霊の渇き


重田兄

(小松福音集会、2004/03/28)

引用聖句:詩篇42篇1節-2節
1鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

それではこれから、今読んでいただきましたこの詩篇42篇1節、2節のみことばにあります「霊の渇き」ということ、たましいの渇きと言ってもいいんですが、霊の渇きというのは何か、そしてまたたましいを本当に、たましいの渇きを本当に満たすことのできるものは何か、そしてまた、わたしたちはどうしてたましいの満たされる必要があるかということについてご一緒に考えてみたいと思います。

私たち人間は、健康であれば一日一回食事を抜いたら、空腹を覚えます。そしてまたもし、一日水を飲まなければ、本当に喉が渇いて我慢できないと思うんですね。
このように私たちの健康な体は、食べ物や水が不足すると、自然と飢え渇きを覚えます。もし私たちが、病気になってしまいますと、もう食欲が無くなってきますね。あるいは、あまり喉も渇かないようなことになります。
要するに、私たちは健康だから飢え渇きを覚えますが、体が覚える飢え渇きのほかに、実はもう一つ別の飢え渇きがあるんです。

それは何かと言いますと、私たち人間を造ってくださった神さまが、私たち人間の霊に与えられる飢え渇きであります。たましいに与えてくださる飢え渇きであります。
では、霊の飢え渇きというのは一体何でありましょうか。それは、私たち人間の霊が永遠のいのちの泉であり、私たちを造ってくださったまことの神さまを求める。これが霊的な霊の飢え渇きですね。

一体なぜ人間は霊の飢え渇きを覚えて、まことの神さまを求めるのでありましょうか。それは、天地万物をお造りになったときに、神さまはご自分の御心を求め、御心に聞き従うことができるようにと、人間のからだに霊を吹き込まれましたけれども、その神さまに造られた最初の人間は、これはアダムですけれども、神さまにそむいてしまった。
そのためにアダムの霊が衰えたんですね。

で、アダムだけではなくて、私たちは人間ですから、みんな最初の人間アダムの子孫なんです。そのアダムの霊を、私たちも一人残らず受け継いでおります。ですから、アダムの霊が神さまに罪を犯して、衰えてしまったということは、アダムの子孫である私たちすべての人間の霊がもう衰えてしまってるんですね。
ですから、体が病気のときに空腹感を覚えないのと同じように、霊が衰えてしまった私たちは、霊の飢え渇きを覚えなくなってしまった。

そしてまた、たとえ霊の飢え渇きを覚えても、一体それを何で満たしたらいいかということが分からない。分からないんですね。それで、何とかこう、自分の肉の思いを、ということで、自分の心を満たそうとしたり、あるいは、偶像を拝むような宗教に走ってしまったりするんですね。
けれども神さまは、そのように罪のために霊が衰えて、霊の飢え渇きを覚えなくなった人間を愛してくださいました。そして、ご自分にそむいている人間の霊に飢え渇きを起して、ご自分を求めるように導いてくださっているのであります。

そして、この霊的な飢え渇きというのは、私たちが苦しみとか、悲しみ、患難、苦難と呼んでおりますけれども、具体的には色々な身体的な苦痛、あるいは、精神的な苦痛を神さまから与えられて、心が悲しみ、苦しんで、そして神さまの前に心が砕かれて、へりくだったときに、特に、その霊的な飢え渇きを覚えます。
神さまが、神ご自分の民としてお選びになったイスラエルの民の場合にどうであったか、ということをちょっと見てみたいと思いますけれども、申命記28章47節から48節。これは、イスラエル民族の指導者のモーセが、イスラエルの民に向かって警告した言葉であります。モーセは、イスラエルの民に対して、次のように仰いました。

申命記28:47-48
47あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、
48あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。

こういうふうにモーセは、イスラエルの民に言ったんですね。かつてイスラエルの民は、神さまから選ばれた民であるにも関わらず、神さまから心が離れて、偶像の神に仕えるという罪を犯したために、神さまは、バビロニアという強大な国を使ってイスラエルを治めになったんです。

