引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、4章3節-7節
司会の兄弟に読んでいただきましたこのみことばから今日は、神の御心はあなたがた、このあなたがたというのは、未信者を指しているのではなくて、テサロニケ教会の信者、ひいてはイエス様を主と信じる私たちを指しておりますが、そのあなたがたが、聖くなることです、ということにつきまして、ご一緒に考えてみたいと思います。 ここで言われております聖さというのは、最高の聖さ、崇められるべき聖さといいますか、すなわち神の聖さのことであります。 神の聖さというのは、いったいどれほどの聖さなのかですね。考えても私たちには見当もつきません。けれども、この聖さこそ神様のご性質そのものであり、神様の尊厳性、完全性を示す言葉でもあります。 したがって、人間が自分でどんなに頑張っても、どんなに努力しても、到底この聖さに到達することはできないのであります。 しかしながら神様は、神の聖さどころか、それとは対極にある罪の汚れに染まりきった、私たち人間に対して、ご自分の聖さにあずからせたいとお考えになったのであります。いったいどうしてでありましょうか。 それは、ご自分の子供のように愛し、親しい交わりをなさろうとお考えになって、お創りになった人間が、ご自分に背くという罪を犯し、滅びに定められているのも知らないでいるのを哀れに思われた神様が、私たち人間をもう一度、ご自分の元に立ち返らせ、滅びから救い出し、親しい交わりを回復しようとお考えになったからであります。 しかし、罪に汚れた人間が、そのままで聖い神様の御許に立ち返ることは許されません。そのためにはまず、罪が聖められることが絶対に必要であります。 けれども、この罪は私たち人間の身に、生まれながらに深く染み込んだ性質そのものでありますから、人間がいくら努力しても決して聖めることはできません。 ただ一つ、神様の御子イエス様の聖い血によってのみ、この罪を聖めることが可能なのであります。 神様は、そのためにイエス様を人として、私たちのところにお遣わしになり、十字架にお架けになったのであります。 そして、イエス様が十字架の上で流された尊い聖い血潮が、自分の罪を聖めてくださるためであったと、心から信じた者を神様は、良しとされて、聖く、傷なき者と認めてくださり、ご自分との交わりを回復してくださるのであります。 これについてパウロは、コロサイの信者宛の手紙の1章21節から22節に次のように書いております。 コロサイ人への手紙1:21
これは言うまでもなく神様の敵ですが、 コロサイ人への手紙1:21
この悪いというのも神の御心に反する行いを指しています、 コロサイ人への手紙1:21-22
イエス様を信じた私たち信者は、聖徒と呼ばれます。これは、御子イエス様の尊い血によって、聖め分かたれた者という意味であります。 しかしながら、神様の御心はこれで充分とはなさいません。罪と汚れから聖め分かたれた者を、さらに神様のご自分のご性質であるところの聖さにあずからせる者として、成長させようとなさいます。なぜでしょうか。 ヨハネの黙示録22章10節から11節にその理由が記されております。 ヨハネの黙示録22:10-11
ここで言われている時というのは、言うまでもなくご再臨の時であります。 2,000年前にイエス様が、人となってこの世に来られた目的は、先ほどのみことばにありますように、神様に背いている人間をご自分の尊い血によって聖め、神様と和解させるためでありました。 しかし、今度は、イエス様を信じた聖徒を天に携え上げるために、空中まで迎えに来てくださる、そのため、そしてまたその後にはイエス様の救いの御手を、最後まで拒み続ける人々を裁くために、地上までおいでになるのであります。 これが2度のご再臨と言ってもいいと思いますが、空中再臨と地上再臨ですね。そして、御使いはその時が近づいていると言っているのであります。 そして、聖徒が天に携え上げられるためには、ご自分のご性質である聖さにあずからせ、ますます聖なる者とされること、すなわち聖化が必要であると御使いは言っているのであります。 今の世界は、このみことばの通り、不正を行なう者はますます不正を行なっており、罪に汚れた者はますます罪の汚れを増し加えております。 私たちの目や耳に毎日入ってくるニュースを通しても、何という汚れに満ちた暗黒の世の中であるかを、嫌というほど思い知らされます。 しかし、聖徒とされた私たち信者は、神様がこれらのことを通して、聖書に預言されているところの、世の終わりに起こるご再臨の時が、いよいよ近づいているという証拠を、私たち信者に示してくださっているのだと知ることができます。 ですから、この時にあって、私たち聖徒は、今のみことばにありますように、御使いの勧告を真剣に受け止めて、いよいよ聖なる者とされるようにと切に祈る必要があります。 しかしながら、聖徒がいよいよ聖なる者とされるということ、すなわち聖化とは、具体的にはいったいどんな状態になることなのでありましょうか。 一言でいえば、それはイエス様に似る者、言い換えますと、イエス様のようなご性質を持つ者とされるということであります。 この世に人として来られたイエス様は、神の御子として父なる神様とともに、天地万物をお創りになったほどの偉大な力をお持ちであり、どんなことでもお出来になる全知全能のお方でありますのに、人としてこの世にお生まれになって、ご自分を無にして、父なる神様の御心に従われ、神様に背いて自分勝手な生き方をしてはばからない私たち人間を、罪から贖い出すために、十字架の死にまでも従われました。 ピリピ人への手紙2:6-8
