引用聖句:マタイの福音書7章15節-20節
イエス様の語られることは、いつも非常に単純な例えを通してですけれども、動かすことのできない真理を語っておられると思います。 「実によって木は見分けなさい。」、私たちの信仰も、信仰から出てくる実によって判別できるのですという意味でありますけれども、ずっと心の中にあること、以前からうすうす思ってることでもあるんです。 私などは、初めから吉祥寺の集会のほうに導かれて来まして、ほかの集会っていうものを知らないんです。信仰生活と言えば、すなわちそれは吉祥寺での二十年間の歩み以外にないのであります。 しかし私の正直な実感では、本当に豊かに恵まれた、豊かなカナンの地であった、蜜と乳との流れる豊かな地であった、そういうところに導かれて来たという思いは、いつもあるわけなんです。本当にそういう意味で、良かったと、主の恵みは非常に豊かであったと思うんです。 いつもいいことばっかりあったかって言ったら、別にそうではないんです。色々な試みもありましたし、色々あったんですけれども、そういうものを勘案してみても、やっぱりこの集会に導かれたことは、本当に幸いであったと、割り引かないで正しく判断するときに、そう言わざるを得ないのではないかと思うんですね。 別にこれは、私だけの感想ではないと思うんです。集会を離れて、舞い戻られる方々もいらっしゃるからなんです。そういうことを、やっぱり公平に見ますときに、本当に幸いだったと、心から思うわけです。 で、時々思うんですけれども、私たちの課題は一体何だろう。私たちに託されてる使命はなんだろうと。それは、そのときに、この実り豊かな信仰を私たちが正しく受け継ぐことこそが、私たちの大きな責務ではないだろうかというふうに考えるわけです。 豊かな信仰を、実りの豊かな信仰を、私たちが日本にしっかりと根付かせること。これは、あくまでもベック兄たちを通してこちらに、われわれに伝えられたものなんですけれども、それを私たちが、本当に日本に、深く根付かせていけるのかどうかというのが、私たちの、伝えられた者としての責任ではないだろうかと、よく思うんですよね。 そのために一体、何を学ばなきゃいけないだろうかということを、強く思うわけです。この前も、ある家庭集会でちょっと学んだんですけども、そういう意味で、いったい正しい信仰、さらに正しい集会のあり方っていうのはどういうものなんだろうっていうことは、私たちにとっていつも重要なテーマとして迫ってくるわけであります。 正しい信仰っていうものは、本当に、非常に重要な問題であって、信仰が誤るとこれほど怖いものはないと、いつも思うんですよね。それは両刃の剣にほかならないと思います。 この前も、中南米の麻薬か何かの組織で、悪魔を礼拝する集団が、何人かいけにえに人を殺したと報じられていましたが、そういうことなんか見聞きするにつけても、恐ろしいなとわれわれは震え上がってしまいます。 本当に、正しい信仰に立ち、正しく主を恐れるということが、いかに大切なものであるかということを、教えられると思うんですね。 どうして信仰というのは、こんなに両刃の剣のようなもんだろうか。信仰というのはいつも怖いと、僕は思ってるんですが、それはなぜなんだろう。それはおそらく、安易な姿勢ではいけないのだ。もし信仰というのが、そういう危険をはらまないものであるならば、私たちは安易に、寝そべるようにして、信仰でいけるわけです。しかし、そういうわけにはいかない。 本当に正しい信仰に立つために、私たちはある意味で、自分の全身全霊をもって、信仰の道に歩まなければいけない。そういう者であるから、信仰が反面非常に怖い。誤ると非常に恐ろしいところに人を導くということが、言えるんじゃないかと思うんですね。 だから、自らの立っている信仰ってものを、いつも正しく吟味していくってことは、クリスチャンにとって、真剣な日々の営みでなければならないわけですね。他人任せにとてもしておくわけにはいかない。みことばに照らして、主の前に祈る祈りを通して、自分の歩みが本当に正しい歩みなのかどうかっていうことを、吟味させられている、しなければならないと思うわけなんですね。 信仰っていうものは、一つの立場に立つと、他のものっていうものは、何か誤っているかのような、奇妙なものであるかのように思えてくるところに、信仰の怖さがあると思います。本当に、自分たちを正しい者として、ほかのものは間違っていると言って、考えているわけであります。 まるで一つの神が、いくつにも分けられて、神々の争いのような、非常に厄介な混乱を引き起こしているのが、現状であります。 