引用聖句:詩篇90篇12節
司会の兄弟に読んでいただきました聖書の個所から今日は、自分の日を正しく数えるということにつきまして、ごいっしょに考えていきたいと思います。 自分の日とは自分の人生に残された時間、言い換えますと、この世に残されている自分の命のことであります。では、自分の人生に残された時間を正しく数えるということは、一体どういうことなのでありましょうか。 これに関してずっと前に読んだアメリカ医師会雑誌、これは大変権威のあるアメリカの医師会の会員すべてに毎月送られる、これは全世界に送られておりますけれども、そういうジャーナルなのですけれども、そのある巻に次のようなエッセイが載っておりました。 そのことをまずご紹介したいと思いますが、それは74歳の医者が書いたものであります。次のような内容であります。エッセイですから、大変砕いた調子で書いてありますが。 「私は80歳の友人2人と」、これも医者の友人のようですが、「レストランに行く途中で、車の中で話をしているうちに、どうしたら楽に死ねるかという話題になった。 私は考えた。私はこの友人たちと違って酒も飲まないし、タバコも吸わない。血圧も正常だし、コレステロールの値も高くはない。だから心筋梗塞や脳梗塞で死ぬことはなさそうである。 すると私の死ぬ病気は何か考えると、苦痛が長く続く癌しか考えられない。これは大変である。友人たちが羨ましい。」 この二人の友人は、どうもタバコも酒も飲んで、血圧も高いし、コレステロールも高い人らしいのですが、その彼らが羨ましい。 「そこで私は自分の運命にもっと積極的に介入する決心をした。どういう決心をしたか。 レストランの席についてメニューに目を通し、ウェイターに一番厚いレアのローストビーフを注文し、山盛りのフレンチフライを添えてもらった。 また、これまでブラックで飲んでいたコーヒーに砂糖と生クリームをたっぷり入れた。そしてウェイターに言った。『すまないがバターをたくさんこっちに回してくれないか。』」 こういう内容のエッセイなのです。この年老いた医者は半ばやけっぱちで、いっそ苦痛の長く続く癌になるくらいなら、ダイエットなんかもやめてしまって、コレステロールも血圧も高くして、苦しみの時間が短くて済む病気で死ぬ道を選ぼうと考えたのであります。 彼はこれからも癌と死の恐怖におののきながら、いつまで生きていられるかと心配しながらこの世を生きていかなければならない、大変気の毒な医者であります。 さて、この医者は自分に残された命の日数を正しく数えていると言えるでありましょうか。 いつ、どんな病気で死ぬかとビクビクしながら毎日生きているような人間が、どうして自分に残された命の日数を正しく数えていると言えましょう。 しかしながら、自分に残された命の日数を正しく数えられなければ、だれでもこの医者に似た思いを持つのではないでしょうか。 でははたして私たち人間は、自分に残されたこの世の命の日数がどれくらいかを自分で予知することがいったい出来るでありましょうか。もうこれはみなさんご存知のように、それは出来ないのであります。 日本人の平均余命は大変長くなりまして、今、世界一であります。世界最長になりました。男性が79年、女性は85年を超えております。けれどもこれはあくまでも統計的な予測値でありまして、個々の人々に当てはめることは出来ません。 医者なら、ある人の命があとどれくらいか調べることは出来るのでしょうか。例えば、癌と診断された人が医者から「あなたの命はあと半年です。」と言い渡されましても、その通りにならなかった例がたくさんあるということを私たちは知っております。 このように、ある人の命があとどれくらいかということは、人間だれにも予知は出来ないのであります。ただ神様だけがその人の命をお決めになることがおできになります。 詩篇の90篇3節に、次のように書かれております。 詩篇90:3
神様は 詩篇90:3
神様が私たち人間に「人の子らよ、帰れ。」と仰ったその時が、私たちがこの世を去る時なのであります。 ですから、もし私たちがもっとこの世に生きていたいといくら望んでも、あるいはそれと反対に、早くこの世を去りたいといくら願っても、神様の定められた時が来なければ、この世を去ることは出来ないのであります。 世界一の知恵者と言われたソロモン王は聖書の中で次のように言っております。これもよく知られている個所でありますが、伝道者の書の3章の1節、2節。 伝道者の書3:1-2