神様に対する全き従順、神様の御心に忠実に死にまでも従うほどの従順、このイエス様のご自分を無にしてまでも神様に、そして私たちのような、神様に背きわがまま勝手に生きている人間に仕えるという、この主のご性質に似るように、私たちが成長すること、これが聖徒が聖化するということであります。 したがって、さきほどのヨハネの黙示録のみことばは、ご再臨の迫っている今、この時に、主によって聖めていただいた私たち信者は、ますます主の御心に忠実に従って、さらに聖なる者、聖化へと成長しなさいという意味であります。 これこそ主が、今私たち信者に望んでおられることなのであります。 しかし、どのようにして、聖徒がますます聖なる者へと成長することが出来るのでありましょうか。 この世に置かれている私たち信者は、恵みによって聖徒とされておりましても、なお肉の衣を着ておりますがために、自我の思いがまだまだ根強く残っており、そのために、主によって聖められた私たちの霊は、主の御心に従いたいと思ってはいても、私たちの肉は、肉がそれに逆らい、悪と汚れに満ちたこの世に大変惑わされやすい、罪を犯しやすい、そのような弱い者であることは、私たち自身が痛いほど知っております。 パウロも自分の中に生じる霊と肉との葛藤について、苦しんで次のように嘆いております。 ローマ人への手紙7:18
肉というのは自我のうちと言ってもいいでしょうね、 ローマ人への手紙7:18
善というのは、これも言うまでもなく神様の御心に従うことでありますが、このように、私たち聖徒に残っている肉の性質であるところの自我こそが、聖化を阻む最大の原因なのではないかと思います。 しかし、主は私たち信者の弱さをよくご存知であります。そして、その弱い者をイエス様に似るように聖化へと成長させるために、2つのすばらしい恵みを、私たち信者に与えてくださいました。 その一つは、イエス様の御霊であります。もう一つは、試練であります。 まず御霊の恵みを考えてみますと、主は、私たち信者のうちに御霊として宿ってくださり、私たちを日々導いてくださいます。 そのことは、私たちが日々体験しているところではないでしょうか。 イエス様は、生前、御霊について、弟子たちに次のように約束なさいました。 ヨハネの福音書15:26
ヨハネの福音書16:13-14
このようにイエス様が約束しておられます。 またパウロは、ガラテヤ人への手紙5章16節から17節で、次のように言っております。 ガラテヤ人への手紙5:16-17
自分の霊がしたい、 ガラテヤ人への手紙5:17
このようにパウロは、私たち聖徒がますます聖なる者に成長するには、どうしても御霊の導きが必要であるということを強調しております。 もし私たち聖徒が、日々の信仰生活において御霊に満たされ、御霊のお導きにしっかりと従って、信仰の歩みを続けるならば、このみことばのように、肉の思いを抑えて聖なる者へと成長することができるでありましょう。 しかし、現実にはどうでしょうか。それがいかに困難であるかを、私たち聖徒は、思い知らされております。 しかし、どんなに肉に負けてしまうような弱い自分自身であっても、それでは仕方がないやと諦めることはありません。諦めてしまってはいけないのであります。 自分のような者でも、主の一方的な恵みと憐れみによって主のものとされ、やがてこの汚れた世から、苦しみも涙もない聖い天の御国に、携え上げていただける幸いな者であることを、もう一度私たちはしっかりと認識して、そしてその自分を主にお委ねすれば、必ず御霊が働いてくださり、徐々に私たちの思いや行いを聖め、導いてくださると信じます。 2つ目の恵みは、私たちに与えられる試練であります。しかし、試練がどうして恵みなのでありましょうか。これについて、ヘブル人への手紙には次のようにあります。これもよく読まれる箇所であります。 ヘブル人への手紙12:4-10
主の懲らしめは、御心に従うことを拒み、自分の肉の思いを満たしたいという、私たち聖徒に根強く残っている頑なな自我を砕き、主に自分を明け渡すために必要な訓練であり、主の愛の鞭であり、これはまさに恵みなのであります。 試練によって自我が砕かれ、自分を主に完全に明け渡したパウロは、次のように証しすることができました。 ガラテヤ人への手紙2:20
こうして私たち聖徒が、自我が砕かれ、自分を主に明け渡した時に、私たち聖徒のうちに住んでくださっている主の御霊が働いてくださり、私たちをさらに聖なる者へ、イエス様に似た者へと成長させてくださるのであります。 コリント人への手紙第II、3:18
では、私たち聖徒の聖化は、いつ完成するのでありましょうか。 それは、イエス様のご再臨の時であります。 ヨハネの手紙第I、3:2
ご再臨の時に、イエス様がおいでになった時に、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 このようにイエス様のご再臨の時に、イエス様に完全に似た者、すなわちイエス様と同じような聖さを持つようになった私たちは、聖なるイエス様に直接、顔と顔とをあわせてお会いすることができるのであります。 なんというすばらしいことではないでしょうか。 そして、その時が間近かに迫っている今、私たち聖徒はさらに自我が砕かれ、日々御霊に満たされ、導かれて、ご再臨を待ち望む備えを、霊肉ともにしっかりと整えることこそが、今私たち聖徒に最も求められていることではないかと思います。 最後にテサロニケ人への手紙第I、5章23節から24節をお読みして終わりたいと思います。 テサロニケ人への手紙第I、5:23-24
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