そしてイスラエルの王さまをはじめ、おもだった民を、捕虜としてバビロニアの首都のバビロンに連れ去るという苦難を、神さまがイスラエルのために与えられました。
彼らは捕囚となった地で、バビロンの地でたましいが衰え果てるほどの苦しみを体験しました。それは、彼らの苦しみをとおして、神さまを離れたその彼らに霊的な飢え渇きを起こさせて神さまを求めさせるためであったんですね。
詩篇の107篇の4節から6節。この詩篇107篇は、そのときの彼らの苦しみを詩(うた)にしたものです。

詩篇107:4-6
4彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。
5飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。
6この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。

彼らも、自分たちが大変な苦しみに合ったときに、「助けてください。」と主に向かって叫んで、その結果、これは飢え渇きを彼らが主に対して覚えたときに、主はその彼らの飢え渇きを満たされたんですね。苦悩から救い出されて、満たされたわけであります。
霊的な飢え渇きがここで満たされたわけですけれども、神さまの愛と関心というのは、このイスラエルの民にだけに向けられていたのではないんですね。

神さまは、まったく公平な方です。全き公平な方ですから、最初はイスラエルの民に対して、そして次には、神さまがご自分にそむいて闇の中をさまよっているすべての人間をも選んでくださった。
愛してくださり、そしてご自分に立ち返らせるために、神さまの御子であるイエス様を、十字架に架けるという考えられないような方法によって、神さまは私たちとの和解の道を備えてくださったのであります。それについて聖書は次のように書いてあります。

コロサイ人への手紙1:22
22今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

神さまはそのために、ただ、からだの飢え渇きを満たすことしか心が向かなくなっている私たちをも、イスラエルの民と同じようにご自分の愛とあわれみによって苦しみを与えて、私たちの自我を砕いて、そして霊の飢え渇きを起こして、ご自分を求めるように、神さまをもとめるようにしてくださるのであります。
私たちに与えられている色々な苦しみ、それは病気であったり、あるいは、仕事がうまくいかなくなったり、あるいは、家族が病気になったり、色々なことを私たちのうえに起こしてくださるのはそのためなんです。

で、人間は神さまから与えられたそのような患難、あるいは苦難によって徹底的に自我が砕かれた結果、死んだようになっていた霊が目覚めて、そして霊の飢え渇きを覚えたときに、心から私たちの造り主であるまことの神さまを慕い求め、そして私たちの霊的な飢え渇きをいやしてくださいと、祈らないではいられなくなるのであります。
それについて、次の、詩篇63篇1節に、詩篇の作家がそのように祈っております。

詩篇63:1
1神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

神さまはまさに、私たち人間のこのような祈りを待っておられるのであります。神さまは、私たち人間の心が砕かれて、そして自我が砕かれて、ご自分を慕い求める祈りを待っていてくださる。その祈りに喜んで応えてくださる。そして霊的な飢え渇きを満たしてくださいます。
神さまは、預言者のイザヤを通して次のように仰せられました。

イザヤ書55:1
1ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。

これは言うまでもなく、渇いているというのは、霊的に渇いているのですね。霊が渇いている。水というのは、霊の水なんです。あとでお話しますけれども、

イザヤ書55:1-2
1金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。
2なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。

ここで神さまが仰せになっている水、あるいは穀物、ぶどう酒、そして乳というのは、ちょっとさき申しましたけど、物質的な飲み物、食べ物ではないんです。神さまが備えてくださる霊的な飲み物であり、食べ物であり、神さまがそれらを良い物と仰せになっています。
しかも神さまは、霊的な飢え渇きを覚えて、ご自分を求める者にこれらの良い物を代価を払わないで与えようというふうに言ってくださっているのであります。

