引用聖句:使徒の働き5章29節-32節
先回は、この使徒の働き5章の最初の箇所をおもにご一緒に考えました。アナニヤとサッピラ夫婦の事件ということについて考えてみたんですけども、今日は残りの、使徒たちに迫ってきた迫害の、のちに激しくなるその迫害の最初のあたりのこと、まだそれほど激しくはないんですけれども、クリスチャンたちに、あるいは教会に加えられてくる圧迫について、聖書は書いております。 使徒の働き5:12-16
使徒たちの手による多くの奇蹟について述べられています。ヨハネの福音書の14章12節で、イエス様がかつてこういうふうに語っていらっしゃいます。 ヨハネの福音書14:12
イエス様はかつて、こういうふうに仰ったんですね。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう。 わたしが父のもとに行くからである。父のもとに行って聖霊を遣わすから、私が行なったようなわざ、いや、それよりももっと大きなわざを行なうようになるとイエス様は仰ったんですね。 確かに使徒たちは、イエス様がかつてなされたような奇蹟をほとんど行なっています。自分自身がよみがえるってことはありませんけれども、しかしこの弟子たちが驚くような奇蹟をなしてるんですね。 たかが人間の分際でこんな大それた奇蹟ができるのですから、怖いほどであります。これがクリスチャン信仰でないなら大変なことになるでしょうね。 もう、ペテロのところに人々は押しかけて来て、彼が歩くとき、その影にでも病人を通すんですから、実に大変なことですね。ペテロ自身もいつの間にかその気になって、なにか自分も人間以上の存在だと思い込む危険がないわけじゃないですね。 クリスチャンの働きには、いつでも実は、そういうサタンの罠っていうのが用意されてくるってこと、これを私たちはよく気を付けなければいけないですね。 クリスチャンの働きにおいて大事なことは、私たちが主のわざを自分のものにしないってことですね。神さまの栄光を盗むと言いますけど、神さまのみことばを語りながら、なにかそれが神さまの働きではなくて、人間の働きであるかのようになってしまうときに、それは神さまの栄光を、私たちが盗み取ることなんですね。 これは非常な危険をともなうものですから、クリスチャンはいつも、主の働きに加わるときに、恐れを感じざるを得ないのであります。 私たちは、もちろんなんの奇蹟も行なう能力が与えられていませんね。これ、本当に感謝であります。私がなにか人に触ったらその人が一気に元気になったとか、精神的な病が治ったとかいったら、これは非常に、これは危険なことだろうと思って、私などは恐れるんですけども、ただペテロは、こういうことの、この事件のほんのちょっと前に、何ヶ月か前に、使徒たち、弟子たち全部の前で、大恥をかいております。 ご存知のようにペテロは、イエス様の弟子たちの中で、一番みじめな経験を味わった人間であります。イエス様がもっとも苦しかった、あの十字架につかれる前の晩、「あなたといっしょなら、死であろうと、牢屋であろうと覚悟はできている。」と、大見得を切ったペテロが、それから数時間のちに、多くの兵隊たちの物々しい雰囲気に圧倒されて、震え上がって、「私はあの人を知らない。」、イエス様を三度も彼は否んだのであります。最後は、のろいをかけて誓ったと聖書は書いてありますね。 イエス様が預言なさったように、そのとき鶏が二度目に鳴きます。ペテロはその鶏が二度、夜明けを告げる鶏が二度目に鳴いた。二番鶏が鳴いたその泣き声で、ハッとわれに立ち返って、外に出て激しく泣いた、そういうような、有名な聖書の記事がありますね。 矢内原忠雄先生が、マルコ伝事典の中で、「ペテロよ。泣け。」と、男泣きに泣いた大の男が、もうくず折れるようにして泣いた、こういうことは、ペテロにとっては必要だったんですね。 ペテロはこのときに決定的に打ちのめされました。以前も繰り返しお話したように、ペテロはこのときの自分とあのユダとの距離がほんの一歩にしかすぎないということ。自分もユダと同じ結末にいったかもしれないと、十分了解したのであります。 