信仰者の人間関係


須藤兄

(西神福音集会、2012/07/08)

引用聖句:ガラテヤ人への手紙5章22節-23節
22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

今日は、司会の兄からご紹介があったテーマですけれど、「信仰者の人間関係」というテーマをつけました。
しかし、今日始めての方もおられますので、別に信仰者と限定しなくても、一般的な人間関係も含めて、私たちにとって一番大切なことを少し学んでみたいと思います。
本当に私たちは、救われてもなお愚かな者で、人間関係で失敗したり悩んだりしたりすることがないでしょうか。そう言った人間である私たちの人間関係、一番悩んでいるかもしれませんけれど、みことばから少し考えてみたいと思います。

ガラテヤ人への手紙5:16-23
16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

信仰者が、御霊によって歩むことの大切さがここでは強調されています。
私たちの歩みは、御霊によって歩むか、肉によって歩むかの2つのうちのどちらかでしかありません。一日のうちでも私たちは、ある時は御霊によって歩み、ある時は肉によって歩んでおります。ある信仰者は、ほとんど肉によってのみ歩んでいるという場合さえあるでしょう。
では肉とはいったい何でしょうか。聖書から少し見てみたいと思います。

テサロニケ人への手紙第I、5:23
23平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

ここには人間というものが、どういった構造によって造られているか、そのことが書いてあります。
一番最後の「霊、たましい、からだ」この3つの部分によって、人間は成り立っているということなんですね。

一番目の霊とは、アダムが最初に造られた時、神様によって吹き込まれたいのちの息です。私たち人間は、神様の霊が分け与えられているということですね。この霊によって、人間は神様と交わることができ、神様の御心を知ることができます。霊は聖いもので、神様に従いたいと願っています。
次に2番目の魂、これはこの霊の下にあって、霊の思いをからだに伝える働きをするのです。魂は、知性、感情、意思の3つの部分から成り立っております。その霊の支配の下、実際にからだを動かして、神様のご栄光のために働きます。
そして3番目のからだとは、魂の指令によって、実際にからだの各部分を用いて、直接的にこの世界と関わっていく、実際的な部分ですね。通常言われる私たちのからだというものです。

聖書では、霊、魂、からだの3つの部分が、それぞれ秩序正しく働く時に、私たちが神様に用いられると書いてあります。そして秩序正しいとは、魂とからだが、霊の支配下にあるということなんです。その時、私たちは神様のご栄光を表すことができます。
ところが、その秩序が乱れて、魂とからだが霊の支配から離れると、暴走してしまうのです。その時、魂とからだがワンセットになって、霊に謀反を起こしている状態、それがいわゆる肉なんですね。肉的であるということです。
ここではっきりしておくべきことは、未信者の方は、そもそも罪によって霊が死んでおります。ですから、なかなか神様を知ることができません。

そういった方は、一日も早く神様との関係を修復されて、この霊が仮死状態になっている霊が生かされること、そのことを体験していただきたいんです。ですから、未信者の方は、そもそも最初から暴走状態にあるということなんです。皆私たちはそうだったんですけど、最初はみんなそうでした。そんな私たちも、悔い改めて救われれば、霊が生き返って、神様との交わりが回復されます。
ところが、せっかく救われて霊が回復したとしても、魂が霊の下にではなく、上位にきてしまうと、再び暴走を始めてしまいます。

そのことを少し具体的に説明したいと思います。魂とは、先ほど言いましたとおり、知性、感情、意思の3つの部分からできております。そして、たとえば私たちの霊が、御霊の支持を受けて「お見舞いに行きなさい。」という指令を受けたとします。すると、私たちの魂の中の知性が働いて、考え得る限りの最善の計画を練ります。
病人を見舞った私たちは、やさしい憐れみの感情で接し、神様の愛を伝えます。そして意思は、これから毎週お見舞いに行こうと決心します。そのすべてにおいて、霊の支配の下にあるなら神様のご栄光が表されるんです。
ところが、私たちの魂が、霊の支持を聞かずに勝手に働く可能性もあるんです。私たちは、御心を聞かずに知性を働かせて、お見舞いを計画します。相手を前にして、感情的に人間的な愛で接します。そして意思の働きで、毎週お見舞いに行って、相手に嫌がられます。これが肉的なことなのですね。

言うまでもなく、魂もからだも本来ならば、神様に造られた良いものであるんですけど、その良いものも霊の支配下にないならですね、神様のご栄光を妨げる働きをするのです。
ですから私たちは、この霊と魂の働きを見分ける必要があるのですけれど、問題は、その違いが非常に解かりにくく、往々にして混同されがちなところに問題があるのです。
そもそも魂、つまり知性、感情、意思の働きは、この世において一概に悪いとは見なされないんです。私たちが適切に知性を用い、良い感情を持って、意思的に働くことが推奨されています。ところが魂がいくら頑張っても、御霊の霊的な働きなしには、本当の良い実は残りません。

