引用聖句:サムエル記第II、9章8節
今、兄弟に読んでいただきました、このサムエル記第IIの9章8節、これはメフィボシェテという人のことばであります。 このことばから、無価値な者を顧みられる神さまと、その神さまの顧みの対象にされている私たちの態度について、これからごいっしょに少し考えてみたいと思います。 メフィボシェテというのはサウル王の子どもであるヨナタンのその子どもであります。 彼が5歳のときにおじいさん、お父さんはペリシテ人と戦いました。その結果おじいさんもお父さんも戦死をしてしまいます。 メフィボシェテも乳母に抱かれて逃げたのです。そのときに乳母が彼を落としてしまったので、それから足が不自由になってしまいました。サムエル記第IIの4章の4節を見ますと、そのことが書いてあります。 サムエル記第II、4:4
このように書かれております。 サウル王とヨナタンが戦死してから7年後、7年半になりますか、ダビデがこのユダとイスラエルを統一して王となりました。 そしてダビデは、自分の無二の親友であったヨナタンのために、サウル家で生き残った者に何か恵みを施したいというふうに考えたのです。 そして色々調べて、親友ヨナタンの子どもで、足の不自由なメフィボシェテがいるということを知りました。 ダビデは人を遣わして彼を自分のところに連れて来させました。それがサムエル記第IIの9章の6節から8節に書いてあります。 サムエル記第II、9:6-8
メフィボシェテはかつては王子であったのです。王子として多くのしもべにかしずかれていたと思います。富も権力も保証されていました。ですから、この世的に言えばこの上ない恵まれた境遇にあったと言えます。 ところが祖父と父親はペリシテ人との戦いに敗れて戦死をして、その結果王家は没落しました。それ以来彼はかつての家臣の家に身を寄せて、ひとり寂しく、ひっそりと暮らしていたのです。 その上今ありましたように、幼いときに落とされて骨折した両足はもう萎縮をしてしまって、成長しても歩くことも不自由なからだになっておりました。 このようにして、彼からは親も富も権力も健康もすべて取り去られてしまっていたのであります。 彼はどんなに寂しく、みじめで、悲しい思いで、それまで生きて来たことでありましょうか。そのような自分を彼は「死んだ犬のような者だ」と思うほどであったのであります。 イスラエルではどういうわけか、犬というのは忌むべき動物として、人をさげすむと言いますか、そういう表現に使われております。 箴言の26章の11節にもその犬のことが書かれているのです。 箴言26:11
この箴言のことばも、その犬をほめてはいないです。何回も懲りずに過ちをくり返すような愚かな者を犬に例えて軽蔑しているのです。 日本ではどうかなと。犬というのはみんな可愛がって、ペットとして扱っているのですけれども、恥ずかしい行ないをした、あるいは恥ずかしい行ないのことを昔から「犬にも劣る」というふうにたとえます。 そうなると、どうもこれは犬の評価というのも必ずしもいいとばっかりとは限らない。イスラエルと通じるようなものがあるなというふうに、ちょっと考えたのですけれども。 そういうふうな、評価の低い犬の、さらにその犬は死んだ犬ということになりますと、これは本当に価値のないもの、無価ものもいいところではないかと思います。 すなわちメフィボシェテは、自分はもう死んだ犬に等しいと。もう生きていても何の価値もないという、自分をそういうふうに思うほど、自我が砕かれて、すくめられていたのではないかと思います。 その彼に全く思いがけないことが起こったわけです。 それは今ごいっしょにお読みしましたように、ある日、ダビデ王から呼び出されて、これは何かまた怖いことでもあるのではないかなと思ってビクビクしながら、ダビデ王の前に出てひれ伏した彼にダビデ王は、メフィボシェテのおじいさんのサウル王の財産を全部返そうと言ったばかりではなくて、いつもダビデ王の食卓で、王とともに食事をしてよいというふうに言われたわけです。 おそらく彼は自分の耳を疑ったほど驚いたに違いありません。自分に与えられた恵みが信じられないという思いがしたと思うのです。 そこで彼の口をついて出たことばが、「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」という問いだったのであります。 このエピソードは私たちに二つのことを示唆しているのではないだろうかと思います。 一つは、無価値な者を心にかけてくださる神さまと、御子イエス様の恵みであるということであります。 もう一つは、その恵みをいただく私たちの態度であると思います。 まず第一に、無価値な者を顧みてくださる、無価値な者を心にかけてくださるイエス様、神さまについて考えてみたいと思います。 出エジプト記の33章の19節で神さまはモーセに次のように仰せになっています。 出エジプト記33:19
