引用聖句:箴言16章25節
箴言20:24
今日は今読んでいただきましたみことばから、人間が人生を正しく歩むには倫理、あるいは道徳ではなくて、天地万物をお造りになった主なる生ける神様を知って、そしてみこころに従うことが是非とも必要であるということを、ごいっしょに考えてみたいと思います。 今も兄弟からありましたように倫理、あるいは道徳というのは、人の踏み行なうべき正しい道という意味であります。 倫理、道徳、これらは同じように使われます。すなわち、人間が人生を歩む間には、これは正しいことなのか悪いことなのか、さらにもっと前向きに申しますと、これは成すべきことであるのか、あるいはしてはならないことなのかというような判断に迫られることが数多く起きます。 人間には生まれつき神様から与えられた善悪を判断する心、言い換えますと、平たく言いますと道徳心、あるいは良心とも呼ばれるものを持っております。 もし、この道徳心、良心が完全に働いて、人間がそれに従うことができれば、その人は人生を正しく歩むこと、すなわち倫理的、あるいは道徳的な生き方ができるはずであります。 しかしながら、はたしてそのように生きることが一体人間にはできるのでありましょうか。その実例を私自身50年余りに亘って医学の道を歩んでまいりましたけれども、私は臨床医でございませんけれども、私なりに体験したこの医の倫理を例にとって考えてみたいと思います。 かつては医の倫理は医の道、「医道」という言葉で私たちは学生のときから習ってまいりました。さっきも出ました「ヒポクラテスの誓い」、これは本当に医学を学ぶ者すべてがよく教えられた誓いであります。 平たく言いますと、医師たる者の心構えとしてどんな病人も分け隔てをすることなしに、誠意をもって治療すべし。それが医師としての正しい道であると。これが「ヒポクラテスの誓い」の中身であります。 けれども最近はそのような、もちろん日常的な医療行為の倫理も大変大切であり、それを逸脱した行為が起こっておるがゆえに、兄弟姉妹皆さま、耳にするような色んな事件が起こっているわけでありますけれども、もう一つ大きな医の倫理の問題というのは、ここ20年以上になりますか。その間に急速に進歩した生物科学の技術、これを医学が手にしたことによって生じた問題なのであります。 すなわち、生物科学の技術を人のいのちに応用することによって出てきた、倫理的、あるいは道徳的な問題であります。 具体的な例を挙げますと、先ほどもちょっと兄弟が触れられましたけれども、脳死の問題とか臓器移植、あるいは体外受精の問題。こういうふうな、例えば体外受精なんかが行なわれるようになりますと、代理母なんていうのが出て来るのです。 要するに、本当の母親を代理する女性、あるいは精子銀行なんていうのも実際にあるわけです。それから遺伝子操作。こういうふうな、かつては考えられなかったような医療上の問題が出てまいりました。 これらはいずれも今まで人間が神聖視してまいりました生と死、あるいはsexですね、性。それから結婚、家族、そのような人間の存在、あるいは社会秩序に関わる事がらの根源を揺さぶるような問題を起こす。そのような危険が起こってくるのであります。 もう少し具体的に例を挙げますと、これはもう殆どの病院で導入されております人工呼吸器あるいは、生命維持機器。こういうものがどんどん普及して発達してまいりますと、人間の命が人工的にある期間操作されるということが可能になります。 その結果、それまで誰も疑問を持たなかった生と死の境がぼんやりしてくるのです。 かつては、医者が臨終を迎える間際の患者さんの脈をとって、家族の前で脈を診て、脈が触れなくなって、そしてその時にまた瞼を開いて診て瞳孔が開いてしまう。そういうサインと言いますか、それを見極めて家族に「ご臨終です。」というふうに告げるわけです。 それでみんな家族は納得するわけです。愛する者の命がここで終わったということは誰も疑問を持ちません。 ところが今のような道具と言いますか、器械によって人工的に人間の命が操作されるようになりますと、一体人間の死をどこで決めるか。どう決めるかというような大きな倫理的な問題が起こってくるのであります。 それから、先ほどもちょっと申しました、臓器移植。この技術の発達というのは、これは臓器を提供する側と、それから、臓器を受ける側との間の倫理的な問題が起こってくるのです。 