しばらくご一緒に聖書の中から考えてみたいと思います。 まず、2〜3ヶ所お読みしましょうか。箴言14章12節、非常によく知られているみことばですけれども、まずそこを開けてください。 箴言14:12
もう一ヶ所は新約聖書から、ヨハネの福音書14章、これも非常によく知られているところです。 ヨハネの福音書14:6
もう一ヶ所、 ヨハネの福音書8:12
今お読みした3ヶ所、道ということが語られています。二種類の道があることが語られているんです。 一つはまっすぐに見えるけれども、死に至るところの道であり、もう一つは、イエス様、ご自身であるところのいのちの道であります。 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 いったい、救いに至る信仰とは、どんなものでしょうか?ということを考えてみたいと思います。 「イエス様を信じなさいそうすれば救われます。」と、聖書は非常にはっきりと語っています。聖書で一番大事なことは何かと言いますと、私たちが救いの道を見出すことなんです。 聖書は神様が私たちに与えてくださった手紙みたいなものですけれども、一番手紙で大事なことは大切なことをはっきり書くと言うことです。 他のことはどうでもいいけれども、一番大事ことははっきりと明確に書くと言うことが、手紙で一番大事なことです。 同じように、聖書は私たちにわからないことがいっぱいあります。おそらく、聖書が十分にわかるという人は世の中に一人もいないと思います。クリスチャンにとって大事なことの一つは、このことを知ることです。 聖書は十二分に人間にわかると思ったら大間違いです。私たちがわかるのはほんのわずかだし、私たちがわかるのは、私たちには、毎日必要なことだけがわかります。 ですから聖書がいっぱいわからないところがあっても、いっこうにかまわないで、それはあまり気にしないで、自分に必要なところを得るようにこころがけるのが大切なことです。 聖書は簡単にわからないし、一生かかっても十分わかることのない書物であります。 しかし救いについては、非常にはっきりと、またくり返しくり返し語られているわけです。 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 「私を信ずる者は永遠のいのちを持ちます。裁かれることがありません。」ということ。 このあいまいなこと一つもない非常に明快な言葉であります。このみことばに従がって、イエス様をもちろん私たちは信ずるわけですけども、イエス様を信じていながら、私たちはいったい救われているだろうかという疑問をいだく人々も、実は多くいるんです。 私の罪はもう赦されているんだろうか、私は神様に受け入れられているんだろうか、というふうにです、思い悩む人もよくいるんです。 比較的年をとられてからイエス様を信ずるようになった人は、そのことであまり悩まないようです。それは人生のやっぱり、いろんな経験を通して、余計な疑問を持たなくなるのかも知れません。 だから、年をとられて主を信ずることことも恵みだと思います。 自分の信仰について、救いについて疑ったり、悩んだりするのは比較的若い兄弟姉妹に多いのです。 私は本当に救われているんだろうか?こういうふうに疑問、恐れたりすることが大いにあるもんなんです。私たちは救いということについて真剣であればあるだけ、自分の救いについて心配するものなんです。 逆に言いますと、信仰をいいかげんに考える人は救いについて心配なんかしないんです。自分が神様の裁きの前にでなければならない、自分は本当にいろんな失敗をしてきたし、大きな罪も犯してきたけれども、本当に自分は神様の前に赦されるんだろうか、ということを真剣に考えている人だけが救いについて苦悩するんです。 ですからある意味では、救いについて悩んでる人は幸いなんです。救いにいて悩まない人は本当に信仰に対してもあんまり真剣に考えない人です。 私たちは、聖書が私たちに提供してるところの救いを、本当に自分のものとしてつかまなければなりません。そして心から安心しなければなりません。そして何よりも、この救いを受けたということを喜ぶ者とならなければならないのです。 信仰とは本当に嬉しいものなんです。信仰生活というのは本当に楽しいものなんです。楽しくない信仰生活とはどこかに問題があるに違いないんです。 私たちの信仰生活は喜ばしいものでなければならないんです。喜ばしい信仰生活を歩むには私たちは救いをはっきりつかまえなければならないのです。 そのためには正しい知識を必要とします。正しい聖書の知識がないために、不必要な心配や悩みを味わう場合が多いからなんです。