引用聖句:イザヤ書6章1節-7節
今、読んでいただきましたイザヤ書の箇所から、今日は「汚れた唇と聖められた唇」というテーマにつきまして、ご一緒に学んでみたいと思います。 イザヤは、紀元前8世紀の北イスラエルの偉大な預言者であります。今のみことばで、イザヤが言っておりますように、彼は神様を自分の目で見てしまいました。 その時に彼がまず思ったことは、自分のような唇の汚れた者が神様を見てしまった。だからもう自分は死ぬということでありました。神様を見た者は死ぬということは、すでにずっと昔、神様がモーセに仰せになっております。 出エジプト記33:20
このようにあります。ですから、イスラエルの民は神様を見るということをたいそう恐れておりました。見たら死んでしまう。 人間が神様を見たら生きていることができません。なぜならば、私達人間は誰ひとり、神様の前に正しくなく、清くない者だからであります。 正しくなく、清くない者が完全に正しい聖い神様をこの目で見ることを、神様はお許しにならないのであります。 イザヤは、唇が汚れていると言いました。唇が汚れるとはいったいどういうことでありましょうか。それは唇から出る言葉が汚れているからであり、そして言葉が汚れているのは、その言葉が汚れた心から出てくるからであります。 すなわち心が汚れていれば、その汚れた心を表す言葉によって、唇も舌も口も汚れるのであります。 イエス様はこれについて、次のように仰っておられます。 マタイの福音書15:18-19
この心の汚れは、神様に対する罪の結果として生じたものであります。 そして、私達人間はすべて神様の仰せに背いてエデンの園から追放された最初の人であるところのアダムの子孫として、アダムの遺伝子を受け継いでおり、従っていやおうなくアダムの罪の性質を持って生まれておりますために、たとえ表面は取り繕っておりましても、生まれつきの口、生まれつきの心は悲しいことに汚れた言葉しか出すことが出来なくなってしまったのであります。 このように神様に従わず、自分を主張し、自我によって生きる者となってしまった人間の唇から出る言葉が、どのようなものであるかを聖書から見てみたいと思います。 詩篇17:10
神様に対して、 詩篇17:10
詩篇12:2-4
詩篇10:7
私達が素直に自分の心を省みた時に、自分の唇から出る言葉は、みことばで言われている通り、呪いやへつらいや欺瞞や虚偽や悪意や高慢によって汚されたものがいかに多いかということを、認めざるを得ないのではないでしょうか。 このような言葉が私達の唇から出てくる訳は、先ほども申しましたように、私達がそのような言葉を出してしまう、生まれつき心が汚れた人間だからなのであります。 どんなに自分は清い、どんなに自分は善良であると思っている人であっても、自分の心の中をよく見つめた時、そこに一点の汚れもないと言いきれる方はおられないと思います。 さて、私達人間の口や舌や唇にはいったいどんな働きがあるでしょうか。それらは食べ物を食べる働き、あるいは言葉を話す働きであります。 しかしながら、神様はこれらの器官を医学的な目的以上に、大切なことのためにお用いになろうと、私達人間をお造りになったのであります。 それは、ご自分と交わるためであります。神様と交わるために使うことが、私達人間の口、舌、唇の霊的な本来の正しい働きなのであります。 ところが、創世記に記されておりますように、アダムとエバはサタンに誘惑されて、神様からエデンの園の中でこの木の実だけは食べてはいけないと言われた禁断の木の実を神の仰せに背いて食べてしまい、その時から人間の心に罪が入った結果、神様と交わるべき口、舌、唇を自分の欲を満たすために、自分の考えを主張するために、そして人と争ったり、人を裁いたりするために使うようになってしまったのであります。 こうして私達の口、舌、唇はそのような肉的な目的に用いる、汚れた言葉を出すようになってしまいました。 しかも私達人間は、イエス様の光に照らされるまでは、それを特に悪いともおかしいとも思いません。どうしてでしょうか。それは私達の霊の目が神様への背きの罪のために閉ざされてしまっていたからであります。 こういうわけで、肉の目は見えても霊的に盲目である私達人間は、自分が罪に汚れていることが見えません。ですから、汚れた人間の口から汚れた言葉が出てくるのは当然でありましょう。 しかしこのような霊的盲目の私達が神様の光に照らされますと、自分の唇が汚れていることに、言い換えますと自分の罪に気づいて神様を恐れるようになります。 最初に読んでいただきましたみことばにあるイザヤは、まさにこの体験をしたんですね。 では、イザヤの恐れたように、神様はイザヤを滅ぼされたのでありましょうか。そうではありませんでした。最初に読んでいただいたみことばを見ますと、セラフィムすなわち天使が火を彼の唇にあてたとあります。 この火は、汚れを焼き清めるものであり、この火は神様の御手の力であるところの御霊の火であります。 私達人間は、自分の罪を自分で聖めることは決して出来ません。人間の側からどうすることもできないこの汚れと背きの罪は、神様の側から一方的なあわれみと恵みによって、神様の御手によってのみ清められるのであります。 イザヤも神様の御手によって罪が清められ、同時に彼の唇も清められました。 ではなぜ、神様はイザヤの唇を清められたのでありましょうか。イザヤの唇を清められた神様の御心とはいったい何でありましょうか。 それは、冒頭のみことばに続くイザヤ書6章8節に記されております、神様とイザヤの問答によって知ることができます。 イザヤ書6:8
