引用聖句:詩篇50篇15節
神様の前に引き出される時だけ、人間はすがすがしいようであります。私も主の御手によって前に引き出される時には、自分自身のいろいろなものが砕かれてすがすがしい思いをしますけれども、私自身は一向にすがすがしくないのであります。 昨日、御代田におられたベック兄からお電話が入り、「ちょっと具合が悪いので、時間があれば今日のメッセージを代わって欲しい。」ということでした。 私はいつも午後に仕事があるので、午前中なら何とか間に合いますので来たわけです。 ベック兄のいらっしゃらないところでいつも思うことがあるんですが、それはパウロが書いてあるピリピ人への手紙3章13、14節のみことばです。 ピリピ人への手紙3:13-14
このみことばを読むと、ベック兄のことを思います。 20年近く主にある信仰の交わりと導きをいただいて、私はほんと幸せだと思っておるんですが、ベック兄を見ていると、あの方は倒れるまで休むのを知らないというところがあるんですね。 これはちょっと、いつも圧倒される思いがいたします。 奥さんの話によるとですね、ベック兄は学生の頃スポーツが得意でいつも選手で大体誰も敵わなかったそうです。とにかく大変な運動神経を持っていらっしゃったそうです。 常々思うことですが、強い運動選手は、最後まで力を抜かないんですね。力を抜いたら駄目なんです。最後の競り合いで勝負が決まるわけですので、最後に力を抜く人は勝てないんです。 ベック兄を見ていると、いかにもその典型的なものだと、私はいつも思います。 とにかく力を抜かないものですから、時に倒れてしまって胃にくるらしいんですね。そうなると大体吐いたりなさるようで、ちょっと休まざるを得なくなるという感じらしいんです。 それに比べると僕なんかはすぐに手を抜くもんですから、大体ゴールの寸前になるとすぐ力を抜くもんですから、「どうもいかんなあ」と反省しきりですね。 ほんとに「ベック兄を見習わなきゃならん」と思うのですが、もう40過ぎてからは無理でしょうかね。とにかくですね、私たちも少しでも習ってひたむきに前に向かって進みたいものです。 パウロはそう書いていますね。「前のものに向かって進むのだ。上において召してくださる神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走っているのです」とパウロは言いましたけれども、私たちもひたむきに、一心に目標を目指して走り抜くと言いますか、「後のことを考えないで、全力を尽くして走る」ほんとにそういう信仰の生涯を送れたら、もう、大満足じゃないかなあ、と思うんですね。 先ほど読んでいただいた聖書の箇所を見てみましょうか。有名ですね。詩篇の50篇15節、「悩みの日にわれを呼べ。われ汝を助けん。汝はわれをあがむべし。」 私たちの人生において、最も幸いな人とはいったい誰でしょうか。聖書はそれは「神様をほんとに知った人だ。」と言っています。 神様と出会って、生ける神様と交わりの中に生きるようになる人、神の御翼の陰にいつもかくまわれている人、神によって養われている人、育まれている人、真理の中を歩むように導かれている人、「この人こそがもっとも幸せは人だ」と言っているんですね。私は間違いなくそうだと思います。 私事ですが、私は全然「キリスト教徒になんかなろう」なんて思いませんでした。ある兄弟もおっしゃってましたが、私から見てもクリスチャンなんていうのは、何かこう、どこか一本釘の抜けた人々のようで、国籍がはっきりしない、って言いますか、日本人なのか、ドイツ人なのか、アメリカ人なのか、よくわからない。 ある兄弟もクリスチャンのことを「どこか一本釘が抜けているんじゃあるまいか。」と思ったと書かれておりましたけど、僕もそんな感じがしたんですね。 なんか確かに人は良い。悪いことはしないし、穏やかだし、なんかいいんですけどどこか気迫に欠けるとでも言いますか、男でもない、女でもない。 「君たち中性か。」というようなことをよく言われますけど、僕もそんな感じがしてましたね。 ですから僕はほんとに「クリスチャンなんかになろう」と思ったことは一度もなかったんであります。 しかしですね、大学に入りまして、ベック兄を我々に引き合わせてくださった私の恩師が、経済原論の授業の中で面白いことをおっしゃるんですね。「なんか不思議なことをおっしゃる人だなあ。」といつも思ってました。 言ってることがよくわからないんですね。「ピシッ」っとわからんのです。