神さまの恵みというのは、このように私たち人間の基準とは全く違うのです。神さまのみこころ次第であります。 神さまは私たちに何か価値があるから、私たちが何か努力をしたから、あるいはまた何か立派な行ないをしたからその報いとして恵んでくださるのではないのです。 そうではなくて、ただ神さまご自身のお考え、ご自身の意思によって私たちを恵んでくださるのです。 イエス様が取税人のザアカイに示された恵みも、これはイエス様からの一方的なご意思による恵みでありました。 よくご存知のザアカイですけれども、ごいっしょにもう一度見てみたいのですが、ルカの福音書19章の1節から6節を見てみたいと思います。 ルカの福音書19:1-6
このエピソードでもわかりますように、ザアカイはそれまでイエス様の評判を噂で聞いただけで、一度もイエス様にお会いしたいことがなかったのです。 ですから、まさかイエス様から自分の名を呼ばれるということは思いもよらなかったのです。しかも、イエス様から、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われて、彼は大喜びでイエス様を自分の家にお迎えした。 イエス様はザアカイが金持ちだから、あるいは町で尊敬されている立派な人物だから彼の家に泊まろうとはお思いにならなかったのです。そうではないのです。 というのは、今のみことばに続いて7節から8節に次のように書かれていることでわかります。 ルカの福音書19:7
とあります。 ルカの福音書19:8
と言っています。このようにイエス様は、彼が町の人たちからどんな目で見られているかを、とっくにご存知だったのです。 そしてまた、ザアカイ自身も自分が町の人からどんな目で見られているか。自分を町の人たちが軽蔑している、またそして自分自身もどんなに悪いことをした人間かということもよく知っておりました。 そんな価値のない自分のところにイエス様が来てくださって、そのような自分を顧みてくださったという恵みを、本当に覚えて感謝して、その気持ちが素直に、ここにありますように、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」という、そういう言い表わし方で、イエス様に罪の悔い改めを告白したのであります。 イエス様は好んで、この世的には価値のない、価値があるとは思えない人たちと食事をされております。 そういう個所が聖書の中にもありますが、例えばマタイの福音書9章の10節から13節。ここにもそういう場面が描かれております。 マタイの福音書9:10-13
有名な個所であります。 イエス様が取税人や罪人といっしょに食卓に着くということは、ただ食事を共にするということを意味しているのではない。彼らと親しい交わりをするという意味を持っているのであります。 ここでイエス様ははっきりと、ご自分を必要としているのはこの世の基準から見て立派な人、価値のある人ではない。そうではなくて、罪人であり、また無価値な人であって、そのような人たちを招待するために、そしてまた、そのような人たちと親しく交わるためにこの世に来たというふうに仰っているのです。 私たちはここに、罪人に仕えるためにおいでになった、愛とあわれみに満ち満ちたイエス様のお姿を見るのであります。 一方、このイエス様の恵みをいただく私たち、イエス様を信じたキリスト者の態度はどうであろうかということをここで考えてみたいと思います。 私たちはイエス様の前に、自分は死んだ犬のような無価値な者というように、本当に砕かれ、すくめられた態度をいつも取っているであろうか。 自分自身を振り返って見たときに、残念ながらそれどころか、イエス様の前に大きな顔をしている自分に気が付いて、ここを読んだときに、私はハッとしました。 私たちはイエス様からの大きな恵みをいただいて、イエス様に支えられながら歩んでいるのにも関わらず、そのことをすっかり忘れて、自分の足で歩いているような気持ちになっている自分に気が付いて、そしてまた口では「主の恵みを感謝します。」と言いながらその恵みを本当に感謝していない、そういう自分に気が付いて、ハッとするのであります。 創世記の18章の27節を見ますと、これはアブラハムが神さまにこう言っているのです。 創世記18:27