では、心が砕かれて、自我が砕かれて、霊の飢え渇きを覚え、神さまを慕い求める者の霊を代価を払わないで、神さまが満たしてくださる良い物とは一体どんなものでありましょうか。それは、神の御子イエス・キリストご自身であります。
神さまは、霊が飢え渇く者をご自分の御子、イエス・キリストのところに導いてくださいます。人間の霊の飢え渇きを永遠に満たすことのできる霊的な永遠のいのちのパンである、あるいは、いのちの水とは一体何か、それはイエス・キリストご自身であります。
これについて、預言者のイザヤは、次のように言っております。

イザヤ書49:10
10彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者

すなわち、神さま

イザヤ書49:10
10が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。

ここに、水のわく所とあります。これは、永遠のいのちの水であるイエス様の所であります。いのちの水であるイエス様について、ヨハネの福音書6章32節から35節をまずお読みします。

ヨハネの福音書6:32-35
32イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
33というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
34そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
35イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

それからもう一箇所。

ヨハネの黙示録21:6
6「事は成就した。わたし

すなわちイエス様、イエス・キリスト

ヨハネの黙示録21:6
6はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

代価を払うことなく、「飲ませる。」、「いのちの水の泉から飲ませる。」とイエス様が仰っていますね。イエス様はこのように、霊の飢え渇きを完全に満たすことがお出来になる霊的なパンであり、霊的な水である。
ご自分のいのちを信じる者に与えられるためにこの世においでになり、そして御自身が、永遠のいのちというパンと水になってくださったのであります。

そして、十字架と復活による救いのみわざによって、このことは、ここにありますように、「事は成就した。」、成就されたのであります。で、この霊的なパンと霊的な水をいただくために、私たちは自分で何の代価も払う必要はありません。
イエス様は私たちに代わってすでに、ご自分のいのちで私たちを救うための代価を支払ってくださったからであります。

ですから私たちはただ、心から自分の罪、自分の罪というのは、わがままの罪であり、自我を中心として自分勝手に生きてきたということであり、そういうことが罪。
神さまのことなんか全然考えないで、自分の思いをただ遂げるために、生きているのが聖書で云っている罪なんですが、そういう、罪を悔い改めて、神さま、イエス様を信じ、そして、みもとにいくことだけでよいのであります。
そうすれば、神さまはイエス様によって、このいのちの水、霊的な水を私たちに与えてくださいます。本当に大きな神さまの愛の計画であります。

で、私たちキリスト者が礼拝のたびに、今日もあとで礼拝をご一緒にいたしますけれども、そのときにパンとぶどう液をいただくのも、ご自分の、ご自身のいのちに代えて、信じる者に永遠のいのちを与え、霊的な飢え渇きを満たしてくださるイエス様を覚えて、感謝をするために行なうものであります。
では、イエス様を信じれば、もうまったく霊の飢え渇きを覚えなくなるのでありましょうか。私たちが信仰を持てば、霊の飢え渇きはもうなくなるのでありましょうか。いや、むしろその反対であります。

一体どうしてでありましょうか。それは、私たちイエス様を信じる者が、喜びと感謝と希望に満ちた信仰の歩みを築こうとすれば、もっともっと深く、神さまの御心を知りたいという霊の飢え渇きを覚えざる得ないのであります。
そして、この霊の飢え渇きは、みことばを、聖書のみことばを私たちが食べることによって満たされるのであります。
預言者のエレミヤは次のように言っております。

エレミヤ書15:16
16私は

これはエレミヤですね。預言者エレミヤは

エレミヤ書15:16
16あなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたの

あなたというのは神さま

エレミヤ書15:16
16みことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

エレミヤが言っておりますように、聖書のみことばというのは、すべて神さまのみことばであります。そしてこの神のみことばは、イエス様を信じる者にとって霊の血となり、肉となり、大変大切な霊的なたべもの。霊の糧であります。
したがいまして、キリスト者が、エレミヤのように喜んで信仰の歩みを続けるためにも、またキリスト者の信仰の成長を続けるためにも、必要なみことばをエレミヤのように飢え渇きを持って、常に求めるならば、神さまはいつも豊かにそれを与えてくださいます。