要するに理屈を言っていのではないのでわからないんです。理屈を言えばわかるでしょう。 AだからBだからCになるとくればですね、これは3段論法ですからわかるんです。大学は大体そういうことを教えるわけですよ。論理というのはわかるんです。これは聞けば誰でもわかるんです。 ところが先生の言っているのは信仰の話ですから聞いてもわからんのです。信仰の話は聞いてもわからないんです、目が開かれなければ。 「なんか変わった事を言ってる、なんかこの人は不思議なことを言ってるなあ」とは思うんですけど、要するにわからんのですね。 薄暗い教室で生徒が数百人も入る大教室でしたが、「なんだろう」と、前の方に行ってですね、先生からは見えないんですけど、僕の方からはよく見えるところで、その話だけは一生懸命に聞いたのであります。 先生は「イエス・キリス」ということを真正面からは言えませんので、時々こんなことをおっしゃるんですよ。 「諸君はもし火事になって一冊の本しか持ち出せない、としたら何を持っていくか。諸君にはそんな本があるか。私は聖書を持ち出す。私にはその一冊の本がある。」というようなことをおっしゃるわけです。 「なるほど、聖書か。キリスト教か。」と僕もだんだんそういうことで導かれてですね、まったく予期もしないクリスチャンなんかになってしまったんです。 ある意味で不名誉な話ですけど、しかし、私にとっては実はもっとも大きな誇りは神様を知ったということなんですね。イエス・キリストを知ることができたということ。真理がなんであるかを私は知ることができたということです。 これが与えられたゆえに私はほんとに大満足なんです。このことを思うときにですね、いろんな不平や不満がありますけど、それも感謝に変わって行くのであります。 イエス・キリストを通して神様の救いを見出したということが自分にとっては大きな喜び、大きな満足の源となっているんですね。 天地万有を創造され、私たち自身をも創造してくださった真の神様。目には見えませんけれども生きておられて私たちの思いや願いをことごとく知っておられる神であります。私たちの祈りに答えようとしておられる神であります。 この神を知るということ。これに勝る幸せはないのではないかと思うんですね。頭で神様を知ることはできません。体験的に、経験を通して神様を知るようになるということ。 私たちの生活の真っ只中で、日常生活の中で神様との交わりを通して知って行く。これこそが一番素晴らしいことではないかということですね。 神を知る人は全能者を自分の味方にすることになります。私たちには全能者なる神が味方になってくださると聖書は言っているんですね。真理に属する者になるということです。真理の中を歩む者とさせられたということです。 聖書には「光の子」と呼んでいますが、光の中を歩む者となるんですね。真の神様をほんとに知って神様と正しく結びつくときに、私たちは磐石の土台に立つことになります。 何があっても崩れることのない岩の上に立つようになるんですね。 神を知ることは文字通り力そのものなんです。信仰は力だとパウロは言いましたね。神の国はことばではなく力です、と言いました。 「私たちの信仰は、福音はどのような要塞をも打ち砕く力がある」とパウロは言ったんです。誇ったんですね。信仰は力なんです。力がなければ、私たちの信仰はおかしいんです。 福音は私たちに大きなパワーを与えるもの。その力ある信仰を私たちは自分のものとすべきなんですね。神が私たちの味方であれば何者も私たちに敵対できないとパウロは言いましたね。 ローマ人への手紙8:31-32
「すべてはあなたがたのものです。」とパウロは言っているんですね。見えるもの、見えないものすべてのものはあなたがたのものです。あなたがたにすべてを与えるために神はあなたがたを選ばれたのです。 パウロはこのところで書いてあるんですね。神を信じる人々、神のところに立ち返った人々ほどすばらしい立場を与えられている者はないと言っているんですね。 神の跡継ぎにあるということですから。クリスチャンになるということは。イエスキリストと共なる相続人となるということなんですね。イエス・キリストと共成る相続人となるということなんですね。だから、私たちほど豊かな者はない、とパウロは言っているんですね。 イエス様を知る人は真の自由というのを経験するようになります。すなわち、自由とは何かというと私たちが自分自身のエゴから解放されるということなんです。エゴから解放されない限り自由というのはあり得ないんです。 内的な自由と言うのはね、真の神様を知った人の中に見られる自由、束縛されないある自由は何から出てくるかと言うとエゴからの解放を経験することなんですね。 イエス様と出会う時に、私たちが自分の罪を示される時に、悔い改めるときに、私たちは内なる自由を得るようになってきます。 ヨハネの福音書8:31-32