と言っています。私たちはどうでしょうか。 やはり、ちりや灰にすぎない。自分がちりや灰のように、吹けば飛んでしまうような価値のない者であるにも関わらず、そのような者をイエス様がご自分の尊いいのちを代価として、滅びから救い出してくださったということをすっかり忘れてしまって、イエス様が私たちを恵んでくださるのが当然であるかのような傲慢な態度でイエス様の前にいるのではないかなというふうに思わされるのであります。 自分がイエス様とともに食事の席に着くのは、全くふさわしくない者であるにも関わらず、そのような自分をイエス様が招待してくださったことがどんなに恐れ多いことか、どんなに光栄なことか、どんなに大きな恵みかということも忘れて、平気で平服のまま食卓に着こうとしているのではないかと思います。 詩篇8篇の3節、4節。ここでダビデは次のように言っています。 詩篇8:3-4
このように宇宙万物を創造され、支配しておられる偉大な神さまが、私たちのようなちっぽけな人間を特別に扱ってくださっているということへの驚きを込めて、ダビデは賛美をしております。 これはしかし、いかに自分は神さまの前に無に等しい存在であるかを知って、そして主なる神さまを心から恐れ尊んで初めて、こういう賛美が口から出るのだと思うのです。 さて、このメフィボシェテはどうなったか。サムエル記第IIの9章13節を見ますと、このように書かれております。 サムエル記第II、9:13
というふうに書かれております。 彼はその後、王の都でダビデ王と同じ食卓で王ととともにいつも食事をするという恵みにあずかっていたのであります。 そして彼の足は依然として砕かれたままであったのであります。 それでは、イエス様を信じる私たちはどうか。私たちのことを振り返って考えてみたいのです。 もし私たちが砕かれて、心を開いて、心の扉を開いていれば、イエス様は、王の王、主の主であるイエス様は私たちとともにいつも食事をしてくださる。 これはそのように聖書に書かれております。 ヨハネの黙示録3:20
しかしイエス様が仰っているように、せっかくイエス様がいつも私たちと食事をしたいと仰ってくださっているのに、私たちはそのイエス様を拒んで戸を開けない。イエス様を外に立たせているのではないか。 これはイエス様を信じた者にイエス様は言っておられるわけですから、私たちのことであります。 イエス様は私たちにいつも同じテーブルで、いつも食事をしたいと仰っている。本当に恐れ多いことであり、光栄なことなのです。 けれどもそのようなすばらしい恵みにあずかる私たちは、本当にこのメフィボシェテの足のように、いつも砕かれたままであるか。そうであれば本当にこの恵みに感謝して、あずかって、イエス様も親しい交わりをして喜ぶことができます。 私たちはいつも心砕かれて、すくめられて、いつも自分の力では一歩も歩けない足のなえた者であることを、一体自覚しているのでしょうか。 そうしたときにこそ、本当にそのような無価値な者を顧みて、食事をともにして、親しく語りかけてくださる、王の王、主の主であられるイエス様の限りない愛とあわれみを私たちは身に沁みて覚えることができて、そしてそのイエス様に心からの感謝をささげる者となれるのではないかと思います。 聖歌の522番。まさにこの歌詞は、地のちりに等しいような無価値な者に、救いの恵みを与えてくださったイエス様に対する賛美の歌、賛美の詩なのです。 ごいっしょにこの歌詞をお読みして、ともに心から主を賛美して終わりたいと思います。 地のちりにひとしかり、なにひとつとりえなし 今あるはただ主の愛にいくるわれぞ みすくいを受けし罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん 恵み深きイエスを 罪の世を望みなく、いくとせかまよいしを ただ君が愛もて救いませるわれぞ みすくいを受けし罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん 恵み深きイエスを もし恵みなかりせば、はや滅びはてしならん あるはただ罪のみいさおしなきわれぞ みすくいを受けし罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん 恵み深きイエスを されば世にあるかぎり、主をうたい主を伝えん 滅びよりいのちにうつされたるわれは みすくいを受けし罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん 恵み深きイエスを どうもありがとうございます。 |