この自己認識は、終生ペテロから失われることはありませんでした。 ペテロのこの過ちに比べれば、先週私たちが見た、あのアナニヤとサッピラの偽善などはごく小さなものであります。 アナニヤとサッピラの偽善に対して、どうしてあれだけ厳しいことを主はなさったかですね。もちろん私たちには、それ十分分かりませんよ。ペテロは分かっていたんですね。自分が主を否んだことに比べれば、アナニヤとサッピラの偽善は大したものではないですね。 しかし、この偽善的な例は、誕生したばかりの教会の証にとって大きな危険をはらんでいたんですね。教会がこういう偽善に満ちるようになってくると、誕生したばかりの教会は立ち行かない。おそらくそういう理由があったんでしょうね。主は鎖を取り除かれない。 それは当時の教会にとって大きな警告となりました。主は、人の心の奥底を見抜いておられるお方であるということを、ここに集まっていた、救われたばかりの兄弟姉妹は知らないわけにはいかなくなりました。 主の前で隠し覆せるものはないのだということを、彼らはこれを通して学ぶんですね。そして、主を恐れる思いに満たされたのであります。 しかし、先ほども言ったように、ペテロにとってみれば、自分ほど彼らはひどくはなかったですよね。ただ、主の御心によって、アナニヤとサッピラは取り除かれなきゃならなかったんですね。この地上から。取り除かれなきゃ。 彼らはもちろん信者でした。信者でなければあのような程度の偽善で、あれだけの厳しい処置を受けるはずはないのであります。この夫婦の偽善以上の偽善は、その後教会にはたくさんありました。 パウロが書いてるコリント人への手紙を読めば、コリントの教会なんていうのはもう大変な教会でしたね。しかし、主は同じような処置を取られませんでしたね。大いに忍耐しておられたということでしょ。 ペテロはこういうようなわきまえをもっていたから、主はペテロに、このような不思議なわざ、人間には考えられないような奇蹟を行なうわざを許されたんですよね。 使徒の働きを見ると、ほかにもいくつも出てきます。 使徒の働き19:11-12
こう書いていますね。ちょっと前に戻って、 使徒の働き10:23-26
もう一回、同じく使徒の働きの14章8節から、 使徒の働き14:8-15
バルナバとパウロとは衣を裂いて、群衆の中に駆け込んで行ったんですよ。「やめてください。とんでもないことを。」、彼らが恐れたのは、主の栄光を人間が奪ってはならない。それは大変なことなのだ。主の神聖さを汚すことになる。そのことを、彼らはなによりも恐れたんですね。 クリスチャンにとって大切なことはそれであります。私たちはそのことを忘れてはならないのであります。福音を伝えること。主のわざに関わることは、私たち個人のわざではないんですね。 それは主から遣わされたものなんです。だからそれは、主のものとして聖められなければならないのであります。それを私してはならないんですね。だからパウロはいつも手紙に書いてるように、私は私の心をお調べになる神の御前に立つと書いてありますね。 エペソ人への手紙3:7-9
よく知られているように、すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、・・・・ペテロもパウロも、共通して彼らはこのことを身にしみて知っておりました。 ペテロは、あの大きな主を否をもって、失敗によって自分自身の本当にみじめな姿をさらけ出した経験でしたね。パウロは、今度は逆に自分の信仰に誇って、クリスチャンたちを迫害してきて、クリスチャンの迫害者、クリスチャンたちを死に至らしめる責任を、彼は負った者でしたね。 クリスチャンたちを迫害し、死に至らせたというパウロの前歴というのは、彼にとって終生、彼が片時も忘れることのできないものとなりましたね。彼らはさまざまな病のいやしを行ないましたし、あとで見るように、死者をもよみがえらせていますね。ペテロもパウロもそれをやっています。 今日、そのような奇蹟をなすクリスチャンが現われたら、だれよりもクリスチャンたちが大騒ぎをするんじゃないでしょうかね。