ただそれだけでなくて、正しい知識がないために信仰から離れて、異端の歩みにそれる人々も多いからです。 現代、いろんな異端の動きがあります。たとえば原理運動なんていう動きがあります。あの誤った考え方は何かというと、根本的な聖書の正しい知識が彼らに欠けているからなんです。私たちは正しい聖書の知識を持つ必要があります。そして本当に喜び、安心して信仰の歩みを歩む必要があるんです。 それでは救いとはいったいなんでしょうか? 聖書は罪からの救いということをいってますが、いったい罪とは何でしょうか? 罪ということを勘違いすると、救いについても勘違いします。今言ったように、誤った、例えば原理研究なんていう一般の人々、特に若い学生たちがかって一杯各大学にいたんですけれども、彼らの誤りは何かというと、罪という考え方が根本的に誤ってるからなんです。 罪というのは人間のさまざまの欲望のことじゃないんです。私たちは本能的にいろんな欲望をもっています。それは神様が与えたものなのです。だから、何かそれを罪だと考えてくると、それがなくならなければ自分は救われていないに違いないと考えるのです。 だからイエス様を信じたけれども、さまざまの自分の欲望がなくならないから、イエス様の救いは十分でないに違いないと考えるのです。そしてまったく違った教祖なる人がでてきて、自分が第二のイエス・キリストであるというようなことで、多くの人を引っ張るようになって行くわけです。 聖書で言ってる罪というのは、私たちのいろんな欲望ではありません。欲望はある場合には必要なものなのです。そうでなければ私たちは食事することができないはずです。食欲という欲があるから私たちはおいしく食事をすることができ、自分の体を保持することができるわけです。 だから人間のさまざまの本能的な欲望というものを、いちがいにそれが罪だとすぐに考えることは誤りです。罪が何であり、罪が何でないかということをはっきり知ることが非常に大切なこととなるんです。 そうしないと、とんでもない誤解をしていって、余計な苦悩を味わうようになるからなんです。 じゃいったい罪とは何でしょうか?罪というのは根本的には神様を知らない人生を歩んでいるということなんです。 神様とのつながりを持っていないということなんです。 神様との生きた交わりを持たないで生きているということ、そのことを聖書は罪と言ってるんです。神様を知らないで生きているという私たちのそのあり方そのもの、存在そのものが罪なんです。 私たちがいいことができるか、悪いことができるかということはあまり問題にしていません、聖書は。 このことを覚えておくことが大切です。私たちがよいことができるか、いいことができないか神様の尺度からするとたいした違いはないのです。 人間の目に差があるように見えますけれども、神様からご覧になるとき、私たちの行いの大小は、ほとんど問題にならないんです。 そうではなくて、私たちが神様を知らないで、神様から離れて、神様なんか信じようとする気を全然持たないで、神様なんかいらない私は私の力で生きてゆくのだというふうに、神様に背を向けて生きていることを聖書は罪と言ってます。 神ご自身に背を向けている人間のあり方を罪と言っています。 そういうふうに神様に背を向けて歩んでいるこの人生においては、たとえどんなによい行いに励んだとしても、その行いから私たちを救い得る力はでてこないと聖書は言ってるんです。 たとえて言いますと、この世というのはゆっくりとですけれども、少しも一瞬間もとどまることなく動いているベルトコンベアようなものと考えてください。 ゆっくり、決してとどまることなく動いているベルトコンベアがあります。ちょうど私たち人間は、そのベルトコンベアの上に乗っているようなもので、いやがおうでもそれに運ばれて前進しなきゃならないんです。 そのベルトコンベアの上で人は、それぞれ自分の人生の目標を設定して生きるわけです。ある人は自分の感情のおもむくままに、享楽を追い求めて生きてるかも知れません。また他の人は立派な人間になろうと、一生懸命自己修養に努めるかも知れません。また他の人は富を追い求め、他の人は名誉を追い求め、また他の人はそれらすべてのものから超然として、生きようとしているかも知れません。 人にとって千差万別の生き方が、もちろん可能なわけです。しかしそのベルトコンベアの上に乗っかっているかぎり、どんなことをしている人でも、行き着くところは同じだと聖書は言ってるんです。それは滅びというところなのです。 すなわち「死」というところで人間のすべての生涯は終わるわけです。 すべての人間が必死に抵抗するけれども、必ず死という、いわば滝つぼの中に落ち込んでってしまうわけです。伝道者の書から、 伝道者の書2:13-17
