引用聖句:ヨハネの福音書8章31節-32節
かつて学生時代、救いを求めてこの吉祥寺きりスト集会に集っていた頃、本屋で見つけて自分で買ったのだろうと思いますけれども、ルターの回心のことを書いた「真理を求めて」という薄い本を繰り返し読んだ記憶があります。 著者は外国人だったと思いますけれども、表紙に一見すると、黒人系のような分厚い表情のような人が、パン屋さんのかぶる白い頭巾のようなものをかぶっていて、とてもルターと思えないような人物画でしたけれども描かれておりました。 ルターが聖書の真理を求めて苦闘し、ついに信仰による神の義という救いの奥義を見いだして、たましいの不安と苦悩から解放された経緯が要約されていたのだと思います。 この小冊子から何を教えられたかは、あまり記憶に残っていませんけれども、ただその本の題名が、「真理を求めて」というものであったことは、忘れがたく記憶に刻まれております。 そして今でも自分にとってはあの求道中に手にした本当に、本としては非常にありがたい題名だったと思っております。それはこの救いが特定に宗教の教義に基づくというものではなくて、この世界、この全宇宙における不変的で絶対的な真理に基づくものであるということを私に示してくれていたからであります。 キリスト教信仰なるものを知ろうと思って、私はこの集会に来たわけではありませんでした。 真理とは何か。本当のものとはいったい何だろうか。それが聖書を通して何か示されているのではないだろうか。そういう思いでこの集会に通っていたものですから、このルターの「真理を求めて」というこの本の題名は私にとっては非常に大きな示唆となっていたわけであります。 救いというものは万人に妥当する絶対的な真理に基づくものであり、この真理を知ることによってこそ、自分の抱えている問題、人生の根本的な問題の真の解決が見いだされるのだと、そういう思いを強くさせられたからであります。 聖書をキリスト教の経典としてではなくて、真理が啓示されているらしい本として、すなわち真理の書として学びたい。そういう思いで集会に通っていたわけであります。 聖書が示している真理とはいったい何なのか。本当にそれが自分の抱えている問題の解決になるのか。それを知りたかったのであります。 信仰を求めて来たのではありませんでした。真理とは何か。もしそれを見いだすことができれば本当の解決が与えられるのではないか。そう思っていたのであります。 自分の抱えていた問題とは、いつも申し上げますけれども、自分が何のために生きているのかわからなくなってしまっている。自分がどこから来て、どこへ行くのかわからない。 さらには自分自身が何者なのかもわからないというような、実に厄介な問題でありました。この問題に気が付いて初めて、私は人生には人間自身の力によっては絶対に解決できない問題があるのだと気が付いて、恐れおののいておりました。文字通り、恐れおののいたのであります。 それまでにも人間は必ず死ななければならないということはわかっているつもりでした。しかしこの頃になってやっと死の本当の意味に気が付かされたということであります。二進も三進も行かなくなったのであります。 自分の人生の意味を一切合切否定する「死」という絶対的な壁の前に立って、絶望と恐怖のあまり、ただ死に、それに耐えながら、しかもその必死の我慢が崩れるのが時間の問題だというふうに感じておりました。 すっかり眠ることもできなくなり、何よりも好きだった、食べるということすら、食欲すら消えてしまった。舌が味を感じないといいますか。まるで砂を噛むように、食事も変わるものだと思って本当に驚いたことでありました。 そのときから、この世の中はいつもと変わりなく動いているのに、自分にとっては全く別ものとなってしまったのであります。自分としては健康であると思いながら、内面においては絶望的な叫びを上げているというような、そういう有り様でありました。 今になって振り返ると、このような全く予想もしない突然の事態はその2、3ヶ月前からベック兄による聖書研究会によって、聖書のことばに触れるようになっていたからだと思います。聖書のことばが私の心のベールを剥ぎ取って、真実を見る目を与えたのだと思います。 それまで私は見ても見ず、聞いても聞かず、心の目のおおわれた頑迷な者だったのであります。自分では見ているつもりで何も見ていないのであります。理解しているつもりで何にも理解してはいなかったのだと思います。 いきなり自分の心のおおいが取られたのでしょうか。私は本当にすくんでしまったような感じでありました。絶望の人生を生きながら、それがバラ色の人生であるかのように錯覚していたのであります。力を尽くして、頑張って、それで何か勝ちうることができるかのように思っておりました。 ご存知のように詩篇の119篇には、 詩篇119:130