もう大変なことになるんじゃないかと思いますね。 だから主はそのようなことを、今日起こさせないんじゃないでしょうか。あるいは、隠れたところで明らかにならないけれども、今日も起こされているのかもしれませんね。ちゃんとわきまえがあって、主の奇蹟を主の奇蹟として、ことを行なう人々が今もいるかもしれませんね。 たぶん今日ではこのような奇蹟は、益よりも害をもたらすかもしれない。そういう判断が主のがわにあるのかもしれませんね。 確かなことは、たましいの救いに比べれば、さまざな奇蹟は大したものではないということです。それらの効果は外面的なことであり、一時的なことだからであります。それよりも、ひとりの人が悔い改めることがはるかにはるかに値打ちのあることなのだと聖書は言ってるんですよね。 病がいやされること。確かに精神的な悩み、肉体的な不治の病なんかで悩んでる人にとっては、それは大変な苦しみでしょうね。私たちにはあまり経験がないから分かりませんけれども。それがいやされたら、どんなにありがたいかと思ってらっしゃる方々がいっぱいいると思います。 しかし私たちは、主は決して偶然に私たちにさまざまな重荷を負わせられるのではない。必ずそこには大切な意味がある。それは私たちにとって必要なことなのだ。それは私たちにとって益になる試練なのだということを忘れてはならない。ということなんですね。 それがなければ、私たちは主を本当の意味で深く知ることはできないでしょうし、福音のすばらしさ、永遠的な価値というものに目が開かれないかもしれませんね。 だから、肉体的な自分のこの体に係わる悩み、重荷をいやされないからといって、私たちはそれで失望し、絶望する必要はないんですよね。一番たいせつなことは、私たちのたましいが永遠の救いを見いだすってことでしょう。 そのときに主は初めて、私たちがこの世に生まれてきている、神さまの創造のみわざの偉大さ、人生を超えた神さまの恵み。そういうことに目が開かれていくんじゃないでしょうかね。 ですから奇蹟というのは、あんまり大した意味はないんですね。ですから聖書でもそう評価されていないんですね。 コリント人への手紙第Iの12章で、パウロはそのことを書いています。 コリント人への手紙第I、12:27-31
もっとすぐれた賜物があると言ってるんですよね。奇蹟を行なう者というのは真ん中ぐらいになっていますね。余計に大した者だとは、パウロは考えていなかった。イエス様ももちろんそうでしょう。 大切なことは、かけがえのないことは、人のたましいが神さまの前に悔い改めて、立ち返るということですよ。本当に新しく生まれるということですよ。罪の人生に気付いて、本当に主に立ち返ること。そのときに私たちは不滅の宝物を得るんですよね。 パウロは賜物について、一番すぐれている賜物をここで教えようと言って、その次の13章に書いてるわけですよね。それはなにか。愛をもって主と隣人に仕えること。これこそ、あらゆる賜物にまさってすばらしいものだと言ってるわけですね。 ですからクリスチャンは、特別な賜物を求める必要はないんですね。それはむしろ妨げだとぼくは思いますね。特別な賜物なるものは、良いものじゃないと思います。 私たちにとって必要なのは、だれもがもつことのできる賜物ですね。愛の賜物。謙遜と、仕える賜物。それがもっともすぐれた賜物だと聖書は言ってるからなんですね。 ですから、びっくりするような何かが起こるっていうことは、そんなに大事なことじゃないですね。私たちはそういうものにあまり心奪われてはならないわけなんですね。 なぜならそれは過ぎ行くからであります。 使徒の働きの5章にもういっぺん返ってください。 使徒の働き5:13-14