私たちはそういう中に立たされて、いったい自分の立っている立場っていうものは、本当に聖書に照らして正しいものだろうかどうかを、いつも問われているわけですね。 どの立場がもっとも正しいかということを判断する基準は、聖書なんですけれども、その判断基準である聖書が、今度は聖書の字句の解釈ってものも、実は容易ではないわけです。 例えば、良い実とイエス様は仰ったけども、良い実とはいったいどんな実ですか。正しい実と、偽りの実はどういうふうに区別しますかってことを言い出してくると、議論はいくらでも紛糾する可能性はもっているわけです。 「聖書全体の意味するところから、判断しなさい。」と、よく教えられますけども、聖書の全体からみて、正しくそのみことばを判断するってことも、決して簡単ではないってことを、私たちは知っていますね。 そうなってくると、本当に私たちは自分の信仰の立場を正しく見ていくということは、容易ならざる問題であるということに気が付いてまいります。 この、聖書を正しくつかまえる、聖書の語っているみことばの意味を正しく判断するには、どうしても欠かすことのできない条件は、一つあると私は思うんですね。 それは何かというと、正しい救いの門から、信仰に入っているかどうかっていうことだと思います。すなわち、罪の悔い改めとイエス様を信ずる信仰によってその人が新しく生まれたものであるかどうか。 これが、どうしても欠かすことのできない点だと思うんですね。もしそうでないならば、その人が本当の意味で、罪の悔い改めと新生、新しく作られたものという経験の中に導き入れてなければ、すべては狂ってくる。聖書の見方一切が、大きくずれてくる。 初めは微妙に違ってるように見えますけども、先に行けば行くほど、進めば進むほど、それは大きな隔たりとなっていくということが言えると思うんです。 いわゆる異端といわれる人たちの一番の問題は、罪からの救いという肝腎な的を逸脱しているということであります。 ある方のパンフレットを読ませていただいたのですが、罪っていったい何か、罪から人間が悔い改めて、キリストのいのちにあずかるとはどういうことか、そういう本当の新しく生まれるということ、救いってもののもってるところの、人間のたましいを本当に新しく生かしめる、そういうものでは全然ないんですよね。 ですから、どうしても欠かすことのできないものは何か、やはり私たちが罪を悔い改めて、イエス様によって新しくされること。これこそが、なくてならないで出発点ではないかと思うんです。 これがなければ、結局どのような妥協案を出していっても、お互いに一致することができないわけですね。そこで、そういう本当に主の救いにあずかっている人々が、いったいどういうふうな立場でなければいけないだろうか、ということが次の問題として出て来ると思うんです。 そこで、私たちの集会というのは、教会と違って、牧師制ってものを否定しております。いわゆる聖職者というのと平信徒という、聖俗二分といいますか、聖なる職業と、俗とを二つに分けるということを認めません。 すべての信者が神さまの前にまったく同じ基本的な立場をもっている、というふうに聖書は教えていますし、牧師制っていうようなことは、聖書を私がよく読んでいけば、どこにも書いてないことがわかります。 主にある兄弟姉妹たちという形で、兄弟たちが、集会の群れの責任を主の前にとっていった、負っていったっていうことがはっきりと、わかってきます。 ただ、だからといって、すべてのクリスチャンが同じ使命をもっているのではないということ。同じ責任を負わされているのではないということですね。一人一人の賜物に応じて、その時と所に応じて、一人一人のクリスチャンに与えられている使命は異なっているということ。 また、その使命に応じて、神さまが一人一人に与えておられる権威もまた異なってくるということ。これは、聖書が私たちにはっきり伝えているところだと思うんですよね。 ある特定の人が、終生、生きてる間中、同じ賜物をもっているとは限りませんし、同じ使命をもっているとは限りませんし、同じ権威を与えられているとも限らないということも、聖書から言えると思います。 それらの賜物が与えられるのが、その人に使命が与えられているからです。そしてその使命を果たすために、主はさらにご自分の権威をも、そのクリスチャン一人一人に与えてくださるわけであります。それらのものは、その人の信仰に応じて、その人が主に対してどういう姿勢をもってるかに応じて、変わってくるわけであります。 