引用聖句:詩篇34篇9節-11節
今日は、人を救いうる信仰ということについてご一緒に考えたいと思います。私たちを本当の意味で救いうる信仰ということがテーマになります。 聖書には正反対のメッセージが非常に多くあって、いつの時代でも自分勝手な解釈をして、間違った信仰を持つようになる人々が絶えません。 そのような人々は、聖書が警告しているように、本当の意味での神さまが与えてくださる自由を自分勝手な放縦に変え、神さまの赦しを罪の容認だとして、信仰という名前はあっても、その実のない歩みをしてあまり気にも留めません。 多くの人々が、どうして聖書を間違って解釈するようになるかと言いますと、理由は非常に簡単だと私は思っています。それは何が真理であるかということを真剣に求めているのではなくて、ただ自分に都合の良い教えを求めているからなのであります。 初めからこういうようにつける思い、この世の願いをもって聖書に触れ、自分のその願いを正当化するために聖書を用いようとする。非常に愚かな態度を取るかであります。 ピリピ人への手紙にパウロが言っているように、 ピリピ人への手紙3:19
その最後は滅びですとパウロが嘆きをもって言っているように、非常に愚かな態度を取っているからであります。 すなわちあくまでも自分中心的な信仰を、信仰とは呼べないんですけれども、それをそういうふうに考え込んでいるからです。 人は自分自身の単なる欲望と言いますか、私利私欲のために、自己正当化するために神の御名を引き合いに出すということは聖なる神ご自身への冒涜であるということ。これは少し考えたらだれでもわかるのであります。 「語る」と言いますね。「主の御名を語る。」 語るというのは話すという意味じゃないんです。自分の目的に利用するために引き合いに出すことを、語るという言葉に含めています。 語る。それは私たちの心ではよくわかってるのであります。そのことを聖書は戒めたんです。主の御名をみだりに唱えてはいけない。 ダビデがご承知のように、詩篇の139篇で祈っているように、あれこそ本当の信仰の祈りです。 ダビデの賛歌となっていますけども、ダビデの祈りが139篇の23節、24節に書いてあります。 詩篇139:23-24
この世につけるさまざまな欲望、自分の邪まな願望に気を付けて、私たちが巻き込まれないように、それに引き回されないように気を付けること。それはいわゆる肉なるものを私たちが脱ぎ捨てること。それが聖書の言ってる全き救いであるわけでしょう。 エペソ人への手紙の4章20節からちょっとお読みします。 エペソ人への手紙4:20-23
たましいの深みまで。と古い訳になっていますが、 エペソ人への手紙4:23-24
新しい人というのはもちろんイエス・キリストのことです。主イエス・キリストを身に着ること。このようにしてたましいを深みまで私たちが新しくされること。そのことこそが聖書の目的でしょう。 ところがそういうことに対して、まったく無頓着に信仰ということを自分勝手に捻じ曲げてしまうのであります。 言い換えると、自分の罪ということに対してまったく鈍感だということです。彼らの心は脂肪のように鈍感です。という詩篇のことばがありますけれども、脂肪というのは付いても反応を示さないのであります。 そういう人たちは神さまの恐るべきさばきについてまったく気付いていません。 神は大いなる愛の方だから、さばかれることなどないと平然としているのであります。聖書の真理はイエス様が警告されたように、心から求める人でないと理解できないようにあえて隠されているものなんです。 不思議なものですけれど、聖書の真理は心して求める人でないと見いだすことができないように実は伏せられているんです。 イザヤ書の45章の15節によく知られたみことばがあります。 イザヤ書45:15
