引用聖句:ガラテヤ人への手紙2章18節-20節
この手紙はパウロという人が書いたものです。パウロという名前は大学とか、町の名前とか、寺院とか、いたるところに付けられているので、皆さんよくご存知だと思います。 サンパウロは聖パウロという意味です。セントポール寺院とか、セントポール・ユニバーシティーは立教大学ですが、このパウロから来ています。 パウロはそれほどにヨーロッパの人々から崇められている人物です。 おそらくイエス・キリストを除いて一番ヨーロッパの歴史に名を刻まれた人でしょう。なぜなら彼は新約聖書の約半分を書きました。 ですけど、このパウロは初めからクリスチャンだったのではありません。それどころか、正反対でクリスチャンを迫害する者でした。その迫害方法は厳しく、クリスチャンを捕まえて牢屋に入れたり、死刑にしたりと荒れ狂っている人物でした。 聖書を読むとわかりますが、彼はユダヤ人でした。初めの名前はサウロでした。サウロはユダヤ人名です。後にイエス様に出会って改心し、パウロとなりました。 このユダヤ人サウロはイエス・キリストに出会うまで自信満々の立派で正しい人でした。「私は能力においても、行いにおいても、どこから見ても誰にも引けをとらない人間である。」という自負心を持っていたようです。 特にユダヤ教に熱心でした。厳しい戒律を守り通し、確かに誰の目から見ても立派な人物でした。けれども、パウロが厳しく迫害していたイエス・キリストの啓示に接し、そのキリストに出会った時に彼は一遍に変えられて正反対の人生を歩むようになりました。 自分が迫害していた信仰を宣べ伝える者とされました。迫害していた者が一生涯迫害される者として生きたのです。結局、最後はあの有名なローマ皇帝ネロに捕らえられ、殉教の死を遂げたと伝えられています。 パウロが「けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。」と言うのは易しく言い換えますと私が元に戻ってかつて生きていたような生き方をするならば、私は違反者となってしまうという意味です。 以前のような古い人生を歩んではならない。パウロはイエス・キリストに出会って、今までの古い人生を脱ぎ捨て、まったく新しい人生をキリストとともに歩むようになったのです。 パウロが言いたかったことは「イエス様を知らなかったあの時代の生き方に逆戻りしてはならない。」ということです。 ではイエス様を知らなかった時の生き方とはどういうものでしょう。それは、自分自身を義人とする人生です。 これに対してイエス様を信頼して生きる人生とは自分自身を信頼するのではなくイエス様を信頼して、すべてのことをイエス様の御手に委ねて生きるという信仰者としての生き方であります。 信仰の道は迷いやすい私たちにとって決して平坦なものではありません。自分の周囲を見渡してみても考えさせられることが多くあります。 吉祥寺集会に属している兄弟姉妹方のことを振り返ってみても同じように考えさせられることが多くあることに気が付かされます。 以前は心から喜んで主に仕え、用いられていた方々が今は集会から離れてしまいました。そればかりではなく集会を批判したり攻撃したり、まるで集会の敵対者になっている方もおります。 また集会に留まってはいるけど以前のように喜びと前進ではなく、今は暗い顔をして集会のブレーキとなり、集会の重荷、悩みとなっているケースもあります。 こういうことを見るときに信仰の道は何と厳しく、私たちはどうしてこんなにも信仰の道から迷いやすい者かと考えさせられます。 そしてそれは特別なことではなく、自分自身にも言えることで、いつ信仰の道から外れてしまうかも知れない、迷い出てしまうかも知れない危険性があります。 信仰の道はいろいろなところに悪魔が仕掛ける落とし穴があるからです。 哀歌3:22
今私たちの信仰が保たれているのは私たちの力ではないのです。主のあわれみによるのです。主の恵みによるのです。 それだから信仰が保たれているのです。 哀歌3:40-41
「私たちの道を尋ね調べて主のみもとに立ち返ろう」とエレミヤは書いています。 ほんとに私たちは自分の信仰を吟味して正しい信仰の道に立ち返るということを日々心してかからなければなりません。そうしなければいつの間にか盲目になって迷い出てしまうかも知れません。 このことをパウロはコリント人への手紙第Iの中で次のように書いています。 コリント人への手紙第I、10章12節