今は臓器を受ける病人は、その臓器を下さる、提供する方の名前も知らないように、伏せていることになっていますけれども、うっかりするとそれが判ってしまう。そこで色んな悩みが出てくるわけであります。 それから、かつてはお母さんが妊娠しますと、段々その胎児が成長してきて、そしてお腹の中で動くようになるのです。胎動と言いますが。 そうするとお母さんはその胎動によって、実感によって、その子どもの命、自分の子どもの存在を確かめることができました。 胎児の命というものは、そういうふうに母親が実感することができたのですけれども、現在では胎児の体が形成されていく過程、受精卵の時から詳細に、客観的に観察できるようになった結果、一体どの段階から人として、あるいは人の命として扱ったらよいかという、これも大変重大な倫理的な問題も起こっております。 また、精子や卵子を凍結して試験管の中で何十年も、あるいは理論的には何百年も生かすことができるという技術が開発された結果、何世紀もあとで、その精子の提供者と卵子の提供者の子どもが産まれるという可能性も可能になってまいりました。 そうなりますと、そうして産まれた子どもの両親との間には何百年もの時間の隔たりが生じるということになるわけです。今までのような、親子間にいわゆる「血が通う」というような交流はもう、そうなると全く不可能になってしまいます。 あるいは、娘夫婦の受精卵をまだ受胎能力のある、その娘さんの母親が自分の体内で育てて出産するということも可能になります。 何か事故があってその娘さんが亡くなった場合に、その母親が自分の胎内で娘の受精卵を育てて出産するということです。そうなりますと、その母親にとって産んだ子どもは子でもあり、同時に孫でもあるということになります。 このように、今の進んだ科学技術を深く考えもしないで安易に医療に使いますと、親子、夫婦、家族という人間関係の基本、社会構成の根本を覆す事態が起こるという重大な倫理的な問題が出てくるのであります。 ご存知の方も多いと思いますが、アメリカには精子銀行というのがあって、既に営業しております。 かつてあるアメリカの雑誌に次のようなこの精子銀行の広告が出ておりました。それは、「当銀行は未来のあなたの子どものために優秀な遺伝子を持つ男性の精子を提供します。精子の提供者は肉体的、精神的健康と健全で社交的な性格。優れた思考力と知的想像力を備えた、IQの高い人たちです。」というような広告なのです。 もう少しこのことを調べていきますとこの銀行では、IQが、知能指数ですね、IQが200以上の男子の精子を集めている。 データーには一人一人、その人種、家系、目と髪の色、身長、体重、年齢、学歴、職業、宗教、血液型、趣味、健康度などが詳細に記録されているそうであります。 アメリカではこのような精子銀行が商売として成立するほど、自分の好みのタイプの男性の精子を未婚の女性が選んで買って、そして自分の子どもを産むという、多くの独身女性がいるということであります。一体しかしこれは、倫理的に考えて許されることでありましょうか。 さらに大きな倫理的な問題は、先ほどもちょっと申しましたけれども、遺伝子操作であります。 この遺伝子操作というのは、医学の中で発達したのではなくて、分子生物学の中で発展してまいりました。応用されたのは、おもに植物や何かの・・優秀な植物と言いますか、優良な植物を作るために考えられた技術なのですけれど、その遺伝子操作の技術を医学に導入してきたわけです。 そして人間がこのように生物の遺伝子の構造、そしてその制御の機構を解明して、そして遺伝子を自由に組み換えるという技術を手にした結果、これまで治すことのできなかった遺伝病の治療というものが可能になった。 これは本当に大きな成果であると思います。医学の成果であると思いますけれども、この技術を使った結果、これは植物の品種改良と同じように、人間の品質改良と言ってはおかしいですけれど、人間を改良するということも技術的に可能になるのであります。 今までは自然の中で神様の御手によって行なわれてきた遺伝子組み換えというものを今度は人間が行なう。これは人間が神の役割を演じることになります。いったいこれが許されることでありましょうか。 人間には生まれつき、もっと知りたい、そして知ったらそれを使って結果を見たいという、これは貪りの欲です。貪りの欲の性質というのが生まれつきあるのです。 