引用聖句:創世記32章24節-25節
今読んでいただきました、このみことばから今日は、「もものつがい」、すなわち、人間の股関節をはずされたヤコブについて、いったいなぜ彼がもものつがいをはずされたのかという問題、この問題を私たちキリスト者の信仰の歩みに照らしながら、ごいっしょに考えてみたいと思います。 ご存知のように、ヤコブはイスラエルの民の指導者アブラハムの子のイサクとその妻リベカとの間に生まれた双子のうちの弟のほうです。お兄さんはエサウと言います。 ヤコブというのは、「押しのける者」という意味をもっていると言われていますが、その名のとおり、彼は大変自我の強い男でありました。 彼はお兄さんのエサウよりも、自分を愛してくれる母親のリベカと共謀しまして、年老いて死も間近い父親のイサクを欺いて、策略を用いて、長子の権利を意味する祝福を受けてしまったのであります。 かつて我が国でも、長男の権利というのは大変大きかったのですけれども、イスラエルではそれよりもはるかに大きくて、財産に対する権利だけではなくて、神様がアブラハムと結ばれた契約に基づく特別な祝福、すなわち、イスラエルの民の指導者となる権利もそこに含まれておりました。 父親のイサクから長子の祝福を受けたことを知った兄のエサウは、弟ヤコブを恨んで、殺そうとします。それを知ったヤコブは、お兄さんの手を逃れて、遠く離れた国に住むおじさんのラバンのところに身を寄せまして、そこで20年間働きました。 その間におじさんの二人の娘をめとり、多くの子どもをもうけ、そして財産を増やした彼は、神様から父の家に帰るように命じられたのであります。そこで彼は神様の仰せに従って二人の妻とそして多くの子どもたち、それに多くの奴隷や家畜、そして全ての財産を伴って帰国する決心をいたしました。 しかしながらヤコブが父の家に帰るためには、どうしても解決しておかなければならないことがあったのであります。それは、兄のエサウとの和解でありました。 そこで彼は、途中から、家に帰る途中からお兄さんエサウに使いの者を送って、自分が和解したいと思っていることを伝えました。 創世記32章の3節から8節にそのことが記されております。 創世記32:3-8
このように書かれております。ここには、兄のエサウのところから戻って来た使いの者から報告を受けたヤコブが、非常に恐れ、心配したと書かれております。なぜでありましょうか。 それは、彼がお兄さんに対して、「あなたのしもべヤコブ」と、卑屈なまでにへりくだって、恭順の気持ちを示したのにも関わらず、お兄さんエサウが何の返事も使いの者に託さなかったばかりか、多くの部下を引き連れてこちらに向かって来るということを知ったからであります。 ヤコブは優男であったようでありますけれども、一方、お兄さんのエサウは全身が赤く、毛におおわれた男で、大変荒々しい正確でありました。ヤコブは、その恐ろしい兄エサウが、長子の権利を騙し取られた怒りを、今もって燃やし続けていて、そして自分を殺しに来るのではないかということを恐れたのであります。 そこでヤコブはどうしたか。神様に祈ったのです。32章の9節から11節にそのことが書かれております。 創世記32:9-11
これは一見、大変へりくだった祈りのように思われます。しかし、この祈りは神様に対する揺るぎない信頼に基づく祈りではないのです。 この祈りには、神様は「あなたが生まれ故郷に帰りなさい。しあわせにしよう。」と仰ったから、私はあなたのそのおことばを信じて、ここまで帰って来たのに、兄に殺されそうになっています。ですから、この私をあなたが守ってくださるのは当然ではありませんかという、その神様に対する自己中心的な、傲慢な、思い上がった思いがありありと見えております。 もし、神様が自分を救ってくださると本当に確信しているのなら、彼は自分を神様の御手にゆだねて恐れることなく、兄のエサウと会ったでありましょう。しかしながら、彼は神様に助けを祈る一方で、いかにして恐ろしい兄のエサウから逃れられるかというふうに知恵を絞りました。 その策というのは次のようなものでありました。 創世記32:16-20
このように記されております。これらのことから見ても、彼が大変に自己中心的な人間であるとともに、人を恐れ、死を恐れる小心者であり、また大層な策士家であったことが察せられるのであります。 ヤコブは、家族や財産全てを夜の間にヨルダン川の向こう岸に渡らせてからひとりヤボクという名の渡しに残りました。そして最初に読んでいただいたみことばにありますように、ある人と夜が明けるまでその人を離さずに、格闘したのであります。 最初のみことばに続く個所にはこう書かれております。 創世記32:26
