引用箇所:ヘブル人への手紙4章12節
日本を襲った未曾有の大地震に、日本中の人々が怯え、不安になっています。 人々は言います。「何故このような大惨事が起こったのだろう。これから、私たちの生活はどうなっていくのだろうか。」 信仰者でない一般の方々が、このように言うのはわかります。でも、私たちがそのような思いを持つとしたらどうでしょうか。 ベック兄は、先日の大阪喜びの集いでこのように語られました。「最近、皆地震を恐れる、津波を恐れるようになったのです。けれど意味のないことです。いくら心配しても、何にもならない。主を恐れれば、主を恐れれば、もっと大きな地震が来たとしても、もっと大きい津波が来たとしても関係ない。主はすべてを支配しておられる方です。」 いかがでしょうか。確かに3月11日以後日本は変わりました。でもそれ以前はどうだったのでしょうか。 平和で何の問題もなかったのでしょうか。そうではありません。 日本は、そして世界は長い時間をかけて段々悪い状態になっておりました。 世界的な紛争、ききん、環境問題、エネルギー問題、人口問題、そして地震を始めとする天災の増加、地震だけをとってみても、数が増えているだけではなくて、巨大地震が急増しています。 私たちは、まるでこの世の終わりのような有様を見て驚き悩みます。しかし、そのようなことはすべて、すでに聖書に記されていることです。 マタイの福音書24:3-14
まず、いたるところで戦争があると書いてあります。その特徴は、単なる国家間の争いではありません。民族間の争いです。 世界の紛争の火種は中東問題になるといわれ、世界中がアラブ民族とユダヤ民族間の軋轢に注目しています。 それから、方々にききんと地震が起こると書いてあります。現在、世界人口の16%に当たる10億人もの人々が飢えております。地震の多発は言うまでもありません。 次に、偽預言者が多く出るとあります。事実、「私こそ救世主だ。」と語る者たちによって多くの人たちが惑わされております。 また世界に不法、違法行為や無慈悲、不道徳が横行しているので、人々の間の愛は冷め切っています。 そして、福音が全世界に宣べ伝えられるとあります。今や聖書は、世界の2,508の言語に翻訳され、世界中ほとんどの国民に伝えられました。それから終わりの日が来ますとあります。イエス様が迎えに来てくださる日が、きわめて近いのです。 私たちは、これまでの生活をずっとこの地上で送るのではありません。私たちは、もうすぐ天の故郷に引き上げられます。その時、私たちの身のまわりにある様々な問題はすべて消滅します。それは、本当にすばらしいことではないでしょうか。 でも、よくよく考えてみたいと思うのですけれど、私たちはいいのです。天国ですから。しかし、残された人々はどうなるのでしょう。 私たちの肉親、親族、友人、知人、これらの愛する人々が、患難時代で死ぬほど苦しむ日が迫っています。私たちは、今こそ目覚める必要があるのではないでしょうか。 今は、私たち主を知る者が、主の兵士として最後の戦いをする時です。その戦いにあたって、二つの重要なことがあると示されました。今日は、そのことをお話します。 一つ目は、魂と霊を見分けるということです。魂の働きと、霊の働きを見分けることができていないと、戦いは見当違いになります。そして今まさに、魂と霊がぐちゃぐちゃになっているのではないでしょうか。 その証拠が、昨年あたりから顕在化した集会の問題です。ここで少しヨブの言葉をみてみたいと思うのですが、ヨブ記の23章12節です。 ヨブ記23:12
この「私の定め」とはなんでしょうか。それは、私たちが自分の心の中で思い定めることであり、自分の理性、感情、意志に従って導き出した方針です。私はこう考える、こう感じる、こうしたいということです。言い換えれば、これが人間の魂の働きです。 私たちはたいていの場合この魂の働き、つまり生まれつきの理性、感情、意志に従って仕事をし、家事をし、勉強をし、そのように生きております。 それは、一概に悪いことではありません。神様は、人間に心を造ってくださいました。その心に従って、私たちは愛し合い、助け合い、協力し合い、人間らしく生きていくことができます。これが動物とは違うところです。 