引用聖句:ヘブル人への手紙11章7節
今、兄弟に読んでいただきましたこのヘブル人への手紙の11章の7節から、今日は信仰による決断ということについてご一緒に考えてみたいと思います。 神さまのあわれみによって、私たちは御子イエス様を信じる恵みにあずかりました。そして神の子とされたわけですけれども、その私たちにも、毎日毎日の生活の歩みの中で色々なことが起こります。もう、次から次へと大小さまざまなことが起こります。 で、その中で、そのまま放っておいていいようなものもあるんですけれども、そうはいかない重要な問題、事がらについては、私たちはどうしたらいいかということを決断しなければいけないわけですね。 決断して処理をしなければいけないわけです。で、この世の人であればこのときの決断というのは当然、人間の知恵によってされます。 けれども神の子にされている私たちは、その場合に、右に行くか左に行くか、進むか止まるか、そういうふうな決断を自分の知恵によってではなく、信仰によって下さなければならないわけですね。 にも関わらず、ともすれば、そのようなときに私たちは自分自身の思いで物事を決めてしまうことが多いのではないでしょうか。私自身、そういうことが身にしみております。 で、今日は、私たち神の子がなすべき信仰的決断、信仰に基づく決断についてそれがどのようになされるべきであるか。また、信仰によって決断する者に対して主なる神の恵みがどんなものであるか、それについて聖書から考えてみたいと思います。 これから少し、今日はみことばをたくさん引用します。 まず信仰による決断というのは、どのようにしてなされなければならないかということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。 六つほどあります。 まず第一番目は、信仰による決断というのは祈りによってなされなければならないということであります。祈りによって決断しなければいけない。 そのお手本、大変模範的なお手本があります。それはイエス様のゲッセマネの祈りにおいて見られるものであります。 ルカの福音書22章の42節にその祈りが書かれております。このように主は祈っておられるわけです。 ルカの福音書22:42
神さまであって同時に人となって、私たちと同じ血と肉をもっておられたイエス様は、そのご自分の肉においては、できることならば、この十字架の苦しみは避けたいというふうに思われたわけです。 もちろんイエス様は人であると同時に神ですから、ご自分の力によってその杯を取り除くことは容易にお出来になった。ところがイエス様は、父なる神に、どうしたらよいでしょうかということを祈られて、その祈りによって決断を下されたんですね。 祈りによって決断をすべきであるということの見本、お手本であります。 二番目、信仰による決断には、みこころが問われなければいけない。もちろん最初のことと関連がありますけど、みこころが問われなければ決断を下すことができないということであります。 エペソ人への手紙5:15-17
私たち、この地上を歩む神の子らに対して、サタンの攻撃は非常に激しいですね。その中を私たちは日々歩んでいるわけです。 したがいまして、サタンの罠に陥らないためには、主のみこころをよく知る必要があります。 詩篇86:11
このようにみこころを問うこと。「あなたの道を私に教えてください。あなたのみころろを私に示してください。」ということですね。 詩篇143:8
私たちのたましいがイエス様を見上げて、たましいの目で、霊の目でイエス様をしっかりと見つめて、そしてイエス様からのみこころを私たちが問うこと、行くべき道がみこころによって示されること、それを主に問う必要があります。 信仰による決断にはみこころが問われなければなりません。 三番目、信仰による決断は御霊によってなされなければならない。御霊によって決断をしなければいけない。 ローマ人への手紙8:5-6
私たちは御霊に従う者であるはずです。したがいまして、私たちは信仰による決断は御霊によって、御霊から示されてすべきであります。 コリント人への手紙第I、2:11-12
コリント人への手紙第I、2:16
キリストの心、すなわち御霊によって私たちは決断をしなければいけないと思います。 四番目、信仰による決断はみことばに基づいてされることが必要であります。みことばに基づいた決断をしなければいけないということであります。 ヘブル人への手紙4:12
神のことばは生きていて、力があります。私たちの心のいろいろな考えやはかりごとを正しく判別することができます。神のみことばによって正しく判別することができる。 したがいまして、神のみことばによって私たちは物事を決断しなければなりません。 五番目、信仰による決断は疑わずに心から主に信頼してなされなければならない。疑わずに心から主に信頼してなされなければならない。 ヤコブの手紙1:5-6
主に信頼する。主の恵みを、主の私たちに対する愛を疑って、主に祈ってもなんにもなりません。 私たちをご自分のいのちをもって救い出してくださった、その私たちを愛してくださる主に、疑わずに信頼して決断をすることが必要であります。 六番目、信仰による決断は持続されなければいけない。続かなければいけないということです。 ルカの福音書9:61-62
イエス様のみことばによって祈って、御霊によって決断をくだした。「さあ、くだした決断を実行しよう。」と思っても、ちょっと待ってください。 それよりも先にこのことをしなきゃいけないということは、信仰による決断が持続することにはならないですね。 ここにありますように、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない。」と主が仰っておられます。 詩篇119:112
