引用聖句:マルコの福音書1章15節
おはようございます。今、兄弟に読んでいただきましたみことば、これはイエス様がガリラヤで福音伝道の第一声を上げられたときのメッセージであります。 イエス様はここで、「時が満ち、」と仰っておられます。この時とは、主なる神様のみこころが成る時、成就する時であります。 神様は人間の罪のために汚されたこの世界を終わらせて、そして罪の無い聖い人間だけがはいることのできる新しい世界を創造すると聖書の中ではっきりと仰せになっておられます。したがいまして「時が満ち、」というのは、この神様のご計画が成る時が熟したということであります。 私たちは今、世界やまた我が国で起こっておりますさまざまな出来事を見るときに、それらがすべて私たち人間の自己中心的な考えや行動によって、言い換えますと人間の罪によって引き起こされているということがわかります。 そして多くの方々が、このように急速に我が国が、そして世界が悪い方向に向かって動いていますと、いったいこの先どうなってしまうのだろうと大きな不安を覚えておられるのではないかと思うのであります。 私たちはこのような状況にある今こそ、イエス様が仰ったこのみことばに心を留めて、神様に悔い改めることを真剣に考えなければならないのではないかと思うのであります。 私たちは日々の生活の中で後悔したり、あるいは反省したりすることが少なくありません。けれども「悔い改め」ということはあんまりしないのではないでしょうか。 こう申しますと、「何だ。」と、「後悔だって、悔い改めだって同じではないか。」と反論される方がおられるかもしれませんけれども、悔い改めと後悔とは違うのです。どこが違うか。 後悔というのは、「あんなことをしなければよかった。」、あるいは、「あんなことを言わなければよかった。」というように、自分の言動を顧みて悔いることであります。それにとどまると言ってもいいと思いますが。 悔い改めるということになりますと、ただ自分のしたことを悔いるだけではなくて、それを正に字の通り、改める。悔いて改めることであります。 もしある人が刑法上の罪を犯して、法律によって罰せられたときに、あるいは法律には触れるような罪でなくても、人を裏切ったり、その人の心を傷つけたりするようなことをしたときに、その人が「もう二度とそのようなことはしません。」と誓ったときに私たちは、「あっ、これはあの人は悔い改めたのだなぁ。」と認めるのです。世間では。 そして、「これはこれで終わりだ。」と、「この件は終わった。」というふうにするのが私たちの理解している人間社会における悔い改めではないかと思うのですけれども、これはイエス様は「そのような悔い改めをしなさい。」と言っておられるのではないのです。 みことばにありますように、「悔い改めて、福音を信じなさい。」と仰っているのです。ここにこの世的な悔い改めと聖書で言うところの悔い改めとの違いというものがあります。 聖書で言うところの悔い改めというのは、ただ悔い改めるのではなくて、神様のもとに立ち返って、神様から罪を赦していただくための前段階なのです。前段階としてぜひともこの悔い改めが必要であるということであります。 預言者のイザヤは次のように言っております。 イザヤ書55:7
ここで言うところの悪者というのは、ご存知のように神様に背を向けて、自分の考えを第一として、自分の考えを中心にして生きる人間のことであります。聖書で言う罪人とはこのような人間を指しております。 ですからイザヤはここで、神様を第一とするのではなくて、自分を第一として生きるという罪を犯している私たち人間に対して、「悔い改めて、万物の創造者にして、生けるまことの神様のもとに立ち返りなさい。そうすれば、神様はあわれんでくださる。」と言っているのであります。 このように聖書で言う悔い改めというのは、神様に対してそむきの罪を犯した人間は、神様と関係を回復するためにまず成されなければならない最も大切な行為なのであります。 この神様に対する悔い改めについて、さらにごいっしょに考えを進めてみたいと思います。 まず神様に対する悔い改めは、ご自分にそむいている、罪に汚れた人間をなお愛してくださる神様の大きなあわれみの上に成り立つものであるということを私たちは知る必要があります。 このことは預言者たちを通して、神様ご自身がご自分の思いを次のようにはっきりと示しておられることからもよくわかるのであります。エゼキエル書の33章の10節から11節。ここで神様はエゼキエルに次のように仰せになっています。 エゼキエル書33:10
これはエゼキエルを指しておられるのですが、 エゼキエル書33:10
このイスラエルの家というのは、もっと言い換えますと、神様にそむいて、罪を重ねているイスラエルの民なのですが、その民に言えと。 エゼキエル書33:10-11
もう一ヶ所お読みします。神様は預言者のエレミヤにも次のように語られております。 エレミヤ書31:20
このエフライムというのは当時、偶像礼拝をしておりました北イスラエルの国のことであります。 神様は偶像の神を拝むという罪を犯したイスラエルの神さえも愛してあわれみ、そして「はらわたがわななく」という表現をなさっているほどに悲しんでくださっておられます。 また、私たちを滅びに至る罪から救い出してくださるために神の座から下りて、この世に来てくださった神の御子イエス様も次のように言われました。 マタイの福音書9:12-13
