引用聖句:イザヤ書40章1節-10節
愛する日本にある兄弟姉妹。メッセージをする前に、ドイツにある多くの兄弟姉妹よりよろしくと伝えます。 特に3年前に、御代田に来られた兄弟姉妹からもよろしく。もちろんアイドリンゲンからもよろしく。 そしてドイツで多くの家庭集会、祈り会で、あなたがたのことを覚えている兄弟姉妹からもよろしくとのことです。 私たちに主に属する者として、外国に行くともっともすばらしいものは何なのでしょうか? どこへ行っても、わたしたちは「家に帰る」ような気持ちです。だからこそ、わたしたちはあなたがたと交わることができるのがうれしくて仕方がないのです。 確かにわたしたちは、もう十何時間飛行機に乗って家に帰った気持ちです。いつ「家に帰る」という表現が使われますでしょうか。待ち望まれた時ではないでしょうか。期待された時。成田の飛行場で3人の姉妹たち、それから御代田に来て、みんなに会えたのは感謝なことです。 ほんとうにあなたがたに愛されていることに感謝せざるを得ません。 今から少し、聖書開いて、聞く耳を持ちましょう。もっともすばらしい、良きおとずれを伝えることができるのは私の喜びです。 今の時代は争いの時代であり、戦争の時であり、苦しみの時代です。みことばとは生きる希望を与えるメッセージそのものです。 1942年、ドイツで多くの信者たちはイザヤ書を学ぶようになったのです。 確かにイザヤ書とは、イエス様が来られる700年前に書かれた本なんですけど、しかしイザヤ書の中にこそ新約聖書の全部のメッセージが含まれています。だから、4つの福音書がありますけど、イザヤ書こそが5番目の福音書と呼ばれています。 いったいどうして1942年、多くの人がイザヤ書に慰めを求めたのでしょうか。1942年はヒットラーといろんな将軍は、いろんなことについて相談したのです。そのとき相談した内容は、ユダヤ人をみんな殺しましょう。すなわち、イスラエルという国が存在するようになってはいけないし、エルサレムもみな忘れてもらいたい。 結局ユダヤ人、一人残らずいなくなれば問題はなくなると当時の人は思ったのです。ヒットラーは、主によって選ばれたイスラエルを攻撃することによって、何を得たのでしょうか。 そのときまでドイツはどこの戦線でも勝利を得ていましたが、ユダヤ人を殺そうと思った瞬間から、戦線は全部おかしくなたのです。モスクワより東のスターリングラードで、数えられないくらいのドイツ兵が餓死してしまったのです。 それから結果はドイツの敗北だけでなく、イスラエルという国ができるようになったのです。ユダヤ人とは考えられないほど苦しんだのです。 しかしそれは、全ての全てではなかったのです。そのとき600万人のユダヤ人、1/3はヒットラーによって殺されてしまったのです。しかし多くの人が苦しんだのではなく、今の時代も数えられないくらい多くのひとが苦しんでいます。 たとえばドイツで、多くの学校の卒業生が必死になって働こうとしても、働く場がない、ということも悲劇的です。おそらく大部分の大学を出た人がドイツで勤め先がない。もちろん、日本でも多くの人が仕事を捜し求め見つからないのではないでしょうか。 それから、教会の状態について考えたら望みがあるのでしょうか?教会はいったいどこへ行くのでしょうか? 一般的に言えばドイツのキリスト教の教会は、メッセージのないものになった。結果として命のない教会から離れてカリスマ的な教会に行ってしまう人々も多いです。でもそこで望んでいるのは、みことばだけでなく感情的な高揚です。 われわれの信仰の土台はなんでしょうか?イザヤ書を見てましょう。イザヤ書の中で主なる神の義について、主によってよしとされることの大切さについて多くのことが書かれています。 ドイツの宗教改革者マルチン・ルターは、ローマ人への手紙を通して、開かれた心の目を持つようになったのです。けど、イザヤはずっとその前に上から示されたのです。イザヤ書こそが旧約聖書の中心になるものなのではないでしょうか。 このイザヤ書を通してこそ、まことの慰め、力づけが与えられているのです。この本とは誰が書き、誰に書かれ、そして内容とはどういうものなのでしょうか? この手紙を書いたのは誰でしょう?旧訳聖書の中で多くの人物が出てきますが、この本を書いたのは、ひとりの主によって遣わされた預言者でした。預言者たちの勤めとは、約束された救い主であるイエス様を中心にすることでした。 パウロはエペソ人への手紙の中で次のように書いたのです。 エペソ人への手紙2:20
