですか?復活されたからだをもって、主は天に上られたと書いてあるわけですね。私たちが使徒の働きの1章で見たように。
弟子たちの見てる前でイエス様は、雲に包まれて、天に上っていかれたのであります。復活されたイエス様は、ただの霊ではありませんでした。

聖書がメモをして記しているように、イエス様は復活されたからだを持っておられます。「今日、わたしにさわってみなさい。」とイエス様は仰ったのであります。

ルカの福音書24:36-39
36これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
37彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
38すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
39わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

私は持っています、というのは変な表現ですけれども、肉や骨を持っている、からだがあるのだ。怖じ恐れて、幽霊を見てると思ってる弟子たちに向かってイエス様は、そう仰らなかったんですね。
「わたしにさわってみなさい。」と仰ったのであります。イエス様のおからだだけが、復活されたおからだだったん。ラザロだとか何人かありましたけれども、あれは復活じゃないんです。
ですから彼らもまた死にました。イエス様のおからだは、そういうからだじゃありませんでした。イエス様は復活されたおからだを持って、天に昇って行かれるんですね。

そしてどっかで霊に変身されて、今は霊の形でおられるっていうのではないはずであります。霊であるのは聖霊であって、聖霊は信じる人のうちに住んでおられます。
イエス様が仰ってるように、「わたしの霊を遣わす。」「御霊はわたしの栄光を現わす。」と仰ったんですね。イエス様と聖霊とはもちろん別であります。

イエス様は今、復活の体を持って御父のもと、天の父の家におられる。イエス様が仰ったように、

ヨハネの福音書14:2-3
2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

使徒の働き7:55-56
55しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

天が開けたんですね。これはどういうことなのか、もちろん私たちには経験がないから分かりませんね。ただ聖書には時々、そう書いてありますよね。
イエス様が洗礼を受けられたとき、天が開け、聖霊が鳩のように下ったと書いてありますね。
このことを、もう少し念頭に留めておきたいと思いますけれども。

ローマ人への手紙8:34
34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。こういう表現は、新約聖書の中にもっとあるはずであります。その父なる神とイエス様が今、ともにおられ、召されたクリスチャンたちもそこにいらっしゃるはずでありますが、そこの永遠の住まい、わたしの父の家とイエス様が仰った、いや、天国とは、どこにあるんだろうか。
高速ロケットで、光と同じくらいの速さのロケットが出来たとして、何らかの方法で、この宇宙空間を飛んで行けば、いつかは到達できるような、この宇宙空間の中のどこかにあるんだろうか。
もう私たちは普通はそういうこと考えませんよね。もう面倒臭いし、もうそんなことは神さまにお任せすれば良いわけですから、考えないですよね。

使徒の働き4:24
24これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。

神が、天地万物、一切のものの創造者であるという宣言が、ご存知のように聖書の冒頭の一句であります。「初めに神、天地を造り給え。」
この創造者なる神っていう言葉の意味は、「決定的に重要な」であります。
ところで、なにかの物を作る人と、作られる物との関係を考えてみますと、作る人間は、作られる物の外側にあって、初めて作業ができるわけですよね。
それは当たり前ですよね。作る前から物は存在しないのですから。

なにかを作るときに、人はそのものとは別のところに、そのもののいわば外側に、これから作ろうとするものとは別のところに、人はあるわけであります。
同様に、神はこの宇宙、万物を創造されたとき、この目に見える宇宙そのものとはべつの、いわばその外側に立っておられたということになります。
この果てのない、果てしのない宇宙の外物と言いますか、この宇宙とその中の一切のものはすべて空間と時間の制約のもとにあるわけですが、その宇宙のいわば外部に、主なる神は当然おられるわけであります。
それゆえに時間と空間を超越した世界。この宇宙というものは、時間と空間の中にある。その制約から逃れるものは何一つないということは、神さまは、この時間と空間というものを超えていらっしゃる。それが、神さまのいらっしゃる、その永遠の世界ということになるはずであります。

よく、神を超越した、超越的存在という言い方がありますね。目に見える一切のものを超越していらっしゃる。ということはすなわち、創造主なる神ということの意味になるはずであります。
造られたものを超えていらっしゃる。造られたものを超えなければ、造ることはできないという意味において、この無限の空間、そして時間、あらゆる被造物が、絶対に逃れることのできないこの空間と時間という制約の外側にある世界。それを、聖書は永遠の世界と言ってるのではないか。そしてこの永遠の世界、この宇宙を包み込んでおり、

(テープ A面 → B面)

・・・と言えるのではないかと思うんですね。

ヨハネの福音書20:19-20
19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

ユダヤ人を恐れて、戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らに中に立って言われた。しめきった戸や壁に遮られずに、イエス様がその所に入って来られたという意味ですね。主は戸を開けなかったのであります。
どうも、こういう話は、位相幾何と言われる、トポロジーと言われてることを研究していらっしゃる方々には、すぐ分かるようですね。