これでお分かりになりますように、悔い改めというのは、聖書で言う悔い改めは、ご自分にそむき、ご自分に敵対している悪者である私たちをもなお愛し、あわれんで、滅びないようにと呼びかけてくださるその神様の深いあわれみが、まず基本にあるということを私たちは心に刻んでおく必要があります。 次に、神様に対する悔い改めには自分が犯した罪の強い自覚と、それに対する深い悲しみが必要であります。 主なる神様は預言者のヨエルの口を通して私たちに、「心を引き裂き、嘆きと、涙をもって悔い改めなさい。」と命じておられます。 ヨエル書2:12-13
神様は私たちの悔い改めが心の底からのものであるかどうかをご覧になっておられます。 ヨナ書には、神様が異邦人のニネベの人たちの悔い改めが心からのものであるということをご覧になって、彼らを赦されたという記事がございます。 ヨナ書3:4-7
食べてはならない。 ヨナ書3:7-10
このように、神様に対する悔い改めは心の底からのものでなければならないのであります。そのような心の底からの悔い新ためを神様はよしとされるのであります。 旧約の時代には悔い改めて神様に立ち返ることは、神様から人間に与えられた律法を守ることによって証しとされておりました。 しかしながら神様が最初に造られたアダムのそむきの罪によって、すべての人間の中にはいってしまったこの罪の性質のゆえに、神様から与えられた律法を完全に守ることができなくなった人間をあわれまれた神様は、そのような私たちの罪を赦すために律法を守ることによってではなくて、私たちの罪の代価としてこの世に遣わされた御子イエス様を自分の救い主として信じ、受け入れることによって神様に立ち返ることのできるようにしてくださったのであります。 エレミヤ書31:31
これは霊的な意味で、神様の民を意味しておりますが、 エレミヤ書31:31-32
すなわち律法 エレミヤ書31:32
このように仰せになりました。この新しい契約というのは、イエス様ご自身が最後の晩餐の時に仰ったように、イエス様が十字架の上で私たちのために流された血による完全な罪の赦しによって私たちと結ばれた契約であります。 このことがルカの福音書の22章の20節にはっきりと記されております。 ルカの福音書22:20
これは最後の晩餐の食事です。 ルカの福音書22:20
冒頭のみことばの中の、「悔い改めて福音を信ぜよ。」というイエス様のメッセージというのは、このことを意味しているのであります。 私たちがどんなに正しい行ないをしようと思ってもできない、このどうしようもない私たちにとって、イエス様の十字架上での贖いのみわざを信じることによって罪が赦されるというこの新しい契約というのは、本当に私たちにとってはかり知れない恵みであります。 しかしここでちょっと注意をしなければいけないことがあります。それは、「悔い改めて福音を信ぜよ。」ということは裏を返せば、「悔い改め無しには福音を信じることはできない。」ということです。もう一つ別のことばで言いますと、悔い改めを伴わない福音信仰は無いということなのです。 イエス様を信じる方々の中に、「自分は十字架がわからない。」と仰る方がおられます。事実おられます。けれども、イエス様の十字架の贖いのみわざこそが福音なのです。 ですから、イエス様の十字架がわからない、おわかりにならないというのは、それはまだご自分の罪の大きさ、深さがおわかりになっていないということです。したがいまして、そういう方は主に対する悔い改めも知っておられないのではないかと思います。 ですから、そういう方の信仰には感謝も無ければ、喜びも無ければ、希望も無いのです。こんなことを申しますと、何か人をさばいているようですけれども、実はこれは私自身がかつてそうだったのであります。20数年前まではそのような全く名ばかりの信者でありました。 このように、「悔い改めて福音を信ぜよ。」というこの主のみことばは、未信者に対してだけではなくて、名ばかりの信者にも主から与えられているみことばだというふうに私たちは受け取るべきであります。 三番目に、この神様に対する悔い改めに戻りますが、この神様に対する悔い改めは、神様に直接、人にではなくて、神様に直接、しかも全て隠さずに心からすることが大切であります。 その意味で次に掲げるダビデの悔い改めの祈りは、私たちの良き手本であります。よくご存知でありますが、詩篇51篇の1節から4節までお読みいたします。 詩篇51:1-4
私たちが心からの悔い改めをもって、イエス様の十字架による贖いのみわざが自分の、他人事ではなくて、自分のためであったということを信じたときに、それまでの死んでいたような私たちの霊は完全なものとされて生き返ります。 しかしながら肉体のほうはどうか。肉体のほうは、私たちがイエス様を信じてからのちも天に召されるまでは、この世にあって不完全な肉と、そして肉の心をもって生きるために、悲しいことにイエス様を信じてのちもしばしば、罪を犯してしまいます。 しかしながら罪に気が付いて、それをすぐに、気が付いたときにすぐに正直にイエス様の前にそれを言い表わして悔い改めれば、イエス様は父なる神様にとりなしてくださるというふうに約束しておられます。 ローマ人への手紙8:34