とあります。聖書のみことばに触れて初めて、自分の心の中に光が差し込んで来て、何が真実なのかそれを示してくれたのだと思います。 コリント人への手紙第II、3:14-16
人は聖書のみことばに触れない限り、この心のおおいというのは取れないのではないでしょうか。自分の世界の中に閉じこもったままで見えないのではないでしょうか。 その世界の外側から光が差し込んで来るときに初めて、自分がどういう世界にいるのか、自分という者のあり方を客観的に見る目が初めて与えられるのではないでしょうか。 だからこそ人は聖書のことばにまず触れなければいけないのではないでしょうか。ただ自分自身の中でどんなに私たちが思いをめぐらそうと、同じところをグルグル回るだけではないでしょうか。 期せずして聖書に触れるようになり、聖書のみことばを耳にすることを通して今までの自分の人生観と言いますか、土台が根底から覆されていくのだろうと思います。 自分では全く望みもしないことなのですけれど、神様のあわれみによって。今にして思えば、主のあわれみと導きによって神様はご自分の真理のみことばを私の内に啓示してくださったのだろうと思います。 しかし当時私は、聖書を神の真実なことばとしてではなくて、先ほども言ったように、ただ真理を示す書として真理なるものを見いだしたいがゆえに知ろうとしていたのであります。 しかしながら、真理の第一歩はまことの神のご存在であります。神のご存在の問題に触れないまま、この問題を迂回したまま、真理の発見ということは結局のところあり得ないのであります。 人は聖書を通して直接自分自身に語りかけておられる神のご存在に気が付くまで、聖書を本当の意味では理解できないのではないでしょうか。 聖書の文字の中に真理を求めるのではなくて、この文字を通して自分に語っておられる神ご自身に気が付くこと。これは自分に語られているのだということに気が付くこと。自分とは関係ない、単なる教えや歴史的な事実が書かれているのではなくて、実は個人的に語りかけられているのだということに気が付くこと。そして心を生きておられる神ご自身に向けるようになること。聖書のことばを通して、実は神ご自身が自分の心に語り続けておられるのだということに気が付くこと。 こうして初めて聖書の文字はいのちのことばとして私たちのたましいの中に入ってくるのではないでしょうか。 聖書は自分自身に、自分個人に対する神の愛に満ちたプライベートな手紙なのだと気が付くまで、人は真理を求めて何と苦渋に満ちた遠回りをすることではないでしょうか。 イエス様が教えてくださったように、私たちのまことの天の父でいます神は、肉の父親にまさって私たちを愛して止まないお方であるということ。私たちを祝福したくて仕方のないお方であるということ。 だからこそ私たちが正しい道を歩むように、いのちの道を歩むようにと教え、戒め、諭しておられるということ。決して神様の戒め、律法というのは私たちに対するさばきのことばではなくて、私たちに対する心からの願いであるということ。 親が自分の子どもに「真っ直ぐに歩まなければダメなのだ。正直でなければダメなのだ。悪に走ってはいけないのだ。そうすると大変なことになるのだ。」、こういうふうに親は必死になって子どもに教えようとするわけですけれども、聖書のことばはこのように神様の愛に満ちた語りかけなのだ。 そのことが本当の意味で、体験的にと言いますか、心の中で理解できるようになれば、どうでしょうか。あれほど私たちを悩まし、絶望に追い込んだ人生問題などというものはいつの間にか消えてしまっているのではないでしょうか。 あの虚無と絶望と死への恐怖はすべて、この愛の神を見失っているという事態から生じているのである。 神なんか必要ないとして、今は自分の力で生きるとして、自分の栄光を自分の手で掴み取ろうとして、懸命に生きようとして、そういうふうに神様に背を向けて、むしろ神様の話なんか聞きたくないと思って、逆らって生きているという事態、これこそが実は根本的な罪という、聖書が指摘している問題なのだということ。私たちのあらゆる問題の根源にほかならないということ。 ですから真理の発見とはキリスト教の教義の知的な理解だとか、何かの悟りではなくて、まずその愛の神の発見であります。生ける神への立ち返りであります。 訳がわからないとして聖書の文字を追っている、頭で一生懸命理解しようとしているわけですから、ちょっとわかり、ちょっとわからず。そういう状態です。 