引用聖句:ガラテヤ人への手紙2章20節
イエス様を信じたクリスチャンにとって、一番大切なことが何かと言いますと、それは単純なことだと思います。単純に一言で、一番大事なものを言い表すことができると思うのです。 それは喜んで主に従っていくこと。いつでも主により頼むこと、主から離れないこと、何事でも主ご自身から出発して行くことではないかと思います。 非常に簡単なことですね。ですから、良くなっても悪くなっても結果に左右されないで、たた主ご自身に従うことをしていく、これが、クリスチャンのこの地上における信仰生活そのものであると言えると思うんです。 私たちは結果について、ああだこうだと判断する力はありませんから、最終的なことは主ご自身しか知りませんから、その出てきた結果に対して一喜一憂あまりしないで、時が良くても悪くても、主に従っていくこと、それが一番大事なことではないかと思うのです。 いつでも主ご自身から出発していく。逆に言うと、主から離れて自分勝手な道に進んで行くならば、すべての努力が結局無駄になってしまう。 何にも得ないうちに振り出しに戻ることになる。そのことを深く知る必要があると思います。 パウロという人は、回心の時にこのことを徹底的に学んだ人ではないかと思います。 パウロは激しくイエス様を迫害していました。その時点については、パウロは自分自身のやっていることについて深い確信を持っていたわけです。 クリスチャン達は間違っている。自分は正しい。自分のやっていることには間違いがないという確信に燃えていたから、彼は、あれだけ激しい攻撃ができました。 ところが、自分が最善と信じてやったことがとんでもないことであり、神に対する攻撃であった。神の教会を迫害する全く逆に結果であった。それに気が付いた時に、パウロが自分がどこに立つべきであるか、徹底的に学んだ人であったと思います。 パウロの信仰の原点は何かというと、自分ではなくてイエス・キリスト。これが彼の信仰の出発点に掴んだことであり、終生彼が立ち続けた所であると思います。 パウロがどんなに確信を持って、間違いがないと思って自分の存在をかけてやったこと。人を死に追い込んでいくということは、余程の確信がないとできないわけですから。 彼が、クリスチャン達を迫害していって、パウロは確信して行い、最善と思ってやったことが、実は、最悪のことであった。 なぜなら、神の教会に対する迫害であり、神の御子イエス・キリストに対する敵対行為であり、神ご自身への敵対行為でしたから、これ以上の悪はないわけです。福音に対する正面から挑戦ですから、それ程恐ろしい誤りはないわけです。 そこにパウロは、罪というものの持っている深い逆説と言いますか、深い倒錯と言いますか、人間が最善だと思ってやっていることこそが、実は最も人間を根本から破壊する罪というものの持っている、深い言葉で言い現わせない性質があるということ、それが、パウロの書簡の中に言い表されていると思うのです。 私たちの生まれつきの問題の中で、我々が正しいと信じ込んでやっていることこそが、もっとも私たち自身を追い込んでいく、そういうところに、罪の罪たることがあるわけです。 パウロは、イエス様と出会った瞬間に、信仰の揺るがない土台に気が付かされているのです。パウロは、イエス様と出会ってから苦心惨憺して結果、その真理に立ったのではなくて、主と出会ったその瞬間に、彼は、自分ではなくイエス・キリスト、この上に立たなければならない、そのことを彼は掴んだに違いないと思います。 ですから、パウロはイエス様に出会った時に、「主よ、あなたはどなたですか?わたしはどうしたら良いのでしょう?」と質問を発したのです。 天からの光によって倒されたときに、目が見えなくなった。声だけが聞こえたと書いてあります。ここに、信仰のあり方がはっきり現れていると思うのです。 それが、それまで自分の判断によって考えて、あらゆる考えが自分から出発して、自分に返ってくるのが、人間のあり方なのですけれども、それが根本的、ひっくり返ったことになります。それが信仰であると。 主が、自分の生活の支配者となり導き手であり、主の導きに従って歩む。それこそが、パウロが示された福音の原点ではなかったかと思うのです。 たとえ、それが自分にとってどんなに良いと考えられることであっても、それを固持することはいけない。人間から出たものである限り、決して、そこにしがみついてはいけない。 そういうことに、はっきりパウロは気付いたのでないかと思うのです。 