ソロモン王はそのように結論を出してます。 問題は何かというと、結局私たちが最終的に死に至って、絶望に至るところのベルトコンベアの上に乗っかっているということなんです。それが実は根本的に問題なのです。 私たちがベルトコンベアの上で、ある人はいいことをしたり、ある人はちょっと悪いことをしたり、ある人は精神修養したり、いろんなことができます。 できるけども、ベルトコンベアは最後は死に至るわけです。このあり方そのものが実は問題だと聖書は言ってるんです。 神様を知らない人生、神抜きの人生にとっては、死が最後のピリオドであります。ですから私たちがあがいても、もがいても、私たちの人生は最初から負け戦と決まっているわけです。 本当に負け戦と決まってる戦いを、一生懸命に人々は戦おうとしてます。新約聖書エペソ人への手紙から、 エペソ人への手紙2:12
この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。聖歌にありますように、神なく、望みなくなんです。 神様を知らなければ、人間には何の望みもないんです。罪という神様抜きの人生というのは無意味さの中に捨てられている人生であります。 神様を知らない私たちの人生には、永遠というものは何一つ存在しないのです。すべてのものに終わりがきます。私たちはそのことを知ってるわけです。 虚無の中に捨てられていると言うこと、これが私たちの人生であり、それは神様が私たちの罪に対する裁きとして与えてるものなのです。 私たちが虚無の中に捨てられていることは、私たちの罪に対する裁きであります。神なしに生きようとする人間の高ぶりに対して神は虚無の中に捨てるという裁きを今なしておられるのです。 もちろんこの裁きは永遠のものではありません。神様はその中から救おうとして、今働いていらっしゃいます。ですけれども神様を知らないで生きている私たちの生き方は、何の意味もない無意味な人生になります。 人間はこの罪のゆえに盲目となって、自分がこの何の望みもない人生を生きてるということに気づかないで、平気で過ごしているんです。罪の一番大きな力は人間を盲目にするということでないか思います。 ですから、人間がどんなに道徳的努力をしようとしても、私たちのこの望みのない状態が少しも改まることはないわけです。人間のどのような生き方も、結局五十歩百歩の違いしかないと聖書は言ってるんです。 このことを私たちはしっかりわきまえる必要があるのです。 人間の行いは、ほとんど神の前に差がないんです。私たちは同じ流れに立っており、結局どんなに頑張っても、その罪の結果である滅びに至るより他にないからなんです。 聖書の言ってる福音、喜びのおとずれというのは、人間のこのどんな努力も、知恵も、悟りも、どうすることもできない、この絶望的な状態の中に神様が介入してくださったということなのです。逆の方向に進む、もう一本のベルトコンベアを神様が用意してくださったと言うことなんです。 ですから、救いと言うのは何かと言いますと、非常に簡単に言いますと、今までのベルトコンベアから、もう一つの神様が与えてくださったベルトコンベアに乗り移るということなんです。 救いとは何よりも古いベルトコンベアから、神が私たちのために備えてくださった新しいベルトコンベアへ乗り換えるということです。古い流れの中に乗ったまま、ああでもないこうでもないと思案することが信仰ではないんです。大切なことは乗り換えるということなんです。 救いということは、自分自身が聖くなるということではありません。さっきも言ったように、自分の中からさまざまの欲念が消えて聖くなることではありません。 もちろん人が聖くなることは喜ばしいこと、いいことです。さまざまの欲望から解放されることも悪いことではありません。しかし、それはどうでもいいことなんです。救いにとっては第一義的なことではないんです。まったく違った新しいベルトコンベアの上に乗せていただくことなんです。 今の流れのままに立っていながら、自分は救われただろうか、いや救われないだろうかと考えることは無意味なんです。 それじゃ古いベルトコンベアていうのはいったい何でしょうか?それは悪魔であります。エペソ人への手紙から...。新しいベルトコンベアとはイエス様のことです。 エペソ人への手紙2:1-3