要するに尊敬していただけじゃなく、断然、人々は福音に近づいてきて、そして受け入れるようになった。そういう人々がどんどん増えていったということでしょうね。 このクリスチャンという、今まで存在しなかった不思議な一団が突如現われてきました。その現象に、ふたつの見方が出てくるわけですね。 自分たちの利益や立場が脅かされないごく普通の人々。一般の人々は、クリスチャンたちの様子を見、彼らの振る舞いを見て、これに尊敬の念を抱いたんです。好意をもつようになったんです。ああ、いいな。そしてその信仰を自分たちも得れたならと思うようになったんですね。好意をもってくれないと心を開いてくれませんね。 人の好意というのは、すぐに顔に出てくるもんです。こういうみことばなどを私たちが伝えるときに、顔が輝いて、心が開かれてくると、人の顔が輝いてきますね。 そうでなかったら、顔は冷たいまま。バリアがそこにできていて、近づけない。見えないバリアがその人が囲んでいるということは分かりますよ。 だから同じ福音を語っても、語られる福音は同じでも、語る人によって受け入れられたり、受け入れられなかったりするわけでしょ?どうしてほかの人が語ると人は救われるのに、だれもが同じようなことにならないですよね? 要するに、聞く人がその人に対して、なにかこう、尊敬と好意と言いますか、そういうものを人がもつんですね。おそらく。そしてそれが心を開いてくる。 同じ聖書の福音なんだから、だれが語ったって同じじゃないかと、私だって思いますけども、現実はそうじゃないですよね。 おんなじ美味しい白米のご飯だけれども、やっぱり清潔なきれいな器で出されると人は喜んで食べる。汚い、よごれた茶碗に盛られると、人は二の足を踏むでしょうね。 二宮尊徳がかつて、そういうこと言っておりますよね。ある儒教を教える儒学者が、一生懸命教えていながら、自分は時々酒に酔っ払って、道端に寝込んだりする。この人が尊徳に、「私が問題じゃないんだ。」と、私が教えてるその教えがすばらしいんだってなことを、屁理屈を言ったときに、二宮尊徳が、そういう例えで彼を懲らしめてると言いますか、ギャフンと言わしたとこありますね。「君がいくら美味しい、すばらしい物だって言ったって、汚い器に出されたら人は食べないだろう。」 そこが実は、私たちクリスチャンの責任なんですよ。 パウロが言っているように、さまざま器が家にはあるけれど、聖められなさい、聖められた器でなければ、結局主の御用には用いられないのだと、彼は手紙の中で書いていますね。 確かに私たちは土の器なんだけれど、自らを福音にふさわしく整えておかなかったら、結局ダメなんですよ、ということなんですよね。 福音を語る人を見て、「ああ、これは本当になにか知らないけど惹かれるな。」とか、やっぱりその人から出てくるなにかを、人は感じ取るわけですよ。 私なんかも、学生時代そうだったんですね。語ってくださるみことばもすばらしかったけれど、語ってこられる兄弟の、その人柄と言いますか。そこにやっぱり強いインパクトを受けたわけであります。 だから自分も近づいてみるんですね。私もそれをほしいと思ったわけですよ。 福音にふさわしく生活しなさいと、聖書は繰り返し私たちにすすめてますが、やっぱりそういうことだと思いますね。 多くの人々は、この突如現われたクリスチャンたちの群れを、遠巻きにして最初は見ていた。彼らを尊敬していた。好意をもっていた。で、多くの人々が福音に近づいて、受け入れるようになったんですね。 人のご機嫌取りをする必要はないけれど、やっぱり私たちは、周りの人々につまずきを与えないようになるべく気を付けないといけないと思いますね。 自分らの世界だけで、他の人が目に入らない。ノンクリスチャンの人々への配慮が欠けているということは、やっぱり証にならないですよね。 こういうわけで、クリスチャンたちの突然の出現に対して、危機感を抱いた人々は、当時のユダヤ人社会の支配階級であったサドカイ派の人々でありました。 使徒の働き5:17-18
大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派と書いてありますね。当時のユダヤ人社会には二つの派があったようですね。パリサイ派とサドカイ派であります。 同じユダヤ教徒といいながら、サドカイ派というのがあって、これは裕福な人々だったんですね。社会の支配階級でありました。大祭司やそのグループは、サドカイ派に属しておりました。 このサドカイ派の特徴は、死人の復活を否定するという教義。ですからイエス様の復活についての使徒たちの宣教には過敏に反応してきたんですね。 使徒の働きの23章。ちょっと参考のために先取りばかりしてますけども、23章をちょっと見てみましょうか。パウロがローマに送られる、そのきっかけになった暴動。彼がエルサレムの神殿で、礼拝に行ったときに捕えられて、そしてローマの兵によって、千人隊長によって危うく救い出されて、殺されるところを救い出されて、これから彼は、ローマに護送されて行くわけですけども、このときの議会での弁明が書いてありますね。 使徒の働き23:1-10