何とも強引な男であります。この格闘は単なる格闘ではなくて、神様との祈りの格闘を意味するものと考えてもよいと思います。 彼は先ほどのように、神様に助けを求めて祈りましたけれども、それでもまだ、殺されるのではないかという不安は去りません。そこで彼は、神様から確かな答えをいただくまでは祈りをやめないという、まさに格闘する勢いで、夜明けまで祈り続けたのだと思います。 けれども、私を祝福してくださいという願いは、彼のいのちと家族と財産を、兄エサウから守っていただくことであり、言い換えれば、自分の自我を、自分の肉を満足させる願いでありました。 神様は彼の執拗な祈りに辟易されて、彼に答えをお出しになりました。しかしそれは彼が望んでいたような祝福ではなくて、彼のもものつがいをはずすというものでありました。 もものつがい、すなわち股関節は、ご存知のように、人間の関節の中で最も大きく、簡単にはずれるようなものではありません。もし無理にはずすとなれば、非常な力と、そして、大変な痛みがその人に伴います。 もものつがいをはずすというのは、霊的に言いますならば、自我を砕くことを意味しております。もものつがいがはずれれば、いったいどうなるでしょうか。自分の足で立つことも、歩くことも出来なくなります。杖にすがって、びっこを引き引きしてやっと歩けるのであります。それと同じように、自我が砕かれれば、もはや自分の力に頼って歩むことが出来なくなり、神様に頼らざるを得なくなります。 また、自我が砕かれたときに人間は初めて心に自分の罪が示され、神様を恐れるようになります。 神様は次のように仰せになっております。イザヤ書66章2節。有名なみことばでありますが。 イザヤ書66:2
自我が砕かれ、神様のみことばに恐れおののく者を神様は祝福されます。 このように、神様がヤコブに与えられた祝福は、彼の肉の願いを叶えるというのではなくて、彼の自我を砕くという、最もすばらしい祝福だったのであります。 神様によって自我を砕かれたヤコブはどう変わったでありましょうか。創世記の33章の1節から4節にそれが記されております。 創世記33:1-4
このように記されております。自我が砕かれたヤコブの心からは、もはや兄エサウに対する恐れは全く消え失せました。 その結果、彼は杖に支えられ、びっこを引きながらも家族の先頭に立って進み、エサウに会って、心から自分の罪を謝罪することができたのであります。こうして二人は和解することができました。 神様はその後、ヤコブのはずれたもものつがいを修復された、治されたということは聖書のどこにも見当たりません。彼は一生涯、はずれたもものつがいのまま生き続けなければなりませんでした。神様のみこころは、上からも彼が杖に頼って、すなわち、主なる神様に頼って歩むことを彼に求めておられたからであります。 このヤコブのエピソードは、イエス様を信じた私たちに信仰の歩みについて大切なことを示唆しているのではないかと思います。 まず第一に、神様の選びという問題であります。神様の選びとは、神様が主権者としてご自分の権威によって永遠のご計画の中で、あるものを特別な恵みの対象としてお選びになることであります。 私たちは率直に言って、このヤコブにはあまり好感は持てません。彼は策略をもって親を欺くような、大変卑劣な男であり、また、自分の利益しか考えないような男であり、兄の仕打ちを恐れて先頭に出られず、贈り物や家族を先に行かせて、一番あとから、恐る恐るついて行くほど気が小さい男であり、まさに男の風上にも置けないような人物であります。 しかし神様は、このようなヤコブを愛し、もものつがいをはずされた上で、父イサクの後継者として、神の選びの民、イスラエルの指導者として彼をお選びになったのです。 パウロはローマ人への手紙の中で次のように言っております。ローマ人への手紙の9章の10節から16節。 ローマ人への手紙9:10-11
すなわち主なる神 ローマ人への手紙9:11-16
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」ということは、取りも直さず、神様の選びは神様ご自身の意思によって、一方的になされるのであって、まさに、 ローマ人への手紙9:16
