わたしが与える水


重田兄

(御代田喜びの集い、2007/07/28)

引用聖句:ヨハネの福音書4章14節
14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

今日は、今、兄弟に読んでいただきましたヨハネの福音書の4章の14節から「わたしが与える水」とイエス様が仰った、その水とは何か、どんな水かということにつきましてご一緒に考えたいと思います。
人間の体重の6割以上は水で占められているということをみなさんご存知でありましょうか。私たち人間が生きるには、それほどたくさんの水が必要なのであります。
このようにたくさんの水、大量の水はいったい私たちの体の中でどのように役に立っているのでありましょうか。少しそのことを初めに考えてみたいと思います。

水は私たちの体を形成しておりますおびただしい数の細胞の形と、そして働きを保つために必要、無くてはならないものであります。
体の中の水と言いますと、私たちはすぐにそれは血液だろう、あるいはリンパ液だろうというふうに思いますけれども、これらの液体は体の全体の水の約2割にすぎないのであります。
体の水の大部分は細胞の中にあります。細胞のいのちを維持するのに水は無くてはならないものなのであります。

血液や体液に含まれる水というのは、どんな役割をしているかと言いますと、この細胞、あるいは組織、あるいは臓器に私たちが生きるのに必要な物質を溶かして運び込んだり、あるいはまたそこから要らなくなった分解産物を運び出すという大切な働きをしております。
また私たちが健康で生きるためには、暑いときも、あるいは寒いときも、私たちの体温を一定に保たなければなりません。そのために体内に存在する大量の水は私たちの体温の上昇を、あるいは下降を防ぐ大切な体温調節の役割を果たしているのであります。
このように私たちの生命のために大変大切な水でありますから、もし体に水が不足しますと、当然色々な反応や障害が起こってまいります。私たちが喉の渇きを覚えます。これは脱水症状が起きないようにという警告なのです。

1%体の水分が不足しますと、私たちは喉の渇きを覚えます。さらに進んで2%足りなくなりますと、もう血液の濃縮が始まります。
ご存知のように血液が濃くなりますと、脳血栓とか心筋梗塞とか、そういう大変恐ろしい命に危険な病気が起こりますが、その引き金となるのは血液の濃縮であります。
さらに水分が足りなくなってくると、例えば8%も不足してきますと、脳が障害されます。幻覚症状が起こってまいります。12%不足しますと、腎機能が停止します。これは死です。

私たちは食べ物を取らなくても一週間、二週間は生きていられます。ところがもし水を全然取らなければ、だいたいの人は数日で死んでしまいます。先ごろ地震がありまして、震源地に近い町周辺、ガスが止まり、電気が止まり、水道も止まりました。
いずれも私たちの生活にぜひとも無くてはならないライフラインなのですけれども。電気やガスが一週間無くても何とか人間は生きられますけれども、水が、今申しましたように一週間私たちが摂取できないとすれば、大変なことになるのです。
被災者の方々が異口同音に仰っているのが、水が出なくなって大変困ったわけですけれども、やっと水道が直って蛇口から水が出るようになった。その水を飲んで、これほど水が大切なものだとは思わなかったと仰っています。

それほど私たちにとって水というのは大切なものであります。けれども私たちは気付かないでおりますけれども、実は私たち人間が生きる上でもっともっと大切な水があります。
これまで考えてまいりました水というのは、私たちの肉体の命が生きるために必要な物質です。H2Oという物質としての水でありました。
けれども、もっと大切な水とは物質ではなくて、霊的な水なのであります。神様は私たち人間をお造りになったときに、創世記の2章の7節にありますように、

創世記2:7
7神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

このように記されております通りに、神様は人間のからだを土地のちり、これは言い換えますと、物質です、有機物、無機物からなる物質でお造りになった。そのあとでそのからだの中に神様の息であるところの霊を吹き入れてくださったのであります。
人間以外の動物はこの霊を持っておりませんから、本能的に生きております。生きるしかありません。人間だけに神様は霊を入れてくださったのであります。何のために人間だけに神様は霊を入れてくださったのでありましょうか。
それは私たち人間が神様に造られた者として正しく生きるためにもっとも神様に近い者として私たち人間を神様は子どものように愛してくださる。その神様のみこころに正しく応答して生きるためでありました。これが実は神様のみこころにかなう人間本来の生き方なのであります。