しかし必死に真理を求め続けるなら、何が真実なのか、何が本物の救いと言われているものなのか、何が自分の本当の問題なのかということを人が求め続けるならば、人はいつか気が付くはずであります。語りかけておられるのは生きておられる神ご自身であるということ。 この方に心を向けるように、変えられるときに初めて聖書のみことばは私たちの前に開かれたものとなるのではないかと思います。 しかしまた、このまことの愛に満ちた神の発見と神への立ち返りとは、真実な罪の悔い改め無しに私の内に起こり得ません。人は単なる知的な理解力を通して、生きておられる神との真の意味での出会いということはもち得ないのであります。 そのために人はまずどうしても聖書のみことばと正直に向き合う決心をしなければならないのであります。 自らを偽ったまま、人は真理に近づくことはできないのであります。なぜなら、神は真実な方だからであります。 私たちが一切の偽りを捨てる決心をし、事実を事実として認める真の勇気をもち、自分の罪に対して主が明らかになさるときに、それをそのとおりであることを認めて、心から赦しを請うなら、神は赦してくださる。 それだけでなく、その罪から私たちを聖め、罪の力からも解放してくださる。それは事実であります。 私たちは長い間、自分の本当の姿から目をそらして生きて来たのであります。自分の本当の姿を見るのは、人間にとって耐え難いものであります。 しかしいつまでもそういうような真実からほど遠い人生を歩むことはむなしいです。もうやってはいけない。問題の先送りだからです。人は必ずいつか本当の自分自身と正面から向き合わなければならなくなるからであります。それは私たちにとって身を切られるように痛い経験かもしれません。 まことの主なる神との出会いというのは、ある方が言ったように、真の自分自身との出会いでもあります。 自分はこのような者なのだということであります。そこから初めて真実の人生が始まるのであります。 ヨハネの手紙第Iの1章。よくみなさんご存知の中で、ヨハネは私たちに一切の弁明の余地ないようなことばを記しております。 ヨハネの手紙第I、1:8-10
しかし私たち人間のがわの悔い改めだけで罪の問題が完全に解決されるわけではありません。それでは神の正しさが全うされないからであります。 神はいかなる罪をも見過ごすことのできない、完全な義にして聖なるお方だからであります。この神の義と聖さは一点一画も疎かにされることは許されないからであります。 そのためにこそ御子イエス様の十字架の死による罪の贖いがなされたのだと聖書は教えています。全人類の罪を贖うためには罪のない御子イエスの身代わりの死が必要なのだと神は判断されているのであります。 私たちが罪を犯して、私たちの代わりに罪のない方が十字架に架かって、私たちの罪が赦されるというのはいったいどういうことなのでしょうか。これは法律上、正しいことなのでしょうか。そういう疑問を強く持つ方々もいらっしゃるのです。 私が罪を犯したのですから、私がさばかれるべきではありませんか。もし、もちろんさばかれれば救いはないわけであります。しかし主権者である神がそのように定められたということであります。主権が法の効力を支えているのであります。 主権者がそう定めるから日本の法律は有無を言わさずわれわれひとりひとりに及んで来るのであります。 同じように、真の主権者である神ご自身が罪のない御子の身代わりの死によって全人類の罪を贖うに至るのだと判断された、定められたのであります。 だから私たちはこのことを受け入れなければならないのであります。神がそのように判断なさり、定められたからであります。 全人類の罪を贖いうるのは、ただおひとり、神ご自身のひとり子だけであるということは神にとって何という悲劇でしょうか。私たちの罪と救いのためにもっとも苦しまれたのは神ご自身なのであります。 聖書は、この神ご自身の苦しみということについて殆ど書いていないと言いますか、全く書いていないのではないでしょうか。聖書は沈黙しているのではないでしょうか。ただイエス様の苦しみを通して私たちはそれを垣間見てはおります。 イエス様のあの祈りの中に、想像を絶する苦しみが告白されていますけれど、父なる神は沈黙していらっしゃる。自分のひとり子を私たちのために十字架に架けなければならない。そこに父なる神ご自身の言いようのない苦しみ、それがあるのではないでしょうか。あまりにそれは大きいものだから聖書はむしろ沈黙しているのではないでしょうか。 ヨハネ福音書3:16-17
神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、十字架に架けられるほどにという意味でしょう。世を愛された。 ローマ人への手紙3:23-26