そういう賜物と使命と権威とが、いつでもその人の、生まれつき与えられているものであると考えるということは、大きな間違いであると言えると思うんです。 そうではなくて、信仰に応じて、主はそれを与えてくださる。ある場合には、それを取り去ってしまわれる可能性があるわけです。神は、ご自分の栄光のために、すべての信者を用いようとなさってると、聖書は言ってます。 ちょうど、オーケストラの、あれだけの、何十人の人々が、一つの調和をもった音楽を奏でるように、多くのクリスチャンたちが、一人一人賜物は違いますけれども、それが全体として非常に麗しい調和を生み出していく。それが、主の御心ではないかと思うんですね。 オーケストラというのは、世界の音楽のうち、ヨーロッパだけにしかない音楽の形式だそうです。ほかの国々は、どこへ行ってもないのだそうです。 で、一人一人がそのパートを受け持ちながら、全体としては非常に麗しい調和を生み出していく。そういうふうに主は、ご自分の栄光を現わす備えのある人々に、賜物と使命と権威とを与えられるのである。信仰が失われるときに、それらのものもまた、奪い取られてしまうということを、覚えておかなければいけないと思うんです。 使徒の働き6:1-6
12使徒たちが、いわゆる執事と言われる人々を選び出したんですね。これは、食事の配給において、苦情が起こらないように、世話をするために選ばれた人たちだったんです。 7人の信仰の兄弟たちが選び出されたわけであります。ところが主はこの中のステパノを選び出されて、未信者たちの前に主の証しをする者として、主のみことばを語る者として引き出していかれるんですね。これが7節からずっと7章まで、ステパノの殉教に至る過程なんです。 こういうのを見てくるときに、12使徒たちは執事として選んだんでしたけれども、主はそうご覧になりませんでした。信仰と聖霊に満ちたステパノから選ばれて、自分のみことばを大胆に語る者として、立てていかれたんですね。 そして、ステパノは最初の殉教者として召されていきます。この、殉教の場に立ち合わせていたのが、あのパウロでした。ですからパウロの回心の伏線になったのは、間違いなくステパノの殉教だったと思います。 彼の顔は光り輝いて、御使いの顔のようだったと、15節に書いてますけども、おそらくパウロは、ステパノを見たときに、大きな衝撃を受けたのだと思うんですよ。 (テープ A面 → B面) 人間の義は、他に対して攻撃的になり、非常にピリピリします。人間の義というものは、そういうものだと思います。自分の正しさっていうものを人間が追い求めれば、人は非常にピリピリとした、本当の意味での平安と寛容を失ってきて、そういうふうになるもんだと思うんですけども、ステパノは、それとまったく正反対のものをもっておりました。 彼の顔は輝いていましたし、彼には、本当に揺るぎない確信と平安と、自由があったんですね。彼の殉教の死の様は、パウロからすれば、本当に考えられないタイプのものを示しております。 だから、これがパウロに大きな衝撃を与えたことは間違いないと思うんですね。ステパノの殉教の死を通して、パウロという、主の器がおこされてきてるのであります。 こういうふうに主は、一人一人のクリスチャンをご自分の意のままに引き出され、用いていかれるわけです。逆に、信仰を失ったがゆえに、主からの賜物と使命と権威とを失ってしまった人々の例も、聖書の中にいっぱい出てきます。 初代のイスラエルの王であったサウルなどは、ひとつの典型なんですね。彼が、イスラエルの王として選ばれたときには、非常に謙遜な人であったと聖書は書いています。彼は荷物の陰に隠れて、姿を現わさずに、「私はとてもそういうことのできる人間ではない。」と言ったと書いてあります。 しかし段々段々、サウルは信仰から離れていき、主から見捨てられるような、本当にみじめな恐るべき境遇の中に入っていくんですね。 サウルは、自分の王としての権威を、神からいただこうとしなかったんです。 ウォッチマン・ニーが、ある本の中で書いてますように、権威というものは、神ご自身だけがもってるもんなんです。だから、人間にこの権威が与えられるのは、人間自身から出るもんじゃないんですね。それを勘違いすると、とんでもないことになるんですね。 王の権威を自ら持とうとすると、おかしいことになります。上司が上司の権威を自ら出そうとすると、おかしいことになるんですね。そうじゃなくて、権威というものは、神の前に人間が正しく立つときに、神ご自身がその人に権威を与えられるんです。 だから、正しさに立つ、あるいは真理に立つといいますか、神ご自身の前に人間が正しく立つときに、その人には主の権威が与えられてくるんですね。