マルチン・ルターも、自分の上に立って良き行いをして神様の前に立とうとすることは、どんなに頑張っても、そこに確信を置き平安をおくことができないと発見しました。 なぜなら、人間の行いは相対的なものですから、自分の立場に立って自分のあり方、自分の行いは、どこまでやっていっても不安を与えてしまうわけであります。 そうではなくてルターが気がついた真理とは、結局、自分ではなくてキリストなんだ。私がどんなに自分自身を、清め、努力し、自分をむち打ち、神様の基準に達しようとどんなことをしても、そこからは救いの確信と喜びは出てこないのだ。 そうではなくて、私がどんなに良かろうか悪かろうか関係なしに、キリストご自身こそが自分の義である。キリストの中にすべてがある。 だから、私ではなくてキリスト。自分の努力ではなくてキリストのなされた主の御業そのものに信頼すること。それを受け入れること。私ではなくてキリスト。そこに気がついた時に、ルターは、どうしようもない深い苦悩から解放されていったわけです。 ルターは、本当の平安を得ようと思って、救いの確信を得ようと思って、本当に苦心惨憺した人のようであります。 彼の僧衣の上から、あばら骨まで感じられるくらいまでやせ細って、がりがりになったそうですけど、それでも魂はいつも怯えていたわけであります。 ルターの伝記の中に書いていますが、ローマ人への手紙の中のみことばで、「信仰によって義とされる。自分ではなくてキリストなのだ。自分から出たどのようなものであったとしても、神様の前にはなんの意味もないのである。ただ、イエス・キリストご自身だけが、義を自分に与えることができるのである。」このことに彼は気づいて、天国の門が開かれたように思ったと書いています。 自分ではなくして、キリストであります。こういう所に、ルターもパウロも力強く立っていって、ものすごい力を持って、世界に宣べ伝えていったエネルギーの原点があったと思うのです。自分自身の義ではなくて、イエス・キリストご自身の上に立つ。 先ほど言いましたように、大切なことは、私たちの目に良く見えようと見えまいと、いつでも主に従っていくこと。その主に従って行く程度に応じて、義と認められるとか、認められないとか、そういうことじゃないんですね。そういうことではあり得ないんです。 そうではなくて、私たちはすでに義とされています。その歩みにおいて、いつでも、結果に関係なく主に頼り、主に従っていくことが大切ではないかと思うのですね。 主に従ったり従わなかったり、ついたり離れたり、そういう気楽な歩みをしようと思いますが、それが根本的な問題なんですね。要するに、私たちは信仰と言うものを自分の都合にあわせて送ろうとする所に大きな問題があると思うのです。 自分の都合に信仰生活をあわせようとすると、人間的に見ても、くるくるくるくる変わって、当てにならないものであります。 自分の都合にあわせる信仰生活とは、言ってみれば、神様の恵みを適当に「つまみ食い」していると言っていいと思うのです。 不安定でいっこうに芽が生えて来ない信仰生活の原因がここにあるんですよね。いわば、神様の恵みを適当につまみ食いしている。 私が必要としている所だけ与えてもらいたい。こういう態度は、誰もが初めはする態度です。なんかの問題で苦しんで、神様の所へ来ます。ほっとして助けてもらう。ああ、今度はまたもとの歩みをしながら、また助けがいる時に助けて欲しい、こう言う歩みをしようとします。 こういうような人は、自分が良いと思うものだけを神様から受けようとして、自分が都合が悪いと思うものは、自分が納得できないものはお断りをする。こういうあり方だと言えます。 神様との関係において、取捨選択の権利を人間のほうがしっかり握っていると言えると思うのです。こう言うあり方そのものが、根本的な間違いであるわけです。そこに気がつかない限り、私たちは、主を信じることの意味がぼやけてしまうのではないかと思うのです。 聖書が語っている信仰とは、いま言ってるようなあり方とは違うのです。聖書が言っている御利益宗教、偶像崇拝が、今言ったあり方なんです。要するに「恵みのつまみ食い」であります。 自分の目に良いと思われる所は頂くけれども、そうでないものはお断り。これが、偶像礼拝の特徴です。 ところが本当の信仰は、そういうものではないのです。もし、そういうふうに考えているなら、私たちが根本的に罪から解放されることがないと思うのです。 ヨブ記2:10