私たちが御子イエスの贖いの死を通して、伸ばしておられる神の和解の御手を受け入れ、みもとに立ち返るときに神は私たちを義と認めてくださると聖書はここではっきり述べているわけであります。 それは、今の時に、ご自身の義を現わすためであり、神が正しいお方であるということを現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 もう一ヶ所、 コリント人への手紙第II、5:18-21
ちょうど、あのルカの福音書15章の放蕩息子が自分の罪を悔いて、父のもとに帰ったときに、父は大喜びで迎え入れ、彼に義の印としての最上の衣を着せたばかりか、子で身分の印である指輪をはめさせました。 「急いでもっとも良い着物を持って来て、この子に着せなさい。指に指輪をもはめさせよ。」としもべたちに言ったと書いてあります。 イエス様を自分の義として受け入れる私たちをも、神はご自分の子どもとしてくださると聖書は約束しています。 ローマ人への手紙の8章・・・ (テープ A面 → B面) ・・・エペソ人への手紙の1章5節です。 エペソ人への手紙1:5
義と認められるだけでなく、罪を犯したことがない者という意味でしょうか。義というのは。 全く罪を知らない者として私たちを受け入れてくださるだけでなく、ご自分の子として、イエス・キリストとの共同相続人として受け入れてくださる。そしてご自身のあらゆる光栄を受け継ぐ者としてくださる。 見えるもの、見えないもの、神がお造りになった一切の栄光を私たちに継がしてくださると聖書は言っております。 あまりにスケールの大きな話なのでピンと来ませんけれど、この地上にあるものどころではない。そのようなものと比べものにもならないようなものをあなたがたのために用意しておられると聖書は言っているわけであります。 このように、人は神の提供する救いそのものであるイエス・キリストを信じ受け入れる信仰によって神の御前に義と認められ、神の子としての身分も授けていただけると聖書は繰り返し明確に伝えているわけです。 エペソ人への手紙2:8-9
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではない。このように、救いはただ最初から最後までキリスト・イエスへの信仰によるのであって、人の行ないによるのではないのであります。 これが救いに関わる真理の第二ではないでしょうか。この土台から離れれば私たちは悪魔の攻撃の前に翻弄され、引き回されて、確固とした歩みを続ける勇気が無くなってまいります。 なぜなら悪魔は私たちのすべてをよく知っていて、私たちのさまざまな罪について、失敗について指摘して来るからであります。もしそこに立つなら、それと面と向かうなら私たちはもう心は萎えてしまって動きません。 ですから聖書は繰り返し私たちに教えているわけであります。私たちは信仰によって義とされるのだということであります。 この信仰の土台から離れてしまえば、私たちは主の正しい道を歩むということはできなくなってまいります。自分の良心の痛みを覚えない人はひとりもいないからであります。 しかし私たちは自分自身の行ないや状態にではなくて、いつでもただ主イエスの贖いのみわざにだけ拠り頼みます。 ガラテヤ人への手紙2:22
救いをキリストの贖い以外のものに置いてはならない。それは神の恵みを無にすることになる。キリストの死を無意味にすることになる。 だから私たちはキリストの死による贖いにのみ、自分の救いの根拠を置くのだ。神の御前に立つための根拠をここにだけ置くのだとパウロは私たちに教えているわけであります。 神様に受け入れられる条件は、ただ悔い改めて、キリストの救いのみわざを受け入れること。救い主を自分の義として受け入れること。義の衣を身にまとうこと。キリストこそ私たちの義であると聖書は繰り返し言っています。 白い衣を身にまとうように、イエス・キリストを私たちは自分の義の衣としてまとうのであります。それによってだけ人は神の前に立ちうるのだ。神様のさばきの前に立ちうるのだと聖書は言っています。 悔い改めと信仰を信じ受け取ること。と言ってよろしいでしょうか。ここが私たちの立ちどころであります。 救いの真理の第三と言えるとすると、それは主との交わりの中にとどまり続けることであります。もちろん人が本当の意味で悔い改めると、人は主から離れないように心遣うのではないでしょうか。 悔い改めて信仰を得たと言いながら、主との交わりに無頓着であるということは起こり得ないことではないでしょうか。 しかし私たちは主との交わりを疎かにすることはもちろんできるわけであります。主との交わりに心を留めないで、無頓着に生きることはできるのではないでしょうか。 しかしそこから私たちはさまざまな問題の中に巻き込まれて行きます。悔い改めて立ち返りながらなお、祝福された歩みをすることができない理由は、交わりの中に留まらないということではないでしょうか。 主との交わりの中に留まるとは、私たちの心の中を全てご存知の主の御前を歩むということであります。詩篇の中でダビデが言っているように、 詩篇16:8-9