しかしながらこのようにして神様がお造りになった最初の人間であるところのアダムはご存知のようにサタンのいざないに乗って、自分の欲に目がくらみ、神様のみこころに背くという罪を犯してしまいました。
その結果、アダムはエデンの園から追われ、また罪の結果として、死ななければならなくなったのであります。
そして私たち人間もみなアダムの子孫である以上、生まれながらにしてアダムの罪の性質を受け継いで、神様から離れて、自分の肉の思いにしたがって生きるようになってしまったのであります。神様を知ろうともせず、自分の思いで、自分の力に頼って生きる人間には、神様の祝福はありません。

ローマ人への手紙5:12
12そういうわけで、ちょうどひとりの人

すなわちアダム

ローマ人への手紙5:12
12によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった

とありますけれども、このようにアダムの子孫である人間に死があり、また人生にさまざまな苦しみ、悩み、悲しみがあるのは、元を正せば、罪のために神様から与えていただいた霊が衰えて死んだようになった結果であります。
そのような、衰えて死んだようになった霊を生き返らせて再び神様のみこころに従って正しく生きるためには、この霊の水というのがぜひとも必要になってまいります。
では、霊に必要な霊の水とはいったい何でありましょうか。イエス様はサマリヤの女との対話の中で次のようにこの水について仰っております。

ヨハネの福音書4:7-11
7ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
8弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
9そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
10イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

イエス様がこのサマリヤの女にお求めになったのは、ここにありますように、からだの渇きを潤す飲み水でありました。
しかしサマリヤの女とのやり取りが進むうちに、話題はからだの渇きを潤す水から生ける水にと変わりました。けれどもサマリヤの女は生ける水がどんなものか分かりません。ですからイエス様に今、頓珍漢な質問をしたのであります。
イエス様はこの女の見当外れの問いにも優しくお答えになり、生ける水について、一番先に読んでいただきましたみことばのように説明をなさいました。もう一度その個所をお読みいたします。

ヨハネの福音書4:13-14
13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

サマリヤの女は、イエス様の仰る意味がまだよく分からなかったのですけれども、生ける水という水は、彼女がいつも苦労して井戸から汲み上げなければならない水、飲んでもまた喉が渇いてしまう水とはどうやら違う水らしいということは見当がつきました。
そこで彼女はイエス様に素直にお願いしております。

ヨハネの福音書4:15
15女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

このエピソードでイエス様は、生ける水がどんな水か、またその水をどうしたら手に入れられるかということを私たちに示唆をしておられるのであります。
サマリヤの女と同じように私たちも、生ける水が私たちが毎日飲んでいる体の渇きをいやす水ではないということがすぐに分かります。では、この霊の水にはどんな効用があるのでありましょうか。
この水には私たちの霊の渇きをいやして、衰え死んだようになった霊が生き返って神様と応答して生き生きと働くことができるようにする効果があるのであります。

生ける水。そのようにイエス様が仰った

ヨハネの福音書4:14
14わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

その渇きというのは、体の渇きを指しておられるのではなくて、霊の渇きを指しておられるのであります。では、霊の渇きとはいったい何でありましょうか。
私たちの体は、先ほども申しましたように、水が不足しますと渇きを覚えます。しかし霊も渇きを覚えるのであります。いったい霊の渇きはどんなときに起こるのでありましょうか。
例えば、私たちの心に何かぽっかり穴が開いたような、むなしい感じがするとき。あるいは、この世のものでは何をもってしても心が満たされないという思いになったとき。あるいは、この世のものには何も頼れないということを知って、絶望したときなどなどに霊の渇きは起こります。

世界一の知恵者と言われたソロモン王は次のように言いました。

伝道者の書2:20-23
20私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。
21どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。
22実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。
23その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。

富にも権力にも才能にもこの上なく恵まれたソロモン王ですら、それらのものによっては彼の霊は満たされることがありませんでした。彼の霊はこのように渇いていたのであります。
しかしながらソロモンだけではありません。人間は真剣に人生を考えるとき、あるいは人生の中で大きな嵐や、つらい悲しい出来事に出会ったときなどに、深刻な霊的な渇きを覚えることが多いのであります。
そしてその渇いた霊を潤し、満たすことができるのは生ける水、永遠のいのちへの水しかありません。

