引用聖句:申命記11章31節
申命記12:8-9
今、兄弟に読んでいただきましたみことばの中から今日は、主が約束された安住地にまだはいっていない、私たち信者の信仰の歩みについて、当時のイスラエルの民と比較しながらごいっしょに考えたいと思います。 天地万物の造り主にして支配者なる生ける神様は、アブラハムを選んで、アブラハムに多くの子孫を与え、全人類の祝福の基とするという契約を結ばれました。そしてその中に、乳と蜜の流れる豊かなカナンの地を与えるという約束も含まれておりました。 これについてダビデは次のようにイスラエルの民に言っております。 歴代誌第I、16:15-18
しかし、実際にイスラエルの民がカナンの地に永住するようになるのは、アブラハムの孫のヤコブと家族が、大飢饉を逃れて移り住んだエジプトで、その地で一族の数がおびただしく増えて、それを脅威としたエジプトから長い年月、奴隷として働かされ、苦しんでいたのをあわれまれた神様が、彼らを、イスラエルの民をその苦役から解放させるためにモーセを召し、モーセに命じて、エジプトから脱出させられることによって起こったのであります。 エジプトを脱出してからカナンの地境にあるヨルダン川の岸に達するまで、これは簡単な旅ではありませんでした。実に40年間に及ぶ荒野の旅をしなければなりませんでした。 その間に神様はシナイ山でモーセを通して十戒を授けられ、この戒めを守り行なうなら、カナンの地で長く幸せに生きることができるという契約を、改めてイスラエルの民と結ばれたのであります。 しかしどうしてイスラエルの民は40年もの間、荒野の旅を続けなければならなかったのでありましょうか。 それは神様が、彼らが選ばれた神の民として契約をどれだけ守るか、どれだけご自分の命令に従順に従うかを試みられたからでありました。 旅の間モーセは、度々イスラエルの民に訓戒し、警告をしております。そのひとつをお読みしますと、申命記8章の1節から5節になります。 申命記8:1
これは主が与えられた戒めです、 申命記8:1-5
彼らは初めのうちこそ、長いこと苦しんでいた自分たちをエジプトから脱出させ、紅海の海を開いて渡らせるというようなすばらしい奇蹟によって救い出してくださった、その神様の恵みを感謝しておりました。 しかし、主の訓練によって荒野をさまよい、飢えさまよい、飢え渇きに苦しんだときに、彼らは神様の恵みを忘れ、こんなことならエジプトにいたほうがマシだったというように神様をうらみ、そしてまた契約を破って金の子牛を作って拝むという、神様がもっとも嫌われる偶像礼拝の罪を犯すなどの背信を重ね、モーセの度々の警告にも耳を傾けなかったのであります。 このため神様は彼らを怒られ、憤られ、その結果、エジプトを脱出してきた20歳以上の男子、この数が民数記において60万人に余る大変な数なのですけれども、その人たちはヨルダン川を渡る前に死んでしまいます。 こうして主の厳しい訓練を受けながら、ようやくヨルダン川の岸辺に到着した残りのイスラエルの民に対して、モーセは冒頭のような訓戒を行なったのであります。 申命記の、もう一度、11章31節から32節。そして12章8節から12節をお読みいたします。まず11章31節から32節。 申命記11:31-32
申命記12:8
きょう、というのは、この今の時点です。ヨルダン川を渡る時点です、 申命記12:8
それまで彼らは勝手な場所で礼拝していたようですが、そういうことをしてはならない。 申命記12:8-12
モーセはイスラエルの民が約束の地にはいるにあたって、改めてシナイ山で与えられた十戒による契約を守らなければならないというように、このように民に説き明かしをしなければなりませんでした。 それは今まさに、ヨルダン川を渡って、カナンにはいろうとする人々のほとんどが、主にそむきの罪を犯したために、先ほど申しました大変たくさんのイスラエルの民が、イスラエルの人たちが旅の途中で死ななければならなかったのです。 今モーセがヨルダン川を目の前にしてイスラエルの民にメッセージを与えたわけですけれど、そういう、与えた相手の者たちは、イスラエル人は第一世の子どもたちなのです。二世なのです。第二世代の者たちに対してモーセは訓戒をこのように与えたのです。 ですから、この若い世代の人たちはエジプト脱出の経験も知らない。そしてまた、シナイ山での十戒を与えられた、その経験も知らない人たちであります。 ですから神様はイスラエルの民がカナンの地に安住するために必要な心構えを、ここで改めてモーセを通して啓示されたのであります。 しかし主は大変厳しいお方であります。モーセ自身はカナンの地にはいることを主が許されなかったのです。ピスガの峰の頂からはるかに、このカナンの地を望みながら死にました。 なぜモーセはカナンの地にはいることができなかったのでありましょうか。それは、荒野で水が無くて、民からしつこくせがまれて、彼らが飢え渇きに苦しんで、そのことをあわれまれた神様がモーセに命じて、岩を杖で打って水を出させた、そのときに、彼は岩を二度打ってしまったのです。一度で良かったのです。 このとき神様はモーセに次のように仰せになりました。 民数記20:12