私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない。このヨブの言葉は、信仰のなんであるかをはっきりと言い表していると思います。 信仰がなんであるかがわからない人には、このヨブの言葉は、なぞなんでしょう。そんな馬鹿なことがあるはずがない。幸いを受けるから、わざわいを受けるなんて馬鹿なことはない。信仰は幸いだけを受けるためのものではないか。そういうふうに人々は考えるのです。 もちろん、幸いを受けるためのものですけれども、その幸いとは私たちが見た幸いではないということを、聖書は言っているのですね。 神は、私たちに最終的に善をなしてくださる。私たちの本当の意味での幸せを与えてくださるお方であることは間違いないけれども、それは、私たちが見た所での幸いであると言うわけではない。 神様のなさることを、自分の目のレベルで、これは幸いでありこれは災いであるから、私はこれだけを受け取り、これは結構です。 そういうあり方は、根本的に、問題を含んでいます。 御利益信仰と言われているものは、そういうところがあるわけです。自分本位であり、自分の都合、自分の頭で考えたレベルでの選択が、神様との間になされるわけであります。神様との取引がなされていくわけです。 全面的な意味で神様に信頼し、神様の御手に全面的ゆだねることが、そこには出てこないわけであります。そんな取引が神様との間に出てくるわけです。 偶像崇拝の本質は商取引なんです。商売なんです。神様との間に。そういうこと柄を私たちは、はっきりやめなければならない。神様の前に立ってなお、自分のことを計算し、取引をしようとする人間のあり方こそ、聖書で言っている罪であります。 自分の都合で、主についたり離れたりの信仰生活は不毛であるということ。それは実を結ばないこと。自分の都合によって歩んでしまうと。本当の信仰の力強さ、神が生きてらっしゃるということを学ぶ機会が、どうしてもないわけですよね。 ですから信仰は、本当にやせ細ってしまいます。 しかし、耐え忍んでしっかり信仰に留まり続けるなら、その信仰は成長していくわけであります。神が全能者であることを、いろんな機会を通してその人は経験するからであります。 マタイの福音書13:31-32
信仰、主に信頼すること、主に信頼し通すということ、それはからし種のような信仰でも大きく成長し、力強いものになるのだと、ここでイエス様はおっしゃったのです。 問題が起ると信仰が吹っ飛んでしまって、人を当てにしたり、このようないろんなものを当てにしたりするわけですけれども、主が全能者であること、主にとってすべての問題は小さな問題であるということを深く覚えて、しっかり信仰に立つべきだということと思います。 主は決して間違いをなされない。主はけっしてへたをなされない。だから、「主に信頼するものは失望させられることがない」とみことばにありますけれども、私たちの今までの経験もその通りじゃないでしょうか。 主に信頼して、失望したことはないんですよ。本当に主は完全で、今まで導いてくださったのです。 私たちは、それを今までの信仰の歩みを通してよく知っています。そういう、主が生きてらっしゃることを、ひとつひとつ積み上げていくことこそが、信仰の歩みそのものではないでしょうか。 クリスチャンと呼ばれる人達は多くいらっしゃるけれども、神が生きて働いてくださる、どんな問題に対しても主は解決を与えて下さるということを知っているクリスチャンは、ほんのわずかしかいないのではないでしょうか。 自分で味わうことがない。問題が起るとどのように戦っていいのか、さっぱりわからない。そういう人は多いですよね。 やっぱり、自分に襲ってくる様々な問題、自分に与えられた信仰で立ち向かって行くことを、私たちは本当に信仰の初めから学んでいかなければおかしいと思いますよね。 そうでなかったら、問題が起るたびに誰かが、たとえばベック兄がいちいち替りに出てきて、助けられねばならんわけですけど、それは、もうたいへんなことですよね。それは決して、主の御心ではないんですよね。 ひとりひとりが信仰の盾を持って、やっぱり信仰の勇士として、成長していかなければならないわけですよね。 もちろん、手に余ることもいろいろ起るでしょうから、そういう時は、大いに相談したら良いと思うのです。けれども、自分の戦いを他人にしてもらっていては、いつまでたっても、もう当てにならないクリスチャンになってしまうのですね。それを聖書は、信仰の幼子と呼んでいるわけです。 私たちは、大胆に信仰に立ちさえすればいいのです。主は、生きておられる。だからこの自分に打ち勝つものは何もない。 世に勝つ者とは誰か。