では生ける水、永遠のいのちへの水とはいったい何でありましょうか。
それは神様からこの世に遣わされた神の御子イエス・キリストご自身であり、そしてまた、そのイエス様が復活されて天に戻られてからあとは、見えないイエス様として信じる者の中に宿られるイエス様の霊であるところの御霊であります。
神の御子イエス様が人としてこの世においでになった目的を聖書は次のように言っております。有名なヨハネの福音書3章16節、

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

そしてまたイエス様は、ご自分が天に戻られてからあとは、代わりにご自分の御霊が信じる者のうちに住んで助けてくださると次のように約束なさっておられます。
これも有名な個所で、ヨハネの福音書14章16節、17節。

ヨハネの福音書14:16-17
16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがた

信じる者

ヨハネの福音書14:17
17はその方を知っています。

わたしを信じる者はその方を知っています。

ヨハネの福音書14:17
17その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

御霊が私たち信じる者のうちに住んで、私たちを助けてくださるということをイエス様はこのように約束してくださいました。
イエス様の説明を聞いた、そのサマリヤの女はすばらしい生ける水をぜひ欲しいと願いました。そしてまた、このような水ならばサマリヤの女でなくてもだれでも欲しいのではないでしょうか。
けれどもいったいどうしたらこの水を手に入れることができるのでありましょうか。

私たちが安全な美味しい飲み水を手に入れるためには、お金が必要であります。水道の水にも私たちは料金を払っております。
しかし生ける水は神様からいただくほかありません。ではそのために私たちは神様に何をしたらよいのでありましょうか。神様にたくさん料金をお払いすれば、その水を手に入れることができるのでありましょうか。
あるいは、良き行ないをしたり、修行をしたり、立派な教養や学問を身につけたりして、神様から生ける水を与える資格があると認めていただけるように努力をすることが必要なのでありましょうか。

その答えは、イエス様が先ほどのサマリヤの女に言われたみことばにあります。

ヨハネの福音書4:10
10「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が

すなわちイエス様ご自身が

ヨハネの福音書4:10
10だれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

というみことばであります。
イエス様は生ける水を手に入れるには善行でも献金でも努力でもなく、まず生ける水が神様の賜物であることを知ること。また、ご自分がだれかを知ることが必要であるとここで仰っております。
神様の賜物とは神様の賜物を知ることというのはどういうことでしょうか。

イエス様がどのような方であるかを知ることとはどういうことでしょう。
これは両方とも裏腹の関係であると言ってもいいと思います。すなわち、イエス様がどんな方であるかを知れば、イエス様とイエス様の御霊が私たちへの神様からの賜物であるということが分かるからであります。
では、イエス様とはどんな方でありましょうか。イエス様は弟子たちに次のように仰っております。

ヨハネの福音書6:32-35
32「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
33というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
34そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
35イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

ここでイエス様は天から下って来られたご自分こそが、神様が私たちにお与えになるいのちのパンであると仰っておりますけれども、その通り、イエス様こそがいのちのパンであり、またいのちの水なのであります。
さらにイエス様がいのちのパン、いのちの水として天から下って来られた目的について、少しあとの6章51節で、

ヨハネの福音書6:51
51わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

と仰いました。すなわちイエス様は私たちが生けるパンを食べて、イエス様を心から信じて、永遠に生きるために、天の御国から下って来たと仰っているのであります。
しかしイエス様はどのようにしてご自身をパンとして、水として私たちにお与えになるのでありましょうか。言うまでもなくそれは、十字架にはりつけにされたご自身のいのちを私たちにお与えくださることによってであります。
そして、イエス様という生けるパンを食べること、イエス様という生ける水を飲むこととは、十字架の上で自分の罪を贖ってくださるために死んでくださった、そのイエス様を救い主として信じ、受け入れることなのであります。

そして私たちが、自分が神様に背いて自分中心に生きていたことを心から悔い改め、イエス様を救い主として心から信じ、受け入れたときに、私たちの悲しみは喜びに、絶望は希望に変わるという奇蹟が起こります。
それは衰えて死にそうになっていた私たちの霊がイエス様の御霊であるところの生けるいのちの水を飲んで生き返った証拠なのであります。
さらにイエス様はご自分を信じた者には生けるいのちの水である御霊を与え続けて、夜も昼も絶えず守ってくださいます。主はご自分を信じた者をぶどう畑に例えて、次のように約束してくださっておられるからであります。