テレビでは今、盛んに日本人同士助け合うことが叫ばれています。しかしそれだけでは限界があるのです。魂の働きは、言い換えればヒューマニズムです。結局のところ、人間中心主義に過ぎないということです。 人間には限界があります。罪人だからです。いくら人間の愛が麗しくとも、その愛は自己中心という罪によって汚染されています。 人間の心、つまり魂にはそのような限界がつきものです。ですから私たちは、魂の働きに身を任せるのではなく、魂の上位に、その上に霊を置く必要があります。魂は、霊に支配されなければなりません。 では、霊とはなんでしょうか。魂と霊との間にどんな違いがあるのでしょうか。 日本では、霊魂という言葉があって、両者があたかも一つであるかのように錯覚しがちです。英語でも、魂はsoul、霊はspirit、一応の区別はありますが、頻繁に同義語として扱われ、区別がはっきりしないようです。 その一方、ギリシア語で書かれた新約聖書には、魂と霊がはっきり区別して書かれてあります。その箇所が、テサロニケ人への手紙第Iの5章23節です。 テサロニケ人への手紙第I、5:23
このように、はっきりと霊と魂は分けて書かれています。 聖書が語る霊とは、そして魂とは、いったい何なのでしょうか。魂とは、先ほども言いましたとおり人間の心であり、感情、理性、意志です。 では霊とは何かと言いますと、霊とはご承知の通り神様から人間に与えられた「いのちの息」であると聖書には記されております。 神様は土地のちりから、すなわちいろいろな元素から人間を形造られた後で、そこにいのちの息を吹き込まれました。このいのちの息が霊です。 神様は霊的な存在です。肉的な存在である人間は、神様からこの霊を分け与えられたことによって、神様と霊的な交わりをしながら生きるものとして造られました。 しかしこの霊は、人間に罪が入ったことによっていったんは死にました。人間と神様との交わりは絶たれました。 でも、イエス様の十字架の死とよみがえりによって、信仰を通して、それまで死んでいた私たちの霊もよみがえらされました。イースターはイエス様だけではありません。私たちの霊もよみがえらされました。 私たちはその霊によって、神様との生き生きとした交わりを与えられ、神様からの導きと守り、そして恵みを受けつつ生きるものに変えられました。 私たちの霊が魂を制御するときに、私たちは初めて正しく歩むことができます。 霊において、私たちは神様のみこころを知ることができます。そして、私たちの霊のうちにイエス様の御霊、キリストの心が住んでくださいます。 つまり、まず霊があって、その下に魂が霊の制御を受けて、一番下のからだに伝えるというのが信仰者の望ましいあり方だと聖書は伝えています。 魂もからだも、本来悪ではありませんが、霊の支配を受けないときに暴走してしまいます。 先ほどテサロニケ人への手紙第I、5章23節をお読みしました。「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」と書いてありましたが、これはその「順番」が守られますようにということです。 間違っても、魂が霊の上位に来てはいけません。魂とからだはワンセットになって、いわゆる肉を形成しています。 私たちは、肉と言いますと非常に警戒します。肉的であってはならないとすぐに反応します。ところが魂はどうでしょうか。それほど警戒しないのではないでしょうか。 魂、つまり心の働きは私たちの日常にあまりにも密接に入り込み、一見すると悪いものではなくて、人間的な正しさを主張するからです。 この世的な常識、道徳、人類愛、博愛、人道主義、民主主義、こういったものは一見悪いものには見えません。ところが人間的な正しさは、往々にして神様の正しさと対立します。何故なら、それらは神様抜きに、神様抜きでも成立してしまうからです。 しかも罪によって汚染されています。魂は罪を通してサタンとつながっています。ですから魂のはたらきには、警戒しなければなりません。 ところが警戒しようにも、魂と霊というのは非常に見分けがつきにくいという問題があります。はっきり白黒つくなら怖くはありません。でも、両者は非常に似通っているので危険なのです。 