とあるとおりであります。またもう一ヶ所お読みしますが、ヘブル人への手紙の7章24節、25節。ここに次のように書かれております。 ヘブル人への手紙7:24-25
何という主の限りない恵みであり、またあわれみでありましょうか。 しかしここでこういうことをお考えになる方がおありではないかと思うのです。もし、けれどももし神様に対する悔い改めが手遅れになった場合に、いったい私たちはどうなのだろうかということです。これは私たちにとって大問題であります。神に対する悔い改めが手遅れになってしまったとき、どのような場合が考えられるでしょうか。 その一つは、悔い改めることなしに死んだ場合であります。というのは、死んだあとで悔い改めをしようとしても死後に救いの機会は、チャンスはないからであります。 イエス様は悔い改めうることなしに死んで、黄泉に落とされた金持ちにアブラハムの口を通して次のように宣告されておられます。 ルカの福音書16:26
これはアブラハムを含めて、救われて、もう天の御国にいれられた人々のことです。私たちとおまえたちというのは、悔い改めないで、黄泉に落とされた金持ちのような人たち ルカの福音書16:26
このみことばからも、死んでから神様に悔い改めをしようとしてももはや手遅れであるということがわかります。 それならば死ぬ間際に神様に悔い改めればよいのではないか。生きている間は自分の思いのままに自由に生きたい。そういうふうに考える方もおられるかもしれません。 けれども私たちは、では自分の死の時を正確に予測できるのでありましょうか。できません。神様はそのような人間の自分中心の高ぶりを決してお赦しになっておられません。 ですから神様は人間に、自分の死の時を予測することをどんなに、これは医学がどんなに進歩しようと、それをお許しにはならない。またそのような自分勝手な思いで、神様のあわれみを利用しようとするのはまさに神様に対する冒涜以外の何ものでもありません。イエス様は次のような例えを話されております。 ルカの福音書12:16-20
またヤコブは手紙の中で次のように記しております。 ヤコブの手紙4:14
このように、私たちにはあすのいのちすらどうなるかわからないのであります。 ですから手遅れにならないうちに悔い改めて福音を信ぜよと呼びかけてくださる御声を聞いたならば、直ちに自分の罪の深さに気付いて、永遠の滅びから救い出そうと声をかけてくださったその神様のあわれみを心から感謝して、素直に悔い改めて福音を信じるという、その態度が必要であります。 手遅れになるもう一つの場合を考えてみたいと思いますが、それは悔い改める前に終わりの日が来てしまいます。 ヨハネの福音書12:48
では、イエス様が仰っている終わりの日、あるいは神様のさばきの日はいつ来るのでありましょうか。この問いに対してイエス様は次のように言っておられます。 マタイの福音書24:37-39
このように、終わりの日は私たち人間にそれはいつかということを正確に予測することは不可能であります。 しかしながら今、終わりの日が近いということはその前兆として、次のようにイエス様が言われたことがすでに現実に私たちの周りに起こっていることからも察知することは可能であります。 マタイの福音書24:3-8
これは終わりの日の前兆だと仰っているのです。何と今の世界の状況に、私たちのおかれている世界の状況によく当てはまることではないでしょうか。 イエス様は冒頭のみことばの中で、「神の国は近くなった。」と仰せになりました。これには二つの意味が含まれております。 一つは、神の御子イエス様が神様と、そして神様にそむいた罪人である私たち人間との和解の仲介者としてこの世に来てくださり、そして十字架による罪の贖いを成し遂げてくださったことによって、私たちが神の国にはいる道が整えられたという意味であります。 イエス様が仰っているとおり、ご自身が神の国への道そのものとなってくださったのであります。よく知られているみことば。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と仰っているとおりです。 神の国への道がイエス様によって整えられた。イエス様ご自身が道となってくださったために神の国が私たちにとって近くなりました。 もう一つの意味は、イエス様はこの世に来られたことによって、人間の罪に汚れきったこの世界を滅ぼして、新しい、聖い神の国を想像されるという神様のご計画がさらに近くなったということです。 神様は預言者イザヤを通して次のように約束しておられます。 イザヤ書65:17-18
愛とあわれみに満ち給う神様は、私たちがさばかれて滅びることを悲しまれ、ひとりでも滅びることなく悔い改めて、ご自分のもとに立ち返り、朽ちることのない新たなるいのちをいただいて永遠に生きて、そして新しい天と地に、神様が創造された新しい天と地にはいることを望んでおられます。 これについてペテロは次のように記しております。 ペテロの手紙第II、3:9
すなわち汚れた滅ぼして新しい聖い世界を創造されるという約束 ペテロの手紙第II、3:9
この主なる神様の限りない愛とあわれみと忍耐を私たちは心から感謝して、時が満ちた今、手遅れにならないように、ひとりでも多くの方が神様の呼びかけに素直に従って、悔い改めて神様に立ち返られるように心からお祈りをする次第であります。 どうもありがとうございました。 |