神様なしに、良いことをしたいと望むこと、これがヒューマニズムなのです。言い換えると、人間中心主義です。神様を除外して、何か良いことをしたいという人間的な働き、これがヒューマニズムなのですね。
人類は、神様を除外して、ヒューマニズムで頑張ってきました。その結果はどうだったでしょう。司会の兄が話されていましたように、収束しない原発問題があります。そして戦争が頻発しております。離婚が増加しています。犯罪が増加しております。この世は善くなるどころか、いっそう悪くなっているのです。
これらはみな人間が神様を無視して、人間の魂の働きに頼ってきた結果なんです。うまく行かなかった理由は、罪なのですね。人間には罪があるということです。そしてその人間には罪があるので、魂が汚れているのです。それが問題だということですね。ヘブル人への手紙10章22節ここにはすごいことが書いてあります。

ヘブル人への手紙10:22
22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

ここに邪悪な良心とあります。私たちは良心というと、善いものと思いますけれども、神様の目から見たらですね、人間の良心は邪悪であるとあるんですね。
たいていの人間は、良心にもとずいて行動しようとします。ところが、人間の良心とは、もともと汚れており、邪悪なのだということです。
魂は肉にすぎず、邪悪であり、御霊にそして神様に対します。人類は、神様抜きの魂の働きだけで、つまりヒューマニズムに基づいて、理想郷を作ろうとしてきました。

人類愛、博愛、郷土愛、さらには民主主義、教育、文化、芸術、科学、そして宗教など人間生活のあらゆる局面において、人間はイエス様なしで価値を追求しようとしております。
ところが、それら一見して善きものの内側に、実は隠された悪しき動機があるんです。たとえば、人類愛の中に、私たちはコマーシャリズムを見ます。
政治の中に、名誉欲、金銭欲を見ます。科学や教育の中に、分裂、分派、敵意、争いを見ます。芸術の中に、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術を見いだします。

それが、ヒューマニズムの実態であるんです。それは肉的であると聖書は言うのですね。もし私たち信仰者が、魂の声に導かれるなら、見かけは良く見えたとしても、所詮肉の行ないにすぎません。ですから、聖書は「御霊によって歩みなさい。」と勧めるのです。
私たちが、御霊の声に従えば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。そして私たちが、御霊によって歩む時に、冒頭に読みました、ガラテヤ5章22節にあるとおり、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という9つの御霊の実を結びます。
ところが、この御霊の実といっても、その一つひとつに注目する時、それらはイエス様のご性質そのものであることが解かるんです。どれ一つとっても、それらは本来の私たちの性質ではないんですね。

私たちは、寛容ではないし、親切ではないし、愛も喜びも平安も、そもそも、そういったものはないんです。これらは私たちが、イエス様に正しく繋がっている時に、私たちの中にイエス様そのものが、9つの善き性質として現れてくださるということなんです。
ですから、私たちにはこの御霊の実を、努力目標として命じられてはいないということですね。そこが注意すべきところです。ここには、寛容でありなさい、親切でありなさい、誠実でありなさい、柔和でありなさいとは書いてないんです。私たちが、御霊の実を個別に求めても得られません。
いくら寛容になりたいと努力しても、無理なんです。そもそも生まれつきの私たちの中には、寛容はありません。それらは、私たちがイエス様に繋がっている結果、自然にもたらされるものです。ですから御霊の実といっても、果物のように実がなったらいつまでもそこにあるものではありません。私たちがイエス様から離れた瞬間、それらの実は私たちから落ちてしまうのです。

それではこのガラテヤ人への手紙5章22節の御霊の実について、少し詳しく見てみたいと思うんです。9つの御霊の実が書いてあります。そしてこれらは、その性質によって、3つずつ、3つのグループに分けることができます。そしてこの3という数は、三位一体を表す神聖な数字です。
その神聖な3という数字は3つある。3x3で9つですね。御霊の実はこのように特に神聖なものとして、聖書には紹介されております。
ではこの御霊の実を、それぞれのグループごとに見ていきたいと思うんです。

最初のグループは、愛、喜び、平安その3つですね。
この愛、喜び、平安とは、私たちと神様との関係を表しております。私たちが神様を信じた時、罪が贖われた結果として、私たちは神様の怒りの対象ではなく、愛の対象に変わります。その結果、愛、喜び、平安という御霊の実がもたらされます。
そして私たちが、イエス様に正しく繋がっている限り、この愛、喜び、平安という御霊の実で満たされます。もしそれがないなら、イエス様と正しく繋がっていないということですね。