信仰によって示された決断は、主のみこころなんです。「私は、あなたのみこころを行なうことに心を傾けます。」というふうにこれを読み換えてもいいんです。いつまでも、終わりまでもです。 心を傾けるというのは一瞬じゃないんですね。心を傾け続けなければいけない。いつまでも。 一旦、主のみこころが示されて決断したならば、私たちは困難や試練に遭ったからといって、勝手に方針を変更したり、中止したりしてはいけません。 行き詰ったそのときにどうしたらいいか。そのときにはまた主に祈り、主のみこころを問い、みことばと御霊に導かれて、また決断をすればいいんです。 自分で勝手に中止したり、変更したりしては、信仰による決断をしたとは言えない。 信仰に基づく、信仰による決断をくだす基本的な要因っていうのはいったい何でしょうか。 それは、神の子とされた私たちのこの世にある間の日々の歩みというのは常に、常にいのちか死か、祝福かのろいか。言い換えれば、サタンか神かの選択の上に立っているからです。 どんな些細なことであっても、私たちは神の子としてそれを決断をしなければいけない。それは、必ずそこには神かサタンかのどちらかなんですね。そのことを私たちは知っております。 そしてさらに、そういう物事の決断をするには、いかに自分が頼りにならないか、いかに自分が愚かで無力であるかということを私たちはよく知っているから。 箴言14:12
本当にこれは真理であります。私たちがいくら自分の目で、肉の目で、「この道は正しい道だ。」というふうに自分で思って進んでも、結果的にはそれは、その道の終わりは死なんです。 「自分で決めてはダメだ。」ということです。「自分の判断で決めると大変なことになります。」ということです。 箴言20:24
と、ここに書かれているとおりであります。 私たちは聖書の中に多くの信仰の決断の例を見ることができますので、その例を、ニ、三ちょっと見てみたいと思います。 二通りありますね。信仰による決断が出来なかった例を始めにちょっと見てみたいと思います。マルコの福音書10章21節、22節。有名な例であります。 金持ちの青年がイエス様に聞きに来たところであります。 マルコの福音書10:21-22
彼は残念なことに、信仰によって決断出来なかった。いいところまで来たんですけど、イエス様のところに会いに来たところまでは良かったんです。 ところがそのときにイエス様に言われたことばは、「これは信仰によって決断しなさい。」ということなんです。それが彼には出来なかった。彼は肉によって決断してしまった。 それでは二番目に、信仰に基づく決断がなされた例をご紹介します。それは最初の聖句のヘブル人への手紙の11章の7節が一つです。ノアの例です。 ヘブル人への手紙11:7
神さまの声を聞いたときに、まだノアの住んでいる世界は、何の変化もなかったんですね。 その神さまの警告がまったくまだ形としては現われていなかった。洪水の気もなかったわけです。ですから世の中の人はそれこそ、「平和だ。」って言って、飲んだり食べたり、嫁いだり、楽しくやっていた。 そのときに神さまは、「箱舟を造れ。」、大変大きな箱舟ですね。 聖書を見ますとそれをノアは、人々から馬鹿にされながら神さまのみこころに従って造った。肉の思いではなくて、彼はまったく神のみこころに従って、従順に決断をくだし、それを実行したわけです。 もう一ヶ所。もう少しあとの、 ヘブル人への手紙11:24-25
彼のこの決断、これはまさに信仰による決断であります。肉による、人の思いによる決断だったらこんなこと出来るはずがないんです。 彼はパロの娘に育てられた。もう将来を約束された人の栄誉を手に握っていた人だったんですね。 けれどもモーセは、信仰による決断によってここにありますように、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選んだんです。 私たちが、信仰によって決断をくだそうとして主を仰ぎ見たときに、主はそれを本当に心から喜んでくださる。 そしてそのときに私たちに助言を与えてくださる。みこころを示してくださいます。そして正しい選択が出来るように、正しい決断が出来るように助けてくださいます。 なぜそんなことをしてくださるのか。一番最初にちょっと申し上げたように、それはご自分の血によって神の子としてくださった私たちを心から愛しておられるからです。 そしてまた、このことを通して主ご自身がご栄光を現わされるからであります。詩篇の32篇の8節。主は私たちが信仰的決断をしようと主を見上げたときに、このように仰ってくださいます。 詩篇32:8
さらに、こういうふうに仰っておられるわけです。 イザヤ書30:21
これは、私たちが主に心の目と耳を向けていないで、自分勝手に選択をしてるときは、こんなことはなさらない。 私たちが、「本当に無力で愚かで、自分では何にも正しい判断も決断も出来ない。イエス様。助けてください。どうしたらいいでしょうか。」と言って、心の目と耳を向けるときに、そのときに、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞くことができます。 詩篇91:15
私たちは本当に、人生において多くの決断をしなければならないときがあります。 しかし先ほど申し上げたように、この世の人ならばそれはおそらく、人の知恵で人に頼り、また自分の知恵に頼って決断をくだしてしまっていたと思うんですね。 しかも、それがきっと間違っていないと思っていました。けれども今や私たちはこの世の人ではない。 主によって生まれ変わった神の子であり、神の国を相続する相続権をいただいている者であります。 その私たちは人と同じように、世の人と同じように自分の知恵で決断をすることは出来ないということを知っていながら、つい忘れがちなんですね。 けれども私たちは常に何事も決断するときに、今申し上げたように、祈って、みこころを問うて、御霊とみことばによって正しい道を選ぶこと。 それは何よりも私たちをいのちに代えて救ってくださったイエス様が望んでおられます。 |