医者が、あるいは研究者がこのような衝動に駆られて、新しい生物科学の技術を深く考えもしないで人間に適用すれば、以上に述べたような恐ろしい結果を招くことになります。 このことに一番不安を感じているのは実はこの技術を手に入れた医師、あるいは研究者、医学研究者自身なのであります。 そうした危機感から医学部、あるいは医学研究所に倫理委員会、あるいは生命倫理委員会、名前は色々ありますが、そういうものが設けられてきたのであります。 世界医師会という組織があります。そこでは総会を開いて、新しく色々な技術が、あるいは医学研究、あるいは医療に導入されたとき、はたしてそれが倫理的にそれをしていいのか。研究をしていいのか。治療していいのかということをチェックするための色々な掟と言いますか、ルールが発表されます。 有名なのはヘルシンキ宣言という医の倫理の宣言ですけれども。そのほかぞくぞくと毎年のように新しい医の倫理の宣言が出されております。 けれどもこのようなことでこの問題は片付くはずがないのです。悲しいことに、いくら人間が知恵を出し合って倫理的なガイドラインを作っても、問題の根本的な解決は望めないのです。 その訳は先ほども申しましたように、人間にはだれにでも貪りの欲という欲望があるからであります。 聖書には貪りの欲というのは大変大きな罪のひとつであると言っております。 かつて原子爆弾の原理を考えた、アメリカの有名な物理学者は次のように言い放っております。 「われわれは新技術を手に入れた。技術を発展、進歩させるのは人間の本性である。原子爆弾はどれぐらいの力をもっているか、まだ不明である。人類はその力を知っているのがよく、そのためには使ってみるほかない。たとえその代価を支払わなければならないとしても・・・。」 こういう恐ろしい、今考えれば恐ろしいことを彼は言っております。使ってみた結果はご存知の通り、恐ろしいものでありました。 これは科学技術が悪いのではないのです。この学者に限らず、科学技術を開発して、使用する人間の本性に問題があるからなのであります。 今日、医の倫理だけではなくて、政治倫理、あるいは企業倫理など、多くの場で倫理の欠如が大きな問題となっております。 しかし残念ながら問題にはなりますけれども、一向によくならない。よくならないどころか、ますます悪くなっているのはご承知の通りであります。 どうしてでありましょうか。それは、いくら立派な倫理規定や道徳律を作っても、それに人間が従わないからであります。 道徳心の欠如ということを聞きますけれど、今日いかに道徳心の欠如した人間が多いことでありましょう。 しかし、人間に道徳心が無いのではないのです。有るのですけれども、人間の貪りという欲望が道徳心を曇らせ、抑えつけて、働けなくさせているために欠如しているように見えるのであります。 神様が人間をお造りになった時、そのからだに吹き込まれたご自分の聖い息が人間の霊であり、これは道徳心とも良心とも呼ばれるものであります。 ところが、この人間の道徳心、良心は神様がお造りになった最初の人、アダムが欲に負けて、神様の御言いつけに背いて、食べてはならない禁断の木の実を食べるという貪りの罪を犯して以来、すべての人間に受け継がれたこの罪の性質が良心を働かせないようにしてしまったのであります。これが道徳心の欠如として現われているのであります。 昔神様はイスラエルの民に、神の民としての正しい生活と行為に関する戒めとして律法をお与えになりました。その中心が有名な十戒であります。 しかし十戒を知らないイスラエル人以外のすべての人間にもこの戒めは生まれながら心に刻み込まれているとパウロは言っております。 ローマ人への手紙の2章の14節、15節に彼はこのように記しております。 ローマ人への手紙2:14-15
パウロはこのように言っております。確かに十戒の中にあります、「父母を敬いなさい。人を殺してはいけない。姦淫をしてはいけない。盗んではいけない。偽証してはいけない。人のものを欲しがってはいけない。」などの戒めは、これはイスラエル人でなくても、人間ならばだれでも知っていることであります。 しかし、イスラエルの民のみならず、全ての人間はこの神の戒めである律法の命じる行ないを一生懸命に、真剣に実行しようとすればするほど、それが出来ないという自分に気付くのであります。 いったいどうしてでありましょうか。パウロはその原因を次のように解き明かしております。 ローマ人への手紙7:18-21
