引用聖句:詩篇40篇8節
今、司会の兄弟に読んでいただきました、この詩篇40篇というのは、イスラエルの王のダビデが歌った賛美の歌であります。 ダビデはこのように神様の御心を行なうことが、自分の喜びとなっているという風に神様に感謝いたしました。 今日は、神様の御心に従うことを喜びとする大切さと、どうしたらそのようになれるかということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。 この問題を考えるにはまず、愛と恵みに富み給う創造主なる神様が、何のために愛するご自分のひとり子の神であるイエス様を、人としてこの世に遣わし、十字架にはり付けにされたのか、ということを知る必要があります。 皆様方の中には、「そんなことは分かっている。神様がご自分に対する背きの罪によって、滅びの死に定められている私たち人間を哀れんでくださってそして、御子イエス様を罪の身代わりに十字架に架けて、私たちの罪を許してくださるためだろう。」と、おっしゃる方が少なくないと思います。 全く、その通りなんです。 しかしながら、ただ、人間の罪の赦しのためにだけ、神の御子の尊い血が流されたのではないんです。十字架の贖いのみわざは、単に人間の罪の赦しのためにだけなされたのではありません。では、いったい何のためでありましょうか。 それにはまず、神様が人間をお造りになられた目的を知らなければなりません。 親を心から愛する親孝行の子どもは、自分を愛してくれる親を喜ばすことによって、親の喜ぶ顔を見ると自分も嬉しくなります。 残念なことに、親孝行という言葉は久しく耳にしなくなりましたけれども、神様は正にそのような親しい親子の関係をお望みになって、最初の人間アダムを創造されたのであります。 ところがアダムはサタンにそそのかされて、その結果、神様の御心を守り行なうことを喜ぶどころか、神様の御心に逆らい、自分の思いを満たすことを喜ぶ、という神様に対する背きの罪を犯してしまいました。そのために神様の怒りを受けることになってしまったのであります。 その結果、人間は死ぬべき者と神様に定められたんですね。 しかも神様に背いたその時から、アダムの中に入った罪はアダムの罪の遺伝子として、アダムの子孫である私たち人間すべてに受け継がれたために、人間は神様の御心に従うことを喜ぶのではなく、自分の肉の願望を満たすことに喜びを覚えるという、罪の性質を持って生まれついてしまったのであります。 神様がご自分の御子を十字架に架けられたのは、このように神様から離れ背いた人間を罪のの中から救い出し、再び神様を愛し神様の仰せを守り行なうことを喜びとするような神のの子どもにふさわしい人間、そして神様と共に永遠に生きる人間として、神様のみもとに立ち返らせるためでありました。 ご自分の愛の対象としてお造りなったにもかかわらず、神様に背いた人間に対して、そのような御心を持って、御子イエス様を私たちの罪の身代わりにしてまでも、私たちを救い、ご自分の許に立ち返らせ、創造した初めから望んでくださったように、人間に対して親と子のような考えられないほどの特権を、私たち再び与えようと望んでくださるということは、何という哀れみ深い神様のご愛でありましょうか。 以上のように、人間に対する神様の救いの目的は、私たちの犯した背きの罪によってもたらされた、死と滅びからの救出だけではありません。 御子イエス様を救い主と信じ、神様の憐れみによって、神様の子どもという特権を与えられた者が、神様の深い愛の御心を知って、その御心に従うことを自分の喜びとすることであります。これが私たち人間を限りない愛をもって愛し続けてくださる主なる神様の御心なのであります。 御子イエス様が十字架におかかりになったのは正に、この神様の御心のためでありました。これについてパウロはコリントの教会の信者に宛てた手紙で次のように言っております。 コリント人への手紙第II、5:15
すなわち、イエス様 コリント人への手紙第II、5:15