ご自身を隠す神。確かに主のみことばは私たちの身近にあります。 真理は私たちの身近にいつでも備えられていますけれども、それは覆われているのであります。聞いても聞かず、見ても見ないように書かれてるとイエス様は仰ったのであります。 聖書のことばは正しい心をもって近づこうとしない人にとっては、反対につまずきになるものであります。その意味においてかつてだれかが言ったように、聖書は劇薬に似ております。両刃の剣であります。 聖書は真理の前に、神の御前に恐れる心をもって近づこうとしない人を反対に盲目にしてしまうものであります。太陽の光は闇を追い払い、いのちを育む恵みの源であると同時に、焼き尽くす灼熱ともなります。 同じ聖書のみことばが人の心を真理に向けて開き、他の人の心を反対に頑なに、盲目にするのであります。ですから聖書のみことばはやはり怖いのであります。いのちに関わるのですから。 だから聖書のみことばは勝手にいじくり回せないんです。恐れる思いをもって聖書のことばに向き合わないと大変なことになるのであります。 このように、聖書は一方においては神の愛と赦しを宣言しますけれども、他方においては神の徹底的な義とさばきを宣言しています。 それが聖書の常に持ってる二つの面だということを聖書を読めばだれでもわかるでしょ。 ですから多くの人々は戸惑ってしまって、聖書をどう理解していいかわからないというふうに思うかもしれませんけれども、しかしこれは決して矛盾するものではないということを私たちは知るはずであります。 まことのいのちは罪と同居できないものであります。どんなに子どもを愛する親であっても、子どもがいつもでたらめ、嘘八百を言って、平気であるということ、陰で盗みをしたり、不品行をしていたりする子どもを容認できるでしょうか。 いくら子どもを愛しているからと言ってそれを見て見ぬ振りはできるでしょうか。反対なんです。深く悲しむのであります。愛するからこそ正しくあってほしいと心から願うのであります。 愛というは真理を喜ぶものであると、パウロがコリント人への手紙の13章の中に言っているように、真実の愛というのは真実を喜ぶものでしょう? 自分の子どもが大悪党であってほしいと願う親は昔もいなかったし、今もこれからも絶対にいないのであります。愛というのはそういうものだと聖書は言っているのであります。 神は愛なるお方ですから、神は正しいことをどこまでも求められるのであります。 要するに、神の聖さと神の義に対する恐れを知らないという人は、神さまの愛とその恵みがどういうものであるかを知ることはできないということであります。 まことの信仰、私たちのたましいを本当の意味で救いうる信仰とは、この二つの面をよくわきまえたものでなければならないはずでしょう? だから主をよく知る人は心から主を愛しますけれど、主を心から恐れる人であります。 主を喜びますけれども、しかし主のみこころが自分の思いをはるかに超えてることにいつもおののく心をもっているものであります。 端倪すべからざるという言葉が日本語にありますけれども、神さまはこれくらいだろうと思って高を括ってると、とんでもない神さまのみこころに触れて私たちは恐れるわけです。 昨夜もちょっとお話したように、先週の火曜日は私たちの敬愛する兄姉の娘さんの葬儀がありました。本当に驚天動地と言いますか、青天の霹靂と言いますか、ご両親も考えてもいなかったことじゃないかと思います。 あんなに喜んでお二人が歩まれてるその中に、まるですべてをどんでん返しでもするかのように、悲劇が襲ってくる。突如として。 お二人がどんなに打ちのめされて、悲しみのどん底にいらっしゃるんじゃないだろうかと思って葬儀に行ったんですけれども、お二人は本当に支えられて、まったく動じることなしに、それを主の御手からのものとして受け取って、しかも主はお二人に揺るぐことない確信を与えていらっしゃる。 「これもまた主がなされたことである。だから自分らにとっては悲しむ必要はないものである。」、そういう信仰をもって受け止めていらっしゃるのに、私たちは非常に改めて主のなさることが人の思いを超えるということに心打たれました。 しかし同時に、私たちの思いを超えるような試練が思いもかけないときに私たちに臨んでくるということ。突如としてまるで獲物に鷹か鷲が突如飛びかかるかのように襲ってくる。 こういう事態というのは本当にそれこそ端倪すべからざるなんです。高を括れないと言いますか。 その火葬場からの帰りに八王子の姉妹の車に乗せてもらいながらわれわれ夫婦で途中で色々話しました。本当に自分の愛する者がああいうふうにしてこの地上から取り上げられるというのは、本当に私たちには耐えれないだろうと思う。だれでもそうですよね。 イエス様が仰ったように、「どうぞ試練に会わせることがないように。試みに会わせられないように祈れ。」とイエス様が仰ったように、どうか私をそのような試みに会わせないようにしてくださいと私たちは心から祈るわけです。 それにも関わらず、主のなさることは本当に人の思いを超えて。私たちはそういう事態に直面すると文字通り震え上がるわけであります。 