引用聖句:エレミヤ書29章11節
まず敬愛する兄弟のご葬儀に際しまして、ご遺族、ご親族、ご友人のみなさまにとって、愛する兄弟との地上でのお別れ、さぞお寂しいことと心からお察し申し上げます。 しかしながら、決して悲しまれる必要はございません。イエス様を信じておられない方々にとってはなぜだろうと不思議に思われるかもしれませんけれども、これからその理由についてお話ししたいと思います。 私たちは日頃忙しさに紛れて、人は死んだらいったいどこに行くのだろうという大問題について、深く考える余裕がありません。けれども愛する方、親しい方の死に出会えばどなたでもこの問題を考えざるを得ないと思うのであります。 では私たちの敬愛する兄弟はいったいどこに行かれたのでありましょうか。この問題を考えるにあたってまず知っておかなければならないのは、人には二通りのタイプがあるということであります。 一つのタイプは、私たち人間を愛し、私たち人間を含めて天地万物をお造りになり、そしてこれらを支配しておられる神さま。 この神さまは完全に正しく、完全に聖い神さまでありますが、そしてまたその神さまは私たちの心の中まで見通される神さま。今、永遠に生きておられ、そしてただひとりのまことの神さま。 この神さまの前に私たち人間はだれひとりとして正しいとは言えないのです。それにも関わらず、「自分は正しいのだ。」と、「自分は今まで悪いことは何一つしていない。」と言い張る人間がおられるのです。 もう一つのタイプの方、この方は今申しました神さまに背を向けて、自分の思うままに生きてきた。これは聖書で罪ということばをよく使いますけれども、罪というのは犯罪ではないのです。神さまに背いて自分勝手に生きていることが聖書で言う罪であります。 そういう罪にハッと気が付いて、その神さまを恐れ、その神さまに心から悔い改めて赦しを乞う人間であります。 この二通りの人間がいるのです。 前のタイプの人間が死にますと、その行き先は神さまの刑罰を受けるところ、すなわち地獄であります。そしてまた後のタイプの人間が死にますと、その行き先は神さまから永遠のいのちを与えられた者だけがはいることが許されるところ、すなわち天国であります。 どんな人間も例外なく死後の行き先は神さまによってこのどちらかに決められます。私たちは死んだらこのどちらかに行くほかないのであります。中間というのはありません。 こういうわけで私たちはこの二つの行き先についてよく知っておくことが大変に大切であると思います。 まず天国について考えてみたいと思います。聖書に記されている天国とはいったいどんなところでありましょうか。 天国とは万物の創造主、造り主なる生ける神さま、唯一の神さまと、そしてその神さまの御子であるイエス様を中心として、先ほど読んでいただきました天国の国籍という恵みを神さまから与えられた方だけが住むところであります。 イエス様を信じた者は神の子どもとされますが、その神の子どもとはいったいどういう人のことを指しているのでありましょうか。 それは生けるまことの神さまを恐れないで、わががまま勝手に生きてきたその自分の罪を身代わりに負って、十字架の上で死んでくださったイエス様を救い主と信じた人々であります。 聖書に、「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられて、天国の門を通って天の都にはいれるようになる者は幸いである。」と書いてあります。 けれども私たち人間が生まれながらに着ている罪という真っ黒に染まった着物は、私たちがどんなに良き行ないという石鹸で洗っても、あるいはどんなに熱心に宗教という石鹸で洗っても、これを白くすることはできないのです。 この罪という黒いしみは、ただイエス様、十字架の上にかかって、そして尊いご自分の血を流してくださったそのイエス様の聖い血潮で洗われることによって初めて完全に白くなるのであります。 そして神さまは御子イエス様の尊い血によって真っ白にされた着物を着ている者だけを正しい者と認めてくださって、永遠の木の実を食べる権利を与えてくださり、天の御国の門をくぐることを許してくださるのであります。 このようにして神の子どもとされた者は、もはや死の恐怖に怯えることなく、苦しみや涙から完全に解放されて、天の都で神さまそして神の御子イエス様のお側近くで永遠に安らかな日々を過ごすことができるのであります。聖書に、 ヨハネの黙示録21:3
神さまのお住まいですが、 ヨハネの黙示録21:3-4