イザヤ書27:2-3
2その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。
3わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、

これはいのちの水です。

イザヤ書27:3
3だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。

霊の水、いのちの水を信じる者に絶えず注ぎ続けてくださって、守ってくださっているということであります。
神の御子イエス様は、ご自分を信じる者がこれからのちも、人生の嵐にあっても倒れることのないように、試練や患難の中にあってもくじけずに希望を持って生きるようにと、昼も夜も絶えず生ける水、いのちの水である御霊を注いで、守ってくださっていると約束してくださっておられます。
ですからその水を与えられた者は、渇くことがありません。そのように守られている私たち信者は何という幸せ者でありましょうか。

先ほど、私たちの体重の6割以上は水だと申しましたけれども、そうなるとまさに私たちの体は水を運ぶ器のようなものであります。
しかしその水は自分の体が生きるために、働くために使われるにすぎません。
けれども、イエス様が与えてくださる生ける水、いのちの水である御霊は、それとは違います。

イエス様を救い主と心から信じた者にイエス様は約束どおり、生ける水、いのちの水である御霊によってその人の霊の渇きをいやして、平安と希望と喜びを与えてくださるばかりではない。
その御霊を絶えず注ぎ続けて泉のように、その人の心の中から外にわき出るようにしてくださるのであります。
一番最初に読んでいただいたみことばの中に、イエス様が、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがなく、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ますと仰った意味は、このことであります。

このわき出る水、あふれ出る生ける水、永遠のいのちへの水であり、御霊をいったい私たちはどうしたらいいのでありましょうか。
自分だけがその生ける水をいただいて、あとは、あふれた水はあふれるままに放っておいてよいのでありましょうか。そんなもったいないことはできない。
イエス様は次のようにも仰っています。

ヨハネの福音書7:37-39
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

信じる者の中に御霊として住んでくださっておられるイエス様は、信じた者を御霊を運ぶ器とされるのであります。
そして、あのサマリヤの女のように渇くことのない水を求める、この世の多くの人々、不安や悲しみや絶望に打ちひしがれている人々に私たち信じる者を通して、こんこんとわき出る生けるいのちの水であるご自身の御霊をお与えになろうと思っておられるのであります。
ですから、先にイエス様を信じて霊の渇きをいやされた私たちは、自分だけが悲しみや絶望や不安や恐れから解放されて喜ぶのではなく、イエス様が自分を生ける永遠のいのちの水である御霊を霊が飢え乾いている人々に運ぶ器として用いようと思っておられる。そのことをしっかり覚える必要があります。

復活して天に戻られたイエス様は、罪に汚れた今のこの古い天地を滅ぼされて、新しい天地をお造りになるという、壮大な救いのご計画の最終段階が記されているヨハネの黙示録の中で、次のように仰っております。

ヨハネの黙示録22:7
7「見よ。わたしはすぐに来る。

同じく、

ヨハネの黙示録22:17
17渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

イエス様はこのお約束どおり、まもなく再びおいでになります。
最初にイエス様が地上に来てくださったのは、約2,000年前でしたけれども、それは滅びに至る罪の中から私たちを救い出し、永遠のいのちを与えてくださるためでした。
そしてまもなく、再びイエス様がおいでになるのは、やがて起こると主が約束しておられる人類が今まで経験したことのないような恐ろしい患難が来る前に信じた者を天の御国に引き上げてくださるためであり、そしてまた、さばき主として神様に逆らい続けた者をさばかれるためであります。

その日がいつかは神様だけがご存知ですけれども、昨今の世の中の状況を見ると、その日が間近に迫っていることをさまざまな兆候から私たちも知ることができます。
そしてそのときが来てからは、いくら生ける永遠のいのちの水がほしいと望んでも、もう手遅れなのであります。
ですから霊の渇きを覚えながら、まだ生ける水、永遠のいのちへの水をご存じなくて、悲しみ、悩み、苦しんでおられる方はどうかイエス様が価なしにいのちの水を飲ませようと手を差し伸べておられる今の間に、あのサマリヤの女のように素直にイエス様のもとにおいでになって、イエス様を救い主と信じ、お受け入れになって、渇くことのない永遠のいのちへの水をイエス様ご自身から直接お受け取りくださるように、心からお祈りいたします。

ありがとうございました。




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