例えば私たちも時には、霊的に高められ御霊、つまりキリストの心に満たされるでしょう。しかしいつの間にか、スルリと魂に支配されています。 私たちは、一方でキリストの心を、一方で魂、つまり人間の心をというふうに二つの心があって、両者を行ったり来たりしているのですが、恐ろしいのは自分でいつ切り替わったのかわからないということです。 その境目が自覚できません。二つとも自分であることに変わりないからです。ところが、両者はまったく正反対の判断をします。 たとえば、今回の震災でがっくりと落胆している兄弟姉妹がおられます。その人たちは言います。「なんとひどいことだ。神様は、何でこんなひどいことをするのだろう。」 あるいは、「これから日本経済はどうなるのだろう。会社の売り上げも減るのだろうな。」、あるいは、「再臨が近いと言われているが、不安だ。今はまだ地上にいたいような気もする。」 実は、これらが主に喜ばれない魂の働きです。その特徴は、神様への不信と自己中心です。これに対して、霊は次のように言うでしょう。 「主は近い。イエス様とお会いする日は近い。ハレルヤ!」 「大地震や津波など、サタンが大暴れしているが、主はサタンに勝利されたお方だ。だから、すべてが最善になる。亡くなられた方々については、その生前、一人ひとりに主が親しく語ってくださった。だから、委ねよう。」 「震災に遭って苦しんでいる方々については、今その苦しみを通して、主が語っておられる。実際、多くの人々の心が揺り動かされていて、心を開いている方が大勢おられる。だから、感謝。」 霊は、このように言うのです。これが魂と霊の違いです。正反対です。 私たちは、被災地の復興を口にして祈ります。しかし単に復興して終わりだったら、主がここまでのことを許された意味はないと思うのです。 「主は、震災を通して何を語っておられるのか」、この視点が大事ではないでしょうか。ですから、敬愛する兄弟姉妹方は、支援物資だけではなく、みことばを携えて被災地に向かわれるのです。 主は災いさえも造られました。その災いを通して、一人でも多くの人が悔い改め、永遠の滅び、地獄の刑罰から免れることを願っておられます。これが、本当の愛ではないでしょうか。 安っぽい人間的な愛、思いやり、助け合いでは本当の実は残りません。魂は人間的な愛を語ります。そこには人間の限界があり、閉じた世界です。人間の世界から一歩も出ることがありません。そして、人間の世界は滅びます。 これに対して、霊は神様の愛を実践します。そこから永遠への扉が開きます。本当の実が残ります。私たちは、そのどちらにつくのでしょうか。魂でしょうか、霊でしょうか? もちろん霊につきたいと、すべての信仰者は言うでしょう。ところが先に言いましたように、両者は非常に区別がつきにくいという問題があります。 でも、一つだけ識別する方法があります。それがみことばです。 私たちは先ほどヨブの言葉を読みました。「私の定めよりも、御口のことばをたくわえました。」、御口のことばが、魂と霊の働きを切り分け、それらを判別します。兄弟に読んでいただきました箇所ですけれど、 ヘブル人への手紙4:12
みことばが魂と霊を切り分けるとあります。ここに、「関節と骨髄の分かれ目」という言葉が出てきます。関節と骨髄、二つとも骨の一部です。どう違うのでしょうか。この箇所は、ずっとわかりませんでしたが、最近教えていただきました。 結論から言いますと、関節は運動をつかさどります。すなわち、目に見える外部をあらあわしているという意味で、魂を指しております。これに対して、骨髄は骨の内部にあって血を作ります。聖書には、血の中にいのちがあると書いてある通り、骨髄はいのちに関わるところということで、霊を指しています。 みことばは、この紛らわしい関節と骨髄の分かれ目を切り分けるように、魂の働きと霊を切り分け判別します。 ですから私たちは、今この終末の時代に、主のしもべとして用いられるために、今まで以上に、みことばに立ち戻り、魂と霊を判別してもらわなければなりません。 そうしないと見当違いになります。 こんなことを言うと多分反発されると思うのですが、私たちの思い図ることは、たいてい間違っていると思っていいと思うのです。私たちは大抵の場合魂に従って歩み、御霊に満たされているときは少ないからです。