次のグループ、寛容、親切、善意、この3つは隣人との関係を表しています。
私たちと隣人との関係を表しております。私たちがイエス様に繋がっている時、私たちは寛容、親切、善意という御霊の実で満たされます。逆に言えば、私たちが隣人との関係において、寛容、親切、善意という御霊の思いに満たされているなら、私たちは御霊の御支配の内にあるのですね。
しかしもし、寛容、親切、善意から遠いとしたら、私たちは御霊の御支配の下にはなく、魂が支配しているということなんです。ですからこれはバロメーターなんですね。主は、私たちに「寛容でありなさい。親切でありなさい。」と個別の要求はなさらないんです。無理だからです。それはただバロメーターとして機能します。

今あなたが、人との関係において、つまり夫、妻に対して、子供、親に対して、兄弟姉妹に対して、寛容、親切、善意から遠い状態にあるとしたら、あなたは、御霊の御支配の内にはいないということを示しております。
聖書は、そこに気がつきなさいと言っているのですね。そして、「悔い改めて、わたしと新たに繋がりなさい。」と言っております。そうすれば、人に対して寛容であり、親切であり、善意を持って接することができるということなんです。
そもそも寛容、親切、善意とは、イエス様のご性質です。イエス様は、罪と恥と汚れにまみれた私たちを愛して、そこから救い出すために十字架にかかって死んでくださいました。何にも悪くないイエス様が、極悪非道の私たちのために、いのちを投げ出してくださいました。これが本当の寛容です。この世が言う寛容は、ちょっと違うんですね。

この世が言う寛容とは、相手に対する余裕なもので、「まあ、許してやろう。」とそういった程度のものです。しかし本当に利害が対立した時、人は相手に寛容になることはできません。
私たちも、自分が正しいと思っている時や、明らかに相手がとんでもない事を言ってきた場合、寛容になることはできないんです。たとえば、未信者の御主人や上司が、あなたに理不尽なことを言ってきたとします。あなたが、自分の正しさにしがみついている限り、寛容であることはできません。
しかし、イエス様は、ご自分は全く正しいのに、極悪非道の私たちに対して「ごめんなさい。」をしてくださったんですね。それがイエス様の寛容です。正しいお方が、悪い者のために死んでくださり、「わたしが代わりに死んだから、もう仲直りしよう。仲良くしよう。」と仰ってるんですね。何とありがたいことでしょうか。

コリント人への手紙第II、5:19-21
19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

このように、十字架とは驚くべき御業です。違反行為をしている私たちの責めを私たちに負わせるのではなく、イエス様に負わせて、イエス様を死をもって罰してくださった。だから「わたしと和解しなさい。もうすでに罪の代価は支払い済みであるから、わたしと仲良くしよう。」と「赦されなさい。」と私たちにやさしく呼びかけておられます。
それが救いです。それが本当の寛容です。しかるにこの世では、すべてが善悪の法則で成り立っています。悪いあなたが謝りなさい。そうすれば許してあげます。それがこの世の寛容です。
私たちも残念ながら、人との関係で、この世の寛容を実践していないでしょうか。たとえば、集会の兄弟姉妹に対して「私は正しい。でもあの兄弟は、姉妹はこんな理不尽なことを私に言った。けしからん。決して許さない。謝るべきだ。そうしたら許してやる。」と考えていないでしょうか。

でもイエス様は、全然悪くなかったのに、全く悪そのものの私たちを赦してくださったんです。これが本当の寛容です。
魂は、善悪を主張するんです。良いか悪いかですね。でも本当の寛容というのは、相手の善悪にとらわれないんです。神様は、私たちにも同じようにしなさいと言っておられます。私たちにそれが出来るでしょうか。出来なくても心配する必要はないんです。これはバロメーターです。
私たちが魂に立つ限り、寛容からどんどん遠ざかります。そうすると寛容、親切、善意という御霊の実が、どこかへ飛んで行ってしまいます。その結果、愛、平安、喜びもなくなってしまいます。そこに気がつきなさいと仰っているのですね。気がつけばいいのです。気がつくことから、解放が始まります。そして解放への一歩は、魂の否定です。