ということであります。そしてこの主の選びは、イエス様を信じる私たちにも適用されるということをここで改めて覚える必要があります。 私たちもヤコブと似たような自己中心的で、いつも自分のことを第一に考えるような、生まれながらのわがままな性質を持つ者であります。どうしてこのような者を神様が尊い御子イエス様のいのちによる救いの対象にお選びになったのか。全く理解できません。 けれども神様は、私たちがまだ生まれてもおらず、したがって、私たちが善も悪も行なわないうちに、ご自身の主権をもって、永遠のご計画の中で、私たちを特別な恵みの対象としてお選びになっていたのであります。 ヨハネの手紙第I、4:10
とありますけれども、まことに神様の御愛とあわれみは、私たち人間の考えを絶する、大きく深いものであり、私たちはただ一方的に神様に選ばれたという、この大いなる恵みを心から感謝するだけであります。 今は神の選びということについてお話しました。次にこのエピソードから示されますのは、信仰における自我の問題であります。 ヤコブは、確かに信仰をもってはおりました。ことあるごとに神様に祈るような人でありました。しかしながらその信仰は、自己中心的なものであり、全てを神様にゆだねるというように、もう心から神様に信頼することは、悲しいことに出来ておりませんでした。 彼が強い自我をもっていたからであります。そのために神様は、彼のもものつがいをはずされ、自我を砕かれたのであります。 ヤコブのエピソードから私たちは、もうひとつのエピソードとして、パウロに与えられたとげを思い起こします。 パウロはこれについて、コリント人への手紙第IIの中で次のように言っております。12章の7節から9節。これもよく知られているみことばであります。 コリント人への手紙第II、12:7-9
私たちの信仰はどうでしょうか。自分や家族の上に何か問題が起こったときに、パウロのように言うことが出来るでしょうか。 それともヤコブと同じように、イエス様に祈りながらも、一方では自分の力で、自分の知恵で何とか目の前の問題を解決しようとあれこれ考え、動き回るのではないでしょうか。 もしそうであれば、私たちの生来の性質である自我が、まだ信じたあとも強く残っていると言えましょう。パウロはローマ人への手紙の6章の6節から8節の中で、これも有名なみことばでありますけれども、 ローマ人への手紙6:6-8
と言っておりますけれども、自分の古い人がイエス様とともに十字架で死なないで、そのため、自我がまだ生き残っているために、あれこれと自分で考え、自分に力が無いのを知っていながらもまだ、そのちっぽけな力に頼ろうとするのではないでしょうか。 イエス様はご自分を信じる者を、イエス様の御霊を入れる器としてくださり、その器を通して、ご自身がお働きになり、栄光を現わされます。 パウロが、コリント人への手紙第IIの4章の6節から7節で、 コリント人への手紙第II、4:6-7
と言っておりますが、全くそのとおりであります。けれども、私たちがもし、この器を自我で塞いでしまえば、イエス様はご栄光を現わす器としてはお用いになりません。 ではイエス様は、どのような方法で私たちキリスト者を、イエス様の御霊という宝を入れる器として用いようとされるのでありましょうか。 それは、私たちが自分の力に頼ることが出来ないように、私たちの自我を砕くこと。すなわち、もものつがいをはずすことによってであります。箴言の3章の5節、6節に、 箴言3:5-6
とあります。 (テープ A面 → B面) ・・・に与えてくださり、私たちの自我を砕いてくださるのであります。 前にも申しましたように、自我が砕かれるときには、大変な痛みを伴います。どなたでも自我が砕かれるときには、その痛みを体験されたと思います。 しかしその痛みも、私たちを心からご自分に拠り頼ませよう。そして砕かれた私たちを用いて、信仰の実を結ばせようという、イエス様の愛に満ちたみこころによるものであることがわかれば、その痛みも感謝して耐えることが出来るのではないでしょうか。 ヘブル人への手紙の12章の10節、11節に、 ヘブル人への手紙12:10-11
と、あるとおりであります。 大変に自己主張の強い男、押しのける者という名前のヤコブは、神様にもものつがいをはずされてから、それまでの、押しのける者を意味する「ヤコブ」という名から、「イスラエル」、すなわち、神の戦士という名に変えられました。 ご再臨が近い今の時に、イエス様に選ばれた私たちも、ヤコブのような、自我の信仰にとどまるのではなくて、パウロのように、自我を砕いていただいて、主の戦士としてイエス様にしっかりと拠り頼んで、信仰の戦いに勝利し、そして、実を結ぶことが出来るようにと、心から祈りたいと思う次第であります。 ありがとうございました。 |