良くなりたいか


蘇畑兄

(御代田喜びの集い、2009/05/03)

引用聖句:ヨハネの福音書5章5節-6節
5そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

少なくとも、まじめに聖書の言葉を聞こうとして集会に来られる人とは、なんらかの問題を抱えているはずであります。なんの問題もないのであれば、人は、この世の生活を謳歌しエンジョイするはずだからです。
イエス様が言われたように、医者を必要とするのは病人であり、この世の解決できない問題に突き当たるから、それまで見向きもしなかったような集会に、教会に行くように人はなるのであります。
キリスト集会とは、この世の楽しみのなんにもない所です。集会にきて、この世の楽しみはなんにもない。これは、そういう所であります。

この世に望みを見いだすことのできる人、この世に逃れ道があると考える人は、主の教会には来ません。来ても、そのうちにこの世の方に戻ってしまいます。
この世に対して絶望している人、この世の中では解決を見いだせない人、問題を抱えている人だけが、キリストの集会から離れることができないからです。離れられないのであります。
さて、イエス様は、何十年も病いに苦しんでいたこの男に向かって、「良くなりたいか?」と問われました。主の、集会に藁をもすがる思いで来られる人々に向かっても、同じように、良くなりたいかと問われるのであります。

イエス様は、病人を癒されたように、私たちの抱える問題ついても本当の解決を与えることができるお方であります。だから、「良くなりたいか?」と問われるのであります。
繰り返すようですが、私たちの問題がこの世で解決されるものであれば、私たちは主の集会には来ません。この世での解決を求めこの世の中に留まり続ける方を選ぶのであります。
なんらかのきっかけでこの世では解決できない問題を抱えていることに気がついた人だけが、真の解決を求めて、聖書に、教会に、主の集会に行くのであります。

たとえば、今、健康を損なって病気の癒されることだけを願っている人がいるとします。その人が教会に来て、奇跡的に病気を癒されたとしますとどうでしょうか。
その人は、大喜びをして感謝するでしょうけど、またこの世の生活をエンジョイすることに熱中し出すのではないでしょうか。
経済的に苦境に陥っている人がいて、その人が、集会に来るとします。集会のどなたかの紹介で、いい仕事につくことができて、経済問題が解決したら、その人も安堵して、感謝するでしょうけど、またこの世の暮らし向きに熱中していくのではないでしょうか。

イエス様が与えようとなされる救いとは、ですから、そのような一時的な問題の解決ではありません。病気は、癒えても、遅かれ早かれ、また人は病気になります。
経済問題が解決したああからと言って、人生の問題そのものが解決されるのではありません。
莫大な宝くじを当てた人は、必ずといって良いほど破滅的な人生を送るようになると言われております。イエス様が言われたように、人の命は財産にあるのではないからです。

イエス様は私たちに真の望みを与えるために、この世に来られたのであります。
私たちが、はかないこの世のものを追い求めるのではなく、朽ちることのないものを求めることができるようになるために、真の人生を生きる者になるために、この世にイエス様は来られたのであります。
この世のものを求めて生きる人は、この世と共に滅びます。この世は過ぎ去っていくからであります。過ぎ去っていかないものを求めるように、イエス様は来られたのであります。

ヨハネの手紙第I、2:15-17
15世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
17世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

この世を追い求めるなら、私たちは、この世と共に過ぎ去っていく。これは間違いのないことであります。ですから真の意味で、主の集会に属する人々とは、この世から出てきた人々であります。
あのソドムとゴモラから脱出したロトの一家のように、滅びの町、なんの望みもないこの世から脱出した人々です。それが真の意味で、主の集会に属している人々であります。
イエス様は弟子達に対して、私がこの世のものではないように、あなたがたもこの世のものではありませんと言われました。

パウロは、私たちの国籍は天にありますと述べています。繰り返しますが、この世に属する者はこの世と共に滅びます。この世に真の望みはないからであります。
イエス様は、死を滅ぼし天国への道を私たちのために開いてくださったのであります。

ヨハネの福音書17:14-16
14わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
15彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

クリスチャンになり、キリストの体なる教会の枝になるということは、この世のものではなくなることです。私たちは、この自分の立場をはっきりとわきまえていなければならないのであります。
ですから、ご自分の十字架の死によって罪と死を滅ぼし、三日目の復活によって、まことの命を明らかにされたイエス様に従って、天国への道を歩むこと。これこそが、ただ一つの真に生きるべき道であると聖書は教えています。
私たちは、時が良くても悪くても脇見をしないでこの道を真っすぐに歩めばよいのであります。私たちのなすべきことは、ただ一つであります。この道を喜び勇んで力を尽くして、雄々しく歩むことであります。