こういうところに、パウロのなかなか、知恵が回ると言いますかね。彼は見て取ったんですよね。分裂させてやったんですよね。自分をさばいてる、その議員たちが、両派に分かれて争うということを知っていたもんですから、彼はこのことを言ったんです。 「私は死者の復活や望みのことで、さばきを受けているのです。」、そしたら蜂の巣を突付くように、議会は分裂を起こしていったんですね。こういうところがなかなかパウロの巧みなところだと、ある人なんかは言ってますけども、もちろんこれくらいのことはパウロはやるでしょうね。 あらかじめ上手く仕組んだわけです。こういうふうに、サドカイ派っていうのは復活を信じない。だから霊も信じない。そういう人々ですね。 彼らがクリスチャンたちの出現によって、自分たちの地位が危うくなるんじゃないか。そういうことから迫害をするようになったんですね。 もう一回5章のところに返ってください。サドカイ人たち。裕福な当時のイスラエル社会の指導者階級。支配階級ですね。彼らは庶民たちを軽蔑しておりました。無学な連中があの使徒たちの言葉に騙されてついていく。それを躍起になって押さえようとしてるわけですね。 ねたみに燃えて立ち上がりと書いてますね。自分たちのところにはまだ従っていた連中が、自分たちから離れて、新しい教えのほうに行くもんですから、ねたみに燃えて立ち上がったと書いてあります。 盲目で愚かな連中だ、気の毒だっていうんではなくて、彼らはねたみに燃えるようになったんですね。 いずれにしても、サドカイ派の人々の行動は、真理に立つということではありませんでした。パウロは神の国は言葉ではなく力であると書いていますけれども、真理っていうものは本物の力であります。 真理に立たなければ、人は真理によってさばかれていくのであります。ですから大切なことは、信仰の真理に立ってるかどうか。聖書が教えてる、神さまの真理に立っているかどうかってことが大事なんですよね。 一番たいせつなこのことなんですけども、サドカイ派の人々は、脅しと鞭によって、クリスチャンたちを封じ込もうとするのであります。それは彼らの信仰が現政利益に結びついているからなんですね。政治権力を握っていたからでありました。 だから、自分たちに従わなくなってくる、支配できなくなることを恐れたわけですね。 信仰と政治とか、現実のこの世の支配というものを切り離す。それを政教分離と言いますけども、私たち人間は長い歴史を通して、試行錯誤を繰り返して、信仰と政治というものを切り離さなきゃいけない。こういうことに気が付きましたね。 だから今日の、いわゆる近代社会というものはみんなそうですよね。信仰はひとりひとりの自由意志に任せて、ゆだねて、あくまでも自由な意思によらなければ意味がない。 しかし政治というものは、力をもって強制することですから、現実に力によって人を従えることができなければ、それは政治じゃありませんのでね。 だから力を使う分野が政治ですよ。カイザルですよ。それに対して力を使わない。一切、その人の内なるところの良心にゆだね、信仰にゆだね、目に見えぬ真理の力によって、私たちが人生を通してさばかれていくと言うんですか。真理に外れれば私たちが、真理からさばかれていく。 真理に従えば、私たちは祝福を受ける。これが信仰の領域ですよね。 神のものは神、これが大切なんだと気が付いて、私たちの社会はそういうふうに変えられてきたんですね。中世の世界までは、ヨーロッパでは政教は一体でしたよね。カトリック。ローマカトリックが、この世の政治も信仰も一緒くたになって支配しようとしたもんですから、さまざまな弊害が起こってきた。 