王の権威も、実はそうであるはずなんです。 特にイスラエルの王であれば、当然のことですね。ところが、サウルはいつも、王としての権威を自分の手で保とうとするんです。そこに、落とし穴があります。だから彼は、神と民の両方を天秤にかけながら、あっちに走ったりこっちに走ったり。もう滅茶苦茶なんですね。両方を折衷案でくっつけてみたり、というようなことをやり始めます。 汚れというのは、ふたつの違うものがごちゃ混ぜになってるものなんだそうですけれども、信仰的な霊なるものと、肉的なものとがごちゃ混ぜになっている。 何かことを行なうにも、信仰から出たものと、人間的なものとがごちゃ混ぜになってしまっている。見分けがつかないようにごちゃ混ぜになってしまっている。そこに問題があると思うんですね。 やっぱり私たちは、信仰から出るということになってくると、100%信仰に立って考えなきゃいけないわけです。 それを、両方いつもごちゃ混ぜにしてるのが、サウルの特徴であります。ですから神は、「わたしはサウルを王にしたことを悔いる。」と仰っているんですね。これに対して、ダビデは全然違ったんです。 ダビデとサウルはどこが違ったかといったら、ダビデは、この神の偉大さをよく知っていたっていうことなんですね。一言で言うと、神に捨てられるならば、どんなにイスラエルの民に受け入れられても、何の意味もないってことを彼はよく知っていたんです。 例え全世界を得ようとも、神に見捨てられるならば、一切は無意味である。それはもう、ダビデにとってはよくわかったことでした。だから逆に、ダビデはすべての人に見捨てられても、神さまにのがれをもってる。それだけで彼は良かったんです。 いつも主がいっしょにいてくださる。この全能の主が、自分の味方でいらっしゃる。そのことだけで、ダビデは十分に立つことのできた人だったんですね。 神を失えばすべてのものを失う。これがダビデの信仰だったんですね。 内村鑑三の「所感十年」にある、短い文章にこんなのがあります。 珊瑚(さんご=財産の意味)失うも可也 願わくは神の御顔を失わざらんことを 病に悩むも可也 願わくは神のみこころを疑わざらんことを 人に捨てられるも可也 願わくは神に捨てられざらんことを 死するも可也 願わくは神より離れざらんことを 神はわがすべてなり 神を失のうてわれはわがすべてを失うなり と、彼は書いてますけども、ダビデの詩篇を読むとそのことがよくわかりますね。ダビデは本当にこの神の懐にもすがるようにして、いつも逃げていた人です。 問題があれば、主の懐に、幼子が自分の父の懐に逃げ込むようにして、懐の中に彼は逃げ込んだ人、かくまわれた人でありました。 ですから逆に言うとダビデは、人間を恐れなかったんです。民を恐れる必要はありませんでした。そういうところに、ダビデとサウルの根本的な違いがあるということがわかります。 ダビデはいつでも自分の心を注ぎ出して、あるがままに、父なる神の懐に逃げ込んでいく。失敗しても、上手くいっても関係ない。間違えば、それを隠そうなんて、そんなことじゃない。あるがままに、本当に砕かれて、父の懐の中に飛び込んでいく。そこに、ダビデの幼子のような本当の信仰があったと思うんですね。 ダビデの信仰態度から教えられることですが、もう一つ、実はあるんですけども、このサムエル記や、そこら辺りを読みながらちょっと心にかかっていたことの一つですけども、サウルはダビデの義理の父にもなるんです。ダビデは、サウルの娘のミカルっていう娘を自分の最初の妻にしたんですね。 しかしサウルは、このミカルをダビデから取り上げて、よそに嫁がせたりして、ひどいことをしたんですけども、義理の父にあたるんですが、このサウルに彼は本当に長い間、いのちをつけ狙われて追われました。 彼は、荒野から荒野に、ほら穴からほら穴に逃げ回っていた人です。ところが、何べんかサウルを討つことのできるチャンスはあったんですね。そういうサウルを、ダビデの家来たちは、「主があなたに渡したのだから今、彼を討て。」ということを何べんも勧めています。 ところがダビデは絶対に、自分からサウルに手を下そうということはしなかったんです。どんなに追い詰められても、サウルに攻撃をするっていうことは、ダビデはいっぺんもなかったんですね。 それはダビデ自身の言葉があるんですけれども、主の立てられた試練に、ダビデは耐え忍びながら、従い通しているんです。 「主がさばいてくださる。」、主に立てられた王座であるから、どんなことがあっても自分はサウルを討ってはいけないのだということで、決して反撃をしようとしないんですよね。 