と書かれている通りであります。 聖書には私たちの想像をはるかに超えたすばらしい天の都の光景が詳しく記されておりますけれども、神の子どもとされた者は死んでからこのすばらしい天の都で神さま、そして御子イエス様のもとで永遠に喜びと平安の日々を過ごすのであります。 次に、お聞きになりたくないかもしれませんけれども、地獄のことをこれから少しお話ししたいと思います。 いったい地獄とはどんなところでありましょうか。またなぜ地獄があるのでありましょうか。 聖書には地獄とは神さまにさばかれた者が永遠の滅びの刑に服するところであると記されています。 生きている間に神さまを恐れず、神さまの愛を拒んで神さまに逆らい続けた者は神さまから見捨てられ、そして滅びの宣告を受けて、永遠の苦しみの刑に服さなければなりません。 聖書によればこの永遠の滅びの刑罰とは今申しましたように、神さまから見捨てられた者が火と硫黄の燃える池に投げ込まれて、永遠に苦しむという肉体の死よりもはるかに恐ろしいものであって、肉体の死を聖書では第一の死と言うのに対しまして、今申しました永遠の滅びの苦しみの刑、これを第二の死と言っております。 この恐ろしい刑罰を受ける者は先ほども申しましたように、神さまを恐れず、自分の罪を認めないで悔い改めないという人であります。 地獄は人間が考え出したもので、そのようなところは実際に存在しないと、あり得ないと考えておられる人はたくさんいらっしゃいます。 しかしながら万物の支配者である全き聖、完全に聖く正しい・・・ (テープ A面 → B面) ・・・その生ける神さまがおられる以上、この地獄というのは現前として実在しているのであります。 ある人は、聖書の神さまは愛の神と言われているのに、その神さまが人をさばいて地獄に送るというのはおかしいではないかと仰います。 けれども今も申しましたように、神さまは愛の方であると同時に、完全に聖く正しい方であります。ですから神さまはご自分が義である、正しいということをはっきりお示しになるために決して妥協はなさいません。 神さまの招きに耳を傾けずに、「神など必要ない。自分は悔い改めるような悪いことはしていない。」、そのようにあくまで言い張る者に地獄を設けて、さばきの刑を実行されるのであります。 こういうわけで、罪に汚れた人間が地獄の存在とその必要性を疑うのはまさに神さまを侮る者と言わざるを得ないのであります。 もし地獄がなければ神の御子イエス様はいったい何のためにわざわざ人となってこの世に来られて、十字架の上で死の苦しみを味わわれたのか。イエス様の尊いいのちによる罪の赦しの救いのみわざは、これは全く無意味なものになってしまいます。 しかしながらイエス様は、私たちを自分ではどうしようもない、自分では聖くすることもできない、その罪から救い出してくださるために自ら進んでご自分の尊いいのちを捨ててくださったのであります。 これまでごいっしょに私たち人間の死後の行き先である天国と地獄について、神さまのみことばである聖書から考えてまいりました。 その結果私たちの前には天国への道を選ぶか地獄への道を選ぶか、この二つに一つの選択しかないということがおわかりになったと思います。私たちはどちらを選ぶべきか。これらを自分自身に問わなければなりません。 もし天国への道をお選びになりたいのであれば、イエス様のところに行くほか道はありません。イエス様ご自身がこう仰っておられるからであります。 ヨハネの福音書14:6
すなわち天国、 ヨハネの福音書14:6
このように仰っておりますように、私たちが天国に行くためには自分の努力によってではなく、先ほど申しました宗教を信じること、この宗教の中にキリスト教ももちろん含まれております、宗教を信じるのでもなく、私たちを救うために十字架に架かってくださった神の御子イエス様という道を通る以外に、天国にはいる方法はないのであります。 そしてこの道を通ることができるのは、いわゆる立派な人、あるいは人格高潔な人である必要はない。むしろそういう人はなかなかはいれません。 そうではなくて、自分は良いことをしたくてもできないような無力な者である、みじめな者であるということを素直に認めて、聖い、正しい神さまの前にへりくだって、救いを求めた者だけであります。聖書に、 使徒の働き4:12
すなわちイエス様、 使徒の働き4:12
イエス様の御名、 使徒の働き4:12
と書かれておりますとおり、神の御子イエス様を信じて罪から救い出された者だけがイエス様という道を通って天国にはいることができるのであります。 イエス様を信じた者にはもうひとつ神さまからのすばらしい約束があります。それは信じる者のからだのよみがえり、復活ということであります。 イエス様を救い主と信じた者の霊、たましいはこの世のいのちが終わった瞬間に、もうその瞬間に天の御国に引き上げられます。ですから今、兄弟の霊は天国におられるわけです。 ではいったいからだはどうなるのか。からだはお墓の中に骨として永遠に納められなければならないのでしょうか。そうではないのです。 肉体の死もイエス様を信じることによって取り除かれます。イエス様は肉体のよみがえりをご自分の復活によって私たちに証明してくださり、ここに掲げてある掛け軸にありますように、 ヨハネの福音書11:25