モーセが、今申しましたように、岩を一度でなくて二度打った。二度も打ったということは、ご自分を信頼しないからだというのがその理由でありました。 そして主はモーセに代わって、モーセの後継者として若いヨシュアを選ばれました。こうしてヨシュアはイスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、約束の安住地カナンにはいったのであります。 ヨシュア記の21章の43節から45節になります。 ヨシュア記21:43-45
とあるとおりであります。しかし、先ほども申しましたように、旅の途中で主のおきてにそむいた多くのイスラエルの人々は、約束の地にはいることができませんでした。これはイスラエルの民だけに言えることではありません。 ガラテヤ人への手紙3章29節になります。 ガラテヤ人への手紙3:29
とありますように、イエス様を救い主として信じる信仰によってアブラハムの子孫とされた私たち信者にも当てはまることであります。 イスラエル人だけではなく、私たちイエス様を信じた者にも当てはまる。私たちもイエス様を信じる信仰によってアブラハムの子孫とされているからであります。 ヘブル人への手紙に次のように記されてあります。3章の16節から19節と4章の6節から11節をお読みします。 ヘブル人への手紙3:16
これは何を?主の御声です。主の御声を聞いていながら、 ヘブル人への手紙3:16-19
ヘブル人への手紙4章の6節以降をお読みします。 ヘブル人への手紙4:6-8
イスラエルの民に ヘブル人への手紙4:8-9
ヘブル人への手紙4:11
ヨシュアはイスラエルの民を率いて約束の地にはいりました。しかしそれは地上における安息地であります。神様から与えられる霊的な、天的な安息地、安住地ではありませんでした。 では、天的な安住地とはいったいどこでありましょうか。言うまでもなくそれは、主なる神様と御子イエス様が住まわれる天の御国であります。 そこがどんなにすばらしいところかを幻によって啓示されたヨハネが証ししておりますので、ヨハネの黙示録からその一部をお読みしたいと思います。 ヨハネの黙示録22:1
すなわちイエス様 ヨハネの黙示録22:1-5
アブラハムも故郷を出て約束の相続地に移り住みました。けれども彼は、そこでは旅人のように天幕生活をして暮らしたとあります。 まことの安住の地は地上にあるのではなくて、天の都こそが安住の地であるということを彼は知っていたからであります。 ヘブル人への手紙の11章8節から10節をお読みいたします。 ヘブル人への手紙11:8-9
アブラハム ヘブル人への手紙11:9-10
すなわち、天の都のエルサレム ヘブル人への手紙11:10
私たち信者もアブラハムのように、イエス様によって与えられる天における霊的なまことの安息地を待ち望み、自分の思いを第一にして、主をないがしろにしたために絶ち滅ぼされ、安息の地にはいれなかったイスラエルの民のように、主に対して不従順にならぬように、日々心がけなければなりません。 信者であっても、それが形だけの信仰にとどまっていることにも気が付かないで、相変わらず自分の思いを第一として生活していても、それを何ら良心の痛みとも苦痛とも感じない。 そのような名ばかりの信者は約束の安住地、すなわち、天の御国にはいれないということをイエス様は例えをもって警告をしてくださっております。 ルカの福音書13:25-28
こうイエス様は警告をしておられます。 またパウロはコリントの教会の信者に対して、荒野で滅ぼされたイスラエルの民のようにならないようにと、次のように諭しております。 コリント人への手紙第Iの10章1節から6節と10節、11節をお読みします。 コリント人への手紙第I、10:1
雲の下にいたということは、雲が彼らを導いたということですが、 コリント人への手紙第I、10:1
この海はもちろん紅海です。葦の海。紅海を渡って コリント人への手紙第I、10:1-3
これはマナのことです。 コリント人への手紙第I、10:3-6
むさぼったというのは、彼らが荒野でマナよりもエジプトの食べ物を食べたいと言ったことです。 コリント人への手紙第I、10:6
コリント人への手紙第I、10:10
何をつぶやいたか。主に対して不平不満を言ったのです。つぶやいたのにならって コリント人への手紙第I、10:10
滅ぼす者というのは言うまでもなく主なる神様であります。 コリント人への手紙第I、10:11
終わりの日が間近い今の時に、私たちはこのイスラエルの民のようにならないために、十字架による、尊い十字架による贖いの恵みに、ただ甘えることなく、安住の地、相続の安住地である天の御国にはいれるように、今しばらくの残されたこの地上の日々を心から主を恐れ、主を愛し、主の選びにいれていただいたことを心から感謝しながら、主のみこころを第一として歩むことができますように、御霊の導きを真剣に祈る必要があると思う次第であります。 最後にもう一度、ヘブル人への手紙の4章9節、11節をお読みして終わります。 ヘブル人への手紙4:9、11
どうもありがとうございました。 |