そして私たちがそれを食べることによって、私たちの霊は満たされて、元気になります。ですから私たちはいつも、肉的なものによって、私たちの目に見えるこの世のものによって、心を満たすのではなく、霊的な飢え渇きの心を与えていただけるように神さま、イエス様に祈り求める必要があります。
神さまはさらに、イエス様の御霊である聖霊によって、私たち信じる者の霊の飢え渇きを満たしてくださいます。イエス様は、ユダヤの収穫感謝祭である仮庵の祭りというのがありますけれども、その一番最後の日に、ユダヤ人に対して、ご自分を信じる者には霊の渇きをいやす水を与えるというふうに約束なさっております。

この水というのは、イエス様が私たちの罪を贖ってくださったみわざ、すなわち、すべての人々の罪を身代わりによって十字架の上で死んで、三日目に復活してくださったという、人類の救いのためのみわざが成し遂げられたあとに、私たち信じる者、イエス様を信じる者に与えられる聖霊のことであります。イエス様の御霊のことであります。
そして、心が砕かれて、自分の罪を悔い改め、そしてイエス様のもとに来る者はすべて、このイエス様の約束通り、御霊によって、霊の飢え渇きが満たされます。

ヨハネの福音書7:37
37さて、祭りの終わりの大いなる日

先ほども言いました、ユダヤ人のお祭りですが、大いなる日

ヨハネの福音書7:37-39
37に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

と書いてあります。このように、イエス様を信じる信仰によってイエス様のものとされた者、神さまの子どもとされた私たちキリスト者に対して、神さまは、神の子どもとして霊的に成長させて、そしてご自分のご栄光を現わすために用いようとなさって、主の御心をもっともっと求めたいという霊的な飢え渇きを与えてくださいます。
その結果、イエス様を信じる者が、霊的な飢え渇きを覚えてイエス様に祈り求めるたびに、みことばに満たされ、そしてまた今申しました、イエス様の御霊に満たされて、私たちの信仰は、成長していくのであります。

そしてこの霊的な飢え渇きの完全な満たしというのはいつか。それはイエス様が私たち信じる者を空中まで迎えに来てくださり、イエス様を信じて、先に天国に召された者と、そしてまだそのときに地上に残されているキリスト者がともに、イエス様と同じ、復活のイエス様と同じ、朽ちない、よみがえりのからだを私たちがいただいて、天に携え上げられる。
そして神さま、イエス様とともに、天の御国に住むことを許される、その約束が叶えられるときであります。

私たちがそのようにして、イエス様が迎えに来てくださって、天に引き上げられるとき、私たちはもう霊の飢え渇きを覚えることはなくなるんですね。
もう永遠に、すべてに満ち足りて、霊的に満ち足りて、もう完全に幸せな日々を送ることができるから、もうそのときには霊の飢え渇きは覚える必要はないんです。
ヨハネの黙示録の7章の16節から17節。一番最後ですね、

ヨハネの黙示録7:16-17
16彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17なぜなら、御座の正面におられる小羊

これはイエス様のことですね。御座の正面におられるイエス様

ヨハネの黙示録7:17
17が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

こういうふうな、すばらしい約束が神さまから私たちに与えられておりますから、本当のキリスト者、心からイエス様を信じている者は、イエス様がご自分を信じる者を天の御国に携え上げるために、もう一度来ると約束してくださったこの空中再臨、空中まで、信じる者を迎えに来てくださると、そこに私たちが引き上げられる空中再臨と申しますが、その日を心から待ち望むわけですね。
そういう理由からなんです。イエス様のご再臨をキリスト者は待ち望む。そういうわけなんです。同じく、

ヨハネの黙示録22:17
17御霊も花嫁も言う。

この花嫁というのは、イエス様が花婿で、イエス様を信じる者は花嫁。イエス様の花嫁という意味ですが、花嫁も言う。

ヨハネの黙示録22:17
17「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

このようにヨハネの黙示録には書いてあります。しかしながら、一方ではそのイエス様のご再臨の日には、神さまは霊的な、今度はききんを送るというふうに聖書に預言しておられます。
それは、イエス様のご再臨までのとき、すなわち、今申しました、信じるものはだれでも救われるという、その恵みのときのうちに、イエス様を信じなかった人々の上に、今度は霊的なききんを神さまは起こすというふうに仰ってますね。
で、その日が来たら、もう救いも、そして霊の満たしも与えられません。いくらそのときに霊の飢え渇きを覚えても、いくら神さまを求めても、もはや手遅れであるというふうに神さまは仰っております。

