引用聖句:コリント人への手紙第II、11章2節-3節
今日は、はからずも、頭の髪の毛の数がだいたい同じくらい程度の兄弟3人によって、学びをさせていただくことは大変不思議なことでございます。 今、兄弟に読んでいただきましたこの聖書の箇所は、パウロがコリントの教会の信者に宛てた手紙の中の一節であります。これは、キリストと教会の関係を指しているのと同時に、キリストのみからだなる教会を構成しているひとりひとりの信者と主イエス様との関係を思って、彼が言っているわけであります。 パウロはエペソ人への手紙の5章22節から27節、29節から32節でも、これと同様のことをさらに詳しく解き明かしております。 エペソ人への手紙5:22-27、29-32
このように聖書では、教会と信者との関係を、花婿がキリストであり、花嫁が信者という関係に、あるいはキリストが夫であり、信者が妻であるという夫婦にたとえられております。 人と人との交わりの中で、最も親密なものは夫婦でありましょう。したがって、信者がキリストの花嫁にたとえられているということは、信者が主イエス様との最も親しい、人格的な交わりの対象として選ばれているということであります。 しかしながら私たち信者は、いったいそれにふさわしい者でありましょうか。そうではなくて、私たちは長い間、偶像に、また自分の欲に仕えていたような、霊的に汚れ果てて死んだ者であったと告白せざるを得ません。 エペソ人への手紙2:1-3
とある通りであります。 しかし、そのような私たちを主は花嫁として、救いの対象に選んでくださり、愛とあわれみをいただき、霊の目が開かれ、神様に対する不従順の罪が示されて、神様の前に心から悔い改めることができました。 その結果、私たちは、十字架の上で流されたイエス様の聖い血潮によって、汚れた罪が洗い清められ、イエス様のよみがえりの命も与えられて、イエス様と共に霊的に新しく生きる者とされるという、考えられないような恵みをいただいたのであります。 エペソ人への手紙2:4-6
このようにイエス様は、ご自分の命を捨ててまで私たちを愛してくださって、罪の中に死んでいた私たちをご自分の命によって、霊的に新しく生まれ変わらせて、最も親しい交わりの関係を結んでくださったのであります。 そして、その私たちに、イザヤ書54章10節にありますように、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」というように、どんなことがあっても、わたしの愛は変わらないとイエス様は、約束してくださっておられるのです。 ではイエス様のこのような大きな深いご愛によって、花嫁とされ妻とされた私たち信者は、はたしてイエス様の良き妻、良き花嫁でありましょうか。 自分の信仰を吟味した時に、誰ひとりとして「はい」と答えることはできないのではないでしょうか。 私たちは、相変わらず弱い者であります。 悪の誘惑には、心では夫であるイエス様に従いたいと思ってはいても、つい弱さに負けて誘惑に負けて、罪を犯してしまうことを認めざるを得ないのではないでしょうか。 ローマ人への手紙7:18
この善というのは神様の御心に従うこと、 ローマ人への手紙7:18-19
神様の御心に従わないこと、 ローマ人への手紙7:19、21-23
自我と言ってもいいと思います、 ローマ人への手紙7:23-24
このようにパウロは嘆いておりますけれども、これは私たち信者の嘆きでもあります。けれども、私たちの霊が死んでいた時は、このようなことで、苦しみ悩むことすらなかったということも言えると思うのですね。その時は、私たちは何が悪かということも解からなかった。 従いまして、悪をしたくないという思いすら、当時は浮かんでこなかったのではないでしょうか。しかしながら、十字架の上で流された血によって清められ、生まれ変わった私たちの霊は、何が善か何が悪かを見分けることができるようになりました。 そして、悪に誘惑されたと気づいた時にも、夫であるイエス様に助けを求めれば、すぐに助け出してくださるという確信を与えられて、そのように導いてくださるイエス様に心から感謝することができるようになったのではないでしょうか。 先ほど、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆いたパウロがすぐそれに続いて、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と感謝しているとおりではないかと思います。 