あのパウロのような人でも「いつ自分も倒れてしまうかも知れない。自分の道を見失って、信仰の歩みから逸脱してしまうかも知れない。自分自身も失格者になってしまうかも知れない。」との思いを持っていたのです。悪魔の罠はそれほど巧妙だということです。 その巧妙な罠の一つが「自分は正しい。」という自己正当化の罠です。クリスチャンにとって非常に危険な罠の一つです。この罠にかかってしまうと他の兄弟姉妹や集会全体と激しく対立するようになってきます。 そしてその罠から抜け出すことは中々に難しいことなのです。そういう問題があっての対立は何年経っても清算できずにあり続けるという事例が集会の中でも珍しくありません。 「誰々が言っているのが正しい。」「自分の言ってることが正しい。」「相手の言ってることが正しい。」などと、それぞれの立場の正しさを主張し始める問題が起こると私たちにとって要注意です。そこに悪魔の罠があることに気がつかなければいけません。 というのは問題に対して一方の人が完全に正しくて、他方の人が完全に誤りであれば簡単ですけど、普通そんなことはあり得ません。社会問題を考えても同じことが言えます。ある人はまったく正しくてある人はまったく間違っているということは殆どありません。 正しいとか間違っているということは程度の問題なんです。その程度もその人が立っている立場によって違って来ます。複雑にことがらが入り組んでいるのですから五十歩百歩みたいのものでしょう。ですから解決が難しくなってくるわけです。 一寸の虫にも五分の魂ということばがあります。すなわち誰にでも言い分はあるということです。誰にでも自己正当化しようと思えば、正当化できる理由がいくらでも見つかるでしょう。そこに悪魔がつけ入る大きな理由が存在します。 悪魔は私たちがいつでも自己正当化しようとするところに持って行こうとします。すなわち悪魔は私たちを個々に自分の立場に立たせようとします。 相手も相手の立場に立って、それが向き合うとそこから終わりのない話になってゆきます。紛糾が増し加わってきます。各自が自分の立場に立てば終わりのない争いが出てくるのであります。 ですから私たちが正しさを競うことになり始めると非常に危険です。それは悪魔の罠だからです。それから後はお互いが激しく攻撃し合うことになって問題がこんがらがって行きます。聖書はこれを罪と言っております。 聖書は「正しさで争ってはいけません。」と書いております。聖書にそんなことが書かれていると言うと皆さんは意外に思われるかも知れません。しかし、聖書はそのような不思議なことを言っております。 「正しさで争ってはいけない。」とはすなわち「善悪で争ってはいけない。」という意味です。なぜでしょうか。聖書には人間に罪が初めて入ってきたことについて次のように書かれております。 創世記2:15-17
と、書いております。聖書は「人間の原罪」について書いているということを皆さんはご存知だと思います。 よくアダムとエバがリンゴの木からリンゴを取って食べている絵が描かれていますけど、そうではないのです。聖書は「善悪の知識の木から取って食べてはいけない。」と書いてあるのです。 ところがアダムとエバは悪魔にそそのかされて取って食べてしまったのです。その時、二人の目が開かれたと書かれています。すなわち深い意味は、人間は「自分が正しいと主張するようになった。」ということです。そしてそこに問題の芽があるということです。 「誰が正しいのか」「誰が間違っているのか」本当の意味で判断できるのは神様だけだと思います。 人間が自分の正しさを主張し始めるとそこには分裂が生じます。ですから私たちは自分の正しさを主張し、相手を正すということによって問題を解決しようとしてはなりません。 むしろ自分の正しさを主張することを捨て去る時に初めて道は開けて行くと思います。私たちがほんとの意味で勝利したいと思うなら、すなわち神の救いに与りたいと思うなら自分が正しいという思いを捨て去らなければなりません。 創世記31:24
神様はラバンに対して「誰が正しいか、間違っているかを詮索することをやめなさい。」と忠告しております。詳しいことはその前後を読むとわかりますけど、ラバンはヤコブの妻の父ですが、ヤコブの叔父でもあります。 ヤコブが自分の二人の娘とその子どもたち、財産を持って夜中にこっそりと自分の元を去って故郷に帰って行ったことを知ってラバンは怒りに燃え、一族同党を率いてその後を追いかけました。この時、ラバンは場合によってはもうヤコブを殺すつもりだったでしょう。 三日三晩走り続けてやっとヤコブの一行に追いつきました。そしてヤコブに会って話そうとしたその前の晩に、「ラバンにヤコブと善悪で争ってはいけない」という夢の中の忠告があったのです。 「誰が正しいか、誰が間違っているか」と論じ合ってはならない。これが大切です。 