と書いてます。2節の中に、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者とは、これは悪魔のことです。悪魔の霊に従がって歩んでましたと書いてあります。驚くべき言葉だと思います。 この世の流れというのは悪魔の霊に従がって動く流れなんです。私たちはこの流れの中に生きていた者です。ですけれども、神が新しいベルトコンベアを私たちに備えてくださったと言ってるんです。 エペソ人の手紙2:4-9
救いというのは私たちのうちからでるものじゃない、私たちの心が聖められたから救われるのじゃない、私たちが立派になったから私たちが救われるのではない、決してそうではないんです。 私たちを聖めてくださり、私たちを立派にするのは、もちろん神様の目的です。ですけど、そうするのは神様の働きなんです。大切なことはイエス・キリストのもとに私たちが行くこと、イエス・キリストのご支配の中に入ることです。 イエス様の方に私たちの人生が向きが変えられることであります。イエス様は私たちをサタンの支配の中から救い出すために、この世に来てくださったんです。私たちの目を開いて、私たちに罪の滅びを示してその道を行かないように、私たちに救いの道を示されるために来られたのであります。 ルカの福音書19:10
と書いてあります。 私たちは悪魔によって全く盲目にされ、罪と死の中に今閉じ込められていた者なのです。何の望がないのにかかわらず、望みがあるかのように本当に生きていた者なのです。 自分が闇の中にいることも気がつかないで、私たちは生きていました。全く滅びに向かってばく進していた者です。自分自身を滅ぼすだけでなく、自分に連なる人々、家族を苦しめていることも気づかないで生きてきた者です。 本当に私たちは罪ゆえに盲目になっていた者です。罪というものは本当に恐ろしいもんです。自分がどんなに自分自身を駄目にしているか、自分の家族を苦しめているかすら気がつかないんです。(A面終わり) 自分のことしか考えないで生きていながら、そのことについてなんとも思ってない。本当に罪っていうのは人間を完全に盲目にするもんなんです。 何10年そうして生きていながら、それに気がつかないで70、80歳近くになって生きていても、自分のことしか考えないで生きています。 ある姉妹に軽井沢で会ったんですけども、姉妹が言ってました。「主人は自分のことしか考えない。昔からそうなんです。だけども、そのことに気が付かないのです。」 人間て本当に悲しい者です。それは私たちがまったく盲目になっているからです。この盲目の目を開くためにイエス様が来てくださったのです。 私たちのイエス様は、闇を照らすために来てくださったのです。イエス様のみことばが入るときに、私たちはこのエゴに、朝から晩まで自分のことしか考えることしかできない自分の姿に、気がついて驚くんです。私たちは聖書の言葉を聞き、聖霊の啓示によってだけ、自分の罪と望みのない状態に気づくんです。 私たちの魂を目覚めさせるもの、私たちの心の暗闇に光を投ずるもの、それが聖書のみことばであり聖霊なんです。 だから人は聖書のみことばを聞かないと、決して目覚めることはないんです。自分が悟りによって、自分のエゴ中心の、自己中心の生き方の問題点に気づく人は一人もいないんです。 クリスチャンの使命というと、何かというとこの光を投ずることなんです。クリスチャンの集まりである教会の持ってる使命は何かというと、人々が気づかないでいるこの罪の闇路に神様の光を投ずることであります。 だから、もちろんそれは悪魔との戦いに他ならないんです。悪魔は人間を盲目にしよう、盲目にしようとします。悪魔はこれでいいのだ、これでいいのだといつも私たちに教えようとします。 ですけれども、聖書の光が私たちの目を開くのであります。 エペソ人の手紙6:12
エペソ人の手紙6:11
と書いてあります。私たちがみことばを述べ伝えるのは、悪魔のわざを打壊すためなんです。クリスチャンたちは、その戦いを行なうために召されている者であります。 神様はなかなか巧みな方なんです。今までは神様を知らずに、神に敵対していた私たちをご自分のものとして、救いとって、今度は神ご自身の兵士として用いてくださる方なんです。本当に神様はそのようにして用いられます。 コリント人への手紙第2、4:1-6