ヘブル人への手紙1:1-2
預言者たちの主な使命は、主イエス様の栄光を現すことでした。預言者たちとは魔術者でもないし、自分の考えてることを発表したひとでもなく、上から示されたことを間としての宣べ伝えた人にしか過ぎなかったのです。 預言者なる者は主イエス様を示すものです。預言者とはこのすばらしい使命に召された者であります。たとえば学校を卒業する学生は、卒業したら何をやりたいか、大体考えるのではないでしょうか。しかししばらくすると、やっぱりその時思ったことは良くなかったと思うようになるかもしれません。 そしたら別の仕事を探すようになるかもしれません。 ドイツで定年になった人でさえも、まだ何かしようと考えています。言いたいのは預言者になろうっと思ってもなるものじゃない。職業じゃないからです。 主によって特別に選ばれた人たちです。今イザヤ書40章の6節からの箇所は、次のような意味を持つものでしょう。ここで預言者は何を伝えるべきかと書かれています。 イザヤ書40:6
語れ、呼ばわれ。すなわちこれは命令であり、この命令に従うことが要求されています。預言者たちは、主に召された時、もうどうしましょう、言葉がなかったのです。 イザヤは祭壇の前で主に出会ったのです。アモスという百姓の場合は、いっぺん召されたのです。エゼキエルも、ヨナも一度逃げようと思ったのですけど、主によって捕まえられたのです。 彼らはみな主によって召し出された僕たちなのです。この主によって召しだされた人たちは、自分の言ってることは正しいことかどうかと疑問を持ったことがありません。どうして彼らは預言者として主に仕え続けたかというと、主が憐れんでくださったからです。 もうひとつ、預言者たちは選ばれただけでなく、彼らは出された、召し出された者であります。主よ私はここにいます。私を遣わしてくださいと。もちろん預言者たちは良く通る管のようなものであり、用いられる器です。 彼らの述べ伝えたのは、自分の考えたことではなく主から聞いたことだけでした。言うまでもなく預言者たちはひとりひとりまったく違う。似てる人はひとりもいない。すなわち主は、人間ひとりひとりを人形として遣わそうとはしなかったのです。みんなやっぱりまったく個人的に用いられました。 預言者ひとりひとりについて考えるとわかります。イザヤは王様のようなものでした。アモスとは非常に頑固で意志の強い男でした。エレミヤは悲しみの人でした。エゼキエルはほんとうに勇気ある預言者でした。 すなわち預言者たちは、みんな一人一人まったく違いましたが、それぞれにみんな主に用いられたのです。 もちろん今日の兄弟姉妹のことを考えてもわかるでしょう。みんなひとりひとり全く違う。けども関係なし。主はひとりひとりを用いようとされています。 預言者たちとは、主にイスラエルの民のために遣わされたものであり、その後異邦人たちのためにも遣わされたのです。結局主ご自身が支配しておられ背後に導いておられるのです。主は人間のひとりひとりのことを考えて福音を宣べ伝えるように命令しておられます。 確かに聖書の中で、主なる神はアウラハムの神であり、ヤコブの神であり、イサクの神であられますが、それだけじゃなくてアブラハムと、ハガルと、イシュマエルについても多く書かれています。 ユダヤ人にも、パレスチナ人にとっても大切なことではないでしょうか。預言者たちは、両方の人のために遣わされました。 彼らは今言ったように主によって召しだされたし、そして主によって遣わされたし、そして自分の思いや考えではなく主の御心、みことばでした。 ある人々はね、なんですか、ついてる関係によって影響を受けてるといわれます。もしかすると、御代田の人間と、東京の人間は全く違うかもしれない。はっきりわからないけど。もちろん人は家族によっても影響を受けています。