イエスを神の御子と信じる者ではないかと書いてありますけど、ひとりひとりが、信仰を頂いた時に、本当に信仰によって生きていくことをはっきり示さなければならない。 そうすれば、私たちは、この地上に置かれている何年かの間に大きく成長することができる。だから恐れないで、信仰によって立つべきなのです。自前の信仰をもって戦うんですね。 私たちに力がないのは、信仰にパワーがないのは、本当に主を信頼していないからです。信頼し通さないからです。主は生きていらっしゃるということを、主は真実な方であるということを、信じ通さないからであります。 まことの信仰は、今言いましたように、徹底的に神様本位、イエス様本位であるということなんです。そのことをはっきり私たちが知らなければならないのです。 信仰は自分本位になっているのか、神本位であるのか区別がつかなければ、私たちの信仰は、だらけてしまっているはずなんです。だらけていれば、おそらく力がないはずなんです。生きて働いてる信仰ではないはずなんです。 主のご希望に自分の方が、あわしていかなければならいのであって、ですから、私本位の立場をはっきり離脱しなければいけないのです。 マタイの福音書8:5-13
イエス様が驚かれたと書いてあるのは、聖書の中に二箇所だけあるわけですけど、その中のひとつです。もう一箇所は、ナザレに帰った時に、人々の不信仰に驚かれたと書いてあります。イエス様が驚かれたのは、この二箇所です。 イエス様は百人隊長、ローマ人なんですが、ユダヤ人の中に求めてどこにも見出せなかった信仰が、異邦人であるローマの百人隊長のうちにあったものですから、イエス様は非常に驚かれたのです。 この百人隊長の信仰は、徹底して自分は僕の立場に立つ者であるということです。神が徹底的に主であるということなんです。 「また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします」と言ったのです。そこにイエス様は驚かれたのです。信仰というのは、神の絶対的な支配のもとに私たちが伏し、そのことをはっきりと受け入れるということであります。 主が、あれをしなさいと言えば、「はい。」と返事する。ここに来なさいと言えば、すぐに行く。これこそが、百人隊長の持っていた信仰だったんですね。 神こそが、イエス・キリストこそが主であって、わたしたちは僕であります。救いというのは、私たちが、この神様の僕の立場に心から立たせて頂くということであります。 自分のものをしっかりと握ったまま、イエス・キリストの一点を探り出そうとする人間の態度はよくみられます。 文学の世界でも、彼らは文学の立場を絶対ゆずらないんですね。そして、その立場から聖書の考え方を持っていったりするのですけど、土台そのものは変わらないのです。 自分の世界観や立場を変わらないまま、根本的に変わろうとしないまま、キリストのある点に感動したりするんです。そのような限り、そこから本当の信仰は生まれてこないのですね。 単なるイエス様の教えに対する共感を持つ親派なんですね。そういう親派は意外と多いんですね。しかし、イエス・キリストを全面的に受け入れようとはしないのです。本当の所においては、絶対に明け渡さない。 本当にぎりぎりの所まで行くのですけれども、イエス様のもとにはっきり帰依し受け入れることがないのです。そういう人々は世の中には多いのです。文学とか、いろんな名をなした人々に多いのです。 しかし、キリストの僕としての立場をはっきりさせるとこの世からは無視されますから、この世からは忘れられていきますから、それははっきりしているわけであります。 信仰の道は、この世の人々からは全く隠されているものであります。信仰の道は、この世の人々には見えないのです。ですから、人が信仰にはっきりと立つ限り、この世からはある意味消え去ってしまう。見えない。 私たちは自分の見方、考え方、判断の仕方、感じ方を変えないで大事にしながら、イエス様の所へ行くということではありません。 イエス様が見られるように、私たちも見る。イエス様が考えられるように、私たちも考える。自分の立場にたって、どうかするのではなくて、イエス・キリストの立場に立ちなさいということであります。 罪と聖書が言っているのは、自分を主人とする人のことです。私は私の主人である。この生き方が、これが聖書で言っている罪です。人間が本当に救いを得ようとすれば、イエス・キリストの僕としての立場をはっきり受け入れなければならないということなんです。 こういう聖書の要求を正面からしりぞけていったのが、ニーチェでありました。