引用聖句:ルカの福音書9章23節
今日は、私たち信者の信仰を妨げる最も大きなものは自分であるということにつきまして、ご一緒に考えてみたいと思います。 私たちは、イエス様を主と信じた時に、自分の知恵や意思によって、あるいは自分の判断によって信じたのでありましょうか。 そうではなくて、様々な人生の嵐、例えば重い病気やあるいは辛い仕事や、あるいは人間関係、そういうものと自分が戦って、その挙句に自分の無力さとか愚かさとかを思い知らされまして、その結果疲れ果てて、イエス様が呼びかけである「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、このみことばに答えて、主の御許に行って、主の差し出された御手にすがって、そしてイエス様を救い主と信じて救われたのではないかと、これは皆様がそうではないかと思います。 救われた時に、私たちはもうこれからは自分に頼らない、自分のために十字架に架かって死んでくださったほどに、愛してくださったイエス様だけに信頼して、そのイエス様だけに従って生きようと決心したのではないでしょうか。 パウロは、ローマ人への手紙の中で次のように言っております。 ローマ人への手紙6:6-8
このように言っております。古い人とは、救われる前の自分であります。救われる前の古い自分は、イエス様とともに十字架に架かって死んで、そして罪のからだから解放されたのだから、これからはよみがえられたイエス様とともに、新しく生きると信じようではないかと、このようにパウロは言っております。 このように信仰生活とは、生けるまことの神様、そしてその神の御子のイエス様を主と信じ、救われる前のように自分の力に頼って生きるのではなくて、それからの人生を主にのみ信頼し、すべてを主に委ねて御心に従って歩むこと、これが救われた者の生き方ではないでしょうか。 しかし、イエス様は、先ほど読んでいただいたみことばのように仰いました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」どうしてイエス様は、このようなことを弟子たちに、そしてイエス様を信じる私たちに仰っているのでありましょうか。 私たちは、主を信じた時に、すでに自分が信頼できない、自分自身を信頼できないこと、自分の力は全く頼りにならないことが、痛いほど解かったはずであります。ですから、私たちはイエス様とともに十字架に架かった時に、古い自分、すなわち自我と決別したのではないでしょうか。 ところが、現実には私たちはそう簡単に自分を捨てることができないのであります。なぜでしょうか。それは、信じた後も私たちがこの地上に置かれている間は、霊は主を信じた瞬間に新しくされても、からだの方は前の状態のままなので、そのからだに古い自分、自我が生き残っているからであります。イエス様は、その事をよーくご存知なので、このように仰ったのです。 ですから、私たちが本当にイエス様にお従いするためには、この自分のからだに残っている古い自分、自我を意識的に捨てなければならないのであります。主に信頼し、主に従う信仰の妨げとなるのは、まさにこの古い自分だからなのであります。 しかし、そのことをいったい私たちはどれほど真剣に心を痛めているのでありましょうか。自分を捨てずに信仰生活を過ごしていても、それが自我による自力の信仰であり、そのような信仰は御心にかなわないということに、気づいていない信者がいかに多いことでありましょうか。 ここで聖書から、自分の力、自分の知恵に信頼した結果、不信仰を招いた例をご一緒に見てみたいと思います。 まず、ヨブであります。ヨブは、自分が優れた指導者として、また義人としてその力を発揮して、人々に尊敬されていることを、人だけではなく自分自身もそれを認めておりました。彼自身、次のように言っていることからも解かります。 ヨブ記29:11-17
このように、自分がいかに貧しい者、弱り果てた悩んでいる者の見方であり、支えとなっていたか、そのことを自分自身もこのように認めて、ある意味で誇っていたのですね、自分の義を。ところが、彼はサタンの挑戦によって、神の許したもう試練に会いました。 その結果、家族や財産すべてを失い、彼自身も大変な苦痛を伴う皮膚病にかかってしまいました。 それでもなお、彼は自分の力による義を主張して、とうとう神様に対して大変不遜なことを言ってしまったのですね。 ヨブ記31:4-6
このような主を恐れぬ不遜なことを言ってしまったのであります。 しかし、神様はそのヨブをあわれまれて、ヨブに直接お語りになりました。神ご自身が、いかに偉大な主権者であるかを、創造の御業とすべての被造物を、その御手にすべ治められるというその力によって、お示しになったのであります。 ヨブ記40:8
このように、神様は彼に、無条件で主の御前にひれ伏すようにと求められたのであります。 自分を捨て、主の御前に無条件で従う、これが信仰であります。ヨブは、依然として神様から与えられた自分の苦悩の原因については知ることはできませんでしたけれども、主なる神様の権威の前に、自我を砕かれて御前に自分をさげすんで、ちりと灰の中で心から悔い改めました。 ヨブ記42:5
このように彼は、告白することができたのであります。 ルカの福音書18章にも、自分を義人と自認してはばからない不信仰なパリサイ人のたとえが記されていることは、皆様はよくご存知のことでありましょう。 イザヤは、イザヤ書64章6節で「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」と言っておりますけれども、私たち信者もまた、自分の義が、不潔な着物のようなものであることに全く気づかないで、自分の義を神様に訴えるような、無意識のように自分を誇り主張するという、不遜な態度をとっているような者なのではないでしょうか。 イエス様の筆頭弟子として自認しておりましたペテロも、幾度となく自分の力、自分の判断に基づいて不信仰に陥るという過ちを重ねました。その中の2つの例を、ご存知だと思いますが挙げてみたいと思います。 マタイの福音書16:21-23