これは自戒を込めて言っているのですが…。 ですから、私たちは祈るのです。「教えてください。ダメなものです。わからない者です。」と祈るのです。そうすれば、イエス様は、みことばを通して私たちに教えてくださいます。 与えられたみことばにすがりつきましょう。みことばに力があります。みことばは霊であり、いのちだからです。 最近こんなことがありました。私の姉妹の妹が、我が家に子供たちを連れて避難していました。一週間を共に過ごしたのですけれど、私の心に、ある思いが湧き上がってきたのです。 恥ずかしい話ですけれど、「いつもの静かな生活に戻りたい。」という思いでした。うちの子と合わせて7人の子供たちが、朝から晩まで、わいわいがやがや、ゲームをしたりトランプをしたりしていました。 それでちょっと疲れました。でも、魂というのはそんなものなのです。困っている親戚のために一肌脱ごうと、最初は気合が入っていたのですけれど、本当に魂はいい加減なものです。すぐ不平を言います。 これに対しては無視すればいいのです。無視していれば働きません。それが、「肉は十字架についている」ということです。 そして、無視しているだけではダメで、積極的にみことばに頼る必要性があり余す。すると、みことばは生かす力です。魂の苦しみを無視して、みことばに頼り、そこにしがみついていると、喜びと力が湧き上がってきて、私たちを、神様の愛で、満たします。 私も今回、みことばに押し出されるようにして、義妹にイエス様を紹介する勇気を得ました。 彼女はある宗教団体の会員で、福音には聞く耳を持たず、イエス様に反発していました。ところが奇跡が起こったのです。あの義妹が、自分から進んでみことばを読んでいるのです。 私はこれから起こること、イエス様の再臨などの内容を彼女に話したのですけれど、義妹は、「よく考えてみます。」と言いました。 そして、「この一週間、本当に親切にしてくれてありがとう。」とお礼を言ってくれたのです。 私は思わず恥ずかしくなって、「僕らは、本当にボロボロなんです。でも、僕らのうちに住んでくださるイエス様がしてくださったのだよ。」と言いました。 すると、義妹は「よくわかる。」と言うのです。 私たちのうちに住んでおられるイエス様が、よくわかったと言ってくれたのです。本当に嬉しく思いました。 私たちの希望は、ここにあります。それはみことばです。みことばによって魂と霊を区別していただき、霊によって歩むならば、私たちは役に立つものとなります。 ですから魂と霊を見分けることが、正常なキリスト者の歩みに欠くべからざるものであることがわかります。 以上、魂と霊を見分けるというお話をしました。 二つ目に進みます。簡単に話します。二つ目は、正しくみことばを受け取るということです。 魂と霊を判別するみことばも、それを正しく受け取らなければ、力にならないということです。 私たちは、みことばに対して二通りのアプローチをしないでしょうか。一方は、みことばを支配しようとするアプローチです。もう一方は、みことばに支配していただくアプローチです。 まず、みことばを支配しようとするアプローチですけれども、私たちは時として、自分の思いを中心に聖書を読むことがないでしょうか。 そのような場合、みことばを読む前に、すでに自分の考えや立場がしっかりとあります。みことばを読むのはそれらを正当化するためだったりします。 これでは、自分に都合の良いみことばしか目に留まりません。そのようにして得たみことばは、私たち自身や周りの兄弟姉妹を損なう武器になります。みことばは、両刃の剣よりも鋭いからです。サタンでさえもみことばを利用してイエス様を攻撃しました。 マタイの福音書4:5-7
みことばは、使い方を間違えると本来の目的から外れたとても危険なものになります。 私たちはみことばを利用して、どんなことをも主張することができます。たとえ、その人が聖書全巻を暗記していたとしても、自分の思いを裏付けるために特定のみことばを利用し、兄弟姉妹を攻撃したとしたら、それは恐ろしいことです。 何故なら、その人はみことばを支配し、神様を利用したからです。このようにみことばを支配しようとするアプローチは。恐ろしいのろいへの道です。 これに対して、みことばに支配していただくアプローチがあります。私たちがみことばの前に頭をたれ、「教えてください。」とへりくだるときに、みことばは神様の啓示として私たちの前に開かれます。 そうするときに、みことばが私たちを支配し、私たちはみことばに守られ、安全に導かれ、みことばによって生かされます。 これが、本来の望ましいあり方であり、祝福への道です。 詩篇119:105