夫であるイエス様は、妻である信者が、弱く愚かであることを、ただお責めにはなりません。それはこの世に置かれている間、私たち信者がなお不完全な弱い肉の体を持っていることを、主はよくご存知だからであります。 しかし、夫である主が、妻である私たち信者に求めておられることがあります。それはご自分に対する真実さ、誠実さ、真実な心であります。詩篇51編6節に「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。」とあるとおりであります。イエス様は、真実そのもののお方であります。 テモテへの手紙第II、2:13
主イエス様は、 テモテへの手紙第II、2:13
コリント人への手紙第II、1:19
常に変わらない真実なお方、それがイエス様であります。 そのイエス様に対して、妻である信者は、不誠実であってはなりません。不真実であってはなりません。裏表があってはなりません。偽善があってはなりません。うわべだけの善行、口先だけの祈りをするような者であってはならないと思います。 イエス様は、私たち信者に次のように仰っておられます。 マタイの福音書6:1-2、5-6
またイエス様は次のようにも仰っております。 マタイの福音書6:24
夫であるイエス様は、妻である私たち信者にこのように仰っているにもかかわらず、裏表を使い分けしても、イエス様とこの世という二人の夫に仕えても、心に何の痛みをも感じないとすれば、それは夫イエス様に対して、真実な心を失っている証拠であり、夫イエス様に対して、貞潔を失っている証拠であります。 イエス様は、そのような不真実な妻、貞潔を失った妻である信者に対して、「人の子よ。いつまでわたしの栄光を辱め、空しいものを愛し、まやかし物を慕い求めるのか」と嘆かれるのであります。 これは詩篇4篇2節にあります。 ずいぶん前になりますけれども、大学病院に入院しておられた一人の老齢の兄弟をお見舞いしたことがあります。この兄弟はすでに天に召されましたけれども、その兄弟が次のようなことを私に話してくださいました。 「自分は若い頃から、父に福音を伝えられていたにもかかわらず、イエス様に対してずっと偽善者であった。主に仕えるふりをして、この世のものを追い求め続けていた。自分は本当に偽善者であった。」とこのように告白をされました。 そして続けて「これから自分がしたい事はただ一つ、主の前に幼子のようになりたいということだけだ。」ということを仰いました。 私はこの時、この兄弟の姿にルカの福音書18章13節にしるされている取税人が胸をたたいて、「神様こんな罪人の私をあわれんでください。」と天を見上げようともしないで、胸をたたいて祈った姿を、そしてまた、同じくルカの福音書15章18節にしるされている、放蕩息子が「お父さん、私は天に対し罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言った姿を重ね合わせたことを思いだしました。 この兄弟の姿こそ、イエス様の花嫁にふさわしく、整えられた姿ではないでしょうか。 ホセア書14:1-3
この兄弟は、病気を通して心が砕かれ、悔い改めて、夫イエス様に立ち返ることができ、イエス様に対する誠実さ、真実な心を回復することができたのだと思います。 主は、真実をもって私たち信者を愛してくださいます。そして主は、私たち信者にも真実な心でご自分を愛することを求めておられます。 私たち信者は、自我の思いが砕かれ、御霊によって強められ、清められて、その主イエス様に「はい。私はあなたを心から愛しています。」といつも答えられるような真実と貞潔をもって、夫であるイエス様にお従いできる花嫁、良き妻にしていただけるように、心から祈るしだいであります。 また世の終わりの間近い今の時にあって、主のみからだなる教会を構成する兄弟姉妹、おひとりおひとりがサタンの悪だくみに惑わされることなく、御霊に満たされ清められることによって、私たちの集会がキリストの花嫁にふさわしく整えられて、まもなくおいでになる花婿イエス様を喜んでお迎えし、天に上げていただくことができるように、そして清く傷のないものとなった集会によって、主のご栄光が輝かされるように、ご一緒にこれからも祈っていきたいと切に思うしだいであります。 どうもありがとうございました。 |