ヨハネの福音書8:36
イエス様のことですね、 ヨハネの福音書8:36
「私たちを自由にするために来た。」とイエス様はおっしゃったんですね。死と罪の束縛から私たちを自由にするためにです。どうでしょうか。私たちは自由なる者になっているでしょうか。信仰、信仰と言っても私たちはまだエゴの中に留まっているんでしょうか。エゴの鎖から断ち切られているのでしょうか。それはほんとに大きな問題であります。 私たちは何が自分を束縛しているか、よく吟味すべきです。そのためには静まって神様の語り掛けに耳を傾ける必要があります。 何が自分を縛っているんでしょうか。その縛っているものを知る必要があります。そしてそこから離れる決心をすべきであります。そうすれば、神は必ず解き放ってくださるからなんです。そういう意味で自己吟味は必要です。 先ほども言いましたように、私たちは神ご自身を知るときに磐石の土台に立ちます。 マタイの福音書7:24-25
「岩の上に建てられていた。」とイエス様はおっしゃいました。自分のことばに留まる者、神を恐れかしこんで神のみことばに歩む人、この人は揺るがない土台の上に立っている人です。もし、そうでなかったら私たちは必ず倒れます。その時が必ず来るからなんですね。 私たちは人生というものが真理に立たなきゃやっていけないんだ、ということをいつか必ず知るようにとなってくるんです。 私たちは小さい頃、まだ、17〜18歳の頃まではどうにでも生きれるように思うんですね。自分のやりたいように。個性だ、個性だなんて世の中は言いますから、個性的に生きようとしてみんな無理したりして、大変なことになるわけですけれども。 個性とは好き勝手にやることだと思ってですね、もう自分の我を通してですね、生きようとしてきます。しかし、その内、必ず行き詰ってしまうんですね。 そして知ることは結局、真理の上に立たなければいけないということなんです。そうでなければ皆、裁かれていくんです。打ち倒されて行くんですね。それは厳粛なものなんです。 私たちはそのことを知るときに初めて人生の厳粛さというものに触れるのではないかと思うんですね。だから行き詰ったことがなければ、自分でどうしようものないことになったことがなければ、私たちは人生、または信仰、神を侮るのであります。 私たちは愚かですから、人間の心の愚かさや鈍さや頑なさというのは御し難いものなんです。ですから私たちは近くにおられて、私たちに御手を伸べようとしておられるイエス様をいつまで経っても求めようとしないのであります。ほんとうに人間の心は愚かであります。 人が真の神を求めるということはですね、神様に心を向けるということは実は奇跡に等しい出来事なんです。容易なことではないんですね。 ですから、聖書は「誰でも父に導かれなければ私の元へは来ない。」とイエス様はおっしゃったんですね。 「さあ、一つ奮起して宗教でも心を寄せてさあ、立派な人になりましょう」なんてやったって絶対だめなんですね。そういう風にして救いというものを見出すものではないんです。自分の力で、自分の決心で、人は神様を知ろうとは決してしないんですね。 そうではなくて、行き詰ってしまってからなんです。 私たちの生まれつきの人間は、生まれつきの心は、聖書はそれを「肉なる者」と言っていますが、肉なる者はですね、神様から逃れたい、神のことなんか聞きたくない、という性質を持っているんです。 「自分には神なんかいらない。」と嘯いているのが生まれつきの人間の姿なんです。自分の無力さや愚かさや惨めさを、ほんとに知ることなくしてですね、人は神様の前に正直にまた素直になることはできないんです。 自分の無力さや惨めさ、すなわち、罪を正直に認めるということはほんとうに難しいことなんです。謙遜になることはほんとに至難の業であります。 私たちは「自分には神様なんかいらない。」というように嘯くときにですね、すなわち、この高慢のゆえに人間は盲目になるんです。盲目になって結局、罪を罪とも知らないで、闇の中をさ迷うようになって行くんですね。 すべての原因は高慢だと聖書の中に書いてあります。高ぶりなんです。