ニーチェは、キリスト教を奴隷の宗教だと言ったわけですけど、もちろんその通りです。彼は、ですから徹底的に拒絶したんです。 スーパーマン、超人の思想をふりかざした人です。全く正反対の立場をとったのがニーチェなんです。絶対に僕の立場をとらない。これがニーチェの立場なんです。その結果、彼は狂気に至るのです。晩年は、街を歩いて会う人ごとに私は神だと言ったそうです。 神様の前にへりくだること、正直になること。正直になれば、人間は自己矛盾のかたまりですから、神様の前に、自分の哀れな正体を告白しなければならないわけです。ニーチェはそれを拒み続けた人だったんですね。 自分によって生きようとする限り、私たちは自己矛盾だらけです。ひとつの所を整えると、他の所が破綻を来します。こっちを繕うと、あっちが破れてくる。そういう形で収拾がつかなくなって来るわけであります。 それをやめて、キリストの僕の立場に身を低くすれば、わたしたちはそこから救い出されて来るわけであります。 ローマ人への手紙6:16-18
ローマ人への手紙6:20-23
ここにですね、「奴隷」という言葉が随分出てきましたね。「従順の奴隷」という言葉が出てきます。「罪の奴隷」「義の奴隷」「神の奴隷」...結局、人間はどっちにもつかないということはあり得ないのですね。 自分が主人だと言っている人は、結局、罪の奴隷であり、悪魔の奴隷である。人間は本当の意味で自立的な存在ではないのです。何かの僕なのです。 ですから聖書の中で、「僕」ということが非常に決定的な意味を持ってくることがわかってくるのですね。非常に重要な言葉であります。パウロはですから、自分の自己紹介の時に、このことを非常に意識しているわけです。 ローマ人の手紙1:1
パウロは自己紹介をする時に「キリスト・イエスのしもべパウロ」、こういうふうにはっきりとしているのです。この「しもべ」と言う言葉の原語は、さっきと同じ「奴隷」という言葉だそうです。 ピリピ人への手紙を見てみましょう。これも1章1節です。 ピリピ人への手紙1:1
ここでも書いていますね。ほかでも、パウロは次から次へと「しもべ」と書いているのです。パウロだけではありません。この当時の人々は、はっきりとその立場を理解していたのです。 彼らは、ここで信仰とは何かということをはっきり言い表しているのですね。ヤコブの手紙を読んでみましょう。 このヤコブは、イエス様を産んだマリアの子供ですから、イエス様とは肉において兄弟なのです。けれども彼は、自分のことをどう言っているでしょう。 ヤコブの手紙1:1
ヤコブもはっきりと、しもべが何を意味しているか言い表しているのです。 ペテロの手紙第II、1:1
ペテロもまた自分の名前の前に、イエス・キリストのしもべと言ったのです。イエス・キリストのしもべであるということは同時に使徒でもあるということですから、たいへんなもんですよね。 「しもべ」と言えば、一番低いものですが、「使徒」と言えば全権を委任された大使ですから。いつでも、そういうものだということなんですね。 クリスチャンは神のしもべであると同時に、神のすべてを受け継ぐことでもあります。いつでもこの二つの関係に立たされている者なのですね。 しもべと言えば、なにかこう、何もない惨めな者であると考えるとまた間違いなのです。そうではなくて、神様の限りない愛の対象であり、神に本当に愛される子供なんですね。聖書はそのことをはっきりと言っています。 もう一箇所開いてみましょう。ユダの手紙です。 このユダはヤコブの弟と書いていますから、イエス様と肉の兄弟なんです。福音書を読むと、イエス様の兄弟達、ヤコブとユダの名前が出てきます。 ユダの手紙1:1
彼らは全員、イエス・キリストのしもべであるとはっきり徹底的に自覚していたということなんです。これこそが、初代教会時代の信仰の根本にあったものなのです。 結局、現代の世界のクリスチャン達が非常に曖昧であって、本当に信仰があるのかないのかわからなくて、信仰による戦いができない理由のひとつは、この認識が足りないからではないか。 自分が主の僕であることをわきまえないからではないかと言えると思うのです。 僕であることがわかると、勝手に逃げ出したり、勝手にどこかに行ったりできないわけであります。そこにおれと言われたら居なければならない。本当に命じられるままに歩まなければならない。 生かそうと殺そうと、本当にまな板の鯉みたいなもので、主のなさる通りにやってくださいと、言わざるを得ないわけです。 ここに立っている人は強いものです。とてもじゃないけど、侮れるものじゃないと思います。 主のなさる通りになんでもやってください。私たちがこの立場をとれば、たいへんなものだと思いますね。 旧約聖書の中でも、同じことが言われています。 民数記12:5-8