パウロの言う通り、イエス様を信じる者はもやは自分のために生きるのではなく、自分のために十字架にかかって、罪の代価を支払ってくださり、また復活されて永遠の命を与えてくださったイエス様のために生きるのであり、これこそ神様の御心喜ばす神の子どもとされたキリスト者の生き方なのであります。 しかし、そのためには肉の思いを満たすことだけを考え、それを喜びとするという自己中心のわがままに満ちた自分に、はっきりと気が付かなければなりません。そして、そのわがままが神様の御前に粉々に砕かれる必要があります。 人が心砕かれて、神の前にどうしようもない自己中心の傲慢な者である、そういう自分を知った時に、初めて神様の前に人はへりくだることが出来、そのような自分を主のご支配にお委ねしたい、と 初めて願うようになることが出来るからであります。 次に、信じる者のうちに住んでくださっている御霊によって、キリスト者の霊が強められ導かれる、ということがどうしても必要になります。 なぜならば御霊を宿しているキリスト者も、この世に置かれている間はなお、肉の衣を着ているために、自分を主に明け渡したつもりでも、依然として肉の欲望によって動かされ易いからであります。ですから、パウロは次のように私たちキリスト者に勧めております。 ガラテヤ人への手紙5:16-25
肉の衣を着ております私たちキリスト者は、パウロが勧めておりますように、いつも御霊に拠り頼み御霊の力によって強められて、肉の欲望の一つ一つに打ち勝って、霊的に成長することができるように、日々祈り続けることがどうしても必要であります。 次に信者が神様の御心を喜ばすには、信じたことによって罪の奴隷から解放され、与えられた自由を神様に従うために用いることを自分の喜びとすることであります。 神様はイエス様を信じる者に完全な自由を与えてくださいました。そのことはイエス様が次のようにおっしゃっている通りであります。 ヨハネの福音書8:36
イエス様はこのように、信じる者に約束をしてくださっております。 みことばの通り、イエス様を信じた瞬間に、私たちは罪の束縛から完全に解放されて、罪からも死からも自由になったのであります。しかしもし私たちがその自由を、自分の思いのままに使えば、また罪を犯すことになります。 ペテロはイエス様によって信じる者に与えられた自由を、どのように用いるかについて、初代教会の信者に次のように勧めております。 ペテロの手紙第I、2:16
また、パウロはローマの信者に宛てた手紙の中で、ペテロの言っております神の奴隷と同じ意味で、義の奴隷という言葉を使って、次のように言っております。 ローマ人への手紙6:17-19
奴隷には買い取られた主人に、誠心誠意仕えることが求められております。イエス様を信じる私たちキリスト者は、主イエス様に命の代価を支払っていただいて、買い取られた者ですから、代価を支払ってご自分のものとしてしてくださった、ご主人である義なる神様と、御子イエス様に心から仕えるようにと求められているのであります。 しかし、残念なことには、キリスト者の中には、救われた後の自分に神様が自分に何を望んでおられるかを、よくご存知ない方が少なくありません。 へブル人への手紙5:12-13
と、このように書かれております。 このように指摘されている信者は、神様の御心がよくわからない信仰の幼い信者でありあます。神様の愛と恵みを受けて、ただ喜んでいるだけでは成長しない幼子のような信者であって、それでは神様の御心、すなわちイエス様がどんな方か、私たち人間のために何をしてくださったかを、人々に証しすることはできないんですね。 親がもし、自分の子が生まれても成長しないのを見たら、どんなに悲しむことでありましょう。そのように生まれたままで成長しない信者は、神様を悲しませる者となってしまいます。 信仰的な幼子の状態のままで、霊的に成長しない信者は、なにか困難な問題が起こるとそのことに心が奪われ、すぐにイエス様から心が離れて自分の肉の思いに従ってしまいます。そのような信者についてイエス様はたとえによって、次のようにおっしゃっております。 マタイの福音書13:20-22
ヘブル人への手紙6:1
と、いうふう者に勧めておりますように、私たちはいつまでも信仰の幼子に留まるのではなくて、信仰の成長した者、すなわち神様の御心を知ってそれに従うことによって、主が喜んでくださることを自分の一番の喜びとする、霊的に成長したキリスト者になりたいものであります。 では、どうしたら神様の御心を知ることができるのでありましょうか。 それにはまず、神の前にへりくだって、霊の耳を主に向け、心から「どうぞ、御心をお示しください。」と、へりくだった態度を取ることが必要であります。預言者サムエルの例を見てみたいと思います。 サムエル記第T、3:7-10