神様がイザヤの唇を清められたのは、罪から人間を救うために、神の御子をこの世に遣わすというメッセージをイスラエルの民に、ひいては世界のすべての人間に告げるのにふさわしい唇とするためでありました。 そこで神様はイザヤに、「私は、だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と仰せになったのであります。 もちろん我々とは主なる神様と、神の御子であるイエス様を指しておられます。 イザヤは清められた唇によって、さっそく神様に「私を遣わしてください。」と答えました。 そして、それからの彼の唇は、神様のメッセージを正しく伝えることに使われるようになったのであります。 こうしてイザヤの清められた唇は、神様に対する私達人間の背きの罪を身代わりに負って、神様から罰を受けてくださるために人となって、この世に来てくださるイエス様について、神様に命じられるままに、次のように預言をいたしました。 イザヤ書9:6-7
イザヤ書53:1-6
神様がイザヤの清められた唇を用いて、このように約束して下さったとおり、神の御子イエス様は約2,000年前に、この世に人としておいでくださり、十字架と復活による救いの御業を成就してくださったのであります。 幸いなことに、私達キリスト者も、イザヤと同じように一方的な神様のあわれみによって救いの対象に選ばれ、イエス様を信じる者となさせていただきました。 では、イエス様の十字架の贖いの御業を信じることによって、罪が清められてから私達の唇から出る言葉は、それまでとはどのように違うようになったのでありましょうか。 いくつか考えてみたいと思いますが、一つは、私達の清められた唇はイエス様を救い主と告白する言葉を出すことができるようになったということであります。 ローマ人への手紙10:9-10
このみことばの通り、聖霊によって清められた私達の霊が、イエス様を救い主として信じ、それを私達の唇から告白することができたのであります。 2番目に、私達の清められた唇から、神様、イエス様を賛美する言葉がでるようになりました。 ヘブル人への手紙13:15
私達の清められた唇は、イエス様が自分のためにしてくださった十字架の贖いの御業を始めとする、数々の身にあまる恵みをいただいて、感謝と賛美を捧げる言葉を出すことが出来るようになったのであります。 3番目、私達の清められた唇は、神様、イエス様に祈る言葉を出すことが出来るようになりました。 詩篇17:1
このように私達は、神様、イエス様に向かって自分の心の内にある思い、苦しみ、悩み、悲しみ、あるいは喜びを隠すことなく、素直に唇から出して祈ることができるようになりました。 4番めに、私達の清められた唇は、聖書のみことばを口ずさむようになりました。 詩篇1:1-2
5番目に、私達の清められた唇は、イエス様の福音の良きしらせ、福音を証をする言葉を出すことができるようになりました。 詩篇40:9
神様はイザヤだけではなく、神様の御手、すなわちイエス様ご自身のいのちによって罪が清められ、神様との交わりが回復され、唇が清められたすべての者に対して、その唇をもって神の救いのメッセージ、福音のメッセージを語り伝えるように心から望んでおられます。 イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と神様に答えました。しかし、イエス様を信じた私達は、はたしてイザヤのように言えるでありましょうか。 「自分にはとてもできない。自分にはそのような知識も力もない。」としりごみされる方もあるいはおられるのではないでしょうか。けれども、それは違います。 モーセの例を見てみましょう。 彼は、神様から「わたしのことばをイスラエルの民に伝えよ。」と言われた時に、彼は「私は舌が重く、ことばの人ではないから。」としり込みをしております。 しかし、神様は次のようにモーセに仰せになりました。 出エジプト記4:11-12
このように神様が、清められ開かれたモーセの口に語るべき言葉を主が、神様が教えてくださるのであります。 預言者エレミヤの場合もそうでありました。 エレミヤ書1:5-9
ここでも神様は、エレミヤの口に御手を触れて、彼の口を清められ、神様のメッセージを語れるようにしてくださったのであります。 このように神様は、年齢や舌のなめらかさや聖書の知識の有無や資格や信仰歴の長さなどに関係なく、清めてくださった者の口を神様のメッセージを伝えるために用いられるのであります。 しかし、イエス様によって清められた私達キリスト者は、いつも自分の口から出す言葉に注意していなければなりません。 その訳は、私達の唇から出る言葉が、私達の霊的状態の良し悪しを表すサインとなるからであります。 霊がイエス様としっかり結びついていれば、私達の唇からは清い言葉が出てきます。けれども、イエス様から少しでも離れますと、たちまち汚れた言葉が出るようになります。 これは私自身のことを言っているのです。ヤコブの手紙には次のように記されています。 ヤコブの手紙3:8-10
ヤコブはこのように、イエス様を信じる私達を戒めております。 ここには嘆かわしいことに、神様を賛美する舌で、主にある兄弟姉妹を裁くキリスト者がいると、ヤコブの手紙に記されているのです。 確かに私達には、自分の力で舌や唇を制御することはできません。けれども、イエス様にしっかり結びついてさえいれば、御霊が私達の中に住んでくださっている御霊が働いて、私達の唇を制御してくださいます。 せっかくイエス様によって清められた私達信者の唇が、神様を悲しませるような言葉を出して汚されないために、イエス様を信じる私達は、心して意識してイエス様から離れないようにしっかりと霊の目をイエス様に向け続け、真近に迫ったイエス様のご再臨の日を待ち望みながら、御霊のお導きに従って、日々清められた唇をもって、主を証し、主を賛美し信仰の歩みを歩みたいと切に思うしだいであります。 最後にみことばをお読みして、終わりにいたします。 詩篇141:3
詩篇63:3
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