私はいつも、私の前に主を置いたと彼は言っています。頑なさと高ぶりはいつでも捨てて、聖書が言っているように悪はどんな悪でも心して避けなければならないのであります。常に光の中を歩まなければならないのであります。 そうでなければ私たちは自分自身にさまざまな問題や苦しみを引き受けることになるからであります。だから聖書は主の光の中に歩むように繰り返し私たちに教えているわけであります。 悪魔がもっとも好むものは暗やみであり、もっとも嫌がるものは光であります。だから光の中にいる人にサタンは近づくことができないと聖書は言っています。 この世はどこに進もうと、この世の人はどういうところに身を置こうと私たちは主の光の中にいなければならないと聖書は言っているわけであります。 ヨハネの手紙第I、1:5-7
イエス様を信じた者は光の子と呼ばれております。私たちは暗やみの中にあって、かつて恐怖や不安に苛まれていたわけであります。もうあの暗やみの中にいるのは、ごめんなのであります。 光は私たちの心を本当に平安に保ち、満たし、喜びを与えてくれるものであります。だから光の中にいなければいけない。 主の前にいつも真実に立ち返って、主の光の中に身を置かなければいけないと聖書は言っているのであります。 エペソ人への手紙5:8-9
とエペソ人への手紙に書いています。私たちは悪意をもってはいけないのであります。善意をもたなければいけない。 正しいことは何かという正しさに立たなければいけない。正直でなければいけない。そのように聖書は教えているわけであります。 私たちはかつて罪を罪とも知らなかったから、まるでゴミ箱を漁り回っている野良犬のように、むなしいものを追い求めながら、高ぶりと愚かさと汚れの中にいた者であります。そのような滅びの中から救い出された今となっては、それは顧みるだにおぞましい人生であります。そのような人生の逆戻りはもうごめんなのであります。 ペテロの手紙第I、4:2-3
私たちはそのように生きていた者であった。しかしそれはもう、過ぎ去った時で、もう十分である。ペテロはそのように言っているわけです。 ヘブル人への手紙12:14
ヘブル人への手紙の中にあります。聖いということほど、私たち人間からほど遠いことはないかもしれません。しかしクリスチャンの特徴というのはやっぱり主の聖さにあずかるということではないでしょうか。 肉的なものを芬々と撒き散らすのではなくて、私たちが主によって主の聖さにあずかる者とされること。信仰を通して、主を知ることによって私たちの内面が聖められていくこと。 聖さというのがクリスチャンにとって決定的な印なのではないかと思います。 私たちは熱心に何事かを成すことができるかもしれません。色んなことを行なうことができるかもしれませんけれど、キリスト者としての主の聖さにあずかっている者かどうか、私たちの内側がそのように変えられているのかどうか、やっぱりそれが決定的な意味を持っているのではないでしょうか。 ペテロの手紙第I、1:15
ペテロは教えています。 テサロニケ人への手紙第I、4:3
肉的なクリスチャンではなくて、本当に主の聖さにあずかっている者。そういう者でありたいと私たちは心から願う者であります。 主とともに光の中に留まるなら、私たちの人生は祝福にあふれたものになることは間違いないと思います。 信仰の力によってこの世のさまざまな悩みと格闘するというのは、そういうレベルではなくて、主の祝福から祝福へと進むべきなのではないでしょうか。 それは主とともに私たちが光の中に留まるなら、それに付いて来るものではないでしょうか。悩みは全て罪との関わりから生まれてくるのですから。 だから聖書が伝えているように、霊肉のあらゆる汚れから聖められて、主のこの天的な祝福と言いますか、上よりの祝福に満たされた者となるべきなのではないでしょうか。 信仰によって義と認められると同時に、主との交わりの中に留まることによって、この祝福に満たされたものとして歩むべきではないでしょうか。 それが主のみこころだと思います。 そこまでで終わりましょうか。 |