4節に「この世の神が不信者の思いをくらませて」と書いてあります。この世の神とは悪魔のことです。悪魔がこの世の人々の思いをくらませて、神様の救いを見させないようにしているのです。 私たちは、その人々に神様のみことばを投ずるのだと言ってるんです。ですから本当に大切なことは、やっぱり神様のみことばを聞くことです。聞かないで人は罪に目覚めることはないのです。 自分の根本的な問題が何であるかを多くの人は気づかないんです。ここにいらっしゃる多くの兄弟姉妹そうでしょう。教会にいらっしゃるのは、何か問題に突き当るからです。 ある兄弟はこの前受洗されましたけども、アルコールで随分苦しんでおられたようです。問題がなければ誰も教会に来ません。しかし神様を知らないうちは、そのお酒ならお酒が問題と思ってるんです。そうじゃないということなんです。これを知るということが大事なんです。 夫婦の仲が悪いという、行き違いばっかりと言うんです。それが問題と思ってるんです。 彼がああいうことをする。それこそ時間を全然守らないとか、掃除をよくしないとか、主人は何とかばっかりする。そういうことが問題だと思ってるんです。そういうことを考えてるのは根本的な間違いなんです。聖書が言ってることは、もっと根本的なことに私たちは目を開こうとしないんです。 お酒が問題でないんです。夫婦の性格の違いとか、ルーズだとかなんとか問題じゃないんです。そうじゃなく私たちが神様をのけものにしているということ、私たちの罪そのものが、実は問題の根底にあるということなんです。 そのことに気づかなかったら、問題は必ずもとの振り出しに返ってくるのです。そのことを私たちはよく覚えておく必要があります。 教会に行って問題が解決しましたと思って、それで十分だと思っていますと、また必ず問題がでてきます。今までよりもっと大変な問題が起こってくるでしょう。なぜならば根本的な解決が全然なされていないからです。 大切なことは、私たちが個々の問題に対処することではなく、根本的な私たちのあり方そのもの、すなわち罪というあり方です、そのことが問題なのです。 ですから私たちが本当に徹底的になすべきことは、その罪というものの根本的解決、神なき人生そのものを私たちが根本的に方向転換するということなんです。そこに立たないかぎり、私たちは決して根本的な問題の解決に達することにはならないんです。 神は私たちにいろんな問題を与えてくださいます。その問題がなければ教会へ行かないから、私たちの問題は本当にそういう意味で、むしろ幸いだということなんです。 イエス様がおっしゃているのは、私たちが今まで経験してきた問題は、全部私たちにとって必要なことでありました。そうでなかったら砕かれろことはなかったし、神様のところへは行かなかっただろう。 しかし神さまのところへ行ったら、私たちは罪こそが自分たちの根本問題であることに気づく必要があります。 私たちの問題は何か?それは神抜きの人生を歩んでること、神様を知らずに生きていること、私たちは意識しておりませんけれども、サタんの支配の中に、神に敵対する者として生きているということ、そのことこそが問題なのです。 だから私たちはサタンの支配から、イエス・キリストの支配の中に移る必要があるんです。 イエス様に従がって、イエス様と一緒に同じ方向を向いて生きるという、人生の根本的な転換をする必要があるんです。 これこそが救いなんです。 いいですか、救いというのは、私たちが聖くなったということではない、私たちのさまざまの欲望がなくなったということではない、よき行いができるようになったということじゃないんです。そうじゃなくてそれは枝葉の問題なのです。 私たちがイエス様と同じ方向に向かって、神ご自身の方向に向かって生きるという、根本的な転換をすること、これが聖書が言ってる救いであり、根本的な解放に他ならないのです。 私たちがこのことをしっかりわきまえておれば、私たちは自分の救いについて、ああだこうだと悩む必要はないんです。 救いをはっきり知った人は、自分自身についてがっかりしないんです。もうそれが当たり前だからです。自分はもうどんなに頑張っても、自分はがっかりするに値する者なんです。 だから私たちの弱さや自分のいろんな欠点を、あまりあげつらう必要はないんです。それはあんまりたいしたことじゃないからです。 人には誰でもが、パウロが言ってるように、自分自身の負うべき重荷というのがあります。クリスチャンになったからといって、重荷はなくなるわけでないし、痛みがなくなるわけじゃないんです。 イエス様を信ずるようになったからといって、人はコンプレックスを持たなくなるわけじゃないんです。すべての人は劣等感は持ちますし、それは確かに痛みとして残るでしょう。 それはあえて取り除く必要はないのです。あるがままにしておきなさいと聖書は言ってるのです。無理に無くそうとするのはやめなさい、主が自然に取り去ってくださる時が来たら、取り去っていただいたらいいんです。 コンプレックスがあればあるままで、そのまま歩みなさい。それはどうでもいいことだからなんです。 