私たちが、みことばを支配するアプローチではなくて、みことばに支配していただくアプローチを選ぶときに、私たちには祝福があり、また最終的に主のご栄光が現されます。同じみことばを読んでいたとしても、まったく違うのです。 私たちは、今述べた二つのアプローチのどちらを選ぶかによって、のろいか、祝福かが決まります。 とにかく、聖書を読めばいいと言うのではありません。どう読むかが決定的に大事なのです。 コリント人への手紙第II、3:6
文字は殺し、御霊は生かす。同じみことばが、私たちを殺すかそれとも生かすか、それは私たちの受け止め方次第です。 自分の思いを中心に、好ましいみことばをつかみに行くとそれは私たちを殺し、周りの兄弟姉妹を損なう文字になります。 みことばは本来、そのようにして私たちに与えられるものではありません。 マタイの福音書4:4
神の口から出る一つ一つのことば。みことばを、自分の思いを中心に捕まえに行くのではなく、あくまでも神様の主権によって、その都度必要に応じて、神様の口から一つひとつ私たちに与えられます。主権は神様にあるのであって、人間の側にはありません。 みことばを自分の思いを中心に掴まえに行くとき、一つの恐ろしい危険が待ち受けています。それが律法主義です。 律法と私たちの関係を言えば、私たちは根本的に律法が好きなのです。 もちろん、内なる人は神の律法を喜んでいますけれど、実は外なる人も律法を好んでいるのです。 私たちは、それができると勘違いするときに律法を喜びます。何故なら、律法遵守を通して自分を高めることができるからです。 私たちがよく知っている金持ちの青年の話があります。 マタイの福音書19:16-20
イエス様は、このように間違った誇りに満ちている青年に対して、どのように語られたでしょうか。 マタイの福音書19:21-22
青年には根本的なものが欠けていました。それは、自分が惨めな罪人に過ぎないことの自覚です。 ヨハネの黙示録3:17
先ほど読みましたマタイの福音書の続きを読みますと、イエス様は、金持ちが天の御国にはいることはむずかしいと語られました。 マタイの福音書19:23
イエス様がここで言われた金持ちとは、実際の金持ちではないと私は思うのです。何故なら、現に集会にも多くの資産を任された敬虔な兄弟姉妹が数多くいらっしゃいます。ですから、お金をたくさん持っているということが問題ではないのです。 ここで、イエス様が言われた金持ちとは、「自分はできる」と勘違いしている者であり、そのように「心が肥え太った者」を指すのではないでしょうか。 このような者は御国にはいることがむずかしいということです。ちなみに、マタイの福音書にそれと正反対の祝福された者のことが書かれています。 マタイの福音書5:3
私たちが惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものであることを知り、頭を垂れてみことばに近づくとき、イエス様はみことばを通してご自身を啓示してくださいます。その時、初めてみことばの戸が開きます。 詩篇119:130
みことばの戸が開くとは何でしょうか。みことばが閉じたり、開いたりしているのでしょうか。そうではありません。みことばはいつも開かれており、いつも光輝いております。 この箇所は、みことばに接する私たちの心の状態によって、ある時は、みことばの戸が閉じられているかのように見え、ある時は、開いているかのように見えるということです。 では、どのような時にみことばの戸が閉じているように見えるのでしょうか。それは、私たちが律法主義に陥り、私たちの心に覆いが掛かってしまう時です。 コリント人への手紙第II、3:15-17
かつて、律法は私たちを十字架に導き殺しました。その律法は、私たちをイエス様の元に導くと書いてあります。 ガラテヤ人への手紙3:23-25