そして遂には行き詰ってしまって破滅に直面するようになって行くんですね。 「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」と聖書の中にあります。「高ぶりは破滅に先立つ。」高ぶりが生じれば必ず次は破滅がありますよ。心の高慢は倒れに先立んですね。 高慢な人は必ず倒れますよ。恥を見るんです。人間が高ぶるときにですね、そのことを聖書は非常に厳しく戒めております。 「じぶんを知恵のあるものだと思っている人を見ただろう。彼よりも愚かな方がまだ望みがある。」と、聖書の中にあるんですね。 主により頼んで、神様に栄光を帰していくということ。こういう態度を取るとき神様は必ずその人を祝福してくださるんです。必ず神はその人に勝利を与えてくださるんです。 神の前にへりくだること。神様に栄光を帰して行くこと。そのときに私たちは勝利を得ます。 高ぶるものは簡単に悪魔に捕らえられる人であります。しかし、自分の力と知恵を空しくして神に頼る人は悪魔の罠にかからない人であります。 箴言の18章10節を見てください。 箴言18:10
すばらしいみことばですね。 箴言3:5-6
主を畏れる人はまっすぐな道を歩むことが出来ます。主を侮るならば、高ぶる人は、自分の道から迷い出てしまいます。 「悩みの日に我を呼べ。」と主はおっしゃったんですね。悩みの日にならなければほんとの意味で神を呼び求めないから、ということを神様はよくご存知なんです。 悩みの日に、どうしようもなくなった日にのみ、人はですね、「神様―」とほんとに心を向けるようになるからなんですね。 そこに先ほども言いましたように信仰と道徳や修養との違いがあるんです。道徳とか修養の道は自分に自信のある人の道なんです。 ああして、こうして頑張って立派になって、しかし信仰は逆なんですね。信仰はすべての自信を失ってどこにも立ちどころを持たなくなった人が最後にあげる叫びから始めるものなんです。 人は誰でも全く行き詰ってしまうと自ずから「神様。」と叫びをするものなんですね。 これはほんとに感謝すべきことであります。人は「私は神様のことを全然知りませんでした。」と絶対いい訳出来ないと聖書に書いてあるんですね。 すべての人が神様の前に裁かれるときに、神様の裁きの前に引き出されるときに、「私はあなたのことを知りませんでした。私は聖書なんか見たこともありませんでした。」という弁解は神様の前に通用しないということなんです。 なぜならばすべての人は実は神様を知っているからなんです。神様を知らないのではなくて、神様を知りたくないからなんです。それが私たちのほんとうの姿なんだと聖書は言っております。 自分が頼みにしていたもの、当てにしていたものが一瞬にして崩れ落ちるときに、根こそぎに引き抜かれるときに、人は顔色を失って恥じ入らざるを得なくなります。 そしてそれまで大言壮語して、神様なんかいらないと嘯いていた心を砕かれざるを得ないのであります。 先日の家庭集会である若い姉妹が非常にすばらしい証しをしてくだいました。彼女は非常に優秀な姉妹らしいんですが、進化論なんかの勉強していて、「何が神様が造られた?そんなバカな。」とクリスチャンの先輩の言うことは全然聞こうとしなかったそうです。 自分が頼りにしていた、自分がすべてだと思っていたお母さんが去年か、一昨年か倒れてどうしようもなくなったと言っておられました。ほんとに自分が立っていた土台が崩れるような思いをしたと言っておられました。 そして昔、高校に通っていた頃に何とも薄暗い変な教会だと思っていたこの吉祥寺集会に行ってみよう、と思ったと言うのですから、いろんなことがあるもんだと思うのですが、それで去年救われたんですね。今は集会三昧だそうです。 神様はですね、私たちがどんなに脆いものであるかを知らせてくださいます。神様がちょっと指で触ってくだされば私たちの土台は一挙に崩れ落ちるわけです。そういうものだと知らずに私たちは実に愚かなものですね。 しかし、私たちがほんとにこの高慢さを恥じ入って、心から神様に助けを求めるなら、神は「わたしはあなたを助けよう」と約束をしておられます。 聖書の中に神は忍耐の神、神の忍耐ということばがありますけど、神はほんとに忍耐の神です。 どんなに頑なに逆らっていても、どんなに侮り続けた人であっても悔い改めるなら、助けてくださいと叫ぶなら神は決してその人を見捨てられることはないからなんですね。 受け入れてくださって、私たちを救い、助けてくださるんです。 私たちが大言壮語しているのは、偉そうに振舞っているのは何も知らないからなんです。自分の成していることをわきまえないからなんですね。すべてのことを当たり前だと思っているんですね。 神様の導きと神様の救いのみ業は完全であります。神の御手によって自分がほんとに砕かれるときに神はほんとに自分の一番痛いところに手を伸べて来られた、ということを、ほんとに知って神様の知恵の深さに驚くのであります。 そしてまた神の救いは完全であります。ですからパウロは神の知恵の深さに圧倒されたんですね。 ローマ人への手紙11:33
