引用聖句:コリント人への手紙第II、6章14節-18節
いみじくも司会の兄弟が言われたことは、私も家内から同じように言われております。「二重人格」という表現じゃなくて、「あなたは、メッセンジャーとしてここで立って言うこととと、日常生活で言うことととは違うじゃない。」 「まことに、その通り」、と言わざるを得ないんですね。しかしその時家内は、「でも、そういうことをあなたに言うのは、私だけですよ。他の兄弟姉妹は思ってても言わない。」、まことにその通りで、良き助け手を与えられて、兄弟も私も、与えられておることを大いに感謝しております。 今日は兄弟に読んでいただきました、この聖書の箇所から「イエス様を救い主と信じた者がこの世を歩む姿勢について」、別の言い方をしますと、「何が主の御心にかなうキリスト者の生き方であるか」ということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。 ここに「くびき」という言葉が出てまいりますけれども、これは昔、牛や馬を使って穀物をひいたり、あるいは畑を耕したりする時に、牛や馬の首につけて鋤や車を引かせるために使う、木で作った横木のことをいいます。 そして「くびきをともにする」というのは、一本のくびきに2頭の牛、あるいは馬を結びつけて仕事をさせることをいいます。 もし牛同士、あるいは馬同士を一つのくびきにつければ、これは同じ種類の動物ですから、つりあってありますから足並みがそろいます。そして仕事がうまく進みますけれども、牛と馬とを同じ一つのくびきにつければ、当然足並みがばらばらになって仕事になりません。 「つり合わないくびきをともにする」とは、こういうことをいう言葉であります。 ではイエス様を信じた者と、イエス様をまだ信じない者とがくびきをともにすることができないのは、一体なぜでありましょうか。信者と不信者とはどうしてつり合わないくびきなのでありましょうか。パウロは、今読んでいただきました箇所で、 コリント人への手紙第II、6:14-16
と言っておりますけれども、まさにここに対比されているほどに、イエス様を信じた者と信じない者は違うのであります。 「正義」とか「光」は、まことの神、および御子イエス様の属性を示しております。一方「不法」あるいは「暗やみ」は、ベリアル、すなわちサタンの属性を表現しております。 イエス様を信じた者は、イエス様が十字架の上で流された尊い血によってきよめられた結果、今読んでいただきました箇所のところで神様がおっしゃったように、「神の子ども」として、また「生ける神の宮」として生きるように導かれます。 一方イエス様を信じない者は、自分では気がつかなくても、この世の支配者であるサタンに支配され、自分を第一とした自分中心の生き方、すなわちこの世だけを愛するという生き方をします。 ですからイエス様を信じた者と信じない者が、いくら心を合わせて一緒に生活しよう、一緒に行動しようとしてもそれはつり合わぬくびきをつけることになり、目指す方向も歩み方も違いますから、一致することはできません。だから神様は信者に、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」とおっしゃるのであります。 しかし「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」というのは一体どういうことなのでありましょうか。 イエス様を信じて神の子どもとされた人々が、この世において汚れたものに触れずに生きるために、「彼ら」すなわちイエス様を信じない人々と別々に住まわなければならないという意味なのでありましょうか。 この世の人と交わって信仰がゆるがないようにするために、この世から隔離された社会で、厳しい戒律を守りながら信仰生活を続けようというのが、修道院での修道僧や修道尼の生き方でありますけれども、私たちもそのように生きなければならないと言っているのでありましょうか。 イエス様は、ご自分の尊いいのちで贖い出した人々に対して、そのような生き方によって自分の信仰を正しく保ちなさい、そのような生活によってこの世とつり合わぬくびきをともにしないようにしなさい、とおっしゃっているのでありましょうか。 