律法は、私たちをイエス様の十字架に導くための養育係です。そして私たちは、イエス様の十字架の赦しと解放を信じる信仰によって、義と認められました。 信仰が現れた以上、私たちは養育係、つまり律法の下にはいません。 私たちは律法によって生きるものではなくて、信仰によって生きるものとされました。イエス様の十字架によって、私たちの罪が赦されたからです。 イエス様の血潮は、今も有効であり、私たちが日々犯す罪をイエス様は十字架において赦してくださいます。 その意味で、私たちはこの地上に生きている間は罪人です。日々、赦されなければならない罪人です。ここで間違えてならないポイントは、私たちは、100%の罪人であるということです。 もし、たとえば、「あの人の罪は50%で、私は10%くらいだ」と考えるなら、その判断は間違っています。そのような勘違いから、「あの人は悔い改めが足りない」という見当はずれな裁きが出てくるのです。 私たちは、神様の目には全員100%の罪人です。100%か0%かのどちらかです。そして、罪のない0%のお方はイエス様だけです。その中間はありません。何故なら、律法全体のうち一つでも破ったらすべてを破ったと見做されるからです。 「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」、ヤコブの手紙2章10節でした。 かつてイエス様は、律法主義を憎みこれと戦われました。集会の戦いも、その本質は律法主義との戦いにあります。 1.集会の中に教会を作ってしまうこと、 2.生ける神のみからだに、ヒューマニズムが混じってしまうこと、 3.イエス様が定めたベック兄という権威の代わりに民主主義が持ち込まれること。 こういった現象の根本に、「私は律法を守ることができる」という律法主義があるのではないでしょうか。 律法主義とは、律法を自分の力で守ることができると言う意味でヒューマニズムです。力の源泉が、人間にあるからです。律法主義とヒューマニズムが集会に入り込むとき、キリストの体は分裂します。 今は、なりを潜めているかのように見える集会の問題ですけれども、実はこの問題は、今でも地下水脈のように集会の底を流れています。 私たちは終末の時代にあって、こういったものとも戦わなければならないということなのです。本当に、内も外もいろいろな問題があって、気が滅入りそうですけれども、実はこの問題の根は案外単純です。 それは、「魂と霊が入り混じってごちゃごちゃになっている」ということです。問題はここにあります。両者を、みことばによって切り分けていただかなければなりません。 そうすれば霧が晴れるようになるでしょう。神様のみこころがはっきりと見えるので、私たちの行動は正しくなります。これが、今日お話した一つ目のことでした。魂と霊を見分けるということでした。 二つ目は、みことばを正しく受け取ると言うことでした。みことばに切り分けていただくにしても、みことばを正しく受け取らなければうまくいきません。 大切な点は、私たちがみことばを支配するのではなくて、みことばに支配していただくと言うことです。みことばの剣を自分の手で持つのではなくて、みことばの剣に自分を委ねるということです。 秘訣は、へりくだることです。 私たちは根本的に愚かな者です。魂が主導権を持ってしまいがちです。ですから、いつも祈って、聖書を開き、「教えてください。」と祈るのです。 そうすれば、イエス様は、みことばを通して、私たちの行くべき道を、戦うべき標的を、なすべき事柄を、教えてくださいます。そのための力も、愛も、知恵も、勇気も、すべてみことばによって与えられます。 みことばは霊であり、いのちだからです。その結果、私たちは御霊に導かれます。最後にみことばを読んで終わります。 詩篇139:23-24
テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
私たちの輝かしいゴールが迫っています。もうすぐ、私たちは天の御国に引き上げられます。 そこには、麗しいイエス様が、傷のついた御手を広げて、私たちを出迎えてくださいます。 そして熱く抱擁してくださいます。 |