すなわち、アダムの子孫であるすべての人間に受け継がれているところの欲望を満たしたいという生まれつきの自己中心の性質というものが、神のみこころに従いたいという願いを阻んでいるのであります。 ではどうしたら自分の中に宿っている悪を取り除いて、善を行なうことができるようになるのでありましょうか。それは自分の力では決して出来ません。不可能であります。 また聖書を読み、そこに書いてある神様の言われたこと、神のなさったことを知れば、それでよいのでありましょうか。それではダメなのであります。 いくら私たちが聖書についての知識を増やしても、それで自分の性質を変えることは出来ないからであります。 自分の中に宿っている悪を取り除くためには、私たち人間を造られた全知全能なる生ける神様に取り除いていただく以外に方法はありません。 その方法とは、まず自分が正しくない者であるということを素直に認めることであります。 すなわち、自分は今まで自分の判断で考えたり、あるいは行動して来たけれども、全くそれは間違っていた。あるいは、自分は目が見えると思っていたけれども、何も見えない者であった。 あるいは、自分は知識があるとか、知恵があるとかいうように考えていたということは、これは全く傲慢であった。あるいは、自分は自分の欲望をコントロールすることができないような本当に無力な者であった。 (テープ A面 → B面) このように自分の・・・自分の身代わりに神様の怒りを引き受けて、十字架の死という罰を受けて、神様から背き離れていた自分の罪を赦して、神様のもとに立ち返るようにしてくださるためであったということを信じることができるようにされるのであります。 イエス様を信じ、イエス様の十字架の贖いによって罪が聖められた者は、今度はイエス様にしっかりと結びつくことによって、救われる以前は自分の力ではどうしても歩むことが出来なかった正しい道を歩むことができるようになります。 それは、私が道であり真理でありいのちなのです。と仰ったそのイエス様ご自身が信じる者に正しい道を示してくださり、自分の力によってではなく、イエス様を信じる者の中に住んでくださる御霊の力によって、主のみこころに従う歩みが出来るようになるからであります。 パウロはローマ人への手紙の中で次のように記しております。 ローマ人への手紙8:3-4
ローマ人への手紙8:9-10
これはイエス様を信じる信仰によって神様から与えられる義のことです。義のゆえに ローマ人への手紙8:10-11
すなわち神様 ローマ人への手紙8:11
ローマ人への手紙8:13
ここでは主の御霊の力に拠り頼むことによって、自分の欲を抑えて、正しい道、信仰の道を歩むことの大切さというものが示されております。 パウロは、イエス様を信じる者は神様がイエス様によって良い行ない、すなわち神様のみこころに従う正しい行ないをするために造られた者とされるというふうに言っております。 エペソ人への手紙の2章10節にそれが書かれております。 エペソ人への手紙2:10
私たち信者は エペソ人への手紙2:10
とあるとおりであります。 最初に読んでいただいた二つのみことば。初めに、 箴言16:25
二番目のみことばは、 箴言20:24
とありました。その通りです。 人間には自分の知恵や力で何が正しい道か、間違った道かということを判断できません。イエス様こそ道であり、真理であり、いのちであることを知って、心から自分の傲慢を認め、へりくだって、イエス様を信じたときに、神様はその人をご自分の子どもとして扱ってくださり、それからの歩みは神様が私たちに正しい道を歩むように定めてくださるのであります。 預言者イザヤは次のように言っております。イザヤ書の30章20節から21節。 イザヤ書30:20-21
ここにある教師とは、いうまでもなく真理そのものである御子イエス・キリストであります。 神の子どもとされた信者が、開かれた霊の目と耳をイエス様に向け続けてさえいれば、イエス様は私たちの歩むべき正しい道を聖書のみことばから示してくださいます。 そして、天の御国に真っ直ぐに通じるその道を、私たちは信じる者に与えられた御霊に導かれながら喜びと希望をもって一歩一歩、歩みを進めるのであります。 最後に、真理そのものであるイエス様に従って歩む者の幸いを祝福してくださっているみことばを読んで終わりたいと思います。詩篇1篇の1節から3節をお読みして終わりたいと思います。 詩篇1:1-3
どうもありがとございました。 |