引用聖句:テモテへの手紙第I、1章15節-16節
今、兄弟に読んでいただきましたこの手紙。パウロの手紙です。 愛する弟子のテモテに送った手紙ですけれども、このところから今日は主を信じる者、イエス様を信じる信者の証しということにつきましてご一緒に考えてみたいと思います。 イエス様を信じる者、すなわちキリスト者の証しというのはいったいどんなものでありましょうか。どのように証しをしたらいいのでありましょうか。 それはまだイエス様を知らない方に、イエス様とはどんな方か、どのような方か、どのように自分がイエス様の、主のあわれみを受けてイエス様を信じるようになったか、また信じてから自分はどのように変わったか、どのように生き方が変わったかというような、自分自身の体験を通してイエス様のすばらしさ、イエス様のご愛のすばらしさを証言することではないかと思います。 それと同時に、この信者の証しというのは自分自身の証し、信仰告白であるとともに、イエス様の福音を今、兄弟が詳しく述べられたような、イエス様の福音を人に伝える上で大変に重要なものなのであります。 イエス様を信じて救われた私たちは、ただ自分が救われて喜ぶだけではなくて、ひとりひとりが、信者のひとりひとりがイエス様の救いの恵みをまだご存じない多くの方々に、自分を罪から救い出してくださったそのイエス様を紹介する役割を、主から与えられているのであります。 しかしながらそのことをまだはっきりと自覚しておられない方、あるいは証しをしなければと思っても、恐れて、たじろいでしまってそれができない方も、中にはおられるのではないかと思うのです。 あるいは証しというのは自分が立派な信仰を持っていることを、あるいは教会や社会のためにこんなに熱心に奉仕をしているというようなことを話すのが証しであるというように、誤解しておられる方も中にはおられるのではないかと思います。 こういうわけで、私たちキリスト者の証しとはいったいどういうようなものかということを改めて考えてみることは、信仰の歩みを進める上においても大切ではないかと思う次第であります。 もちろんキリスト者の証しには何も決まった形式があるわけではありません。しかしながら、今読んでいただいたテモテへの手紙第Iの中にあるパウロのことばは、私たちキリスト者の証しに必要なことがすべて含まれているという点で、証しのひとつのお手本と言ってもいいのではないかと思います。 ここでパウロは初めに、私は罪人のかしらです、と自分が主に対して大変な罪を犯したことを認めております。そしてそのような自分が救われたのは、ただ一方的な主のあわれみ以外にはないと言っております。 そして次に、そのようなあわれみを受けた理由について、主が自分をあわれみの見本、また慈しみの見本として神様の救いを求める人々にお示しになるためである。 そしてそのために罪人のかしらのような罪深い自分が救いの対象に選ばれたのだというふうに言っております。本当にすばらしいパウロの証しではないかと思います。 聖書で言う罪人とは、ご存知のように一言で申しますと、自分の考えをいつも中心に置いて生きている者、自分の考えを尺度としてすべてのことを判断している者であります。 パウロもかつてはそのような者でありました。彼は次のように告白しております。 テモテへの手紙第I、1:13
もちろんこれはイエス様を、主イエス様を信じていないとき テモテへの手紙第I、1:13
このように言っております。パウロは熱心なユダヤ教の信者の一派であるところのパリサイ派に属しており、復活されたイエス様に出会うまではキリスト者をユダヤ教に敵対する者と考えて、彼らを迫害することこそ神様のみこころにかなう正しいことだと確信をしておりました。 しかしそれが大変な間違いであり、自分が信じてきた神と自分が憎んだナザレのイエスとが実は同じ神であったということを、復活のイエス様に出会って霊の目が開かれたときに、初めてはっきりと知ったのであります。 パウロは先ほどのみことばの中で、自分は罪人のかしらであると言っておりますけれども、それはただ謙遜して言っているのではない。 自分の考えが正しいと思い込んで、イエス様を信じる人々を神様の敵として、死に至らしめるほどに迫害してきたことが実はとんでもない恐ろしい間違いであり、神様に対して大変な罪を犯していたのだということを知ったから出たことばであります。 ですから、自分は本当に罪人のかしらであるということを心から悔い改めを込めて言うことができたのであります。 そして彼は、自分は知らないでしたとはいえ、神様に対してこのような大きな罪を犯した者が、イエス様の十字架の贖いによってその罪が赦され救われたのは、まだ神様のご愛を知らずに滅びに至る道を歩んでいる多くのこの世の人々に対して、神様が自分をあわれみの見本、救いのサンプルとしてお示しになるためであったということを彼は知ったのであります。 箴言14:12