そういうところに、僕は、やっぱりダビデの信仰のあるものが、深い示唆が、私たちに与えられてるのではないかと思うんです。 ダビデは、逃げ回ることばっかりはしましたけど、自ら絶対に自分の義父であり、王であるところのサウルに攻撃を加えませんでした。 信仰の歩みにおいても、色んなつまづきがあり、攻撃や、色んなことを受けることがあるわけです。われわれは、今日武器を持ってお互いに戦いませんけども、信仰上の色んなことで、お互いに角突き合わせることはあるわけです。 そういうときに、いったい私たちはどういう態度を取るべきかということを、やっぱり、主が立てられた秩序というものがあるっていうこと。そのことをよくわきまえる必要があるのじゃないかと思うんですよね。 ダビデがやっぱり、祝福された器であった理由の一つが、そこにもあるのではないと思うんですね。 上に立つ者、自分に信仰の導きを与えてくださった人々。そういう立場というものはやっぱりあります。私たちは、そういう人に導かれて、信仰の歩みをいたします。そういうところにおいて、どう立つべきかということがやっぱり、そこから出てくるのじゃないかと思うんですね。 自分が正しいかどうかということを超えて、あるんじゃないかと思うんです。 もしどうしても自分の生き方と違い、自分の確信と違うならば、私たちはそっと別の道を、主の示された別の道を選べばいいわけですね。 そうでないということは、やっぱりそういう違った生き方をするのは、よほど注意しなければいけないのではないかと僕自身は、思ってるわけです。 主は、ご自分の集会をよくご存知で、必要に応じて、必要な器を残してくださいます。だからさっきも言ったように、特定の人が牧師とか教師とか長老とかに定められているのではない。そうじゃなくて、その役割を果たす人が、主によっておこされるのであるということであります。 ふさわしくない人が、かつてはふさわしかったかもしれない。しかし、ふさわしくなくなるかもしれない。そういうときには、やっぱり、その立場をはずれなければいけない。 そうでなくて、ある特定の人がある立場に立つという、いわゆる制度化の弊害というのは、そういうところから出てくるんじゃないかと思うんですね。 除かれなければならないのに、いつまでも自分がその仕事、自分の仕事であるというふうに考えがちなところに、問題が出てくるんじゃないだろうかと思います。そういうところは、 で、もう一つの問題なんですけども、それが、律法的という問題なんですね。この言葉が、ずっと私にも、心にひっかかているんですけども、「律法的だ。」という言葉でもって、つまずきがおこったり、いろんな混乱が起こったりするわけです。 律法的だというと、失格であるという意味になりかねなくて、律法的という言葉は、非常に要注意なんです。安易に使われると、これは非常に問題を起こすもんですから、そういう言葉に対しては、よほど慎重でなければならないと思うんです。 だから、律法的というのはいったいどういうことなんだろう。これも、私たちはよく知る必要のあることだし、またそれを避けなければならないことなんですけども、私自身が律法的というのは、あんまり経験したことがないもんですから、実際わからないんです。だから私にとっては、律法的という言葉は非常に強い、自分の心に引っかかってくる言葉として、いつもあるわけなんです。 だからさっきも言ったように、私たちがどういうふうにして、正しく信仰を継承していって、正しく祝福された歩みを、日本の地に深く根付かせていくかということに対して、やっぱりこの問題は、大きな重みをもっているわけですよね。 ですから、「律法的」という言葉がどういうふうに使われているのか、これから一生懸命、私は知りたいと、実は思っているんです。 集会に初めて私たちが導かれた頃、よくベック兄は、私たちの使命は、現代における使命は、主の御心にかなった集会を建て上げることだけですと、仰ったんです。当時。 で、僕たちには、御心にかなった集会とか、教会ということがわからないんですよ。言葉としてわかるんですけども、いったい教会とは何だろうか。集会とはいったい何だろうか。主の御心がそこにあると言われても、何かよくわからないんです。 やっと、十年、二十年経って、こういうことを仰ってるんじゃあるまいかと言うふうに、段々感じてきているわけなんです。ベック兄姉たちが仰ってる集会というのは、御心にかなった集会というのは、こういうもののことなんじゃないかっていうふうに、自分で手さぐりしながら、それを知ろうとしてきてる。