ペテロは、イエス様の御心が全く理解できないで、ただ浅はかな自分の判断だけに基づいて、イエス様がこの世に来てくださった最大の目的である、救いのご計画を妨げるようなことを言ってしまったのであります。 またペテロは、イエス様がご自分が捕らえられることを弟子たちに予告された時に、次のように言ってしまいました。 マタイの福音書26:33-35
ペテロは、自分の信仰の力を過信していたのですね。その結果、どうだったでしょうか。イエス様が捕らえられた時に、彼は人々に「お前は、イエスの仲間だ。」と言われた時に、それを大変恐れました。そして、主が予告されたとおり、3度も主を否むという不信仰な態度をとってしまったのであります。 こうして彼は、自分の信仰の力がいかに無力かを思い知って、心砕かれて、涙を流して悔い改めました。そしてイエス様が、天に昇られた後、御霊によって霊の目が開かれてから殉教の死を遂げるまで、主の御心に従い続け、主を証しし続ける主の僕と変わったのであります。 後になってペテロが、生まれつきの足なえを立たせた時、彼は「これは自分の信仰の力によってではなく、イエス様の御名、すなわちイエス様の権威によってである。」というように人々に証しをいたしました。 使徒の働き3:12
使徒の働き3:16
このように、自分の信仰の力ではなくて、イエス様の権威によって、この足なえが癒されたのだということを証しいたしました。 このように言うことができたのは、ペテロがもはや自分は全く無力であり、イエス様の力が自分の内に働かれているということを、その時にこのような奇跡が起こったのだということが、はっきり彼自身、自覚したのであります。 私たち信者は、どうでしょうか。ペテロは、次のように証ししました。 ペテロの手紙第II、1:16-21
このようにはっきりペテロは証しをしております。 このように神様の御霊によって書かれた聖書のみことばは、すべて御霊に導かれることによってのみ、正しく理解できるものであるにもかかわらず、私たちは、私的解釈すなわち自分の力で、自分の判断で聖書を読み、自分勝手にみことばを取捨選択したり、自分勝手な解釈をするという過ちを犯してはいないでしょうか。 また私たちは、主の僕として熱心に福音を宣べ伝えようとします。このこと自体は御心にかなうことですけれど、一歩誤りますと、主に拠り頼むことなく、無意識的に自分の思い、自分の力で伝道し、結果として自分を誇るという危険に陥ることに注意しなければなりません。 このように、私たち信者に残っている古い人、自我は、主の御心に従うまことの信仰の大きな妨げとなり、そのような信者は、主の僕として用いられない者、役に立たない者になってしまうのであります。 しかしながら、主の古き人、自我はそれだけではなくて、主の生けるみからだなる集会を構成する兄弟姉妹の不一致の大きな原因となります。 パウロは、初代教会の中に生じた信者の間の不一致を嘆いて、次のように言っております。 コリント人への手紙第I、3:1-4
肉に属する人とは、イエス様を信じてもなお、御霊の導きを求めず、御霊のお導きに従わず、古き人である自我に従っている信者のことであり、御霊に属する人とは、古き人が死んで御霊に従うようになった信者であります。 パウロは、有名なガラテヤ人への手紙2章20節に「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と証ししておりますけれども、これこそ、御霊に属する信者なのであり、このような御霊に属する信者が、一つ御霊によって一致する集会こそが、主の生けるみからだなるまことの教会なのであります。 そしてそのような教会を通して、主はご栄光を現わされるのであります。 したがいまして、御霊に属する信者とは、自分の信仰だけを大切にする信者ではなくて、主のみからだなる教会を構成する一つの器官としての自覚を、しっかりと保った信者であり、集会の信者同士の霊的な一致と集会を通して、主のご栄光が現されることを心から祈り求める信者なのであります。 では、どうしたら信仰の妨げとなる古き人である自我を捨てることができるのでありましょうか。 それにはただ一つの道しかありません。すなわち、この自我が砕かれることによってであります。 しかし、それは決して自分の力でできることではありません。たとえ肉は痛んでも、ヨブやペテロのように、主によって砕いていただく他ないのであります。 そうすれば、バプテスマのヨハネが「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」とヨハネの福音書3章30節で言っておりますように、御霊にへりくだって信者の内に住んでくださっている「あの方」すなわち主ご自身の御霊に拠り頼む者となることが、ここで初めて可能になります。 パウロは、ガラテヤ人への手紙の5章16節から17節で「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」と言っておりますように、私たちが、内に宿っておられる主の御霊にしっかり拠り頼んで歩めば、御霊ご自身が私たちの自我を押さえてくださいます。 しかし、そのためには私たちは、いつもせっかく開いていただいた霊の目を覚まし続け、主に結びつき、御霊の満たしをいただけるように、真剣に祈り続けることが是非とも必要となってまいります。 主のご再臨が真近い今の時にあって、私たちは信仰の妨げとなる古き人を捨てて、主の僕として少しでも御心にかなう歩みができるようにと、心からご一緒に祈りたいと思います。 最後にみことばを一つお読みして終わりにいたします。 コロサイ人への手紙3:9-10
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