というみことばがあります。私たちキリスト者も、かつては自分の考えに基づいて、自分勝手に滅びに至る道を突き進んでいたような罪深い者でありました。 けれどもそのような私たちが救われたのは、パウロと同じように、主のあわれみの見本とされるためであることを私たちははっきり認識する必要があると思います。 そしてそのような愚かな私たちが、イエス様の十字架の上で流された尊い血が自分の恐ろしい罪を贖うためであるということを知ったときに、私たちは主の大いなるあわれみと主のご愛を証しせざるを得ない思いになるのではないかと思います。 聖書の中には主のあわれみの見本がたくさん見られます。そのひとつの例をマルコの福音書の5章の1節から20節に記されております、汚れた霊につかれた人に見ることができます。 これは有名な聖書の個所でありますけれども。全部お読みいたしませんけれども、ここには次のような内容が記されております。 汚れた霊につかれた男がおりました。彼は墓場に住みついていて、裸で、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけておりました。 彼はイエス様を遠くから見つけて、駆け寄って来てイエス様を拝しました。イエス様はこの男を見て、深くあわれまれて、男にとりついている悪霊に、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われました。 悪霊どもは出て行って、豚に乗り移り、その豚の群れは崖を駆け降り、湖へなだれ落ちて、おぼれ死んでしまいました。 これを見て驚いた豚を飼っていた者たちが、町や村々でこの出来事を知らせましたので、多くの人々がやってまいりました。 そして、悪霊につかれていた男が、裸であった男が着物を着て、正気に返って、イエス様の傍らに座っているのを見てびっくりしました。イエス様はこの男にこう言われました。 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」 そこで彼は立ち上がって、イエスに言われた通り、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったか、どんなに自分をあわれんでくださったかを、家族に、そして郷里の人々に言い広め始めました。 これを聞いた人々はみな驚いた。というのがここに記されている記事であります。 ここに出て来る汚れた霊につかれた人とは、実はイエス様に救われる以前の罪に汚れた私たちの姿そのものであり、また、まだ救われていないこの世の人のすべてを指し示しているのであります。 汚れた霊につかれた人は、何も特別に異常な人ではなく、サタンの支配下にあるこの世に生きて、サタンの思うがままに操られているこの世の人すべてを指していると理解しますと、ここに書かれていることは他人事ではなくなります。 イエス様を知らないこの世の人々は、悪魔につかれたこの人のように、自分が何をしているのか、何のために生きているのか、その本当の意味でそのことが分からない人たちであります。 もちろん自分がサタンの支配下にあることなど分かるはずがありません。 ここに、墓場に住みついていると書かれておりますけれども、サタンに操られている人たちは、この世的にはどんなに立派な家に住んでいても、霊的には墓場に住んでいるようなものであります。 また、自分のからだを傷つけていたとありますけれども、まことの神様を知らずにサタンに操られている人は、自分では気付いていませんけれども、自分で自分の霊を傷つけるようなことをしているのであります。神様からいのちの息として与えられた自分の霊を痛めつけて、主の前に自我むき出しで言いたい放題、やりたい放題に生きているのであります。これがサタンに支配されているこの世の人の姿なのであります。 イエス様は、神様から離れてそのような姿で滅びに向かっているあわれな者に目を留めてくださり、心からあわれんでくださって、その人がイエス様に助けを呼び求めるときに、すぐさま御手を差し伸べて、サタンの束縛から解放してくださるのであります。 イエス様のあわれみによって悪霊から解放されたときに、この男はどうしたでしょうか。彼は着物を着て、正気に返ってすわったとあります。 彼はそこで初めて、自分を悪霊から解放してくださったイエス様を正気に返った霊の目で見ることができ、イエス様の御前に静まることができたのであります。 彼はこの方のあわれみによって目が開かれ、自分がサタンの束縛から、罪の束縛から救い出されたことを知り、改めて今まで自分が裸で、墓場に住み、自分のからだを痛めつけて、大声でわめきながら生きていたことが分かったのであります。そしてイエス様に言われた通り、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、みなに言い広め始めたのであります。 これがイエス様に出会ったこの男の証しであります。そしてまた、これがイエス様に出会った信者の証しでもあります。 生きる本当の意味も目的も分からずに、あわれな自分の姿も知らずに、悩み苦しみながら生きていた私たちが、主のあわれみによって霊の目を開かれ、主に出会ってどんなに自分が変えられたか、どんなに生きる本当の目的と希望が与えられて喜ぶようになったか、そのことをこの男のように正気に返って、愛する家族や親しい者に証ししないではおられない。 これが私たち信者の証しではないでしょうか。 ペテロの手紙第I、3:15