今読んでいただきました聖書のみことばで神が仰せになった、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」という意味は、物理的な分離、距離的な分離をさしているのでありましょうか。 確かにこの世から隔離された、自分たちだけの社会で結束して戒律を守るという信仰生活を送れば、物理的な意味ではこの世の悪から、汚れから、へだてられるでありましょう。 しかしながらサタンは、私たちが自分でいくら努力しても、いくら高い壁を作っても易々とその壁を突破して、私たちの心の中に進入してまいります。サタンはそのような力を持っているのであります。 また、戒律を守ろうとすることに熱心であればあるほど、それに縛られて、せっかくイエス様が罪から自由にしてくださったその喜びが失われて、苦しみ信仰生活を送るようになるか、あるいはパリサイ人が律法を形式的に守って、それで自分の信仰を「正しい」とするような、偽善的な信仰に陥る危険があるのであります。 そのように見ていきますと、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」とおっしゃる主の御心は、信者が未信者と分離するというような、物理的な、あるいは距離的な分離を意味するのではなくて、霊的な分離をさしておられるということが分かります。 では、この世の人々の中に置かれて生活しております私たちキリスト者が、この世の人と霊的にはっきり分離をしなければならないのは、一体どんな場合なのでありましょうか。例をいくつかあげてみたいと思います。 第一に、信者がこの世の人々と分離しなければならない最も大きな問題は、偶像礼拝でありましょう。最初のみことばに、 コリント人への手紙第II、6:16
とありますように、イエス様を信じた者は、生けるまことの神が主が住んでくださる「神の宮」とされます。またイエス様を信じた者は、罪のために閉ざされていた霊の目が御霊によって開かれ、その結果、天地万物を創造され支配されている唯一まことの生ける神である神を、「父」とお呼びすることができるようになりました。 では、父なる神様は子どもとされた私たち信者に何をお命じになっているのでありましょうか。それは、律法学者が「神のすべての命令の中で、どれが一番大切ですか」と質問したことに対するイエス様のお答えによって知ることができます。 マルコの福音書12:29-30
この世の人々は、まことの神も偶像の神も見分けがつきません。それはかつての私たちもそうであったように、霊の目が罪によって閉ざされて盲目になっているからであります。 ですからなんら罪の意識もなく偶像を拝みます。仏壇や神棚に手を合わせ、また葬儀の時に、すでに魂が宿っていない遺体の前で焼香して、手を合わせて拝んでも何も悪いこととは思いません。 しかしこのような世の人の中に置かれている私たちキリスト者が、この世の冠婚葬祭に列席する機会は少なくありません。その時私たち信者は一体どのような態度をとるべきでありましょうか。 この世の中に生かされている私たち信者には、親族、職場、学校、近隣のお付き合いなどが当然あります。これらのお付き合いを大切にするためには、「角が立たないように、本心からでなくても、みなに調子を合わせる」というのが、この世の人たちの諸性質でありましょう。 しかし、もし「神の子ども」とされている信者が、「神の宮」とされている信者が、そのことを強く自覚し、父なる神を全身全霊で愛するならば、人の目を気にし、この世に妥協して偶像を拝したり、偶像に従うことなどできるはずはないのであります。 それは父なる神様の御心に反することであり、父なる神様を悲しませることだからであります。パウロは次のように言っております。 ローマ人への手紙12:2
