傲慢の罪から守ってください


重田兄

(-、2003/11/25)

引用聖句:詩篇19篇13節-14節
13あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
14私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

今読んでいただきました、この詩篇の箇所、私にとって大変痛いみことばでもあるんですね。
少し前から火曜日の学びでベック兄は、信仰のリバイバル、すなわち、霊の覚醒につきまして連続してメッセージをしてくださっています。ひとつひとつが私たち信者の心を強く打ち、主に心の中を探っていただき、霊の目を覚ましていただくために、私たちにとっては本当に大切なメッセージであるということを痛感して感謝しております。

で、それらのメッセージの中に、信者の犯しやすい多くの罪の一つとして、傲慢の罪が挙げられておりました。私自身、自分の信仰を顧みまして、自分がいかに傲慢な罪を犯すことの多い者であるかということを、改めてここで強く思わされた次第であります。
そこで今日はご一緒に、この冒頭のみことばから、今読んでいただきましたこのみことばから、信じる者が犯しやすい傲慢の罪、言い換えますと、おごり高ぶりの罪についてご一緒に考えてみたいと思います。

私たちは普通威張っている人、自分を誇ってはばからない人、あるいは自惚れの強い人、横柄な態度の人、人を見下したり、軽蔑するような態度の人などを指しまして、「あの人は傲慢な人だ。あの人は高ぶっている。」というように批判いたします。
そのように私たちは「傲慢」というものを、その人の外に現われる言葉とか態度によって判断しております。しかしながら、傲慢な言葉や傲慢な態度が、もし私たちから見えなければ、私たちはその人が傲慢な人間かどうかということを知ることはできないんですね。

けれども表には傲慢な振る舞いを出さなくても、もし心の中で高ぶって、密かに自分を誇ったり、人を見下したり、さばいたりすればそれは同じように傲慢な人間であります。人の心の中まで見通される神さまの御前には、表に現われた傲慢であっても、表に現われない心の中に持っている傲慢であってもそれはすべて同じ傲慢なのであります。
しかしながら、傲慢はなぜ罪なのでありましょうか。このことは神さまのみことばであるところの聖書によってのみ知ることができます。

神さまがすべての被造物の中で特別に愛し、ご自分に似るものとしてお造りになった最初の人のアダムとエバは、蛇の姿をとったサタンにそそのかされて、神さまから食べてはならないと言われた木の実を食べてしまいました。
彼らがサタンの誘惑にのった原因というのはサタンから、「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる。」と言われた言葉にありました。

これは創世記3章の5節に出ておりますが、創造主であられる神さまと同じようになりたい、神さまのように善悪を知る者、すなわちすべてを判断できる者になりたいというアダムとエバの思い上がり。これこそが傲慢の罪、高ぶりの罪なのであります。
なぜならそれは、自分を神さまの地位に置くことであり、その結果として神さまを仰ぎ、神さまの仰せに従う、忠実に従うという神さまの創造物、被造物であるところの人間に与えられたこの本来の生き方、すなわち神中心に生きるのではなくて、神さまをないがしろにして自分を中心として、自分を誇り、自分の栄光を求める、そういうふうな生き方をしたいというふうになるからであります。
ダビデは次のように詩篇に書いております。

詩篇36:1
1罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

ここで言う悪者とは、神さまを無視し、自分中心に、自分の栄光を求めて生きる傲慢な人間のことであります。人間はすべてアダムとエバの子孫でありますから、すべての人間は生まれながらの肉の性質として、自分では気が付かなくても、この傲慢という性質を宿しておりますために、高ぶりの罪、高ぶりの罪を犯してしまう。そのような愚かな者なのであります。
そしてこのような生まれつきの傲慢な性質のために、それが思いとして、あるいは、言葉や態度、また行動の上に出て来るのであります。けれども、愛とあわれみに満ち給う神さまは、この傲慢で愚かな人間をもお見捨てにならずに、なお、愛してくださって、悔い改めてご自分に立ち返るようにと預言者を通して何回も呼びかけてくださいました。
例えば、神さまは預言者のイザヤを通して次のように言えと仰せになりました。

イザヤ書57:15-17
15いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
16わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。
17彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。