7節で「わたしのしもべモーセとはそうではない。」、神の僕、キリストの僕という言葉は、クリスチャンにとって最大の栄誉なんですね。 神の僕と呼び得る人が少ないがために、問題が多いのですね。本当にあの人は主の僕であったと言われるクリスチャンは、そんなに多くないと思うのですね。 その人の生涯を通じて、本当に主に仕えたと言う人は少ないのではないでしょうか。 信仰を持っても、いろんな中でいろんなものを持ち、この世を自分の思うがままに生きる人々は多いと思うのです。いわゆる教養を持ち、いろんな形で生きている人は多くても、主の僕として、主のはしためとして、生涯を貫く人は少ないのではないでしょうか。 私たちは救いに招き入れられたときに、誰でも思うのですね。自分の都合にあわせた信仰生活をなんとかやろうとして、歩み始めるものです。 信仰のために、これくらい時間を割いているのだからこれで十分ではないだろうか。これくらいの犠牲を払っているから、これでいいのじゃないだろうか。勝手にそう思いがちなわけです。けれども、そうではないのですね。主は、全部を要求なさるのです。全生活を、求めておられるのですね。 私たちは、自分の立場をはっきり捨て去らなければならないのです。そういう形で、私たちが本当に力に満たされたいならば、いろんな問題の中から力強く解き放たれたいならば、私たちは、神本位の立場に立つ決断がはっきりと必要なのですね。 そうしない限り、同じレベルを、いつまでも同じ所をぐるぐる回って、いわゆる成長しないクリスチャンになるのですね。 何年たっても一向に変わらない。10年も、20年もたってもぜんぜん変わっていない。それを見るときに周りががっかりする。大きな悲しみです。やっぱり私たちは成長していかなければならい。 生活の全体が主に向けられなければならない。 神は、私たちの全生活、全人格をご自分のものとなさろうとしておられる。 そこに神の愛の激しさがあると言えるのかもしれませんね。 ヨハネの福音書17:21-22
神は私たちの全生活、全人格をご自分のものとしたい。すなわちご自分との完全な交わりの中に置きたいと願っていらっしゃることがだんだんわかってきます。 だいたい、これくらい時間を割いて、これくらい犠牲を払えばいいだろうと思い出すでしょう。 しかし、そうではないということが、だんだん分かってくるわけです。そうじゃないんです。 どうして全部を欲せられるのかというと、それが本物の愛だからだと思うのです。 たとえば結婚生活をしている人は、全生活を共にしますよね。そうでないと結婚生活あり得ないわけです。あなたはあっち、私はこっち。ある時間だけとかなってきたら、それは本当の結婚生活じゃないですよね。その夫婦は、ひとつではありません。 ですから本当の愛は、きっとイエス様がおっしゃっているように、ひとつとなる。生活のすべての中で、主ご自身が私たちと交わりを持たれる。そこに神様の激しい愛、神様がねたむほどに愛されるということではないかと思うのです。 私の全生活が主に向けられるということが、聖書の言う清めということであります。 部分的なものではなくて、日曜日だけ、集会の時だけが信仰生活ではなくて、生活のすべてが主に向けられる時に、私たちの生活そのものが、主によって清められ高められてくるわけです。 主の御心にかなわないものを、ひとつひとう生活の中から放り出すようになっていくのですね。そして、イエス・キリストは、わずかでも似た者として変えれていくのです。 エペソ人への手紙5:30-32
召されたクリスチャンが、イエス・キリストと一体になること。ひとつになること。これが結婚の奥義だとパウロはここで言っているわけですけど、聖書は確かに信仰というものを何に例えているかというと結婚に例えています。 創世記の初めからヨハネの黙示録の終わりまで結婚に例えられています。 万物の完成の時は、小羊の婚姻の時と書いています。教会が引き上げられてキリストの花嫁として引き上げられる時と書いていますから、そういう意味で、神は私たちとひとつの者となる。完全に私たちと交わりを持つようになるということだと思うのです。 私の全生涯を、私たちをご自分のものとして捕らえよう捕らえようとしていらっしゃるのだということを感じます。 明け渡して、解放されて、清められて歩んで行けたらと思います。 |