このようにソロモンは言っております。この時というのは、神様に定められた時という意味であります。すなわち、私たちのこの世の命は神様によって定められているのであって、人間が決めることではないのであります。 医学の大きな目標は、人間の命をいかに長くするかということでありますけれども、そのために老化というものがどうして起こるかという研究が進んでおります。 しかしながらそれらの研究から、今日多くの研究者は、老化は人間の力では制御できないというふうに考え始めております。 その根拠というのは、老化というのは遺伝子の中に時間のプログラム、分かりやすく申しますと、一種の時限装置が遺伝子の中に組み込まれておりますために起こってくる。 そして生まれたときからその時限装置が始動し始める。ですからこれは人間の力ではそれを止めたり、あるいは元に戻すことはできないというのであります。 聖書には、人間のこの世の命の上限がはっきりと記されております。120年というふうにはっきりと記されております。その個所は創世記6章の3節。 創世記6:3
主なる神様は、 創世記6:3
こうして神様は、人間のこの世の命はどんなに長生きをしても120年までとされたのであります。 ここに、人が肉にすぎない、と書かれておりますけれども、これは神様の仰せに背いた結果、神様からいただいた、人間だけにいただいたこの霊、いのちの息として、神のいのちの息として人間に吹き込まれたこの霊が、神様の仰せを背いたその罪によって死んだようになってしまった。これはアダムです。 しかしそれはアダムだけではなくて、その子孫であるすべての人間にこれが当てはまりますけれども。そのようにすべての人間が神様に背いたために、せっかく神様からいただいた霊が衰えて、正しく働かなくなってしまった。 その結果、肉の思いだけで生きている。こういうすべての人間を指して、人は肉にすぎないとここにあるのです。 肉にすぎない人間というのは、われわれすべての人間がそうですが、どんなに環境を良くしても、あるいは、どんなに食べ物、栄養を理想的なものにしても、今までの長い人間の歴史の中で罪を犯した結果、私たちの知る限り、この記録に残っている限り、120年生きた人はおりません。 この頃、色々世界記録ということで何歳まで生きた人というのがよくテレビにも出ますけれども、120歳以上の人はいないのです。これは老化という、先ほど申しました時限装置が神様によって設定されているためであります。 ですから、そして神様はさらに細かく、細かくひとりひとりの命の時限装置をも設定されておられる。100歳まで生きる人もあれば、生まれてすぐに死ぬ赤ちゃんもいます。神様がその人の命を決めておられる。 ですから私たち人間は自分の力で生きていると思ったり、あるいは、その進歩した医学に頼って医者が、医学が命を延ばしてくれるというふうに思いがちですけれども、それはまったくの間違いであります。 実は神様によってひとりひとりが生かされているのであります。そして神様が定められた時が来なければ、だれも死ぬことはできないのであります。 そのようにして神様によって造られ、神様によって生かされている私たちのこの世の命をいったいどのように使ったら、それが正しい、良い生き方になるのか。 あるいは、どのように生きるのが正しくない生き方なのかということを知ることが、最初に読んでいただきましたみことばの自分の命の日数を正しく数えるということの意味であります。 自分に与えられた命なら、これは自分のものなのだから、自由に使っても良いではないか、というふうに考える方も多いと思います。 しかし、神様によって生かされているこの世の命を、自分の楽しみを追い求めるために使うということが、あるいは自分の欲望を満たすために使うということがはたして自分の命を正しく数えることになるのかどうか、ここでもう一度よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。 前にもご紹介したソロモンはまた次のようにも言っております。伝道者の書の11章の8節、9節。 伝道者の書11:8-9
ここからが彼の言いたいところです。 伝道者の書11:9