よき技ができなければできないなりにそれでよろしい、それでいんです、無理に頑張る必要はなにもないんです。 私たちの根本的なあり方そのものが転換をしていれば、それでいんです。 神様に敵対する者、神様なんか全然計算に入れてなかった人が、神様の方向に向かって生きよう、神様を見上げて歩もうとそこに立ち返る時に、私たちは救いを見出した者になるんです。 神様がイエス様を通して与えようとしていらっしゃる救いというのは、そのことなんです。だから一つ一つのさまざまな行い、失敗ということはあまり気にかけないでよろしい、神様はそれをいくらでも赦してくださいます。人殺しだって赦してくださるのですから、神様の前に赦されない罪はないんです。 神様が私たちに提供しようとしていらっしゃるのは、今までの生き方そのものを変えることによって、神ご自身の光の中に私たちが歩むようになることであります。 イエス・キリストのご支配の中に私たちが本当に入る決心をすることで、ですから、これは私たちの決心にかかりますし、それが聖書の言ってる悔い改めであります。 悔い改めとはよく言われているように、もともとのギリシャ語では、メタノイヤと言うんだそうでありますけれども、それは「ああ悪かった」というんじゃないんです。多くはそう思うんです、ああ悪かった。 それは、もちろん、悪かったと思うことはいいことです。しかし、そういう人間の感情ではありません。メタノイヤは「転換」という意味です、180度の転換という意味です。 ですから、ああ悪かったと思ったとしても、その人が転換しないならばその人は救われません。その人は同じ問題の中にまたとどまります。まだ重荷を負ったままでゆくことになります。問題は、全然解決していませんということなんです。 だから悔い改めということは私たちのあり方そのもの、人生の方向そのものを180度の転換をすることです。 このまま行くことは、結局滅びにしか到達しない。滅びに到達する前にすでに、自分の人生に破綻をきたしているそのことに気がづいたら、聖書が語るように、その原因について聖書が語るように、はっきりわきまえる必要があります。そして神ご自身の方に向きを変える必要があります。 コリント人への手紙第I、1:9
救われた人とは誰でしょう。クリスチャンとは誰でしょう。神のあわれみによってイエス・キリストとの交わりに入れられた人のことなんです。 今までは神なき人生を歩んでいました。望みなき人生を歩んでました。今はイエス・キリストとの交わりの中に入れらているんです。すなわち、イエス・キリストとともに歩む者となることです。 イエス・キリストの御心をたずね求め、イエス・キリストを愛そうとする人、このことを交わりと言うんです。交わりとは本当に、一つの心になることであります。 そしてイエス・キリストとの交わりに入る者は、すなわち神との交わりに入ることであります。私を通してでなければ、誰も父のもとに来ることはありません。イエス様がおっしゃたとおりなんです。 イエス様に従がう時に、人は光の中を歩むようになります。そしてイエス様がおっしゃてるように、私に着き従がう者は光の中を歩みます。その人は闇の中にとどまることがない。その人は永遠のいのちを持ちますとはじめに読んだ通りなんです。 ですから私たちは明確な態度決定、選択を行なわなければならないということになります。今までの人生を続けるか、それともイエス・キリストを選びとって、イエス・キリストとともに生きる人生を選ぶかという決定がなされなければなりません。 マタイの福音書6:24
私たちは選ばなければならない人生の方向そのものを決定しなければならないと言ってるわけです。 ペテロの手紙第I、2:22-25
イエス様が十字架の上で死んでくださったのは、私たちがあの古き滅びに至る人生から離れるためなんです。私たちは悪魔によってしっかり押えつけられていた者でした。悪魔によつてがっちりと捕らえられていた者なんです。 私たちは自分の力でそこから抜け出ることは決してできないんです。この悪魔のワナを打壊すためにイエス様は十字架の上で死んでくだすったのです。 イエス様が十字架の上で死んでくださったから、私たちは悪魔の手から解放される力が与えられてるんです。イエス様はご自分の死によって、死を持つ悪魔を滅ぼされたと聖書に書いてあります。 イエス様が死なれたために、私たちは悪魔のワナから、悪魔の支配から解放されある道が開かれているんです。ですから、私たちはイエス様を選んで悪魔の支配から抜け出ることができます。 私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。根本的なはっきりとして転換が行なわれる必要があるんです。 ペテロの手紙第I、1:3