この地上の生が終わるその時まで、この目当てに向かって前進し続けることであります。
他のことは考えなくても良いのであります。
主は全能の主であり、約束を私たちに与えておられるからであります。

マタイの福音書6:33
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

私たちは多くのことを行うことはできません。しかし、ただ一つのことだけならできます。ただ一つの目標を追いかけることだけなら、やれるのであります。
クリスチャンの生活は、非常にシンプルであります。ただ一つのこと、なくてならないただ一つのこと、それだけに目を留めること。そうすれば、必要なものはすべて備えて下さる。これは、主の約束であります。
そして私たちは、それが真実であることを自分の経験をとして確かに知っているのであります。

主に信頼して、主が示される道をまっすぐに私たちが歩みさえすれば、私たちはあらゆる点において豊かな者となる。
これは本当なんですね。

ルカの福音書10:41-42
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

なくてならないものは多くはない。いや一つだ。イエス様は、私たちにおっしゃっているのであります。

最初に申し上げた通りに、私たちは様々な問題や悩みによって、聖書や主の集会に触れるようになります。そして自分が、この世では決して解決できない問題を持っていることに気がついて参ります。
この世の知恵では解決できない問題があるのだ。自分は、それを抱えているのだということに気がつくのであります。
聖書に触れないと、人はなかなかそれに気がつかないのではないかと思います。私たちは、聖書に触れないうちは、この世に望みがあるかのように思い込んでおりますね。
生き甲斐もあるかのように思っているのでありますけど、聖書の御言葉に人が触れ始めると私たちの心の目が開かれてきて、私たちが勝手に思い込んでいる者が、実はそうではないのだ。本当の現実がどういうものであるかを、我々は見せられるようになるのではないかと思いますね。

そして、今まで生き甲斐だと思っていたことが、全く生き甲斐でなくなる。今まで楽しいと思っていたこの世の事柄が、全くなんの楽しみも与えない驚くべきことを経験するのであります。
あれほど、輝いて見えたこの世の世界が、全く色あせてしまう。総天然色に輝いて見えたこの世界が、全くのモノトーン、白黒の世界に変わってしまいます。
そういう全く予期しないような状況に出くわす場合がありますね。

結局、その時に初めて、自分は病気をしているわけではない、この世の歩みがうまくいかなくて悩んでいるわけではない。
逆に、すべてのことがうまくいっている。なんの不満もこの世に対してない。ところが、恐るべき自分の現実に気づかされていく。身動きできないような状況に自分はいるのだと言う現実に目が開かれていく。それは確かに驚くべきことであります。
本当に、そういう問題が自分のうちにあるということ。人間は、そういう問題を抱えているということに気がつくとき、人は、今までのように生きることはできなくなるのであります。この世に留まることは、もはやできなくなってくるのであります。

それはやはり、主が憐れんで下さって、ご自分の御言葉を投げかけられるからだろうと思います。あるいは、御霊が私たちの心の目を開いてくださるからだろうと思いますね。
あれほど楽しいと思っていたものが、なんの楽しみでもなくなるということ。あんなに生き甲斐と思っていたことが、なんの生き甲斐をも与えないということに気がつくことは、恐るべき経験であります。
絶望ということは、簡単に使えない言葉だと思いますが、文字通りそれは、私たちを絶望へと追い込むものだと思いますね。人間は、この世にあって本当に絶望的な存在なのである。それに気がつくかどうかが問題であります。

この問題に気がつくと人は、もう逃れられません。この世に留まることはできません。聖書に解決を求めてかなければいかなくなる。
神ご自身に救いを求めて真理そのもに、人は心を向けざるを得なくなるのであります。

ヨハネの福音書4:13-14
13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

イエス様が、そう言われて与える救いへと、人は導かれるのであります。大切なことは、イエス様がどのように歩まれたかをよく知ることではないでしょうか。
朝も、学びを通して示されたように、私たちは、イエス様を信じるだけでは十分ではない。イエス様が、どういうふうに歩んで来られたのか。イエス様は、どういう姿勢を持って、ご自分の地上における歩みを歩んで来られたのか。
そのイエス様の歩みに習わならないということではないでしょうか。