顔を隠して怒ったと仰っているのは、非常に激しい神さまの怒りを表わしております。

イザヤ書57:17
17しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道

自分の思う道とは言うまでもなく、神さまに逆らって自分の考えを正しいとして、生きることを意味しております。

イザヤ書57:17-18
17を行った。
18わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。

彼の罪を赦そう。

イザヤ書57:18
18わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちと

その罪を悲しむ者たちのことでしょうが。

イザヤ書57:18
18とに、慰めを報いよう。

このように、神さまは預言者たちの口を通してご自分に立ち返るようにくり返し私たちに呼びかけてくださったのであります。
そして、その神さまの呼びかけにも耳を傾けず、相変わらず傲慢な罪を重ね続けている人間を立ち返らせるために、神さまはついにご自分のひとり子イエス様を私たちの罪を贖う代価としてこの世にお遣わしになったのであります。
父なる神さまの御心に従って、この世に人の子としてお生まれになったイエス様ご自身が、ご自分がこの世においでになった目的を次のように仰いました。

マルコの福音書10:45
45人の子が来たのも、

人の子というのは、イエス様ご自身がよくご自分を指して人の子と仰って、神の子が人の子となったという意味でありますが、

マルコの福音書10:45
45仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

このように、イエス様はご自分が神の御子として私たち人間に仕えられる立場のお方でありながら、神さまにそむき、おごり高ぶって、自分の思いを正しいとして生きている傲慢な私たち人間の罪の代価をご自分のいのちをもって支払ってくださるために、身を低くして、私たちに仕えるお姿となって、この汚れた世においでになったのであります。
これこそ傲慢の対極にある謙遜の極みであります。

そしてこの御子イエス様の犠牲の、大きな犠牲のみわざの前に自我が砕かれて、神さまに対する罪が示され、心から悔い改めて、イエス様を自分の救い主と信じ受け入れた者はだれでも、この罪が赦されるのみならず、イエス様の永遠のいのちをいただいて、神の子どもとされる特権が与えられるという私たちの考えをはるかに超えた恵みをお与えになってくださったのであります。ヨハネの福音書1章の12節にそのことが書いてございます。

ヨハネの福音書1:12
12この方を受け入れた人々、すなわち、

神のことばとして世に来られて御子イエス様を受け入れた人々は

ヨハネの福音書1:12
12その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

では、イエス様を信じる信仰によってこの神さまの大きな恵みとして神の子どもとされる特権を与えられた私たち信者、キリスト者はもう、傲慢な思いやおごり高ぶる思いを持つことはなくなったかと言えば、悲しいことにそうではないのであります。
おひとりおひとり自分を吟味して見られたときに、「そんなことはない。」と、「私はおごり高ぶり、傲慢な思いなんか決して持ってはいません。」と、「もうイエス様が全部取り去ってくださったから私はそんな思いはありません。」と言い切れるかというと、なかなかそう仰れる方はおられないと思うんですね。

なぜか。それはキリスト者はイエス様が十字架の上で流された聖い血潮によって霊はその瞬間に聖められますけれども、この世におかれている、私たちがこの世におかれている間は、私たちはまだ不完全な肉の衣をまとっておりますから、その肉の衣のゆえに、肉の思いである自我というものが完全に砕かれきっていないからであります。
ですから恵みによって神の子どもとされていながら、しばしばこの肉に属する思いというのが顔を出して、そのために傲慢な思いや態度が起こってきてしまうのであります。
イエス様は自分を義人と誇り、他の人々を見下している信者を宮で祈ったパリサイ人のたとえによって、厳しく非難しておられます。

お読みしませんが、ルカの福音書の18章の9節から14節にこのパリサイ人と取税人の例えが出ております。
パリサイ人は傍らで祈っている取税人と比べて、自分がいかに神の掟である律法を正しく守り行なっているかということを誇らしげに神さまに祈りました。しかしながら、このパリサイ人が心から律法を守っているのではなくて、ただ形だけ、ただ上辺だけのもの、すなわち言い換えますと、御霊に導かれた守り方ではない。
行ないではないということをご存知の神さまは、イエス様は、この例えを通して、私たち信者の傲慢さを厳しく指摘しておられるのであります。