あのカルバンもそうですね。ジュネーブで、神教一致の一体の政治を神聖政治を実現しようとして、カルバンなんかは数十人の人を火あぶりにしてますよ。カルバン主義のもう消えることのない汚点だと言われてますけどね。信仰をさばくわけですからですね。 そして異端となったら、これを火あぶりの刑にするわけですね。それから結局、政治というものと信仰の領域というのははっきり分ける。そういうことの大切さということを気が付いてきたんじゃないかと思いますね。 信仰という、ユダヤ教の中の一派であるサドカイ派の人々が、当時のイスラエルの政治権力を握っていた。ローマと結託して支配していた。そこに、彼らがこのクリスチャンたちを警戒し、迫害していく大きな理由があったんですね。 いつも、自分たちのこの世の社会的な地位というものとくっついているんです。信仰の問題が。だから、信仰の真理というものに対して、真っ直ぐにそれを見ると言いますか、そういうことはなかなかできなかったんじゃないでしょうかね。 こうして使徒たちは、留置場に入れられたと書いてあります。18節、19節ですね。使徒たちを捕えと書いてますから、複数でありますけども、何人いたか分かりません。 この中にペテロが入っていたということは、あとの29節にペテロが語っていますから、分かりますけども・・・ (テープ A面 → B面) ・・・言ったと書いてますね。夜、主の使いが来て、彼らを、牢の戸を開いて連れ出し、あと何章か先のほうにいくと、ペテロはヘロデ王に捕えられて、殺されるために牢に入れられて、逃れられないように、四人一組の兵士が四組で監視したと書いてますが。 12章にありますけども。殺される前の晩、主の使いが同じように牢からペテロを連れ出したことが詳細に記していますね。眠り込んでるペテロのわき腹を、御使いは突付いて起こしたと書いてありますね。 あのペテロがぐっすりと寝込んで、牢の中で、高いびきをかいてたんですよ。熟睡しているペテロのわき腹を御使いは突付いて起こした。立って、履き物を履きなさい。 御使いのあとについて行くと、牢の部屋が幾つも、何十もの門が開かれていったことが書いてあります。 その詳しい記述が12章で出てくるので、ここでは触れてないんでしょうかね。主の使いが牢の戸を開き彼らを連れ出し、そういうふうに簡単に書いてますね。 しかも牢の戸は完全に閉まっていたんですね。獄舎は完全に閉まっており、番人たちが戸口に立っていたというふうに23節に書いてますが、まったく閉められていたまま、しかも番人たちがそこにいたんですけども、ペテロたちは、この牢の戸を開いて、主の使いが連れ出して行かれたんですね。 ペテロたちにとっちゃ驚きだったでしょうけども、彼らはこのことを通して主の力を経験していきますね。イエス様を裁判にかけたときと同様に、大祭司たちは議会をまた召集しました。 使徒の働き5:21
つい何ヶ月か前、半年くらい前でしょうか、イエス様を裁判にかけて十字架につけたばっかりなのにまた、このサンヘドリンを召集して、今度は使徒たちを裁判にかけようとしたんですね。 父なる神はイエス様のときには、裁判と十字架刑から救い出してくださいませんでした。 イエス様は、「父よ。もし御心にかなうなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と、ゲツセマネの園で祈られたと書いていますね。 主は本当に苦しみ、呻きながら、恐れに震えながら、イエス様ですら十字架の前に立たれたときには、呻かれたんですよね。そして、「父よ。もし御心にかなうなら、この杯をわたしから取り除いてください。しかしわたしの願うとおりではなく、御心のままにしてください。」と祈られたと、マルコの福音書の14章に出てきますね。 このときイエス様を、御父は救い出しませんでした。しかし、使徒たちをこのとき救出されたんですよね。イエス様が十字架につくのは父なる神のご計画であり、使徒たちの使命は生きて、いのちのことばを宣教するところにあります。 もし御父がイエス様を十字架から救おうと思えば、できたということが分かりますね。ここで。使徒たちはサンヘドリンの、この裁判から免れたのです。 使徒たちはこのような体験の数々から、確かに神はどんなことでもできるということを、堅く信ずることができるようになったに違いありませんね。 彼らの大胆な宣教は、その確信の裏づけによるんじゃないでしょうか。確かに主は生きておられる。主は全能の主である。どんなことでも主はなすことができる。 彼らは、それをはっきり知っていくんですね。 マルコの福音書10:23-27