主を信じて、主のものとなっていながら、確かに多くの問題を抱えて悩んでいらっしゃる兄弟姉妹は、決して少なくないわけでしょう。
それは、おかしな話しなわけです。救いとは、そんなものじゃないわけなんでしょう。それはやはり問題があるわけです。
主の救いを知っていながら、まだ病んでいるということは、おかしなことであるわけです。だから主は、「あなたは、良くなりたいか?」とクリスチャンである私たちに対しても、問いかけてくるわけであります。

マタイの福音書11:28-30
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

私のくびきを負って私から学びなさい、そうすれば魂に安らぎが来ますと、イエス様はおっしゃっているわけであります。
イエス様のくびきを負うということは、イエス様が歩まれたように歩むということであります。
イエス様は、どういう風に歩んでおられるのか。そのことを私たちはよく知る必要があるわけでしょう。

イエス様は、常に御父に祈っておられました。イエス様は、常にご自身を低くしておられました。徹頭徹尾、ご自身を否定しておられました。イエス様は、常に御父の御心だけを求めて歩んでおられました。
これがイエス様のくびきです。私たちは、それを学ばなければならないわけであります。そうしなければ、やはり私たちは、重荷にうめくのではないでしょうか。
私のくびきを負って私から学びなさい、そうすれば魂に安らぎが来ますとイエス様はおしゃっているからであります。

私のくびきは負いやすく私の荷は軽いからです。主が歩まれたように歩むことそこが、一番、歩みやすい歩みであります。主が、歩んで行かれる道こそが、一番平坦な道だからであります。
主のようにご自身をむなしくして、徹頭徹尾、ご自身を脇に置いて私たちが歩むならば、私たちはあらゆる問題に対して、軽々と乗り越えて行けるのではないかと思います。
私たちが、壁にぶつかるのは、私たちがエゴと言う岩のごときものを抱えているからでしょう。そこに常に注意しなければならないわけであります。ピリピ人への手紙の2章に、イエス様がどういう風に歩まれたかが記されていますね。

ピリピ人への手紙2:6-11
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

私たちクリスチャンの歩むべき、生きるべき姿勢もこれに他ならないということであります。そうすれば、そのような正しい姿勢に私たちがしっかりと立てば、私たちに問題はない。私たちに敵するものはない。そう聖書は、約束しているからであります。
ただ主を信じている。ただ主を受け入れていると言うだけでは、私たちは問題から逃れられないということなんです。私たちは、主が歩まれたように歩まなければならない。そういうことであります。
主が歩まれたように、歩まなければならない。そこに真の意味での勇気が生まれてくるからであります。

ローマ人への手紙8:28-32
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
30神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ここに書かれているように、私たちがクリスチャンとして救い出されたのは、イエス様と同じ御姿に変えられるためであるとあります。神の御心がそこにあると書いてあるわけであります。
ですから私たちは、主に習わなければいけないわけであります。主の御姿に変えられていかなければならないのであります。
そうすれば、私たちに敵し得るものはなにもない。そこに書いてある通りに私たちは勝利者となるのであります。

ローマ人への手紙8:37
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私たちは、主の道を歩もうと思うなら、心して罪から離れなければならないということ。主に習い、主に従い、主と共に歩むということ。ここに私たちのすべての目標があるのであります。
そこに、私たちの全神経と言いますか、力を尽くしてその一点を見失ってはならないのであります。
あらゆる問題に対する真の解決はそこにあるからであります。

多くのことはできません。しかし、一つのことならできるのであります。パウロも、「私は、後ろのものを忘れ前のものに向かってひたむきに走っている。」と言いました。
彼も、このひとつの目標だけを目指して走って行ったのですね。だから、彼にはあれだけの驚くべき力が与えられたのであります。
私たちは、聖書が繰り返して語っているように、やはり、様々な霊肉の悪しき汚れから清められなければならない。そうでなければ、主の道を歩むことはできない。

主が罪から離れて、常に清くあられたように、私たちもまた、それに心して習わなければならないのであります。
そして、主の道を歩むならば、私たちは、間違いなく圧倒的な力の主から恵んで頂ける。これは確かなことだと思います。
イザヤ書の35章を読んで終わりたいと思います。

イザヤ書35:8-10
8そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
9そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
10主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。

これこそ、今、私たちが歩んでいる道ではないでしょうか。天国に至るこの道を、この地上が終わるまで、天の門に入るまで、ひたすらに歩み続けること。そうすれば、私たちの人生は間違いなく豊かに満たされる。主はそのように約束していてくださいます。
そしてそれはまた、私たちが今まで経験したことでもあるわけです。
主の約束は真実でありますから、聖書が明らかに私たちに勧めているように、ただ無くてならない一つのもの、そこに目を留めて歩み通したいものだと心から願っております。




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