これは主から出たことである。しかし主の思いは私たちの思いとはとてもじゃないけれどもかけ離れている。そういうことを私たちは往々にして見せられるから。 主が愛をもって、主が私たちのために最善としてなさることはわかっていたとしても、頭で理解できたとしても、「主よ。どうかそのような試みから私たちをあわれんで守ってください。私たちにそのような試みを会わせないでください。」と願うわけです。 そういうふうにして何をなさるかわからない。そういう思いを私たちはもってるわけでしょう? しかしそのような試練が臨むときにまた、私たちの思いを超えて、兄弟姉妹がまったく揺るぎない土台の上に立たされているということ。むしろそのことを通して主を深く信頼するということを教えられるということ。これもまた驚きです。 「自分たちの努力や思いではないんですけれど、このように不思議に守られている。」と兄弟は仰いました。本当に主は私たちの思いをはるかに超えるお方です。 イザヤ書55:9
と主が仰ってる通り、要するに人間には推し測れないということであります。だから私たちは主の前にいつも深い恐れを抱かざるを得ないのであります。 かつて「天路歴程」という本を書いた、あのジョン・バニヤンは、読まれた方もあるかもしれませんけれども、すばらしいけれども恐ろしくなるような本ですよね。あの本は。 私は信仰に導かれた頃にベック兄からまるで絵本みたいな大きな「天路歴程」、解説がびっしりと入ってる本をいただいて読んだ経験があります。深い恐れを覚えざるを得ませんでした。 そこでバニヤンが色々教えてくださるそれを覚えてることが幾つもあります。滅びの町から救い出されて天の御国に向かって歩み始めるひとりの男、クリスチャンっていう名前の男に向かって、彼を導いた伝道師が教えるところがあります。 いざこれから天国に向かって歩み始める、信仰の歩みを始める彼に対してこう言ってます。 「これからあなたが歩む道は始めから終わりまで狭いけれども真っ直ぐな道である。途中でこの道を横切る広い道にそれることがあってはならない。」ということを教えるんです。 始めから終わりまで真っ直ぐです。このことを覚えておきなさいと教えるのであります。 神さまが繰り返し警告を発しているのに、御霊が繰り返し繰り返し罪から離れるようにその罪を示してそれから離れるようにと警告しているにも関わらず、耳をふさいで聞こうとしなかったために、ついに悔い改めることができなくなって、涙を流しながら座り込んでいるひとりの人。プロフェッサー:大学の教授なる人の姿などがその「天路歴程」の初めのほうに出てきます。 主が語られるときにいつでも、「主よ。そのとおりです。」、あなたが正しいと真実に認めなければいけない。真実を真実と示されていながらそれに目を閉じてはならない。いつでも主の前に心から降参しなきゃいけない。 すなわち、常に悔い改める心の備えをしていなければいけない。そうしなかったら私たちの信仰の歩みはそれてしまうのだということを告するのであります。 バニヤンは、人々があなたの本はあまりにも暗いと言う、そういうふうに言う人々に対して、しかし真っ暗な黒雲こそが渇き切った大地を潤す恵みの雨をもたらすのだと彼は言っているのであります。 一見して恐ろしいような聖書のメッセージ。ちょっと顔をそむけたくなるようなあまりにも厳しい、そういう聖書のメッセージこそが、実はどうにもならないほどに悩んでいる、絶望の中にいる人々を本当の意味で救うことのできる力なのだということを聖書は言ってるのであります。 単なる人間的な同情や慰めは役に立たない。この世の知恵による表面的、一時的な対処療法ではどうにもならないというギリギリの問題に対して救いうるメッセージは、ただ聖書のメッセージなのだと言ってるんです。 真理に基づいた真の解決こそが必要なのであります。バニヤンは聖書の真理こそがそれだと言ったのであります。 最近テレビを点けて見る度に思うんですけども、同じようなお笑いタレントがいつもテレビに出ては、同じようなあのお笑いのどうでもいいような番組ばかりが流されています。 本当にお笑い番組やバラエティー番組や料理番組のそればかりが年がら年中テレビで流されておるようであります。 その分野の売れっ子タレントは年収何億ですか。月収がどれぐらいなんですか。大の大人が一生、一年間必死になって働いている給料を彼らが、お笑い番組に出てはわずか一ヶ月そこらで簡単に稼いでいるようであります。この世というのはこんなもんかなというふうに思わされます。イエス様は、 ルカの福音書16:8