ある時、アルコール中毒のご主人を持つご婦人が集会に導かれました。アルコールの問題でほんとに苦しみ、悩み、ご夫婦は10年間も別居されていたそうです。娘さんはそのためにすっかりノイローゼになってしまいました。 集会に来るまでご婦人は「主人が悪い。主人のあのアルコールさえなければ。」ともうご主人に対しての憎しみでいっぱいだったそうです。 けれども集会に導かれるようになってから、そのご主人に長い手紙を書いて「私が悪かった。」と心から謝ったそうです。その手紙を読んで、ご主人は目が覚めて心を開くようになったのでした。 ご主人からすれば、自分がどれだけ憎まれても当然のわけです。家庭を滅茶苦茶にしたすべての原因は自分にあるとわかっているのです。ところが奥さんの心からの懺悔の手紙に触れた時にご主人の心が変えられたのです。 今はそのご夫婦と娘さんのみならず、ご親戚からも何人もの方が救われて集会に集っておられます。 私たちが自分の正しさによって相手をさばくという立場を投げ捨てるならば、必ず道は開けると聖書は言っています。そうでない限り対立は尽きることがありません。 何週間か前にある兄弟がこういう祈りをされておりました。「この一週間も私が自分の立場を取ることがありませんように。」と。私たちが自分、自分、自分という歩みをしたらどうなるでしょうか。 そういうわけであの祈りには本当に嬉しくなりました。 主の前に、決して自分の立場を取らないこと。たとえ自分では自分が正しいと思えることであっても、それに固執しないことです。 なぜならば主の目から見れば私たちの立場というのは誤りだらけ、欠陥だらけです。不十分なのです。ですから自分の立場に立つことを止める。これは非常に大切なことです。 自分の立場を絶対化すればするほど、その立場から周りの兄弟姉妹を見れば批判の対象に見えるでしょう。間違って見えるからです。 イエス様に出会うと、人はこの自分の立場を砕かれて行くのです。 イエス様に出会うということはそういうことで、自分の立場を捨て去ることを要求されます。 マタイの福音書21:42
「家を建てる者たちの捨てた石」というのはイエス様がご自分のことを仰ったのですが、ユダヤ人たちの見捨てた石が建物の土台の石になったということです。 マタイの福音書21:44
その石というのはもちろんイエス様のことです。このイエス様に出会うと人は自分の考え、自分の信念というようなものを砕かれます。 イエス様は「人が自分のあり方を正しくすることによって救われるのではない。」と言われます。 そうではなくて、自分の立場を捨てて、イエス様を受け入れてイエス様の立場に立たされることによって初めてイエス様の福音に触れることができます。そして人は救われるのです。 救いを知らない人は「いや、そうではありません。実はこうなんです。」というように一生懸命に自分の立場を守ろうとします。 でもイエス様を受け入れると「自分はこう思いますが自分の思いではなく、イエス様の御心がなりますように。」と言うようになります。 人の目には正しく見える道であっても、自分の立場を守ろうとする道は死に至る道、滅びに至る道だと聖書に書かれております。 自分の立場をしっかりと守りぬく人をよく「信念の人」という言い方をします。「信仰」と「信念」の違いがそこにあります。信念の人というのは自分の考えをしっかりと持ち、その上に揺るぎなく立っているということです。 信仰の人はそうじゃありません。自分の立場を捨ててイエス様の立場に立っている人のことです。そうした時に自分自身からの解放を知るようになります。 ところで信仰にも「健全な信仰」と「誤った信仰」があります。狂信的な教会、異端の教会も少なくありません。また、そうではなく、集会に導かれている方の中でも「誤った信仰」を「健全な信仰」と思い込んでいる方がおられます。 ですからどこの教会でも信仰を誤解している人がいます。自分では信仰熱心だと思って、しっかりと深い信仰に立っているつもりが実はそうではなく、自分の立場に強く立っているだけということがあります。 そうなるとそれが信仰だと思っていますから、回りに対して批判的な批判の霊が現れて来ます。信仰に熱心な筈のその人から、主にある喜びや解放された自由、暖かさが出て来ません。一生懸命かも知れないけど根本的なところで間違えているからです。 かつてのパウロがそうでした。パウロは自分は信仰において熱心だと思っていましたが実は信念の人でした。 パウロは自分ではほんとうに正しいことを追い求めていると思っていたけれども、実は人間的な自分の考えを通すことに熱心でした。そしてイエス様に敵対する者、迫害する者でありました。 