マルコの福音書13:31
使徒たちはこれらの経験を通して、かつてイエス様が仰ったこと、あのときにはまったくチンプンカンプンで理解できなかったことが、今はっきりと分かるんですね。 神にはどんなことでもできるのです。そのことが本当なのだと彼らは知るようになりました。そして、イエス様のみことばは真実なのだということを彼らは、体験するようになりましたね。 これに比べると、この大祭司たちの言葉は何とでたらめなことなんだろう。その時々でいい加減なことばかりを言っているということも、使徒たちは分かりました。 主の言葉の真実さっていうことに気が付くと、人間の言葉は実にいい加減だ、権力者の言葉は特にでたらめだ。そのときそのときで、でまかせでものを言ってる。使徒たちは、このことに気が付いてくるんですよね。 言葉の確かさと言いますか。そういうのと、その人の人間性というのは切り離せないでしょうね。言葉というのは、その人の人格と切り離せないでしょう。 言葉があてにならないということは、その人があてにならないということですよね。 私たちは、信仰の目を開かれて神さまの言葉の真実さに触れてくると、でたらめな、でまかせな言葉は使わないようになってきますね。言葉を非常に大切にするようになるんじゃないでしょうか。 昔の日本人は、侍は、武士は、「武士に二言なし。」と言ったそうです。ドイツにも、「言葉にも、一人の男、一つの言葉」、格言がありますけども。二言なしですね。 ぼくはやっぱりクリスチャンにも、クリスチャンこそ、「クリスチャンに二言なし。」でなきゃいけないなと思いますね。自分の言ったことに対しては、誠実に責任を負う。これは、私たちの信仰から必然的に出てくるもんじゃないでしょうかね。 使徒の働き5:22-28
あの人のってのは、イエス様のことですね。イエス様の死刑の責任を、私たちに負わせようとしているではないか。死の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。こういうことを言っております。 マタイの福音書27:24-25
彼らはこう言ったんですよ。わずか何ヶ月か前に。「この人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。この責任は私たちが取る。」と言ったんですね。 ところがここでは、「あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」ってなこと言うんですね。本当にいい加減なもんですね。まったく信用にならんですね。 ペテロの手紙第I、2:22-23
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ペテロは身近にイエス様の語られることを聞き、色んな場面場面でのイエス様の対応を見ながら、言葉を聞きながら、イエス様の口には偽りもなかったと証言しているんですね。 もう一回、使徒の働きの5章に返ってください。 使徒の働き5:29
これは有名な言葉ですね。人に従うより、神に従うべきです。 使徒の働き5:30-32
力に満ちたペテロの言葉ですね。ペテロの宣教も、彼の書く手紙も、いつも簡潔明快であります。 使徒の働き5:31