さきほど言いました通りに、魂とは、知性、感情、意思です。知性は、目に見える状況から、善悪を判断します。そして、私の方が正しいと主張します。ここは決して譲れないと主張するのです。しかし、魂に立てばいのちは流れないんです。相手を許すことなど絶対できません。魂は、このようにして御霊に逆らうのですね。
聖書では、自分がイエス様に赦されたように、相手のことを許しなさいと書いてありますが、そんなことはとうてい無理ではないでしょうか。私たちは、絶対許さないとよく言わないでしょうか。今度あったら、「あなたは間違っています。」と言ってやろうと思っていないでしょうか。これらはすべて魂の働きです。
御霊の実は、寛容、親切、善意です。寛容とは、何度も言いますけれども、自分が悪くないのに、悪い相手を許すということです。正しくない者を許すということです。これは、イエス様そのものです。そこから本当の真実が生じます。

親切とは、寛容に基づき、実際に相手の益になることを行なうといことです。助けるということです。イエス様は親切なお方です。イエス様は、どうしようもない私たちのために、具体的に毎日助けてくださらないでしょうか。それが本当の親切ですね。
そして善意とは、いつも相手の最善を考えるということです。私たちの魂は、いつも自分の最善を考えています。しかし、本当の善意とは、自分が損をしても相手の最善を考えるのです。イエス様こそ、いつも私たちの最善を考えていてくださいます。私たちは、ろくにイエス様に従わず、恩義にも報いていないのに、そんな私たちの最善を考えておられるのです。
本当にありがたいことではないでしょうか。繰り返しますけれども、私たちが自分の力で、それをせよではないのですね。それを自分の力でやろうとするのが、律法主義です。大切なのは、自分が人間関係において、いかに寛容でないか、親切でないか、善意がないか、そこに気がつくことだけなんです。

みことばは、バロメーターで気がつくことから解放が始まります。そして、解放とは魂の否定でした。知性がいかに自分の正しさを主張しようと、そこに立たないということです。
感情がいかに「苦しい、悲しい」と叫ぼうと、そこに立たないということです。意思が、いかに「絶対許さない」と主張しても、私たちはそこに立たないということです。もちろん、魂の思いは、私たちから消え去りません。実際はあるのに、ないように振舞ってはいけないんです。それをすると病気になります。
私たちに出来ることは、無視することなんです。あっても無視して、そこに立たないということです。死んだふりをすることです。そして、御霊に従いましょう。内に住まわれるイエス様に、生きて働いていただきましょう。イエス様に秘訣があります。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私たちの古い人は、魂を用いて自分の好きなようにやりたいと欲します。そんな古い人は、無視しましょう。そうすれば、このみことばの通り、古い人は死んだままの状態です。そうしなければ、無視しなければ、古い人は相変わらず、私たちの内で力を発揮するんですね。
しかし、私たちがみことばに信頼すれば、みことばは、生きて私たちの霊的な現実となります。その時、古い人は死に、私たちの霊の中に住まわれる御霊様が、生きて働いてくださり、どうしても許せない相手を許してくださいます。イエス様ご自身が、寛容、親切、善意というイエス様のご性質を通して、相手に答えてくださいます。
このみことばが解からないという方が、実は沢山おられるのですね。これは自分の現実ではありませんと、しかしそれは、本気で私たちがみことばに信頼していないからですね。私たちが、本当に本気でこのみことばを信じて受け入れれば、この通りのことが起こるんです。具体的にどうすればいいでしょうか。それは、祈ることです。

たとえば、次のように祈ることです。「イエス様、私は、あの人よりも自分が正しいと思っています。でもそこに立てば、私には、愛も喜びも平安もありません。ですから、私は、私自信の知性、感情、意思を否定します。無視します。そして、私自信をあなたのご支配に委ねます。どうか導いてください。」
こう祈れば、私たちは、正しくイエス様に繋がることができ、私たちの内に住まわれるイエス様が、生きて働かれるようになります。そして、イエス様ご自身が、イエス様ご自身の寛容、親切、善意を持って相手に答えてくださいます。
これが御霊の実の2つ目のグループ、寛容、親切、善意でありました。

最後に3つ目のグループを考えてみたいと思うんです。3つ目のグループ、誠実、柔和、自制ですね。
これは、自分との関係を表す御霊の実です。私たちが、イエス様に正しく繋がっているなら、私たちは、誠実、柔和、自制という御霊の実で満たされます。誠実とは何でしょうか。それは嘘がないということです。正直であるということです。その反対は、偽善です。
集会の中で、私たちは偽善者であってはならないのです。私たちは、自分をつくろう必要はありません。無理に喜んでみたり、やさしそうにしたり、へりくだるふりをしてはいけません。そのままでいいのです。私たちは、どうせ大した者ではないからです。私たちには、正直な交わりが必要です。