また弟子たちは、自分たちの中でだれが一番偉いかということで論争しております。そのときイエス様は、「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」と諭されております。これも、お読みしませんが、ルカの福音書の9章の46節から48節にでております。
この二つの例は、私たち信仰者がとかく陥りやすい傲慢の罪をよく表わしていると言えると思います。私たちが自分自身を振り返って顧みたとき、自分の信仰を、主にある兄弟姉妹と比べてみて、密かに自分の信仰は立派だと、自分の信仰のほうが優れてるというふうに誇ったり、あるいはそれによって兄弟姉妹をさばくというような傲慢の罪を犯してはいないでありましょうか。
心の中まで見通される主の前で、そんなことは決して今まで一度もしなかった。と私たちは言い切れるでありましょうか。箴言には次のようなみことばがあります。

箴言16:5
5主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。

心おごる者っていうのは傲慢な罪を犯している者。おごり高ぶっている者でありますが、

箴言16:5
5確かに、この者は罰を免れない。

このように箴言に書かれております。そしてイエス様も私たちに次のように仰っております。

マタイの福音書7:1-4
1さばいてはいけません。さばかれないためです。
2あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
3また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
4兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

キリスト者の傲慢は、まだイエス様を信じておられない方に対しても、また主にある兄弟姉妹に対しても、イエス様のかおりを放つどころか、それとは反対に、つまずきを与えてしまう大きな罪であります。
ですから、それでは私たちは今申しました通り良き管どころか、その管に傲慢の罪が詰まってしまっているわけですから、主がお用いになれないのは当然であります。

また傲慢は、信者の信仰の成長を妨げます。イエス様は私たち信者を、信じた当初のままの状態、すなわち信仰の赤子のままにおいて、よしとはなさいません。信者が霊的に成長して、大人になるのを求めて、成人になるのを求めておられます。
なぜならば、信者が霊的に成長していなければご自分の手足として、ご自分の器としてお用いになれないからであります。
パウロはコリントの教会の信者に対して次のように言っております。

コリント人への手紙第I、3:1-3
1さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
2私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

このように言っております。御霊に属しているということは、御霊のご支配のもとにあるということであります。肉に属しているとは、肉の支配下にあるということです。
このことについてパウロは、今度はローマの信者に対してローマ人への手紙8章13節で次のように警告しております。

ローマ人への手紙8:13
13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

ここに、肉にあって生きるなら死ぬとありますが、これはどういうことかと言いますと、肉の思いに従って生きるならば、御霊が働くことができないから、そのような信者の霊は死んだも同様であるということであります。
私たちは死んだような信者にはなりたくありません。イエス様のために生きたい。イエス様のために働きたいと心から願う者であります。けれどもそのためには御霊によってからだの行ないを殺さなければ、すなわち、私たちの傲慢な性質を意識して捨てることができるように、いつも自分の思いを主に明け渡して祈り願わなければならないのであります。
なぜなら、このような生まれながらの罪の性質は自分の力では到底変えることはできないんですね。イエス様によって変えていただく以外には方法がないからであります。

パウロはかつて、天国に引き上げられるという、だれも経験したことがないすばらしい霊的な体験をいたしました。しかし彼はそれを誇ることがないように、傲慢になることがないようにと肉体に棘、すなわち、病という苦痛が与えられました。
パウロはそれについて次のように言っております。

コリント人への手紙第II、12:7-9
7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

このように、イエス様は信者をご自分のしもべとして、ご自分の器として用いようとなさるときには、高ぶることのないように、神さまの御前に無に等しい者であるということを悟らせるために様々な試練をお与えになって、自我をお砕きになるのであります。
自我が砕かれるというのは私たちの肉にとっては大変な苦痛であります。

けれどもイエス様はそれが主のしもべとしての器に整えられるために必要であると同時に、より深く主の御心を知り、より主に親しく交わることができるように、その試練をお与えになるんですね。
それを通して、試練を通して、私たちに主の御心を示してくださるのであります。

ペテロの手紙第I、1:7
7信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

このようにみことばにあるとおりであります。今日は、キリスト者が犯しやすい傲慢の罪について、ご一緒に考えてまいりました。主のご再臨が近い今、私たちは主のしもべとして、主のかおりを放つ器として、主に用いていただきたいと切に願う者であります。
そしてそのために、主に心の中を調べていただいて、傲慢が砕かれて、自分を主に明け渡すことができるように、始めに読んでいただいた詩篇の19篇のダビデのように、あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんようにというふうに、主の御前にへりくだって、心から祈りながら信仰の歩みをすすめていきたいと切に願う次第であります。
最後にみことばをお読みして終わります。

イザヤ書66:2
2わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

どうもありがとうございました。




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