という約束をしてくださいました。このイエス様のお約束どおり、イエス様を信じる者の肉体は、イエス様の復活のからだのように朽ちない、聖い、完全なからだによみがえります。 しかしながらいったいいつでしょうか。その時はいつなのでありましょうか。それは復活なさって、天にお戻りになったイエス様がご自分を信じる者を迎えに再び来られる、その時であります。 その時イエス様は天の御国でご自分の傍らに置かれていた、すでに天に召された信者ひとりひとり、兄弟もそうですが、その霊を連れて、空中まで降りて来られて、そして箱の中に納められていた遺骨を朽ちない、聖い、完全な肉体によみがえらせ、そして連れて来られた霊とひとつに合わせて、イエス様に似た完全な人として、もう決して死ぬこともない、障害もない、そういう完全な者として再び天に携え上げてくださるのであります。 聖書はこれについて次のように言っております。先ほどお読みいただいた聖書のみことばでありますけれども、 ピリピ人への手紙3:20
私たちイエス様を信じる者の国、 ピリピ人への手紙3:20-21
と、あるとおりであります。また次のようにも書かれております。 テサロニケ人への手紙第I、4:16
イエス・キリスト、 テサロニケ人への手紙第I、4:16
これはイエス様を信じた死者であります。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
その時にまだ生き残っている私たち信者、 テサロニケ人への手紙第I、4:17
イエス様、 テサロニケ人への手紙第I、4:17
と書かれております。こうしてイエス様を信じる者は、神の御子イエス様の尊いいのちの犠牲という大いなる救いのみわざによって、神さまに対する罪の報いとして私たち人間に科せられている、死という恐ろしい敵に完全に勝利し、永遠に神さまとともに生きる者となることができるのであります。 何というありがたくも、またすばらしい神さまの恵みでありましょうか。 兄弟は、先ほど司会の兄弟が仰ったように、ハンディを背負って人生を歩んで来られました。その間、どんなに苦しいこと、つらいことが多かったことかとお察しいたします。 しかしその多くの苦しい、つらい試練を奥さまの姉妹とともに、イエス様を素直に信じる信仰によって乗り越え、これまでの生涯を、召される日までずっとイエス様に信頼し、イエス様におゆだねになって生きて来られました。 さらに手術後、大変な苦しみの中にあっても、いつも天国への希望を抱いておられ、お見舞いに伺って筆談で天国のお話をしますと、いつも兄弟のお顔は輝いておられました。 その兄弟の純粋な信仰の姿勢を、深い愛を持って見守り続けておられたイエス様は、8月25日を定めの時として、兄弟の霊を兄弟のご希望どおり、天の御国に迎え入れてくださったのであります。こうして兄弟はイエス様を信じる信仰によって、恐ろしい死に超じて天国に凱旋されたのであります。 私が初めに、「兄弟の死を悲しむ必要はない。」と申しましたわけ、その理由は、まさにここにあるということがおわかりいただけたことと存じます。 みなさまもご承知のように、今日私たちは大変な世の中に置かれております。見ること、聞くこと全て異常であります。自分の身にいつ何が起きてもおかしくないような世の中であります。 そのような中にあって、私たちはいったい何に頼ったら安心なのでしょうか。いったい何が私たちを守ってくれるのでありましょうか。 お金でしょうか、健康でしょうか、政治や行政でしょうか、宗教でしょうか。 それらのものが私たちを保障してくれないことは、みなさま十分おわかりのことと存じます。 私たちが自分の全てをおゆだねすることができるお方は、私たちひとりひとりのためにご自身のいのちを犠牲にしてまで、私たちを愛してくださった神の御子イエス様ただおひとりだけであります。 兄弟はそのイエス様にご自分をおゆだねになり、その結果、目に見えるこの世のものによっては決して手にすることができないまことの幸せをご自分のものとされたのであります。 どうか本日ここにご列席されたみなさまも、兄弟のように、この幸せをご自分のものとしてイエス様を信じ、永遠のいのちにあずかる者となっていただきたいと心からお願いする次第であります。 天の御国に憩っておられる兄弟が、今もっとも望んでおられるのは、そのことであると信じるからであります。 |