ここに私たちに与えられたこの世の命を自分のために、自分の目的のために使う者に対する神様の警告が示されております。 では、自分に残された時間を正しく数えるという生き方というのは、いったいどんな生き方なのでありましょうか。そのことを考えるにはまず、人間が生きるということは何か。人間が生きるのと動物が生きるのとはどう違うかということを知っておく必要があります。 その違いは聖書にはっきりと記されております。 聖書は、人間のいのちは、天地万物の創造主にして支配者であられる生けるまことの神様によって造られた、というふうに記しております。創世記1章26節。大変有名な個所でありますが、ここに、 創世記1:26
と仰せられたとあります。同じく創世記の少しあと、 創世記2:7
とあります。この二つのみことばから言えることは、第一に、神様は人間をわれわれという複数になっておりますが、複数形であるのは神様と御子イエス様を指しております。 すなわち、神様と御子イエス様に似る者として私たち人間をお造りになったということがほかの動物とまったく違う点であります。 第二に、ご自分との等しい交わりができるように、私たち人間だけにいのちの息、すなわち霊を入れてくださったという点であります。 これが今申しましたように、ほかの動物とまったく違う点なのであります。これによっていかに神様が私たちを特別な被造物として愛しておられるかが分かるのであります。 このように、私たち人間を愛してくださる神様に、私たちが心から信頼して、おゆだねして従うときにこそ、神様に造られた、神様に似る者として造られた、神様のいのちの息を吹き入れてくださったその人間の本当の幸せがあるのでありまして、人間の生きる意味というのはここにあるのであります。 神様が最初に造られた人間のアダム、そしてその妻エバも初めはエデンの園で神様に愛された幸せの日々を過ごしておりました。 そしてそのときのアダムとエバのいのちには死は無かったのであります。 ところがそのアダムとエバが、「この木の実を食べれば神のように賢くなれる。」というサタンの誘惑にかかって、神のように賢くなりたいという欲望に負けてしまい、神様から「この木の実だけは食べてはならない。食べるとかならず死ぬ。」と言われた、その戒めを破るという大きな罪を犯してしまいました。 神様はなぜ人間にこの木の実を食べることを禁じられたのでありましょうか。 それは人間が神様のように賢くなれば、自分を神と錯覚しておごり高ぶり、創造主でありすべての主権者である神様を無視してわがまま勝手に生き、その結果、神様がお造りになった調和の取れた美しい世界を破壊して、ついには人間自身をも破滅するということを知っておられたからであります。 まさに現在の世界がその通りになっていることはご承知の通りだと思います。 人間はただ神様のみもとで、神様の仰せに従ってさえいれば、神様は喜んで人間を守ってくださるのであり、それが人間にとって最も幸せなことなのであります。 しかしアダムとエバは神様の仰せに背いてしまいました。これが原罪という罪であります。その結果、神様は彼らをエデンの園から追放され、約束どおり彼らのいのちに死が与えられたのであります。神様はご自分の戒めに背いたアダムに次のように仰せになりました。 創世記3:17
これはサタンのいざないに乗った妻エバの声 創世記3:17
創世記3:19
これはしかしアダムとエバだけの問題ではありませんでした。 パウロはローマ人への手紙において次のように言っております。 ローマ人への手紙5:12
すなわちアダム ローマ人への手紙5:12
このようにアダムの罪の性質を受け継いだすべての人間は、生まれながらに神様を第一として生きるのではなくて、自分の欲するままに生きるという罪を犯すようになってしまいました。 神様から離れた人間はその報いとして人生の間に生じる様々な労苦を味わわなければならず、また人間がもっとも恐れる死をも味わわなければならなくなったのであります。 人間の不幸の源はこの生まれながらに神様に対する背きの罪、先ほど申しました原罪にあるのであります。 しかしながら、そのような私たち人間を神様はなおも愛し、あわれんでくださっている。 