私たちは、神様に対して正直に祈っているでしょうか。自分をさらけ出して「助けてください。」と正直にイエス様に祈っているでしょうか。ダビデは、大変正直な人でした。詩篇で、正直なダビデの祈りを読むことができます。
今日はちょっと詳しく読む時間がないんですけれども。ダビデは、しばしば、「敵を滅ぼしてください。子孫の代まで呪ってください。」と祈ったんですね。それで良かったんでしょうか。「汝の敵を愛せよ。」ではないんでしょうか。
いいえ、それで良かったんですね。愛していないのに、愛するふりをするより、ずっと良かったんです。ダビデは、そのような正直な祈りを通してですね、自分の限界を思い知った。愛のなさを思い知ったということです。そして、へりくだることができたんです。

そういった正直な交わり、正直な祈りを神様は喜んでくださいます。「私は、あの人が大嫌いです。でも人を愛せず、許さない、こんなみじめな私を導いてください。」そのように祈れば、主はあわれんでくださり、愛を与えてくださいます。
実際の人間関係でも、正直な交わりが必要です。ただし、ずけずけものを言えばよいというのではありません。愛と忍耐が必要です。その上で、もし必要ならば、相手から憎まれようと、その場の雰囲気が悪くなろうと、正直にものを言わなければならないんです。
キリストのからだ全体の霊的健康のため、成長のため、自分を守りたいという知性、恐ろしいという感情を捨てる必要があります。

箴言27:5-6
5あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。
6憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。

これが本当に誠実であるということです。イエス様は、ご自分に対して偽ることをせず、言うべきことをはっきりと仰いました。その結果が、十字架であったとしても臆することはなさらなかったんです。
次に柔和と自制です。柔和は、イエス様のご性質で、父なる神様にどこまでも従順に従われたへりくだりに見ることができます。私たちが、イエス様に正しく繋がる時に、イエス様のへりくだったご性質が、私たちの内にも明らかになります。
これも、私たちが魂の声を否定して、御霊に導かれることの結果なんです。私たちは、どこまでも自分を高めようという性質を持っております。たとえば、集会の中で、自分が重んじられない時、ないがしろににされた時、私たちの自尊心は傷つきます。怒りが込み上げたり、反対に落ち込んだりして、無気力になります。私たちの魂とはそんなもんなんですね。

やはり、気がつくことが大切です。私たちが、人間関係において、愛、喜び、平安がない状態に気がついたなら、意識して御霊の御支配に戻ることです。鍵は、やはり祈りです。「イエス様、私は、こんな仕打ちを受けたので怒っています。
そして落ち込んでいます。愛、喜び、平安がありません。でもこんなみじめな私を導いてください。いっさいを委ねますので、私を御支配ください。」このように祈って、自分の主導権を、イエス様におまかせしましょう。
すると、愛、喜び、平安が戻ってきます。イエス様は、虫けらになられたんです。そのへりくだりが、私たちの内にも見られるようになります。それが本当の柔和です。そしてイエス様に正しく繋がる者は、自制することができるようになります。怒りがパッと燃え上がり、激しい言葉が出るような場面でも、柔和に愛を持って対応することができるようになります。もちろん自分がするのではありません。イエス様です。これも自分の魂の声を否定したことの結果なんです。

サタンは、これまで言った9つの御霊の思いから、私たちを引きずり出そうと攻撃してきます。そして、その標的は、私たちの魂なんです。悲しいことに私たちの魂は、やすやすとサタンの罠にはまります。
私たちが、ヒューマニズムや善悪による判断に立つと、とたんに平安がなくなります。知性が活発に働きだして、間違い探しを始めます。感情も波立ち騒ぎ、怒り、悲しみ、憎しみ、落胆します。次に意思が活動を始めます。事態の解決のために、何かしなければと、脅迫的に思い詰めます。
そして、よく祈らずに軽率に動きます。これが肉的ということです。その背後には、これら一連のメカニズムを陰からあやつる張本人サタンがおります。私たちは、今現在ですね、これまでお話しました9つの御霊の思いの中にいないとすれば、御霊に導かれておらず、イエス様から迷い出てしまっております。

しかし、これはバロメーターですから気がつきさえすればいいのです。そのような状態にあると示されたら、次のように祈りましょう。
「イエス様、私は自分を意識して否定します。魂の声を意識して否定します。私は、悲しく、腹立たしいのですが、そのような私の思いを丸ごと委ねます。私を導いてください。」
こう祈れば、主は私たちを魂の思いから解放してくださいます。そして、私たちは、御霊の実で満たされ、人間関係は良好になるでしょう。最後に今日のテーマであるみことばを読んで終わります。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。




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