ですからパウロはイエス様に出会ってほんとうの信仰を知ったときに、もうぜったい元へは戻らない。たとえ自分の立場が正しいと思えることであってもどうでもいいというところに全力で立っていたのです。 集会で、特に長い間集っていた兄弟姉妹の間に問題が出てくるときの理由がそこにあります。 もし、私たちが自分の立場に立つことを信仰だと誤解するなら、そこからはほんとうに解放された喜びが出てきません。自由が感じられません。砕かれることがありません。救われた感謝がありません。 逆にそこからは人を批判するさばく霊が出て来ます。冷たいものが現われて来ます。おそらく信仰の実がどこにも出てこないのです。だからイエス様はそれを「誤った霊」「偽りの霊」と言っています。 マタイの福音書7:15-18
マタイの福音書7:20-23
非常に厳しいみことばです。同じ信仰のように見えますが、そこにはまったく違った二種類の霊があるのです。 その偽りの霊はどこの教会にも入り込むことがあります。私たちはそれを見分けなければいけません。どのように見分けるのか、ことばでは中々表しにくいものですが話してみるとわかります。 ほんとの救いを受けて解放された人は、自分の立場を信仰だと誤解している人と喜んで話すことはできないからです。そのような人の信仰は喜びではなく重荷、自由ではなく束縛ですからどうしても会話がぎくしゃくしてしまいます。暖かい会話になりません。 イエス様に救われた魂は、イエス様の霊を嗅ぎわけ、異なる霊の支配の元には我慢することができません。 ヨハネの福音書10:1-5
と、書かれているように羊は羊飼いの声を聞き分けるらしいのです。 ヨハネの福音書10:27
イエス様に救われた人にはイエス様の聖霊がその人のうちに宿っています。 そういう人はかつて盲目だった自分がどういう状態から救われたか、また今、どのように恵まれているかということを生き生きと喜びを持って語ります。 しかし、「門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者」と聖書に書かれた偽りの霊は、自分が今までにどんないいことをしてきたか、犠牲を払ってきたかというように、自分の信仰の立派さを語ります。 イエス様に救われた人はいつも神のみわざの偉大さ、その愛・知恵の深さなどに嬉しい驚きと喜びで圧倒されています。 それに比べると人間と人間の正しさなんて塵みたいなものだなあ。自分の自我はどうしようもないなあという思いを実感として与えられているのが特徴です。 その思いとは長く教会に集えば与えられるというものではありません。むしろ、教会が弊害になっている場合が多いのではないでしょうか。 自分の立場に立って、自分が正しいと思っている名前だけのクリスチャンが増えて行ったらどうなるのでしょう。人々をイエス様の福音から締め出す結果にならないでしょうか。 今まで話してきましたように、悪魔は私たち人間にどこまでも「自分の正しさ」「自分の立場」を取らせ続けようとします。 私たちは悪魔の罠に落ちないように気をつけ、自分の正しさを捨てて主のご判断を仰ぐようにしなければいけません。 そこに自分自身からの解放と主にある自由を知るのです。ですから救われたものは自分を当てにせず、主に信頼します。 詩篇115:9-15
天と地を造られた主に信頼する。それが信仰です。 私たちは、それが人の口を通して語られることであっても、それを通して主の声を聞こうとします。 人の言ってることだから関係ないと簡単に聞き流さずに、その背後の主に目を向けると主は答えてくださいます。 自分に何か示されているのではないかという姿勢で立っていると、自分の周りに起こる出来事を通しても主は確かに語ってくださいます。 自分の思いを、これでいいのだろうか、主の御心はどうなのだろうと尋ねる姿勢で立っていると、主はいろいろなことを通して、いろいろな形で答えてくださいます。 私たちがわかるように答えてくださいます。 ガラテヤ人への手紙5:1
キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました。すなわち私たちを自分の立場から解放してくださったということです。 自分の立場にではなく、主の立場に立って、主の自由を受けなさいということです。そうすれば私たちはゆるがない主にある平安の中にいられるということです。 もう一度、最初に読んだガラテヤ人への手紙に戻ってから終わりましょう。 ガラテヤ人への手紙2:18-20
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