アモス書8:11-13
11見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
12彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。
13その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。

というふうに書かれております。
私たちは、この神さまの預言、仰せを、警告を厳粛に受け止めなければなりません。ですから、まだ神さまの救いにあずかっておられない方は、その日の来るまでに、聖書のコリント人への手紙第IIの6章2節せつに、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」と書いてありますけれども、そのように、神さまのあわれみと恵み、そして神さまの赦しと祝福が与えられる今の恵みの時のうちに、霊の飢え渇きを満たしてくださろうと、神さまがこの世に遣わしてくださった永遠のいのちのパンであり、永遠のいのちの水であるイエス様を受け入れる必要があるんですね。

ですからすでに、イエス様のいのちのパン、いのちの水にあずかって、霊の本当の喜びをもうすでに味わった、イエス様を信じた私たちは、今は恵みの時、今は救いの日と言われている、この今のうちに、まだその喜びをご存知なくて、この世のものだけを追い求めている、そこに満足を得たい、喜びを得ようと空虚を探し求めている、そういう方をイエス様のところに導かなくてはいけないと思いますね。
そのためにも私たち信者は、救われたときの赤ん坊のような、乳飲み子のような、幼い、霊的な状態に留まることなく、信仰が成長することをイエス様が心から望んでおられます。
イエス様は、先に救われた者をそのように用いようとしておられる。そのためには私たちの信仰は成長していなければいけない。大人の信仰を持っていなければいけないわけであります。
ヨハネの黙示録3章の17節。うっかりすると私たちは、もうイエス様を信じていて、それで満足しちゃっていることがあります。そうではない、自分が信仰の幼子でもあるにも関わらず、もう救われたっていうんで、それでいいと思ってしまっている場合がありますけれども、そういうキリスト者に向かって、イエス様はここで次のように仰っています。

ヨハネの黙示録3:17
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

このように仰ってます。すでにイエス様を信じるという恵みにあずかった者は、もし自分がイエス様の仰っているように、信仰的に、あるいはこの世的にもう自分の現状に満足して、それ以上の霊の成長を望まないのであれば、それは霊の飢え渇きのない状態、あるいは霊が眠った状態になっている。
そのような状態のキリスト者は、イエス様を心から閉め出しているということになるんです。

けれども、イエス様はそのような、眠ってしまっているようなキリスト者に対しても、愛をもって、呼びかけておられるのであります。

ヨハネの黙示録3:20
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

これは、まだ信じてない方にイエス様が仰ってるんじゃないんです。イエス様を信じているけれども、イエス様を心から閉め出してしまっているような信者に対して、イエス様は仰っているのであります。
ですからもし私たちが、自分の霊が衰えたために、虚しいこの世のものに思いが奪われてしまったということに少しでも気が付いて、そして、心の外に閉め出されたイエス様が、なお愛をもって、私たちの心を外からたたき続けてくださってる。その音が、じーっと耳をすまして、かすかにでも聞こえたならば、それは大変な恵みなんです。

そのときはただし、悔い改めて、何においても、扉のところへとんで行って、心の扉をイエス様に開けなければいけないと思います。そうしたときに、イエス様は喜んで、私たちの悔い改めを喜んでくださって、そして私たちの心にまた入ってくださるのであります。
そして私たちは、イエス様との親しい交わりを再び、取り戻すことができ、そのときに私たちの霊は満ち足りて、心からイエス様に感謝をささげ、そしてイエス様に従うことができるのであります。

最後にもう一度、一番最初に読んでいただいたみことばをお読みして終わりたいと思います。

詩篇42:1-2
1鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。




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