どなたか現れると、「あ、あの家族の人か。」、そしたらだいたいどういう人かわかります。 あるいは人間は、自分の職業によっても影響を受けているでしょう。私は先生、校長先生ですが、ドイツでなにかあれば、「あ、先生か」とよく言われます。 預言者たちの影響されたものとは、主の言葉でした。たとえば選ばれた祭司たちは祭壇のところで奉仕しました。預言者たちは、祭司たちとちょっと違う使命を持っていたのです。「見よ、主の栄光が現れる。主が、王として来られる。」、これが預言者たちのメッセージでした。 主は来られるお方です。すなわち預言者の宣べ伝えたメッセージとはそれでした。主は来ますよ。主は来ておられるから、悔い改めよ。ふるさとに帰りましょうよと宣べ伝えたのです。 回心する必要性について、心のふるさとに帰る必要性について宣べ伝えたのです。 もうひとつとは、彼らは主を恐れる恐れを持っていた人たちでした。そして彼らはただひとつの目的を持って走るものでした。彼らは、来られる主を心の目で見た人たちでした。預言者たちの特徴は、主が来られます。この朝来られるかもしれません、と。 主が来られることによって全てが変わると確信しました。 預言者たちとは永遠な世界について考えたし、永遠の世界から来る主について喜んで証ししたのです。預言者たちとは結局、主を仰ぎ見ながら主の前に立つ人々であります。 預言者たちとは結局、われわれの近くにあり、預言者の言葉、主の言葉はわれわれのためにも与えられているのです。預言者たちこそが主の現れを慕う者でした。わたしたちも預言者たちと同じように、主を待ち望むべきではないでしょうか。 この言葉を書いたのはイザヤという預言者でした。イザヤはどうしてこの言葉を書いたかといいますと、当時のイスラエルの民は非常に悩んで苦しんでいたからです。 そのときイスラエルの民は、もうすでに60年間バビロンという外国で住むようになっていたのです。すなわち主によって選ばれた民は、異邦の支配のもとで苦しむようになったのです。彼らは自由に集まることも、いっしょになって主を礼拝することもできなかったのです。詩篇によると、彼らはバビロンで泣いた。泣きながら過ごしたとあります。 何の希望もないのが、彼らの状態でした。どうすれが良いかわからないし、結局完全に失望してしまったのです。失望して目的のない人生を送るようになたのです。 もうひとつその預言者たちの宣べ伝えた内容とはなんなのでしょうか。 イザヤ書40:1
いったいどうして2回も、慰めよ、慰めよと、書かれているのでしょうか。 主はどういう目的を持っているかと思うと、主は慰めたい、慰めたい、慰めたいと望んでおられるからです。主は、同情したいとは思っていない。 普通の母親は、必ず、ときどき慰めないといけないのではないでしょうか。もう子供は走って転んで大声で泣きます。でも、母親に抱かれて慰められます。まー、こういうふうに人間は子供を慰めることができるのです。 大人になると、やっぱりアルコールこそが唯一の慰めと思う人もいる。また、ある人はきれいな言葉で慰めようと思うでしょう。けど主なる神の慰めはそういうものではありません。主は本当の慰めを与えようと望んでおられるからです。 もちろん主は一時的な問題だけを解決しようとは思っていないのです、主は軽い気持ちで慰めたいとも思っていないです。主は慰めてくださり、本当の意味で励ましてくださり、暗い穴から引き上げてくださるのです。 主は主にみことばでもって、私たちを力づけたいと望んでおられます。 イザヤ書40:2
エルサレムに優しく語りかけよとあります。意味は、イスラエルの民の心に語り掛けなさい。単なる知識を与えられることで人間は慰められません。民の心に語れと。主は本当の慰めを与えたいと心から望んでおられます。 もちろんエルサレム、イスラエルの民、主に属する人々は、みな慰められるべきです。やさしく兄弟姉妹に語り掛けなさい。兄弟姉妹は、本当慰められ、力づけられ元気になるように。 主はどうして慰めたいのでしょうか?それは、今の時期とは考えられないくらい大切な時代であるからです。 昨日わたしたちが来た時に雨が降ってたのですね。もう雨が止んで太陽が照ってきた。