汚れた唇と清められた唇


重田兄

(吉祥寺学び会、2011/06/28)

引用聖句:イザヤ書6章1節-7節
1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
4その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

今、読んでいただきましたイザヤ書の箇所から、今日は「汚れた唇と聖められた唇」というテーマにつきまして、ご一緒に学んでみたいと思います。
イザヤは、紀元前8世紀の北イスラエルの偉大な預言者であります。今のみことばで、イザヤが言っておりますように、彼は神様を自分の目で見てしまいました。
その時に彼がまず思ったことは、自分のような唇の汚れた者が神様を見てしまった。だからもう自分は死ぬということでありました。神様を見た者は死ぬということは、すでにずっと昔、神様がモーセに仰せになっております。

出エジプト記33:20
20また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

このようにあります。ですから、イスラエルの民は神様を見るということをたいそう恐れておりました。見たら死んでしまう。
人間が神様を見たら生きていることができません。なぜならば、私達人間は誰ひとり、神様の前に正しくなく、清くない者だからであります。
正しくなく、清くない者が完全に正しい聖い神様をこの目で見ることを、神様はお許しにならないのであります。

イザヤは、唇が汚れていると言いました。唇が汚れるとはいったいどういうことでありましょうか。それは唇から出る言葉が汚れているからであり、そして言葉が汚れているのは、その言葉が汚れた心から出てくるからであります。
すなわち心が汚れていれば、その汚れた心を表す言葉によって、唇も舌も口も汚れるのであります。
イエス様はこれについて、次のように仰っておられます。

マタイの福音書15:18-19
18しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
19悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。

この心の汚れは、神様に対する罪の結果として生じたものであります。
そして、私達人間はすべて神様の仰せに背いてエデンの園から追放された最初の人であるところのアダムの子孫として、アダムの遺伝子を受け継いでおり、従っていやおうなくアダムの罪の性質を持って生まれておりますために、たとえ表面は取り繕っておりましても、生まれつきの口、生まれつきの心は悲しいことに汚れた言葉しか出すことが出来なくなってしまったのであります。
このように神様に従わず、自分を主張し、自我によって生きる者となってしまった人間の唇から出る言葉が、どのようなものであるかを聖書から見てみたいと思います。

詩篇17:10
10彼らは、

神様に対して、

詩篇17:10
10鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。

詩篇12:2-4
2人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。
3主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。
4彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」

詩篇10:7
7彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。

私達が素直に自分の心を省みた時に、自分の唇から出る言葉は、みことばで言われている通り、呪いやへつらいや欺瞞や虚偽や悪意や高慢によって汚されたものがいかに多いかということを、認めざるを得ないのではないでしょうか。
このような言葉が私達の唇から出てくる訳は、先ほども申しましたように、私達がそのような言葉を出してしまう、生まれつき心が汚れた人間だからなのであります。
どんなに自分は清い、どんなに自分は善良であると思っている人であっても、自分の心の中をよく見つめた時、そこに一点の汚れもないと言いきれる方はおられないと思います。

さて、私達人間の口や舌や唇にはいったいどんな働きがあるでしょうか。それらは食べ物を食べる働き、あるいは言葉を話す働きであります。
しかしながら、神様はこれらの器官を医学的な目的以上に、大切なことのためにお用いになろうと、私達人間をお造りになったのであります。
それは、ご自分と交わるためであります。神様と交わるために使うことが、私達人間の口、舌、唇の霊的な本来の正しい働きなのであります。

ところが、創世記に記されておりますように、アダムとエバはサタンに誘惑されて、神様からエデンの園の中でこの木の実だけは食べてはいけないと言われた禁断の木の実を神の仰せに背いて食べてしまい、その時から人間の心に罪が入った結果、神様と交わるべき口、舌、唇を自分の欲を満たすために、自分の考えを主張するために、そして人と争ったり、人を裁いたりするために使うようになってしまったのであります。
こうして私達の口、舌、唇はそのような肉的な目的に用いる、汚れた言葉を出すようになってしまいました。
しかも私達人間は、イエス様の光に照らされるまでは、それを特に悪いともおかしいとも思いません。どうしてでしょうか。それは私達の霊の目が神様への背きの罪のために閉ざされてしまっていたからであります。

こういうわけで、肉の目は見えても霊的に盲目である私達人間は、自分が罪に汚れていることが見えません。ですから、汚れた人間の口から汚れた言葉が出てくるのは当然でありましょう。
しかしこのような霊的盲目の私達が神様の光に照らされますと、自分の唇が汚れていることに、言い換えますと自分の罪に気づいて神様を恐れるようになります。
最初に読んでいただきましたみことばにあるイザヤは、まさにこの体験をしたんですね。

では、イザヤの恐れたように、神様はイザヤを滅ぼされたのでありましょうか。そうではありませんでした。最初に読んでいただいたみことばを見ますと、セラフィムすなわち天使が火を彼の唇にあてたとあります。
この火は、汚れを焼き清めるものであり、この火は神様の御手の力であるところの御霊の火であります。
私達人間は、自分の罪を自分で聖めることは決して出来ません。人間の側からどうすることもできないこの汚れと背きの罪は、神様の側から一方的なあわれみと恵みによって、神様の御手によってのみ清められるのであります。

イザヤも神様の御手によって罪が清められ、同時に彼の唇も清められました。
ではなぜ、神様はイザヤの唇を清められたのでありましょうか。イザヤの唇を清められた神様の御心とはいったい何でありましょうか。
それは、冒頭のみことばに続くイザヤ書6章8節に記されております、神様とイザヤの問答によって知ることができます。