と言われましたけれども、この世の子らというのはこういうもんだろうなという思いをするのであります。 ここ一ヶ月ぐらいはアメリカ仕込みの若い起業者が日本の経済界を席捲して、国民の注目を浴びております。 そういう状況を見ると、この世というのはまるで脳天気に動いているかのように見えます。しかし突如としてそういう人々に滅びが襲いかかってくるのであります。 私はそういうような状況を見ながら、いつもハラハラしております。遅かれ早かれそういうものの一切合切を根こそぎにして押し流してしまう事態が起こってくるから。 あのスマトラ沖大大地震のように、あの大津波のように一瞬にして一切のものを押し流してしまうような時が必ず襲ってくるからであります。 私たちクリスチャンはそれが避けられないということをみんな知っていますよね。表面的な、物理的な大地震であるかはともかくとして、すべての人に必ず臨んでくるところの恐るべき災害の時があるということをわれわれは知っております。 ヨハネの黙示録18:7-8
ヨハネの黙示録18:10
ルカの福音書12:16
これはイエス様のことばです。 ルカの福音書12:16-21
神さまの前に富むということを考えないで、この世のことばかりに没頭して、・・・ (テープ A面 → B面) ・・・そういうときが必ず臨んでくる。そのことを思うと本当に心配になります。 こんなことをしていいのだろうか。足もとが音を立てて崩れてしまうようなそういうときがあるにも関わらずそのことについてまったく無頓着に進んで行きます。 ルカの福音書19:41-44
イエス様がエルサレムを見て泣いて言われたと記されています。「おまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」 神のことばが語られているのに、それに対して無頓着で、ついにエルサレムは根こそぎローマ軍によって破壊されていったと言われています。紀元70年ですか。 イエス様のこのみことばの直接の成就だと言われていますけども、それを機にユダヤ民族は世界に散り散りになっていったと言われていますが、もちろんそれは単なる一つの預言ですよね。あのひな型でしょうね。 もっと、もっと大きなことについてイエス様は仰ってるのだと思います。「神の訪れの時を知らなかったからだ。」 以前新聞に紹介されていたガンジーが述べたという七つの社会主義大罪ということについての記事を最近また読み返しながら、本当にそのとおりだなと思わされました。 あのガンジーという人は、若い頃にイギリスに長く留学をしていて、ベック兄が仰ることによると、ガンジーは自分に一番大きな影響を与えたのは聖書であるというふうに言ったと言われていますけれども、これは非常にクリスチャン信仰には近づいた人のようであります。 彼がこのように言ってるんです。七つの社会主義大罪。本当に言い尽くしていると思います。現代の問題を。 原則なき政治。道徳なき商業。労働なき富。人格なき教育。人間性なき科学。良心なき快楽。犠牲なき信仰。 本当にまったく今日の問題を言い尽くしているなという気がいたします。これが現代の七つの社会主義大罪だと言うのであります。 犠牲なき信仰。私たちクリスチャンにとっても本当にこう、胸に響いてくる言葉です。良心なき快楽。人間性なき科学。人格なき教育。労働なき富。道徳なき商業。原則なき政治。すべてこれに言い尽くされているような気がいたします。 道徳なき商業。この基盤の上に立たないためについに崩れ落ちていく。そういう様を今私たちは見ているわけです。本当に主を恐れるということを知らないために、一切の努力が無に帰するわけであります。 伝道者の書12:13-14