それが、信仰の歩みでもあったわけです。 じゃ、今度はいったい、律法的とは何だろうかを、一生懸命、手さぐりせにゃいかんわけです。そうしないと、それを避けることはできませんから、自分では一生懸命やってるつもりでも、それが妨げになってることを、やってるかもしれませんから。 そういう意味で、「律法的」という言葉は、非常に私には重い言葉なんです。 今、話されてる、色んな言葉を聞いて想像するとどうも、クリスチャンたちが喜んでその集会に集うのではなくて、何か重荷となって集うようなあり方が、一つは律法的だと言われてるようなんです。原因はどうであれ、みんなが喜んで集ってるんじゃなくて、何か非常に重荷になってしまっている。 ある姉妹が、かつて自分が長いこと集ってた教会について、彼女の印象とは何かといったら、「日曜日行って帰ってきたら、もうあと一週間、七日間は行かなくてもいい。もうそれでホッとする。」って言うんです。 集会が、交わりが、楽しみじゃなくて重荷になっているということ。これは、やっぱり根本的な問題だと言わなきゃならないと思うんですね。で、それは律法的っていうことの一つには違いないんですね。形だけでいのちがない、喜びがない。 ですから、集会、教会に行くけれども、そこで重荷を、たましいの重荷をおろすことができない。新しい一週間の歩みのための霊的なパワーを、力を、そこからいただいて来ることはできない。 もしそうであれば、これは本当に悲劇と言わなければならないと思うんですね。 集会行ったら新しい力を得て、本当に喜んで帰るわけです。疲れて、心身ともに疲れてるときでも、集会に行ったら元気が出てくるわけです。ですから、これが当たり前だとわれわれは思ってるでしょう。しかし、実はそうではないということが、どうも実情のようなんですよね。 家で苦しんでる家族がいても、その家族の問題を明らかにすることができない。ましてやその問題を解決する力が、自分の参加している交わりにはないということになってきて、一切嫌なもの、一切の不都合なものはみんな蓋をしてしまって、品行方正な、何も問題ないような顔をしているというんであれば、これは本当に大変なことであります。 こういうことが、律法的と言われてることの一番の根っこではないかと思うんですね。喜んで、みんなが行くのではない。本当に、ただ形だけでそういう形式だけの、「何をすべし。これをすべからず。」っていう、外面的な統一だけをとられてる。そういうあり方を、律法的といってるんじゃないかと思うんですね。 そうして、自分たちの中では、自分たちは聖書に立ってる。そしてそこで、一致結束するということで、そこにだけ目を向けてしまって、自分たちの教会なり、集会なりの無力さに真剣な反省がなされないということは、ありうることだと思うんですね。 そこで、さっきも言ったように、いったい集会というもの、あるいは教会というものの正しさを、そのあり方の正しさを決める決め手、それはどういうもの何だろうか。 それがさっき読んだ、イエス様のみことばではないかと思うんです。それは、「木はその実によってわかる。」と、イエス様が仰いましたから、集会はその結ぶ実の豊かさによって、判断されなければならないということだと思うんですよね。 本当に豊かな実を結ぶということ。その実が本物であるというならば、それこそが集会の存在する理由であり、最大の理由でなければなんないと思うんですね。 そうでなければ、集会は意味をもっていないと聖書は言ってると思います。ヨハネの福音書の15章。その集いに自由があり、温かい喜びのある交わりがあるとき、兄弟姉妹たちが一致した、主の前に一致した交わりがあるときに、いのちがあるのであり、そして、それが豊かな実を結ぶのだと言ってるのじゃないかと思うんです。 イエス様は、ぶどう畑の土に植えられたいちじくの実を探しに来た、あの主人のことについて書いてあります。三年待ったけども、実が一つもならないじゃないかということを言ったというところがありますけども、やっぱり私たちも、私たち自身が祝福されているだけじゃなくて、私たちの集いを通して、人々が本当に主を知るようになるかどうか、実を結んでいるかどうかってことに、やはり深い注意をはらうっていうことが、主の御心ではないだろうかと、思うんですね。 そういうところから見て初めて、集会の正しいあり方っていうことが、はっきり判別できるのではないだろうかと、思っている次第です。 本当に、主の御心にかなった、正しい集会のあり方というものは、やっぱり祈りながら、示されていきたいと思うんですね。 |