これも、ちょっとひとつの変化。この呼びかけとは、やっぱりそういうものではないでしょうか。 主はもう怒っているお方ではなくて、慰めたい気持ちでいっぱいです。確かにイスラエルの民は裁かれるようになり、大いに悩むようになりましたが、それは終わりではなかったのです。けども主は裁くお方ではなく、憐れみ深いお方です。 慰めよ、慰めよ、わたしの民を。 それはどうしてそんなに大切なのでしょうか?今のときこそが、考えられないくらい大切な時であるからです。 主は怒るお方であるよりも、恵み深いお方です。人間の債務は支払われたから主は赦すお方です。囚われ人とは解放されるべきです。 このすばらしい知らせとは、イスラエルに与えられたものであり、われわれのためにも与えられたものです。 わたしたちとは、もちろんいろいろなことを経験します。 若かった時力持ちだったかもしれない。けどそのときも、大切な時でありましょう。もちろん若者こそが考えるべきです。はっきりした目的を持たなければ、あなたの人生は的外れです。 それからだんだん年をとると、同じように大切な決断が要求されています。多くの問題がないかもしれないし、問題があってもなんとなかなるという自信を持つようになるかもしれません。 たとえば昨日結婚したおふたりは、うれしかったし、今からずっと同じだったら非常にありがたいのではないでしょうか。 わたしたちはどういう状況におかれていても、大切なのは、はっきりした目的を持つことです。はっきりとした目的を持って走るべきです。 夫婦として、あなたがたははっきりとした目的を持っているのでしょうか?ご存知のように急に人は倒れて病気になります。眠れない時もあるし、どうしたらよいか困るときもある。 しかし主は必要のない悩みを与えにならない。主はいつも、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」、と呼びかけています。 どうして慰めるべきなのでしょうか。主は今から自分の教会をたてようと望んでられるからです。 預言者たちには、「主のための道を備えよ。」、という使命でした。昔はえらい人が来る前に、きれいな道が作られました。ある人は、わたしの人生について考えると、高速道路でも舗装道路でもないし、もうめっちゃくちゃですよと言うかもしれない。 わたしの人生は荒地で、荒野といわれるかもしれない。どこ見ても何の希望も、平安も、喜びもないと。 わたしたちはどういう状況でも、4節をみるべきです。なぜなら本当の慰めが与えられるからです。 イザヤ書40:4
まー、あなたの前にある山とはどういうものか、ちょっとわからない。あるいはどのような谷に落ちてしまったのかもわりません。 けれどもこの4節は、わたしたちひとりひとりに書かれたのものです。すばらしい。 主は全てにまさって偉大なるお方です。主は来られます、だから希望を持ちなさい。 慰めよ、慰めよ、わたしの民を。いったいどうしてでしょうか?主は来られるからです。 慰めよ、慰めよ、わたしの民を。どうして慰められるべきでしょうか?主が来られることを約束してくださったからです。 イザヤ書40:9
結局どういう方法でもってか、ともかく主が来られることを宣べ伝えなさいとあります。イエス様が来られることを伝えなさい。福音とは、誰でも聴くべきよい知らせです。 あなたはどういうことで悩んでるかわかないけど、主ははっきり言われます。「希望を持ちなさい。勇気を出せ。」 わたしたちは、日本へ来る前の日に友達から電話をもらいました。前に何も話さなかったんですが、急に次のように言いました。彼は、「聞いて、聞いて、心配しないでください。恐れてはいかん。」と言ったのです。 あなたがたは飛行に乗っても心配しなくてもよい。主はなんでもできるお方であり、守ってくださる。それを考えると心配せずに、どこに行っても平気なのではないでしょうか。 しかしこの言葉とは、人間ひとりひとりのために記されているものです。主は、背後に支配しておられ守ってくださるお方です。この確信こそが、まことの慰めの源です。 慰めよ、慰めよ、わたしの民を。あなたがたの神はおおせられる。アーメン |