もし、私たちが神様から御心を示していただきたいと心から望むならば、このサムエルのように、神の御前にへりくだりと従順の心を持って、「主よ。お話しください。私は聞いております。」という、姿勢を取ることが必要であります。 そうしたとき、かならず神様は、ご自身の御心を知ることができるように私たちを導いてくださいます。 このように神の御前に心くだかれ、へりくだって、御心を求める姿勢が整えらた者は、祈りによって神様の御心を問う者となります。祈りは、神様と神のしもべとされた者の交わりのために、神様が備えてくださったもっとも大きな恵みの手段であります。 しかし、私たちキリスト者は、この祈りをどのように、日々の信仰生活に活かしているでありましょうか。ともすれば、「こうしてください。」「ああしてください。」と、いうような自分の肉の思いによる祈りが多くなってしまうではないでしょうか。 あるいは、心を尽くして御心を問う祈りではなく、習慣的、惰性的な祈りになってしまっているのではないでしょうか。詩篇の作者は次のように祈っております。 詩篇143:8
詩篇143:10
このように祈るときに、主は御霊によって、御心をその人に現わされて、行くべき道を啓示してくださいます。 イザヤ書30章21節、これは有名な箇所ですが イザヤ書30:21
と、書いてある通りであります。 ここで私たちキリスト者が注意しなければならない、大切なことがあります。それは次のことであります。 私たちは信仰の歩みにおいて、とかく自分の思い通りにことが進むときに、「主の御心にかなっている。」と思い込み、反対に、自分が思ったようにことが運ばない場合には、「これは御心ではない。」と、勝手に考えてしまうことがないでありましょうか。 しかし、神様の御心は必ずしも私たち思いとは一致しません。いや、むしろ私たちの思いとは、逆であることが少なくありません。 神様の御心は、私たちの思いをはるかに超えて高いので、人間の知恵では知り得ないからであります。イザヤ書で主は次のように仰せになっております。 イザヤ書55:9
このようにある通りであります。ここで、パウロとテモテの例を見てみたいと思います。 使徒の働き16:6-8
このように記されております。パウロたちは、二度にわたって、自分たちの伝道の行く先を変更させられました。 その理由は彼らには分かりませんでしたけれども、彼は素直に、御霊に示されるままに目的地を反抗することが神様の御心であると知って、それにしたがったのであります。 私たちは自分の肉にとって都合の良い方を選びたいときに、「御心だから。」という理由をつけて、自分の考えを正当化することがないでありましょうか。 私たちは聖霊のお導きを大切にして、何が本当に主の御心なのか、熱心に祈り求め、教えをいただく必要があります。そして、祈りを通して教えていただいたならば、自分の思いを捨てて、主の御心に従う決心をして、それを実行することが大切であります。 前にも申しましたように、私たちキリスト者は、イエス様に罪の代価を払って買い取られた主の奴隷、主のしもべであります。その主の奴隷、しもべに対して、イエス様は次のように言ってくださるんですね。 マタイの福音書12:50
もはやイエス様は、主の御心に従う者に対して、しもべとは仰せになっていないんですね。「わたしの兄弟、姉妹、また母のなのです。」、と言ってくださるのであります。本当に何というありがたいみことばでありましょうか。 私たちはほんとに弱い者で、自分の力では到底、主の深い御心を知り、それに従うことはできませんけれども、「神様の御心を行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言ってくださるイエス様にただ感謝して、主の前に心からへりくだって、主にお聞きすることによって御心を知って、且つ、御心に従うことによって、本当の霊的な喜びを体験することができるように、御霊によって、わたし達の信仰の姿勢を整えていただく必要があります。 これまでに申しましたように、神様はご自分の御子イエス様の尊い命によって、私たち人間を滅びの罪から救い出してくださいました。 そして、その大きなご愛ののゆえに、神の子どもとしていただいた私たちキリスト者が、主の御心を知り、御心を喜ぶようにと、望んでおられるのであります。 もし私たちキリスト者が、神様に従いたいと心から願って、祈って日々の歩みを続けるならば、必ず御霊なるイエス様はの私たちの霊を強め、成長させてくださる。 ますます、それによって深く神様の御心を知り、そしてそれに従うことを喜びとする者としてくださる筈であります。 ペテロの手紙第T、4:2
ペテロは、ここで初代教会の信者にこのように書き送っております。 このようなキリスト者は、本当に主によって祝福された者であります。ご再臨が間近い今、私たちも残された地上の時を、このように豊かに祝福されて主の御心のために過ごし、迎えに来てくださるイエス様にお会いできたなら、どんなに喜ばしいことでありましょうか。 もう一度、最初に読んでいただいた詩篇40篇の8節をお読みして終わりたいと思います。 詩篇40:8
どうもありがとうごさいました。 |