また、この神さまの世界、この無限の果てがあるはずがないですよね。あったらおかしいわけですから。果てのない、この宇宙とは別次元のところに主は立っていらっしゃる。
そこはこの空間と時間というものを超越してる世界である。イエス様がいつ来られるか分かりませんけども、イエス様が来られるときに、イエス様はあの三十四歳のままですよね。
二千年経ってるから、二千三十四歳ってことはあり得ないですね。時間を超越しているんですね。

そういうですねー、からだを与えられるんじゃないかという、書いてらっしゃるところがありますが。イエス様は、この、われわれの目に見える、この宇宙空間とこの時間というものを超越したところの永遠の住まいにいらっしゃる。
その永遠の住まいは、われわれのこの世界とは一ミリもおそらく離れてない。
このビルディングを、この空間がすっぽりと包んで、一ミリの隙もないように、神さまの住んでいらっしゃるところのその世界っていうのは、われわれのすぐ脇にある。隣にある。
指を伸ばせば、すぐそこに触れるようなところにあるのじゃないかと思うわけです。

ある兄弟がいつか葬儀で司会をしながら語られたように、身近な方が召されて、なにか手を伸べれば届きそうな感じがする。天国というのはそのような感じが、特に今感ずるというようなことを仰って、本当にそう思うんですけどもね。
身近な人を天に送ると、天国は急に身近に感じられるわけですけれど、私たちのこの存在、この目に見える一切のものが、神さまの永遠の世界にすっぽりと包み込まれてあるのじゃないかということであります。

ルカの福音書17:20-21
20さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
21『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

このみことばは、今までイエス様のご支配のあるところ、イエス様が御霊によって住んでおられる人々の心、その中に神の国は実現してるのだ。そこに神の国はあるのだ。それは間違いなくそれは正しいんですね。
その通りだと思いますけれど、そういうふうにしか考えなかったわけであります。
あなたがたのただ中にある。しかし、目に見える形でって言いますか、やがて主は来られるときに、一切のものは明らかになって、私たちの目に現われてくるはずですよね。私たちのうちにある、この、神の国というのと、なんて言うのかな、目に見える形でって言うのかな、明らかになった形でやがて現わされる神の御国っていうのは、聖書の中に記されていると思います。

ふと、今言ったようなことから、イエス様が神の国はあなたがたのただ中にあると仰った、もう一つの意味がここにあるんじゃないか。
手を伸べればすぐそこにある。届くようなところに、神の国、神さまの永遠の住まいっていうものはあるのではないかというふうに、思うわけであります。

西洋人たちがむかしから、時間とは空間というものを問題として意識し、われわれ東洋人たちがそれらを当然のものとして、特に問題としようとしなかったんですね。
西洋人などの思想なんかに触れると、彼らが時間とか空間というものを、ものすごい鋭意をかけて、それに取り組んでいるんですー。われわれにはピンと来ないことですよ。本来ね。
しかしそれは、彼らが聖書を通して、この宇宙万物が創造されたものであり、それゆえに、そこには始まりがあるということ。創造されたものであるから、それは一切を超えた次元っていうものが存在するのだということを、聖書を通して知るようになっているからではないかと思うんですね。

こういう創造っていうことを知らない、聖書の言ってる、この、主に気が付かないわれわれ東洋人が、そういう問題を考えようとしても、訳分からない。
東洋人は、この目に見える天地を無始無終と言いました。始めなく、終わりなく存在するものというふうに考えました。
しかし聖書は、そうではないということを言うのであります。聖歌の689番に、

かかる秩序かかる知恵の持ち主御神は
時間・空間をうち貫き永遠にまします

と書いてあるんですね。時間・空間うち貫き永遠にましますなんていう聖歌ってのは、なんかすごいことばだなと思うんですね。
こういうことっていうのは、われわれの内から出てこない発想と言いますか、そういうふうな気がするんですね。

そういうわけで、最近、私がいつも心の中にかかっていながら、こういうことかなと、教えられているところが、実は今お話したような、ところであります。

ヘブル人への手紙1:10-12
10またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
11これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。
12あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

随分、使徒の働きからしますと、大きくそれたようなお話をしましたけれども、みなさんのこれから聖書を読むひとつのきっかけ、聖書には高大な問題がありますよね。われわれ人間に図り知りがたいものがありますね。
さっきも言ったように、私たちはそのひとつひとつの破片を、手にしてキラキラ光ってる。
ある詩があって、「見い出たる真理一つに胸は満ち、たれにかわからんただ卓をめぐる」
本当に聖書を読んでいて、聖書の啓示に触れて、人が小さな真理の破片を見いだして、嬉しくてたまらない。胸が満ちて来て、だれにこのことをお話しようか。そういう思いでただテーブルの周りをグルグル回るという詩なんですけどもね。

そういう喜びっていうのを私たちは与えられてるんじゃないか。日頃の生活に、それがすぐどうのこうのっていうんじゃないけれども、神さまの広大無辺の世界っていうものは、私たちが少しずつ見せられていく。神さまのその知恵と力の偉大さに少しずつ触れていく。
それがクリスチャンにとってやっぱり大きな、喜びなのじゃないか。聖書を読む喜び。信仰の歩みを一歩一歩進めていく喜びのひとつなのじゃないか。そういうふうに思っているわけであります。




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