イザヤ書6:8
8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

神様がイザヤの唇を清められたのは、罪から人間を救うために、神の御子をこの世に遣わすというメッセージをイスラエルの民に、ひいては世界のすべての人間に告げるのにふさわしい唇とするためでありました。
そこで神様はイザヤに、「私は、だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と仰せになったのであります。
もちろん我々とは主なる神様と、神の御子であるイエス様を指しておられます。

イザヤは清められた唇によって、さっそく神様に「私を遣わしてください。」と答えました。
そして、それからの彼の唇は、神様のメッセージを正しく伝えることに使われるようになったのであります。
こうしてイザヤの清められた唇は、神様に対する私達人間の背きの罪を身代わりに負って、神様から罰を受けてくださるために人となって、この世に来てくださるイエス様について、神様に命じられるままに、次のように預言をいたしました。

イザヤ書9:6-7
6ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤ書53:1-6
1私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

神様がイザヤの清められた唇を用いて、このように約束して下さったとおり、神の御子イエス様は約2,000年前に、この世に人としておいでくださり、十字架と復活による救いの御業を成就してくださったのであります。
幸いなことに、私達キリスト者も、イザヤと同じように一方的な神様のあわれみによって救いの対象に選ばれ、イエス様を信じる者となさせていただきました。
では、イエス様の十字架の贖いの御業を信じることによって、罪が清められてから私達の唇から出る言葉は、それまでとはどのように違うようになったのでありましょうか。

いくつか考えてみたいと思いますが、一つは、私達の清められた唇はイエス様を救い主と告白する言葉を出すことができるようになったということであります。

ローマ人への手紙10:9-10
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

このみことばの通り、聖霊によって清められた私達の霊が、イエス様を救い主として信じ、それを私達の唇から告白することができたのであります。
2番目に、私達の清められた唇から、神様、イエス様を賛美する言葉がでるようになりました。

ヘブル人への手紙13:15
15ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

私達の清められた唇は、イエス様が自分のためにしてくださった十字架の贖いの御業を始めとする、数々の身にあまる恵みをいただいて、感謝と賛美を捧げる言葉を出すことが出来るようになったのであります。
3番目、私達の清められた唇は、神様、イエス様に祈る言葉を出すことが出来るようになりました。

詩篇17:1
1主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。

このように私達は、神様、イエス様に向かって自分の心の内にある思い、苦しみ、悩み、悲しみ、あるいは喜びを隠すことなく、素直に唇から出して祈ることができるようになりました。
4番めに、私達の清められた唇は、聖書のみことばを口ずさむようになりました。

詩篇1:1-2
1幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
2まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

5番目に、私達の清められた唇は、イエス様の福音の良きしらせ、福音を証をする言葉を出すことができるようになりました。

詩篇40:9
9私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。

神様はイザヤだけではなく、神様の御手、すなわちイエス様ご自身のいのちによって罪が清められ、神様との交わりが回復され、唇が清められたすべての者に対して、その唇をもって神の救いのメッセージ、福音のメッセージを語り伝えるように心から望んでおられます。
イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と神様に答えました。しかし、イエス様を信じた私達は、はたしてイザヤのように言えるでありましょうか。
「自分にはとてもできない。自分にはそのような知識も力もない。」としりごみされる方もあるいはおられるのではないでしょうか。けれども、それは違います。

モーセの例を見てみましょう。
彼は、神様から「わたしのことばをイスラエルの民に伝えよ。」と言われた時に、彼は「私は舌が重く、ことばの人ではないから。」としり込みをしております。
しかし、神様は次のようにモーセに仰せになりました。

出エジプト記4:11-12
11主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
12さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

このように神様が、清められ開かれたモーセの口に語るべき言葉を主が、神様が教えてくださるのであります。
預言者エレミヤの場合もそうでありました。

エレミヤ書1:5-9
5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
6そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
7すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
8彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
9そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

ここでも神様は、エレミヤの口に御手を触れて、彼の口を清められ、神様のメッセージを語れるようにしてくださったのであります。
このように神様は、年齢や舌のなめらかさや聖書の知識の有無や資格や信仰歴の長さなどに関係なく、清めてくださった者の口を神様のメッセージを伝えるために用いられるのであります。
しかし、イエス様によって清められた私達キリスト者は、いつも自分の口から出す言葉に注意していなければなりません。

その訳は、私達の唇から出る言葉が、私達の霊的状態の良し悪しを表すサインとなるからであります。
霊がイエス様としっかり結びついていれば、私達の唇からは清い言葉が出てきます。けれども、イエス様から少しでも離れますと、たちまち汚れた言葉が出るようになります。
これは私自身のことを言っているのです。ヤコブの手紙には次のように記されています。

ヤコブの手紙3:8-10
8しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

ヤコブはこのように、イエス様を信じる私達を戒めております。
ここには嘆かわしいことに、神様を賛美する舌で、主にある兄弟姉妹を裁くキリスト者がいると、ヤコブの手紙に記されているのです。
確かに私達には、自分の力で舌や唇を制御することはできません。けれども、イエス様にしっかり結びついてさえいれば、御霊が私達の中に住んでくださっている御霊が働いて、私達の唇を制御してくださいます。

せっかくイエス様によって清められた私達信者の唇が、神様を悲しませるような言葉を出して汚されないために、イエス様を信じる私達は、心して意識してイエス様から離れないようにしっかりと霊の目をイエス様に向け続け、真近に迫ったイエス様のご再臨の日を待ち望みながら、御霊のお導きに従って、日々清められた唇をもって、主を証し、主を賛美し信仰の歩みを歩みたいと切に思うしだいであります。
最後にみことばをお読みして、終わりにいたします。

詩篇141:3
3主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

詩篇63:3
3あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。




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