とあります。ペテロは信者の証しについてこのように言っているわけです。 ここに、あなたがたのうちにある希望とありますけれども、私たち信者にとっての希望というのはいったい何でありましょうか。それは私たちを滅びの罪から贖い出してくださっただけではなく、死に勝利するご自分の、ご自身の復活のいのち、永遠のいのちをも与えてくださり、天の御国にまで伴ってくださるイエス様ご自身、これが私たちの希望であります。 ですから、私たちキリスト者は自分のうちに住んでくださる希望そのものであるイエス様について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明する用意、すなわちイエス様を証しすることができるように、用意をしていなさいとペテロは言っているのであります。 このように私たち信者は、人に「どうしてあなたはイエス・キリストを信じるようになったのか。」と聞かれたときには、いつでも、ご自分のいのちを捨ててまで罪から救い出してくださったイエス様を喜んで証しできるように、日ごろから心の備えをしておく必要があります。 また、よくキリスト者は誤解を人から招くことなのですが、それはキリスト者になれるような人は元々清廉な人、敬虔な人、人格者である、というようにみなされることがままあります。実際そうでないのでつまずきを与えてしまうわけですけれども。 そういうようなことを考えている、そのような目で見ているこの世の人たちに対しては、「私を見てください。私は人格者どころか自分勝手で愚かな罪人にすぎませんでした。けれどもそのような私にイエス様はあわれみの目を留めてくださり、ただ一方的なイエス様のあわれみをいただいて、そしてイエス様の十字架の贖いの恵みによってこの恐ろしい罪から私たちは解放されました。このように、私はただ主のあわれみの見本にすぎません。」と証しすればよいのではないでしょうか。 パウロは次のようにも証しをしております。 エペソ人への手紙2:3
神の御怒りを エペソ人への手紙2:3-7
とあります。私たちキリスト者は、ひとり残らず一方的な主のあわれみとご愛を受けて救われた、かつての罪人にしかすぎない者であります。 そしてイエス様はその私たちに望んでおられるのは、私たちを主のあわれみの見本としてお用いになって、すべての人を罪の暗やみの中からご自分の聖い光の中に救い出してくださるために、十字架の上で尊いいのちを捨ててくださった、その主の驚くべきご愛とあわれみの贖いのみわざを人々に伝えること。証しをすることなのであります。 ところが悲しいことに、キリスト者の中には「証しが出来ません。」と尻込みをする方も中にはおられます。特に自分の家族や親しい方々に、自分に近い者に対してその思いが強く表われるものであります。私もかつてはそういう者でありました。 その理由は、「人に何と思われるか恐い。」、あるいは、「はっきりと主を証ししたことによってそれまでの人間関係が損なわれてしまうのではないか。」というような、色々な思惑がそこにあります。 けれどもそのような思いはすべて自我から来る、肉の、自分の肉の思いであります。 このようなキリスト者にイエス様は次のように戒めておられます。 ルカの福音書12:8
すなわちイエス様 ルカの福音書12:8-9
確かに私たちは自分の力で証しをしようとすれば、恐れたり、たじろいだり、あるいは怯んだりする思いが強くなって、証しする気持ちを鈍らせてしまいます。 しかし、イエス様の大いなるあわれみとご愛によって、しかもそのためにイエス様が十字架の上で尊い血を流し、自分の罪を、私の罪を身代わりに受けて死んで罪を救ってくださったことを、大きな喜びをもって心から確信すれば、私たち信じる者の中に住んでくださっている主の御霊が必ず私たちに証しをする力を与えてくださり、そしてまた私たちの心から恐れを取り去ってくださり、主はその証しを主のあわれみの見本として用いてくださり、ご栄光を現わしてくださるのであります。 イエス様を信じている私たちと、まだ信じておられない人とはどこが違うのでありましょうか。その違いは主のあわれみを先に受けたかどうかの違いにすぎないのであります。主のあわれみの順番が私たちのほうが少し先であったにすぎないのであります。 世の終わりが迫っているこの今の時代にあって、恵みを受けた私たちが先に主にあわれまれた。その私たちに対する主の使命、主に対する使命というのは、主が次にあわれんで救おうとしておられる方に対していつでも自分自身を神様のあわれみの見本として示すことであります。 最後に、主のあわれみに満ちたみことばを一つお読みして終わりたいと思います。 詩篇103:8-13
どうもありがとうございました。 |