私たちの力ではどうすることもできない、この神様に対する背きの罪をご自分のひとり子の神、御子に身代わりに負わせて十字架に架けられるために、人としてこの汚れた世にお遣わしになって、私たちの罪を救い出し、そしてさらにそのみわざを信じる者に永遠のいのちをもお与えになるために、この御子を死からよみがえらせてくださったのであります。 その神の御子こそがイエス・キリストであります。 そして私たち人間が、御子イエス様の十字架による救いのみわざを、自分の罪のためであったと心から悔い改めて信じ、受け入れたときに、神様は私たちの罪をイエス様の十字架の上での贖いのみわざのゆえに完全に赦してくださるばかりか、さらにイエス様のよみがえりの永遠のいのちをも与えてくださるのであります。 本当に何という神様の大きな愛とあわれみでありましょうか。 これについて聖書ははっきりと次のように記しております。ヨハネの福音書3章16節。よく読まれる個所であります。 ヨハネの福音書3:16
世というのは、このやみの世に住んでいる人間ひとりひとりを愛された。 ヨハネの福音書3:16
そのように記されておりますし、イエス様ご自身も次のように約束してくださっています。 ヨハネの福音書6:47
これはわたしを、イエス様を信じる者 ヨハネの福音書6:47
イエス様ご自身の約束であります。 かつてイエス様に敵対して、イエス様を信じる者を迫害しておりましたパウロ。彼は復活されたイエス様に出会って、目が開かれ、自分の罪を示され、一転してイエス様に従う者に生まれ変わりました。 そのパウロはイエス様を信じた者がどうして新しいいのちに生きるようになることができるか。 その理由について次のようにローマ人への手紙で説き明かしをしております。 ローマ人への手紙6:4
私たちイエス様を信じる者は、 ローマ人への手紙6:4
これはイエス様、イエス・キリストのよみがえりのいのち ローマ人への手紙6:4-6
すなわち、かつて罪に支配されていた自分 ローマ人への手紙6:6-8
このようにパウロは言っております。そして、この彼の言葉は次のようにパウロ自身の信仰の確信として証しをされております。 ガラテヤ人への手紙の2章20節。これも大変よく引用される個所でありますが、パウロは、これは自分自身の信仰の確信なのです。 ガラテヤ人への手紙2:20
このパウロのように、自分のために、私自身のために十字架の上で死んでくださったほどに私を愛してくださったそのイエス様のために、そのイエス様に喜んでいただくために、地上に残されたいのちを生きる。これこそが人間の正しい本当の生き方なのであります。 そしてこのような知恵を与えられた人の人生は、本当の喜びにここで満たされるのであります。 イエス様はこういうような本当の喜びに満ちた人生を送ることができるように、すべての人に「わたしに求めなさい。」と仰っておられるのです。 ヨハネの福音書16:24
ここで最初のみことば、読んでいただきましたみことばの少し前にさかのぼったところからお読みしたいと思います。 詩篇90:10-11
あなたというのは言うまでもなく万物の創造者にして支配者であり、そして生きる唯一のまことの神様であるそのあなた 詩篇90:11-12
生まれながらの人間はどんなに知恵を絞って考えても、自分に残されたこの世の命の日数を正しく数えることも、そしてまた、まことの知恵の心を持つことも出来ません。 もし私たちが神様によって生かされている、この自分のこの世の命を自分の肉の望むままに使い続けるならば、ここにありますように最後にはその人の上に神様の激しい怒りが、さばきが下ります。 ですから、その日が来る前に一日でも早く神様の前に、御前にへりくだって、どうか自分に残された命の日数を正しく数えることを教えてください。 そして、「私に知恵の心を得させてください。」と心から祈り求める必要があります。 神様は必ずその祈りに応えてくださり、御霊によって知恵を与えてくださり、御子イエス様を信じて、イエス様のものとされ、自分に関わるすべてのことをイエス様におゆだねして、イエス様とともに歩むことこそが自分に残された命の日数を正しく数えることであるということを私たちの霊に教えてくださいます。 どうかひとりでも多くの方がイエス様を救い主と信じ受け入れられて、残されたご自分の命の日数を正しく数えながら人生を歩む幸せを、幸いを得られますようにと心からお祈りする次第であります。 どうもありがとうございました。 |