と書いていますね。「イスラエルに」とあって、全人類の救いのためにとは、ペテロは理解しておりませんでした。ペテロが、異邦人も同じように救われるのだと気付くまでには、なかなか紆余曲折があったんですね。 これは大変な意識の転換だったようで、私たちの理解を超えるところがあります。ペテロは、まったくこの救いは、ユダヤ人だけのものだというふうに考えておりました。 ところがあるきっかけを通して、主はそうではないということ。さっきちょっとお読みした、コルネリオの出来事を通しながら、ペテロは初め、異邦人も救われるのだということに驚きを隠していないんですね。 こうして、この福音は異邦人にも伝えられていくんですけども、イスラエルだけじゃなくて異邦人に向かっても、イエス様の十字架の救いは成就されているのだと、最初に気付いたのはこのペテロですよ。 パウロの手紙を読むと、神は初めに、ペテロをイスラエルの同胞たちに、私を異邦人に福音を宣べ伝える者としたと書いていますね。ペテロはユダヤ人に、私はユダヤ人以外の異邦人に。 これが、神が定められた伝道の責任だったってなことをパウロは書いておりますけども、しかし、よく調べてくと、最初に異邦人に向かっても福音を語り、異邦人の救いということに初めて気が付いて驚いたのは、ペテロ本人だったんですね。これはあとで出てまいります。10章の中にですね。 使徒の働き5:33
さっき言ったように、政教一体ですか。信仰上受け入れられないときには、厳罰に処して殺そうとするんだね。 教会の最終処分、もっとも重い処分というのは、除名処分だけですよね。教会が、振るうことのできる一番厳しい処分というのは、礼拝にともにあずかってはいけません。もうそれ以上は言えないんですね。 しかしさっきから言っているように、体制って、政教が一体化してるってのは、そうはいかないんです。ここに書いてありますように、殺害ですね。死刑ってことになってきますね。 政教一致っていうことの問題点がそこに出てくるんだろうと思いますね。カイザルのものはカイザルに、神のものは神にとイエス様は不思議なことを仰って、のちに多くの人々が頭を悩めて、これはどうやって、どういうふうに解釈したらいいかってことで、盛んに議論される言葉の一つですけどもね。 カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。 カイザルといったら、この地上の支配者ですね。剣を神さまによって与えられて、この地上の法律という、人間の外面的な行為をさばくのが法でしょ。どんなけしからんことを考えていても、その人が外面的な行為として現わさなければ、法っていうのは、さばかないんですね。そのために剣を与えられているのが、カイザルであります。 それに対して、神のものは神に。神さまは人間の心の内に宿るところの信仰をご覧になっていますね。 法と信仰というのはそこが違ってきますね。ですから私たちの教会は、法が支配する共同体ではないんですね。そうじゃなくて、信仰において、目に見えないところの信仰、行為ではなく私たちの内に宿る信仰、それが決定的なものとなるところの交わりであります。 34節からは、ガマリエルが仲裁に入ったことが書いてありますね。 使徒の働き5:34
ガマリエルといったら、パウロが青年のときに師事した先生ですよね。ついでに見ておきたいと思いますね。 使徒の働き22:1-5
パウロが、自分の先生がガマリエルだったというふうに言ったのはこの時だけですね。あのエルサレムの神殿で捕えられて、熱狂したユダヤ人たちに八つ裂きにされようとしていた時に、千人隊長は彼を、兵たちを遣わして彼を鎖で縛ってかつぎ上げさせて、神殿の階段の上に引き上げたと書いてます。 その階段の上から、彼は同胞に向かってね、「父たち、兄弟たちよ。」と言って、語りかけたと書いていますね。 多くのユダヤ人たち、当時の宗教的な指導者のひとりだったパリサイ派のラビですね。律法学者、ガマリエル。彼が、大祭司始め、怒り狂ってるサドカイ派の人々に忠告を与えるんですね。 使徒の働き5:35-39
こういうふうに説得をしたというのであります。彼らは彼に説得され、 使徒の働き5:40-42
41節の言葉もよく知られてるところですね。御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ、と書いてあります。 以上が、この使徒の働き5章の内容だと思います。 |