と、このようにパウロは書いております。 パウロは神を知れば知るほど、神のなさるみ業がもう驚くような知恵を秘めていること、すべてのものが、神様のご計画の中に組み入れらていること、一つとして神様の目から漏れていることのないこと、人間の目から見れば失敗だと思われること、あるいは矛盾だと思われることも、神は驚くべきご計画をして実現していくということ、彼はまざまざと見ていったのであります。 そしてここで神様の知恵と知識と富に感嘆の声をあげているんですね。そのさばきは何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう。 神様を知るときにだけ、何と言いましょうか、人はほんとに無限なるもの、どこまで行っても極めることのできない、神様の知恵の深さというものを知るようになって行きます。 この世はすべて限りがあります。この世のものはいくら探っていっても結局限りのあるものです。ですからこの世のものに無限なるものを求めることはでしきないことなんです。 この世は結局同じところをグルグル回るだけの出口のない世界なんです。神様ご自身だけが無限の方です。 神様を見上げる人にとっては行き詰ることがないんです。神様を見上げる人はいつも次々と新しい啓示に接しますから、いつも若々しい魂を持つことができます。 神は知者の知恵を空しくされ、へりくだる者を信仰によって救おうとしておられます。聖書が言っている罪とは高ぶりです。神への反逆です。神への敵対です。「神はいらない」という人間の高ぶり、うそぶきこそが罪の原因になります。 それはほんとに恐るべきものなんですね。この罪のために人は地獄に墜ちて行くんです。永遠の暗闇の中に入っていくんですね。 ガラテヤ人への手紙6:7
この罪の滅びに気づいて、心翻して「帰って来い」と神様はおっしゃっているんですね。神様の許にすべての祝福が用意されているからです。 神は罪の汚れによって汚れている私たちを聖めようとしていらっしゃいます。罪によって傷ついているところの私たちを癒そうとしておられるんですね。 疲れきって動けなくなっている私たちを主は新しくし、養い、守り、導こうとして待っておられる、ということなんです。 神様のところにすべての必要が備えられている、と聖書は言っているんですね主の許に帰ってくることであります。 主のみこころを知って私たちが主のみこころの中を歩もうとする態度を取ることであります。そうする人は必ず聖められるわけです。元気になります。 詩篇50:15
汝、我をあがむべし。神様は私たちが神様のみ業を知って、神様のすばらしさを知って、心から神を賛美すること。神を愛すること。感謝すること。そのことを待っていらっしゃるということなんですね。 私たち人間を造られた神様のすべての目的は神を知って神を崇めるようになること。これが神様のみ業の究極の目標と言っていいと思うんですね。 ほんとに私たちが神様を知るようになること。神を知って神様を褒め称える者になるということです。日曜日に礼拝に行くのはそのためなんですね。神様に礼拝を捧げることです。 クリスチャンの最高の義務と言いますか、それは礼拝でしょう。礼拝に集まって神を褒め称えること。神に礼と誠を持って礼拝すること。結局、究極のものでしょう。 そのために神様は私たちを召しておられるのです。私たちを罪から聖めて解放して神の栄光にあずかる者として、そして神に栄光を帰する者、神をほんとの意味で礼拝する者、としようとしておられるわけですね。 ですから、神を褒め称えることは非常に大切なことなんですね。 まあ、恐らくこの目に見える天地万有の目標は何かと言うと、神を褒め称えるため、神の栄光のためと聖書は言っていると思います。この造られた者は神の栄光のためなんですね。 詩篇29:1-2
詩篇115:1
主に栄光を帰して歩む者となりたいと思います。 |