こういうような警告というのはもちろん主を知らない人々だけに向けられているんじゃないということなんです。 すべての人が、私たちクリスチャンも自分が真理に立っているのかどうか。自分の立っている土台を吟味されるときが来るわけであります。 聖書を知らない、主を知らない人々だけの問題だけではないのであります。私たちの信仰も厳しく吟味されなければならないのであります。あるいは日々、吟味されているのでしょうね。 私たちは真理を教えていただきました。この上に立てば大丈夫だという土台を、みことばを通して教えられました。ですからその上に日々立つように主は私たちに仰ってるわけであります。 しかし私たちがその道を外れると、主は私たちを揺さぶり、私たちの目を覚ましてくださいます。 もちろん主に立ち返った人が滅びに至ることはありません。それは確実であります。 しかし主は容赦なく私たちを懲らしめられるということもまた事実であります。それは私たちが本当の意味で健やかな者となるため。本当に祝福された者となるため。 そのために私たちはいつも罪を明らかにされ、悔い改めへ導かれ、本当に主の恵みの中に大いに用いられるために主は導いておられます。 主はクリスチャンだからといってその罪を不問に付すということはなさらないでしょ。反対でしょ。多くゆだねられた者には多く求められるのであります。 多く主にあずけられ、主があずけておられる人に対しては、多くの責任が問われるわけでありますから、それは当然であります。 ルカの福音書の13章1節からお読みします。 ルカの福音書13:1
このことをある人たちがイエス様に話したんです。報告した。 ルカの福音書13:2-5
クリスチャンの特権は、悔い改めるという恵みを知っているということであります。 イエス様のことばは非常に容赦ないと言いますか、やはりすばらしいと思います。普通の人間だったら、「いやー、彼らはほかの連中よりも罪深かったからだ。」とか、そんなふうに答えそうなもんですけども、イエス様はそう仰らなかったんです。 「そうではない。あなたがたも悔い改めないなら、同じように滅びます。」そういうふうに仰っているのであります。 本当に襟を正させられると言いますか。イエス様のみことばというのはいつもそうであります。 襟を正して、粛然として、こうべを垂れて、主の前に本当にひれ伏さざるを得ないんです。 マタイの福音書の7章。これもまたよく読まれる個所です。 マタイの福音書7:21
マタイの福音書7:24-27
先日ある家庭集会にお伺いしました。その集会が終わったときに、ある姉妹がちょっとお話しくださいました。 ご自分の姪御さん、この世的には恵まれて何不自由することもないにも関わらず、もう出口のない闇の中に閉ざされて動けない。そういう人々がいらっしゃるのであります。 聖書は、「人が人生に行き詰まるのはその人が真理を知らないからだ。真理に目が開かれ、真理に立っていることがないから、人は遅かれ早かれ行き詰まるのだ。」と言ってるのであります。 真理に目が開かれて、私たちが自分を今までがんじがらめにしているものから本当に解放されると、大学で色んなことを学ぶことは本当に楽しくなりますよね。学ぶことは本当に楽しくなってきます。 真理を知らないで、がんじがらめにされて、ただひたすら自分の名誉を追い求めて、自己実現のために人生を歩もうとする人間の根本的な罪に気が付かないために人は、必死に頑張りながらついにどうにもならない状況に自ら追い込んでいくんです。 聖書が語っている罪ということについて目が開かれるならば、そこから解放される道があるということに気が付くならば、人はまったく自由にされて、本当に喜んで学ぶことができますし、今までのようにひたすら自分の名誉を求めて生きる人生ではなくて、主が私たちに与えておられるように自分の賜物を用いて神に仕え、人に仕える。真の意味での喜びを見いだす者と変えられていくのであります。 そういう意味でどうにもならないような絶望的な状況とは、真理を知るようになるために、救いを知るようになるために、神がその人に与えてくださっている招きの声なのであります。 「真理を知りなさい。今までの人生にある根本的な問題に気が付きなさい。」という主の招きであります。 だから聖書に立ち返ってほしいと本当に祈らざるを得ないのであります。 一、二ヶ所、ちょっとお読みしたいと思いますけども。 コリント人への手紙第I、10:13
ヨハネの福音書18:37
ヨハネの福音書8:31-32
聖書は私たちに真理がなにであるかを示し続けています。 私たちは心から真理を知ろうと願うならば、私たちの目を開いてくださるんです。そして私たちをさまざまな重荷から、問題から解放してくださる。 「真理はあなたがたを自由にする。」と聖書は言ってるのであります。真理だけが私たちを真の解放に導き、私たちを本当の意味で救うことができるのであります。 最後にエレミヤ書の29章。有名なことばです。ここを読んで終わりたいと思います。 エレミヤ書29:11-14
そこまでで終わります。 |