このことで私は、ある地方のキリスト集会の一人の兄弟の話を思い出します。その兄弟は、自分が勤めている会社の社長さんが、「神棚を作って、社員が毎朝礼拝する」という計画を立てているということを知った時、大変驚くとともに非常に悩んでイエス様に祈りました。 そして兄弟は、「もしそうなったら、自分は会社を辞めなければならない。生活のことを考えると会社を辞めることは辛いけれども、自分には偶像を拝むことは絶対にできない」、この自分の決心を「社長に話そう」というふうに決心をしました。 そして社長に会って、「自分はイエス様を救い主と信じていること、神棚に祭ってあるのは、偶像の神であること」を、この兄弟の表現をそのまま言いますと、震えながら話したそうです。社長はじっとその兄弟の言うことを聞いていましたけれども、やがて「君の言う通り、神棚を拝むのは偶像を拝むことになるから、この計画は中止しよう」と言ってくれました。 この兄弟は社長の言葉に驚き、「自分に力を与えて、このように言わせてくださった主に、心から感謝した」と、私に話してくださいました。 神様を愛し、神様を第一とした兄弟を主は守ってくださったばかりではなく、この兄弟に、御霊によって力と勇気を与えてくださって、社長に信仰の証しをすることができ、このことを通して主はご自身のご栄光を現わされたのであります。 私たちの父なる神は生きておられ、私たちが神様を第一にしようと決心して神に信頼した時に、神様は必ず私たちを守ってくださり、その信頼に答えてくださる方であることを、私たちはこの兄弟の話を通して知ることができます。 「不信者とつり合わぬくびきを一緒につけてはいけない」という代表的なもう一つの例は、結婚であります。 イエス様を信じた者は、主の恵みによって罪がきよめられ、この世に属する者から神様に属する者に変えられます。従いまして、神様に属する信者の生きていく土台というのは、イエス様であります。 一方この世に属する人の生きていく土台は、この世しかありません。この世に属する人は、この世を愛し、どうしたら自分を満足させることができるかを第一に考えますけれども、イエス様を信じイエス様に属するように変えられた者は、どうしたらイエス様に喜んでいただけるかを第一に考えるようになります。 パウロは次のように言っております。 ローマ人への手紙8:5
ここで言う「肉」というのは、生まれつきの自己中心的な人間性のことであります。生まれつきの自己中心的な人間というのは、自分の肉を喜ばすことをもっぱら考えます。 一方イエス様を信じた者は、その中に宿ってくださってる神の御霊によって、肉的な基準ではなくて霊的な基準、すなわちイエス様の御心を基準として、すべてのことを考えるように変えられるのであります。 このようにイエス様という土台に立つ者と、この世という土台に立つ者とは、考え方・生き方の基準が根本的に違っておりますから、このような二人が結婚しても一致できるはずがない!のであります。 集会では、かつては、妻が、圧倒的に先に救われることが多い。今でもそうでありますが、その先に救われた妻がイエス様を信じて、その結果どうなったか?以前にも増して、夫婦の間に一致ができなくなってしまった。そのために苦しむんですね。 まだ救われていない夫の救いをイエス様に必死に祈って、その祈りが聞かれて、今はともにイエス様の土台に立つ一致した夫婦として、主に祝福され、御霊の実を結ぶ信仰生活を送ることができた、という証しをたくさんお聞きしました。 これは生きた教会の一つの大きな特徴であります。しかしこの頃は、悲しいことにそのような証しが前よりも少なくなっております。一体どうしてでしょうか。 祈り会などで、救われていない知人・友人のためには一心に祈るけれども、肝心の未信者の夫の救いについては、一向に祈らないという方が少なからずおられるということであります。これは、「つり合わぬくびきをつけている」という自覚がおありにならないから、「夫とともに祈り、賛美し、主に仕えたい」という、熱い思いがないからであります。 これでは、主に祝福される夫婦とは言えないのであります。 神様が私たちキリスト者を、イエス様を信じていない人の中に置かれている目的とは一体何でありましょうか。それはイエス様を知らないために、この世がすべてと思い込んでる人々に、イエス様をお伝えすることであります。 使徒の働き4:12
このように、すべての人を恐ろしい滅びの罪から救い出してくださる、唯一の救い主であるイエス様を人々に紹介すること。ご自分の尊いいのちを私たちの罪のために捨ててくださった、そのイエス様の大きなご愛を証しすること。それが先に救われた私たち信者のすること、なすべきことではないかと思うんです。 このように、信者がイエス様の証し人としてはっきり立つならば、この世との妥協を恐れるあまり外の社会と接触することを極度に避けるような生き方、あるいはこの世の人とくびきをともにするような生き方はできないはずであります。 そのような生き方ではなく、尊いいのちを捨ててまで私たちを愛してくださったイエス様を、まだイエス様をご存知ないで滅びの道を歩んでおられるこの世の人々に、方々に、恐れることなく証しすることが、私たち信者がこの世の人の中に置かれている大きな理由なのであります。 イエス様は、ご自分を信じる人々に対して、「わたしは、滅び行く人々に福音を伝えるために、あなたがたを世に遣わします」とおっしゃっているからであります。 ヨハネの福音書20:21