イエスさまがよみがえられて、その結果私たちは全く新しい人生へ導くようにしてくだすったのです。 イエス様を、人が本当に心から信ずる時に、その人の目は開かれ永遠への世界に対する望み、確信を持つようになります。 今まで知らなかった永遠の世界があること、目に見えない世界があることに、その人は必ず気がついてゆくんです。 そのために私たちが心からイエス・キリストを信じて従がって行くという決心を与えられる必要があるんです。 くり返して言いますが、はじめのテーマでいいますと、救いというのは主観的な思い込みではなく、客観的な生き方そのものなんです。人間の人生の方向そのものだと是非覚えてください。 そうすれば、自分の頭の中に自分は救われているだろうかいないだろうかという無駄な悩みをすることはないんです。救いというのは方向そのもの、私たちの人生にあり方そのものがどうなっているか、神様の方にしっかり向けられた転換を私たちが行ってきたかどうかなんです。 もし心からその決心をするならば、後は何の心配もする必要はないんです。私たちは日々の信仰の歩みおいて、信仰が弱くなることもありますけれども、神は必ず私たちを捕らえてくださいます。だから心配しないで、もちろん悔い改めながら、神様の前にへりくだりながら、私たちは信仰の歩みを歩むことができます。それは神様の約束なんです。 神ご自身に向かって歩むこと、イエス様がずっととり続けられたように、イエス様のご生涯を福音書でよく調べてください。 イエス様の人生と他の人々の人生とは正反対の方を向いていることがよくわかります。イエス様の思いはいつも神様のところに注がれています。父の御心は何か、イエス様の全生涯が向けられています。 弟子たちをはじめ、全部人々の思いはこの地上のことだけなのです。自分たちは何を望んでいるか、自分はどうしたら楽になれるか、どうしたらローマの圧制から解放されるか、せいぜいそのことくらいしか当時の人々は考えないんです。 だからイエス様を理解する人は一人もいなかったんです。あの当時イエス様はそういう意味で孤独でした。けれどもイエス様は、御父だけをただ仰いでおられました。イエス様の歩まれた道は、人々の歩む道と正反対に向いていたのです。 だからイエス様とこの世は激しく衝突せざるを得なかったし、その結果イエス様は十字架にまでかからなければならなかったのです。私たちもかっては、この世の生き方をしていたんです。 しかし今、イエス様が歩まれた方向に方向転換させられている者なんです。だからこの世と食違うのは当然だし、衝突するのはある意味で当然なのです。 しかし私たちは別に意気込む必要もありません。なぜならば神を信じて従がうなら、私たち圧倒的な勝利者となるからなんです。私たちはもうすでに勝利をあらかじめ与えられている者なんです。私たちの勝利は決まっているものです。 さっき言ったように、この世の歩みをするかぎり負け戦と決まっていたのです。神様を知らない時、どんなに頑張っても結局打ち砕かれるだけです。人間は最後に力つきて倒れるだけです。 頑張れば頑張るほど、人は打ちのめされます。これが罪の人生の必然な結論なんです。しかし神様を信ずる時に、もう私たちは勝ってあまりある勝利を与えられているんです。 だから、なにもあくせくする必要はないんです。本当に、悠々として勝ってあまりある人生を歩めるのがクリスチャンなんです。 テトスへの手紙3:3-6
この4節の中に福音のエッセンスが詰められているんでないかと、ぼくはいつも思うんです。 この3節、パウロはかっての自分の生涯を描いています。あの聖パウロなんて讃えられた人でも、かっての自分の人生を思い返す時に、本当にそれが闇の中にあったことを彼は書いてるんです。 「愚かな者であり、不従順であり、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」 本当にこれこそ闇なんです。これこそ罪との境なんです。しかし神は私たちが行なった義のわざによってでなく、私たちが立派なわざを行なったからでなく、ご自分のあわれみのゆえに一方的に救いの道を開いてくださいました。私たちをその道に影を映そうとして招いていらっしゃるです。 このイエス様が開いてくださった救いの道に乗り換えること、新しいベルトコンベアに乗り換えることこそが、一番大切なことなんです。そうすれば、私たちは勝ち得てあまりある信仰の生涯を歩むことができるんです。 最後に、ある、ちょっと、私も知ってる伝道者が書いてる・・ (ここで録音切れにつき、終わりです。) |