イエス様は、世の終わりの間近い今日、失われたたましいを救うためにご自分と一緒に働く者を求めておられます。そのような時に、信者が自分だけの信仰に閉じこもって、「平安だ、平安だ」と言って喜んでいるというのは、これは自己中心的と言われても仕方がないのではないでしょうか。 私たち信者は、この世と隔離して自分の信仰を守るというような閉鎖的な姿勢をとることなく、またこの世とつり合わぬくびきをともにすることなく、イエス様からサタンの支配するこの世に遣わされた者として、自分では気がつかないでサタンとくびきをともにしているこの世の多くの方々に、イエス様を証しし、一人でも多くの方が永遠の滅びから救いに導かれるよう、一心に御霊により頼み、御霊に祈って歩む日々でありたいと思う次第であります。 聖書は次のように、私たちイエス様を信じる者に語りかけています。 ユダの手紙1:20-23
これまで、「不信者とつり合わぬくびきを一緒につけてはいけない」というみことばについて、何が主の御心にかなう生き方なのかをご一緒に考えてまいりました。 それは私たち信者がこの世に身を置きつつも、この世とつり合わぬくびきをともにしないで、イエス様を証しするという生き方であります。確かにこれは容易なことではありません。困難な生き方と言えるでありましょう。 なぜならば、この世に置かれている私たち信者は、日々直接サタンの攻撃に身をさらされるからであります。イエス様は次のようにおっしゃっています。 ヨハネの福音書15:18
すなわち、サタンが支配しているこの世の人々が、 ヨハネの福音書15:18-19
なぜ、サタンとサタンの支配下にある世の人々が、信者を憎み迫害するのか、その理由をイエス様はこのように私たち信者によく分かるように説明してくださっています。 しかしながら、もし私たち一人一人が真剣にみことばにより頼み、私たち信者のうちに住んでくださっているイエス様の御霊にしっかりと聞き従い、「イエス様から霊的な力と知恵をいただいて、日々歩みたい」と熱心に祈るならば、私たちはこの世に置かれていても、御霊の助けと支えを頂いて、この世とつり合わぬくびきをともにすることなく、サタンの誘惑と戦ってこれに打ち勝つ信仰生活を送ることが可能なのであります。 パウロは、コリントの信者にあてた手紙の中で次のように言っております。 コリント人への手紙第II、10:3-4
私たちは、パウロのいうように、この世にあっては確かに「肉」を着て歩んではおります。けれども「『肉』に従って歩んでいるのではない」と、はっきり言えるようになりたいと切に思います。 キリスト者は、「肉」の力ではなく、私たち信ずる者に住んでくださっているイエス様の「御霊」の力でサタンと戦うのであります。決して自分の力で戦っても、勝てるものではありません。 ヨハネは、初代教会の信者に宛てた手紙で次のように言っております。 ヨハネの手紙第I、4:4
このように言っております。私たち信者がこの世に置かれた神様のご目的を、私たちははっきり自覚して、主の御霊により頼んで戦えば、私たちを通して「御霊」の力が働いてくださって、恐ろしいサタンに打ち勝つことができ、主がご栄光を現わしてくださるのであります。 イエス様のご再臨が間近いこの世に置かれた、私たちキリスト者の使命というのは、 「この世とくびきをともにするのではなくて、 主のしもべとして、神の子どもとして、 主から与えられた、いただいた御霊にしっかりとより頼んで、 御霊から知恵と力をいただいて、 サタンの束縛のもとに、滅びの道をご存知なくて歩んでおられる多くの方に、 この主の恵みを、素晴らしさを、ご愛を、証しすることができることではないか、」 と、そのように私たちは切に、ご一緒に祈っていきたいと思います。 どうもありがとうございました。 |